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父と子と……
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「パパ、おいしいね!」
「そうだねロジー、美味しいね」
「あら、ありがとうロジー、アンテロ」
4歳くらいの女の子と、その父親がカウンターでお昼のサンドイッチを食べながら感想を言っていた。その光景は親子水入らずで非常に微笑ましい光景だった。
「ミストレル、悪いね。こんな時間にカウンター座らせてもらって」
「いいのよ。この時間はタイミングよ。どうしてもカウンターに座りたいって言うのなら待てばいいのよ」
そう言うと後ろで良く言えば羨んでいる、悪く言えば妬んでいる客の目が二人を見つめることが無くなった。
「ゆっくり食べてね、ロジー」
「うん!!ありがとう!!ミストレルのお姉ちゃん!!」
テーブル席のお客様にランチの乗ったトレーを渡しに行った後頭を撫でながらロジーに伝える。柔らかくてサラサラ、だけど少し巻き癖のある可愛らしい髪。目はクリクリしてほっぺたは女の子らしく丸く膨らんでいる。そのほっぺたにはサンドイッチをかぶりついた時についたマヨネーズがアクセントとして飾られている。
父親のアンテロがそれに気づき、ハンカチでロジーのほっぺたを拭き始める。軽く拭いているつもりなのだろうが、柔らかくて弾力のあるほっぺたはその軽い力で簡単に凹んでしまう。
ロジーは早く次が食べたいのに、父親がほっぺたを拭いているのでサンドイッチにかぶりつくことが出来ない。そんな可愛らしい苛立ちがうっすらと見え、柔らかそうなほっぺたとあわせてミストレルは破顔しながら見つめていた。
「パパ。ママも帰って来た時に、一緒にミストレルお姉ちゃんのサンドイッチ食べようね」
「あ……ああ、そうだね。一緒に食べたいね……」
アンテロが言葉を一瞬つまらせたのには理由がある。半年ほど前、ロジーの母、アンは流行病で他界してしまっていた。アンテロも、アンもこの店の常連客だった。店を開店してすぐ常連客になってくれた二人。ここで出会い、すぐに結婚し、そしてすぐにロジーが生まれた。ミストレルもアンの病気を気にして薬を買い、渡したこともあった。
結局、アンは回復することはなく、アンテロや自分の家族、友人達に見守られながら旅立った。
ミストレルが訃報を聞いた時、昼食の仕込みを行なっている最中だった。アンの旅立ちは覚悟はしていたが、さすがに辛く、夜の部は開かずに閉店してしまったほどだ。
ロジーは母が亡くなった事を理解できず、父親の苦し紛れの嘘、遠くに出かけていったと言う事を信じているのでこの様な言葉が出てきてしまうのだ。
「ロジー、今日はちょっと特別な物をあげよう」
「なになに??」
ミストレルはカウンターの裏にもどり、棚から一つの瓶を取り出す。瓶の蓋を開け、そこからスプーン1杯のドロリとした液体を掬い出す。
「紅茶のカップをちょっと渡してくれるかな?」
「うん!!」
ロジーはミストレルの言う通りにカップをソーサーごと両手で手渡す。両手なのはまだ重いからだろうか。やはり仕草が可愛くてまたミストレルは笑顔になる。
受け取った紅茶はまだあたたかく、サンドイッチに夢中になっていたため、余り減ってなかった。そこに先ほどのスプーンを液体ごと入れ、優しくかき混ぜてからロジーに戻す。
「飲んでみなさい」
「うん!!」
ロジーはまだあたたかい、いや少し熱い紅茶を息を吹きながらゆっくりと飲み始める。
「美味しい!! 甘いしいい香り!! ミストレルお姉ちゃん!! 何入れたの!?」
どうやら気に入ってもらえたようで、サンドイッチも食べたいが、紅茶も飲みたいと言うように交互に目を向けていた。ミストレルに対し質問しているが、好奇心より美味しさの方が優先されこうなってしまっているのだろう。
「これはね、アメリカ大陸で特別に手に入れることが出来たシロップよ」
「すごーい!! アメリカ大陸から来たんだ!!」
凄い!!と感動しているが、まだ目は交互に行き来している。子供特有の仕草、好奇心一直線と言う仕草が可愛らしい。話を聞いてなくても気にならないほどに。
それに、アメリカ大陸と言ってこの子は理解できていないだろう。アンテロが教えていたとしても彼女の世界はまだこの街でも手の届かない場所が多すぎる。
まだまだ多く学ぶことがあり、その学んだことを使用し、人を説得出来るまで昇華させなければならない。まずは学ぶこと。遊び、おしゃべり、いたずら、ケンカ……。何でも良いから起きた事から覚え、学んでいくことが重要だ。
今日は、少なくとも美味しいシロップがあると言う事は学んでもらえただろう。ロジーの満足そうな笑顔でそれだけはわかった。
「ミストレル、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした! ミストレルお姉ちゃん!!」
「また来てね」
「うん!!」
ランチを食べ終え、アンテロとロジーは職場へと戻っていく。
ロジーがアンテロの職場に行く理由だが、近所に預けられる知己が居ないのと、運悪く今済んでいる場所が歳を重ねた人ばかり居る地域で、子供が居ないという事だ。その為、一人にしておくことが出来ず職場に連れて行くことになった。
「クロルさん、いつもありがとうございます」
「気にしなさんな。それに、お前とアンの子だ。無碍に出来まい。それより、例の話は考えてもらえてるかい?」
「お話はとても有難いことです。ですが、この子と離れてしまうのは私が耐えられそうにありませんので」
「そうか。でも、今すぐ出なくても構わんよ。ロジーが大きくなってからでも私は君にお願いしたい」
「ありがとうございます。この子が大きくなって、それでもまだお気持ちが変わらなければお願い致します。ですが、その時には私より優秀な者が育っていると思いますよ」
そう商会の長にお礼と詫びを言う。長からは船に乗り、商品購入時の交渉役を担って欲しいと言われ続けている。だが、今は娘のロジーと離れることは出来ない。寂しいと言う事もあるが、まだ一人で生きていくには幼すぎる。まだまだ娘の側から離れるわけにはいかない。
アンテロは商会で積荷の移送と管理、そして他の商会から持ってくる売買交渉を行なっている。大きな商会とはいえないが、中型船を3隻、小型船を5隻もっているので、小回りがきき、交渉相手に損をさせづらいと、ライバルである他の商会達に人気がある商会だ。大きな商会には金額では太刀打ち出来ず、一回の販売量も少ないので、相手の欲しい所をそこそこ満足するくらいに供給する事を上手くつついているので、その大きな商会達からも意外と目の敵にされず、便利屋扱いではあるが、持ちつ持たれつの関係になっている。
その交渉を数人でやっているが、一番人気が高いのがアンテロだった。後任も育ちつつある中、色々な商材を見つけて来て欲しいと言う知的好奇心の塊であるクロルに取って、値段の折り合いもつけやすく、良い物を見分ける目を持っているアンテロは海に出て欲しかったのだ。
ただ、他の商会からのスカウトも跡を絶たず、無理に押し付ければ商会をやめてしまう可能性がある為、そして、クロル自身がアンテロを息子のように思っている為、無理強いできないのだ。
「アイツにはもっと広い世界を見てきて欲しいんだがな」
商会の船が戻ってきたというので荷の確認するため、外に出ていくアンテロの背中を見ながらクロルはそうつぶやく。
ある日の夕刻、ロジーはアンテロに連れられてミストレルの店に来ていた。
「晩御飯もミストレルお姉ちゃんのお店で食べられるんだ!! やったー!!」
「今日はね、特別なんだ。ミストレルのお店はこの時間料理出さないんだよ」
「どうして?」
「お昼のミストレル見てどう思ったかな?」
「いっぱい動いてた」
「そう、忙しそうだったよね?」
「うん」
「夜はお昼で疲れちゃったから、出さないんだよ」
「そっかー。それじゃ、大きくなったらミストレルお姉ちゃんを手伝ってあげる!!」
店の真ん中にあるテーブル席で二人はそう話しつつミストレルの料理を待っていた。
「ロジー、ありがとう。今日の晩御飯よ。ゆっくり食べてね」
ミストレルがその会話を聞いていて、食事を運んできた時、嬉しそうに礼を言う。
生ハムの切り落とした後の骨から取った出汁のスープと、チーズをかけたサラダ、ローストビーフ風の肉料理にパンが並べられる。
「ミストレルー、俺達にも食べさせてくれよー」
「あんた達はナシよ。今日は特別なんだから。いつもの生ハムとパンだけで我慢してちょうだい」
「そういや、ミストレルの店にはワイン置いてないんだな。どうしてだい?」
「ワインを置けるようなところが無いのよ。それに、私がワインわからないからね。何でも良ければ今度買っておくよ」
「ならいつものでいいや」
「あら、そう」
そう言うとカウンターに戻っていった。他の客からの注文、主にお酒だが、次々と入ってくる注文にバタバタしていた。
「おいしいね!!」
「ああ、美味しいね。ミストレルが作ってくれた料理は」
満面の笑みで食べているロジー。普段の夕食はもっと簡単なもので済ませている。家に買い置きと言うわけではないが、食べ尽くせなくて硬くなったパンにチーズ、ハムの欠片を挟んで食べたりしている。サラダやスープが付けばかなり良い方だった。ミストレルの協力のおかげでとても美味しい料理を食べることが出来た。
「ふう。美味しかった」
先にアンテロが食べ終える。ロジーはまだまだ時間がかかりそうだった。量の調節がしてあるとはいえ、子供が食べるのは時間がかかる。それに女の子と言う事で、食べ方も生前アンが綺麗に食べる様に教えていた。まだまだ不器用ではあるが。
「ロジー、全部食べた時にお腹いっぱいにならないように気をつけてね」
二人の真ん中にあるパンの籠からもう一つ食べるために取ろうとしていたロジーは手を止め、残りを確認すると手を引っ込める。
その仕草を見て、アンテロは一言付け加えてよかったと思った。メインはこの後なのだから。
「おいしかったー!!」
最後にもう冷えてしまったであろうスープを飲み干してから言葉にする。
「ありがとう。作ったかいがあったわ。はいこれ、ゆっくり食べるのよ」
そう言うとミストレルはロジーの目の前に三角形に切り分けられた食べ物、しかも甘そうな食べ物を置く。
「ミストレル、これはなに?」
「りんごのタルトよ。美味しいんだから」
「りんご?タルト?」
ロジーはほとんど果物を食べたことがなかった。いや、食べたことはあったのだが、まだ記憶に残る年齢ではなかっただけなのだろう。多分食べれば思い出すだろう。
食べたことのないもの。見たこともないもの。その様なものを口にするのは怖い。だが、ミストレルが出してくれるものは美味しい物。そういうイメージがあるので、怖いけれど、少しワクワクしていた。
「ねえ!!食べて良いの?」
「今日はロジーの誕生日だもんね。ゆっくりと味わって食べるんだよ」
「ありがとう!!ミストレルお姉ちゃん!!」
一口大に切り分け、こぼさないように何とか口に入れる。だが、まだ噛んではいなかった。嫌いなものを口の中に入れて噛まないでいる。子供のよくやる食べたフリだ。
だが、口の中から香る美味しそうな匂い。この誘惑に負け、口に入れたタルトを噛み始める。2・3回噛んだ後ロジーの目はキラキラし始めた。
「あまーい!! おいしーい!!」
その様子を嬉しそうにアンテロは眺めていた。今までロジーの誕生日はタイミング悪く祝うことが出来ていなかった。ある年は船の入港が夕方になり、積荷の確認をしなければならなかった。ある時は、倉庫の荷崩れ。ある時は……。
いつも早く帰るとアンに伝えて待っていてもらっていたが、仲間に言伝をお願いして商会に残らざるを得なかった。その為いつかはこの子の誕生日を祝いたい。そして、アンが亡くなってからは今年は絶対祝わなくてはならない。そう思い、1ヶ月ほど前からミストレルに相談していたのだ。
ミストレルも我が子とは言わないが、生まれたばかりから見ている子のロジー。可愛くないわけがない。その為、知り合いに相談し、ようやくこの形を整えることが出来た。もっと大々的に行いたいが、ミストレルも商売、アンテロも懐事情は良くない。そう考えると友達を呼ぶことが出来ず、質素にせざるを得なかった。結局アンテロの用意した金額では特別な料理とケーキを用意するのが精一杯。それでも足りなくてミストレルからも出していた。
カウンターから見えるロジーの横顔。ほとんど食べることの出来ない甘いケーキを口に入れ、幸せいっぱいの顔をしている。
ミストレルはその表情をしばらく堪能することにした。その間他のお客からお酒が足りない等色々と言われていたが、全部無視する事に決めた。
幸せいっぱいの誕生日会から数日後、取引先の大きな商会が抱えている大きな船がこの港に寄り、アンテロの商会に荷物の授受することになっていた。
今まで誰もこの商会ではやることの出来なかった規模での取引。こればかりは商会総動員して取り掛かった。既に卸先の商会も幾つも決まっており、実数が確定次第、即馬車に乗せ輸送させると言う準備も整えていた。ここまでしなければならない理由だが、自分の商会だけでは倉庫の規模が足りないのである。他の商会の倉庫も借りているが、正直全然足りない。その為に、最終受取り数を確認した後、即出荷と言う荒業を行わなくてはならなかったのだ。
大規模商会との取引で他の商会の倉庫を借りることは無くはない。だが、自分の倉庫を無理矢理にでも開けて、更に他の商会の空倉庫を幾つも丸々借りきるというのは今回が初めてだった。
「数量の確認急げ!! アドリー商会の入庫数は確定したか!! あわせてペシオ商会のも頼む!! クレージュ商会の倉庫に達することはあるかもしれん。しっかりと確認せよ!! だが、無理矢理に他の商会に詰めて煮崩れするのなら、クレージュ商会の倉庫はちゃんと借り受けろ!!」
「はい!!」
陣頭指揮を取るアンテロ。他の商会員も気合の入り方が違う。この大口の取引はアンテロが行ったものではない。アンテロの教えている弟子みたいな若年者がなんとか勝ち取ったものだ。だが、商品の出納状況までは全く管理出来ないと泣きつくと言うより、商会長への相談があり、アンテロが抜擢された。
本来なら、全て自分の手柄、最初から最後まで自分で全うさせるのが筋であるが、出来ない事を出来ないとはっきりと言ってきたので、対応することが出来た。
正直、プライドを捨ててくれたおかげでこの商会は崩壊の危機を乗り越えたようなものだ。だが、商会のメンバーにとっては、出来ないと言ってくれた事がとてもプラス要因になり、意外とこの若者は信頼置ける者、将来も期待できる者として扱われるようになった。アンテロも普段から目をかけていた一人であったので、この成長具合はとても喜ばしいことだった。
最終数量の確認も済み、他の商会への出荷も開始する。なんとか、商会で借り受けていた倉庫分の出荷は本日中に終わらせることが出来そうだとアンテロは安堵する。
樽や木箱を含めて約400トン。こんな大規模な量を本日中に7割近く出荷出来た事自体、奇跡だと思っている。実際は借り受けた倉庫にも収まりきらず、自分たちの商会の目の前の通りに憲兵が来ないことを祈りながら倉庫代わりに置いていた。本日中に出荷するものであったので、何とかなったのだが。
「ようやく一息付けますね」
「そうだな。アンテロご苦労様」
「その言葉は全部出荷してからお願いしますね」
「そうだな。まだ終わってないものな。そう言えば、ロジーはまだ商会に居るのか?」
「女性の従業員にお願いして家に返しました。夕食を食べている頃だと思いますよ」
「そうか。すまんな。アンも居なくなってしまって、甘えたいざかりの年頃だろう」
「いえ、私達家族が食べていけるのもクロルさんのおかげですから」
「そう言ってくれるか。ありがとう。所で、船には乗らんかね?ロジーは私が面倒みるよ?」
「良い話で終わらせればいい人なのに、どうしてそうなるんですかね?」
「はははは、気にしないでくれ」
「そうします。それでは、倉庫をもう一度確認してから今日は帰りますね」
「ああ、よろしく」
外はもう薄暗くなってきている。その為、手持ちランタンに火をつけてからアンテロは倉庫に向かうことにした。
既に他の従業員や作業員は帰宅しており、もうアンテロしか居なかった。商会にはまだ数人残っているが、もう皆帰る頃だろう。
そんな中、アンテロが倉庫に来たのには明日の出荷で手早く出来るように積荷を分けているかを確認しに来たからだ。
今日はほとんど数量確認と最速出荷をする為に奔走していたのでこの倉庫は確認できていなかったのだ。
「よし、入口側から順番に出荷準備できているな。俺が居なくなっても何とかなりそうにはなってきたが、ロジーが居るからな」
アンテロは本当なら船に乗り大海原に出てみるのが夢だった。だが、アンが居たからこの街にとどまっていた。そしてアンは亡くなり、二人の一粒種、ロジーが居るからとどまっている。ロジーは大切な娘だ。居なくなればなんて考えたこともない。そう遠くない将来、彼女が嫁入りするまでは船に乗ることはないだろう。遅咲きの船乗りとして役に立つかは別だが、商人としての交渉能力は悪くはないと思っている。だから、その年でも乗せてくれると良いな位は考えていた。
「ん?」
アンテロは倉庫の真ん中あたりでうっすらと違和感を感じ、その場に向かう。薄暗く、ランタンの灯だけでは見えないのでかなり近くまで行く事になった。
「この積み方危ないな……、まだ人は残っていたよな……」
下の方にある箱が少し潰れかけていた。このままでは大事な商品が倒壊してしまうだろう。早く手を打った方が良いと入り口に体を向けた瞬間何かが壊れる音が鳴る。
「なんだ?」
音の鳴った方向に首を向けるとアンテロの眼前が四角い木箱だけで覆われていた。
頭に強い衝撃があり、勢いそのままに倒される。倒れた後、幾つか強い衝撃が体を襲った。
「ぐっ……」
頭を強打したアンテロはしばらくその場で仰向けに倒れていた。頭が痛みで朦朧としていた意識が戻り、思考が動き始めると共に、現在の状況を少しずつ確認することが出来た。
まず、自分の頭にあたった木箱は危ないと思った場所の木箱だろう。幸い頭にあたった勢いで回転し、頭を押しつぶす事は無かった。中が比較的軽い商品だったのも不幸中の幸いだろう。だが、視界に入ったのはそれだけではなかった。ランタンが落とした拍子で壊れ、芯がむき出しに、そしてオイルも床に広がっていた。まだ思考がはっきりと動いていないので、綺麗な光だなと、数秒眺めてしまう。眺めているうちに思考が回り始め、火を消さなければ倉庫が炎上してしまう可能性をようやく理解した。
「このままでは危ない!!」
そう声をあげようとしたが、体が打ち身で痛み、声が出ない事が理解できた。だが、その痛みを理解した瞬間、激痛が3箇所から届く。
「ああああああ!!!!」
痛みに耐え切れず、声にならない悲鳴を上げる。だが、その悲鳴には悲しい感情も含まれていた。
ランタンの落ちている位置がやや離れた位置にある理由。激痛。視界の片隅にある黒い液体。
そう、アンテロは長年付き添った自分の右腕が肘から先がなくなっていることに気づいたのだ。
クロルに仕事を認めてもらい、握手した右手。告白した時にアンから幸せにして欲しいと願われながら温かい両手に包まれた右手。誕生日会の時にロジーの柔らかい髪をゆっくりと撫でた右手。これからロジーを何度も抱きしめてあげたかった右手、将来生まれるであろうロジーの子供を抱きしめるはずの右手、死ぬ時にロジーや孫たちに握ってもらえるだろう右手。その色々な大切な思い出と一緒に育み育ってきた、そして未来をつかみとるはずの右手が無い。
徐々にその大切な物への思いがこみ上げ、痛みより悲しみが強くなり涙が止まらなくなってきた。
そこで涙に乱反射する眩しいものに気づく。そう壊れたランタンから出た火の存在だ。このままでは抱きしめる事が出来なくなるだけでなく、声も聞けなくなってしまう。そして、大切な仲間たちの商会が無くなってしまう。
慌てて消す方法を探すために首を左右に振り確認するが、激痛のもう一箇所、左腕側にも気づいてしまう。左に向いた瞬間、大きな木箱が目の前にあり、腕はその下敷きになっていた。軽い箱でも大人一人でなんとか持ち上がるものだ。交渉ばかりで力仕事等はほとんど出来ない細身の自分では片手でどうすることも出来ない。
諦め、脱力して火の方向に向かう。もう、焼け死ぬしか未来がないのか。と涙が溢れてきた所で視界の片隅にある黒い液体が見える。
今も大切な体の一部があった場所から流れ出る黒い水。自由に動けるのは先の無い右腕と首だけ。それに気づいたアンテロは痛む腕を無理やり動かし黒い水を口に含み、飛ばすように吹き出す。だが、届かない。吹き出す方向が悪く、それに量が足りない。次はもっと多くの黒い水を口に含み吹き出す。火のついた芯には少しかかるがまだ火は消えない。もう一度同じ事をしようとするが、急激に目眩が襲う。グルグルと視界が動く。だが、この目眩に負けてしまっては火を消すことが出来ない。口に含んだ黒い水を無理やり視界を集中させタイミングを見計り吹き出す。懇親の一撃とでも言うのか、最後の一回は上手く火にかぶり、火が消える。火が消えると同時にアンテロの意識も真っ暗になっていった。
「アンテロは戻ってきたか?」
「そう言えばまだ戻ってきていませんね。帰ってしまったのではないですか?」
「倉庫の鍵を持っているのだ。そのまま帰るわけ無かろう。倉庫を見てきてくれんかね?」
「はい」
クロルからの命令を受けた従業員は早く作業を終わらせたい気持ちで早歩きで倉庫に向かう。実際に後少しの計算で作業が終わり、帰れるところだったのだ。
明日も大変な作業がある。その為早く帰って休みたかったのだ。
倉庫にたどり着くと扉が開いていた。まだアンテロは中に居る証拠だ。何やっているのだろうかと渋々中を確認することにする。
だが、外はもう暗く、倉庫の中は真っ暗な状況にも関わらず、倉庫の中には灯が無かった。アンテロは扉を開けたまま何処かに行ってしまったのだろうか。帰ることはまずあり得ないので、とりあえず声をかけて見ることにした。
「アンテロさん、何処に居ますか?」
声をかけても返事がない。もう一度声をかける。今度は先程より大きな声で。だが、返事がない。
やはり何処かに行ってしまったのだろうと思い、倉庫から出て行こうと振り向いた瞬間視界の片隅に、通路の真ん中に荷物の崩れた後が見えた。出口からのランタンの灯でははっきりと見ることが出来ず、近づいて見ることにした。
「た……大変だ……!!」
近づいて確認すると荷崩れが起きていた。だが、それ以上に恐怖に陥ってしまった要因が赤黒い水に染まったアンテロの姿だった。
「お姉ちゃん!!ミストレルお姉ちゃん!!」
店の扉が何度も何度も叩かれている。まだ外のランタンは灯してあるので、閉店にしているつもりはない。お客さんは居ないのだが。
この店の扉は外に開く扉なので、引けば開くはず。なのに入ってこないお客の事を何事と思いつつミストレルは開けに行く。
扉を開くとゴンと当たる音がした。慌ててミストレルは開いた扉の隙間から覗きこみ、当たってしまった人を確認する。
「ロジー!! どうしたの?こんな時間に……」
扉を開けたせいか、鼻を抑えながらうずくまっているロジーが見えた。
ロジーはミストレルの声がするとすぐに立ち上がり、泣きながら叫び懇願する。
「お姉ちゃん!!パパを助けて!!お願い!!お願いだからああぁぁぁ……」
ミストレルに会えた安堵からか、不安が振り切ってしまったからか、ロジーはミストレルに抱きついたまま泣き出してしまった。
ゆっくりと背中をとん、とん、と叩きながら安心させるようにミストレルはロジーを軽く抱きしめる。
少し泣き止んだ後、要点を聞くとアンテロが仕事で怪我をしたそうだ。ただ、手が無くなったとも言っている。切断してしまったのだろうか。
「ロジー、今パパは何処に居るの?」
「クロルおじちゃんの家……」
「そう。わかった。これから向かうから少し待っててね」
そう言って店内の裏の入り口の鍵を閉め、2階に置いてある手持ちランタンを準備する。店内のランタンの灯も消し、最後に入り口の扉の鍵を閉め、2個のランタンも消す。
「さあ、クロルさんの家に行こう」
少し早歩きでミストレルとロジーは向かっていった。
「ミストレル、ありがとう」
アンテロは意識が戻っていた。だが、右腕切断、左腕切断。左足切断と言う最悪の事態になっていた。
アンテロのお礼は多くの意味が込められているだろう。ロジーを面倒見てくれたこと。誕生日会のこと。美味しい食事のこと。アンと引きあわせてくれたこと……。そして枕元に置いた瓶の事。
ロジーはミストレルを連れてクロルの家にたどり着くとすぐにアンテロの元に行き泣き始めた。だが、体力の限界かすぐ疲れて眠ってしまった。
その間にミストレルはクロルにアンテロの容態を聞き、ポケットに入れていた瓶をクロルに見せる。
「私は反対だ!! どんな状態であっても生きて欲しい……。ロジーは最悪私が引き取ると言う約束はしたが、彼にはまだまだやれることがいっぱいあるはずだ!!」
クロルは大きな声を出しミストレルに抗議する。だが、彼もわかっているのだろう。腕が無くなり書くことが出来なくなる。足も無いため歩くことが出来ない。この様な状況の者を雇ってくれる所はまず無い。クロルは雇い続けるかもしれないが、彼を生き続けさせるためにはどれだけの労力が必要になるか。正直想像も出来ないくらい大変だという事だけはわかっている。
その為、強く抗議した言葉の後、彼はすぐ下を向いてしまった。彼の将来を考えればミストレルに助けてもらうしか無いと……。
「ロジーはクロルさんが引き取ってくれるそうだよ。ミストレルにはこれ以上迷惑をかけられないしね」
痛みに耐えながら笑顔を作るアンテロ。この優しさが心に痛かった。
「この液体は飲めばゆっくりと眠ることが出来るわ」
「ありがとう。アンと一緒だね」
「さようなら。アンテロ」
「ありがとう。ミストレル」
ミストレルが部屋から出ていくとアンテロはつぶやきはじめた。
「アン、ごめんよ。約束守れなくて。そっちに行ったらすぐ謝りに行くからね。それと、一緒にロジーを見守っていこうね……」
日を跨ぐこと無くアンテロは眠りについた。
3日後、午前中にアンテロの葬儀は行われていた。
ミストレルはお店を休むこと無く、いつもの様に働いていた。
一番忙しい昼食のピークが過ぎ、少し暇になる時間に裏の扉が叩かれる。
ミストレルは扉を開き、外を覗こうとするとまたゴンと当たる音がした。
慌てて覗きこむと喪服姿で鼻を抑えうずくまっているロジーと、クロルが立っていた。
「ロジー、大丈夫?」
ロジーはミストレルの声が聞こえると、すぐ立ち上がった。だが、今度は抱きついて泣くのではなかった。
「お姉ちゃんの嘘つき!!」
怒りを込めた目をしながらロジーは力いっぱいの声でそう伝えると走りさってしまった。
呆然とするミストレルに対し、クロルは話しかける。
「大丈夫。ロジーには絶対君のことは教えないから」
そう言うと帽子を取り深々とお辞儀をするとロジーの走っていった方向に歩いて行った。
扉を閉め中に入ったミストレルは思い出していた。冬の木漏れ日の中他のお客さんに迷惑にならないようにと一番端の席に座って食事をする3人。まだ綺麗に食べることが出来ないのでアンに顔や手を拭かれながら食事をするロジー。その光景がたまらなく好きで眺め続けるアンテロ。
この光景がミストレルはとても好きだったことを。そしてこの温かい光景が永遠に失われてしまったことを。
「こんな時にも私は泣けないのね……。アン、ごめん。約束、守れなかったよ……」
「ミストレル、ありがとうね」
「アン……、ごめんね。私にはこれしか出来なくて……」
「良いの。私はすごく嬉しいわ」
「アン……」
「それと、ミストレル。約束してほしいことがあるの」
「アンの言う事なら守るよ」
「アンテロと結婚して」
「え?」
「いいわね、約束よ?」
「ミストレルに何言ったんだい?悩んだ顔してたよ?」
「ふふっ、良いの。そうそう、貴方にも約束してほしいことがあるの」
「ロジーのことかな?なんだい?何でも言ってごらん」
「ミストレルと結婚しなさい」
「何言ってるんだい、こんな時に」
「ミストレルの事好きだったんでしょ?」
「そう言っても……」
「いいわね、約束よ!! ふふっ」
アンは最後まで笑っていた。
「そうだねロジー、美味しいね」
「あら、ありがとうロジー、アンテロ」
4歳くらいの女の子と、その父親がカウンターでお昼のサンドイッチを食べながら感想を言っていた。その光景は親子水入らずで非常に微笑ましい光景だった。
「ミストレル、悪いね。こんな時間にカウンター座らせてもらって」
「いいのよ。この時間はタイミングよ。どうしてもカウンターに座りたいって言うのなら待てばいいのよ」
そう言うと後ろで良く言えば羨んでいる、悪く言えば妬んでいる客の目が二人を見つめることが無くなった。
「ゆっくり食べてね、ロジー」
「うん!!ありがとう!!ミストレルのお姉ちゃん!!」
テーブル席のお客様にランチの乗ったトレーを渡しに行った後頭を撫でながらロジーに伝える。柔らかくてサラサラ、だけど少し巻き癖のある可愛らしい髪。目はクリクリしてほっぺたは女の子らしく丸く膨らんでいる。そのほっぺたにはサンドイッチをかぶりついた時についたマヨネーズがアクセントとして飾られている。
父親のアンテロがそれに気づき、ハンカチでロジーのほっぺたを拭き始める。軽く拭いているつもりなのだろうが、柔らかくて弾力のあるほっぺたはその軽い力で簡単に凹んでしまう。
ロジーは早く次が食べたいのに、父親がほっぺたを拭いているのでサンドイッチにかぶりつくことが出来ない。そんな可愛らしい苛立ちがうっすらと見え、柔らかそうなほっぺたとあわせてミストレルは破顔しながら見つめていた。
「パパ。ママも帰って来た時に、一緒にミストレルお姉ちゃんのサンドイッチ食べようね」
「あ……ああ、そうだね。一緒に食べたいね……」
アンテロが言葉を一瞬つまらせたのには理由がある。半年ほど前、ロジーの母、アンは流行病で他界してしまっていた。アンテロも、アンもこの店の常連客だった。店を開店してすぐ常連客になってくれた二人。ここで出会い、すぐに結婚し、そしてすぐにロジーが生まれた。ミストレルもアンの病気を気にして薬を買い、渡したこともあった。
結局、アンは回復することはなく、アンテロや自分の家族、友人達に見守られながら旅立った。
ミストレルが訃報を聞いた時、昼食の仕込みを行なっている最中だった。アンの旅立ちは覚悟はしていたが、さすがに辛く、夜の部は開かずに閉店してしまったほどだ。
ロジーは母が亡くなった事を理解できず、父親の苦し紛れの嘘、遠くに出かけていったと言う事を信じているのでこの様な言葉が出てきてしまうのだ。
「ロジー、今日はちょっと特別な物をあげよう」
「なになに??」
ミストレルはカウンターの裏にもどり、棚から一つの瓶を取り出す。瓶の蓋を開け、そこからスプーン1杯のドロリとした液体を掬い出す。
「紅茶のカップをちょっと渡してくれるかな?」
「うん!!」
ロジーはミストレルの言う通りにカップをソーサーごと両手で手渡す。両手なのはまだ重いからだろうか。やはり仕草が可愛くてまたミストレルは笑顔になる。
受け取った紅茶はまだあたたかく、サンドイッチに夢中になっていたため、余り減ってなかった。そこに先ほどのスプーンを液体ごと入れ、優しくかき混ぜてからロジーに戻す。
「飲んでみなさい」
「うん!!」
ロジーはまだあたたかい、いや少し熱い紅茶を息を吹きながらゆっくりと飲み始める。
「美味しい!! 甘いしいい香り!! ミストレルお姉ちゃん!! 何入れたの!?」
どうやら気に入ってもらえたようで、サンドイッチも食べたいが、紅茶も飲みたいと言うように交互に目を向けていた。ミストレルに対し質問しているが、好奇心より美味しさの方が優先されこうなってしまっているのだろう。
「これはね、アメリカ大陸で特別に手に入れることが出来たシロップよ」
「すごーい!! アメリカ大陸から来たんだ!!」
凄い!!と感動しているが、まだ目は交互に行き来している。子供特有の仕草、好奇心一直線と言う仕草が可愛らしい。話を聞いてなくても気にならないほどに。
それに、アメリカ大陸と言ってこの子は理解できていないだろう。アンテロが教えていたとしても彼女の世界はまだこの街でも手の届かない場所が多すぎる。
まだまだ多く学ぶことがあり、その学んだことを使用し、人を説得出来るまで昇華させなければならない。まずは学ぶこと。遊び、おしゃべり、いたずら、ケンカ……。何でも良いから起きた事から覚え、学んでいくことが重要だ。
今日は、少なくとも美味しいシロップがあると言う事は学んでもらえただろう。ロジーの満足そうな笑顔でそれだけはわかった。
「ミストレル、ごちそうさま」
「ごちそうさまでした! ミストレルお姉ちゃん!!」
「また来てね」
「うん!!」
ランチを食べ終え、アンテロとロジーは職場へと戻っていく。
ロジーがアンテロの職場に行く理由だが、近所に預けられる知己が居ないのと、運悪く今済んでいる場所が歳を重ねた人ばかり居る地域で、子供が居ないという事だ。その為、一人にしておくことが出来ず職場に連れて行くことになった。
「クロルさん、いつもありがとうございます」
「気にしなさんな。それに、お前とアンの子だ。無碍に出来まい。それより、例の話は考えてもらえてるかい?」
「お話はとても有難いことです。ですが、この子と離れてしまうのは私が耐えられそうにありませんので」
「そうか。でも、今すぐ出なくても構わんよ。ロジーが大きくなってからでも私は君にお願いしたい」
「ありがとうございます。この子が大きくなって、それでもまだお気持ちが変わらなければお願い致します。ですが、その時には私より優秀な者が育っていると思いますよ」
そう商会の長にお礼と詫びを言う。長からは船に乗り、商品購入時の交渉役を担って欲しいと言われ続けている。だが、今は娘のロジーと離れることは出来ない。寂しいと言う事もあるが、まだ一人で生きていくには幼すぎる。まだまだ娘の側から離れるわけにはいかない。
アンテロは商会で積荷の移送と管理、そして他の商会から持ってくる売買交渉を行なっている。大きな商会とはいえないが、中型船を3隻、小型船を5隻もっているので、小回りがきき、交渉相手に損をさせづらいと、ライバルである他の商会達に人気がある商会だ。大きな商会には金額では太刀打ち出来ず、一回の販売量も少ないので、相手の欲しい所をそこそこ満足するくらいに供給する事を上手くつついているので、その大きな商会達からも意外と目の敵にされず、便利屋扱いではあるが、持ちつ持たれつの関係になっている。
その交渉を数人でやっているが、一番人気が高いのがアンテロだった。後任も育ちつつある中、色々な商材を見つけて来て欲しいと言う知的好奇心の塊であるクロルに取って、値段の折り合いもつけやすく、良い物を見分ける目を持っているアンテロは海に出て欲しかったのだ。
ただ、他の商会からのスカウトも跡を絶たず、無理に押し付ければ商会をやめてしまう可能性がある為、そして、クロル自身がアンテロを息子のように思っている為、無理強いできないのだ。
「アイツにはもっと広い世界を見てきて欲しいんだがな」
商会の船が戻ってきたというので荷の確認するため、外に出ていくアンテロの背中を見ながらクロルはそうつぶやく。
ある日の夕刻、ロジーはアンテロに連れられてミストレルの店に来ていた。
「晩御飯もミストレルお姉ちゃんのお店で食べられるんだ!! やったー!!」
「今日はね、特別なんだ。ミストレルのお店はこの時間料理出さないんだよ」
「どうして?」
「お昼のミストレル見てどう思ったかな?」
「いっぱい動いてた」
「そう、忙しそうだったよね?」
「うん」
「夜はお昼で疲れちゃったから、出さないんだよ」
「そっかー。それじゃ、大きくなったらミストレルお姉ちゃんを手伝ってあげる!!」
店の真ん中にあるテーブル席で二人はそう話しつつミストレルの料理を待っていた。
「ロジー、ありがとう。今日の晩御飯よ。ゆっくり食べてね」
ミストレルがその会話を聞いていて、食事を運んできた時、嬉しそうに礼を言う。
生ハムの切り落とした後の骨から取った出汁のスープと、チーズをかけたサラダ、ローストビーフ風の肉料理にパンが並べられる。
「ミストレルー、俺達にも食べさせてくれよー」
「あんた達はナシよ。今日は特別なんだから。いつもの生ハムとパンだけで我慢してちょうだい」
「そういや、ミストレルの店にはワイン置いてないんだな。どうしてだい?」
「ワインを置けるようなところが無いのよ。それに、私がワインわからないからね。何でも良ければ今度買っておくよ」
「ならいつものでいいや」
「あら、そう」
そう言うとカウンターに戻っていった。他の客からの注文、主にお酒だが、次々と入ってくる注文にバタバタしていた。
「おいしいね!!」
「ああ、美味しいね。ミストレルが作ってくれた料理は」
満面の笑みで食べているロジー。普段の夕食はもっと簡単なもので済ませている。家に買い置きと言うわけではないが、食べ尽くせなくて硬くなったパンにチーズ、ハムの欠片を挟んで食べたりしている。サラダやスープが付けばかなり良い方だった。ミストレルの協力のおかげでとても美味しい料理を食べることが出来た。
「ふう。美味しかった」
先にアンテロが食べ終える。ロジーはまだまだ時間がかかりそうだった。量の調節がしてあるとはいえ、子供が食べるのは時間がかかる。それに女の子と言う事で、食べ方も生前アンが綺麗に食べる様に教えていた。まだまだ不器用ではあるが。
「ロジー、全部食べた時にお腹いっぱいにならないように気をつけてね」
二人の真ん中にあるパンの籠からもう一つ食べるために取ろうとしていたロジーは手を止め、残りを確認すると手を引っ込める。
その仕草を見て、アンテロは一言付け加えてよかったと思った。メインはこの後なのだから。
「おいしかったー!!」
最後にもう冷えてしまったであろうスープを飲み干してから言葉にする。
「ありがとう。作ったかいがあったわ。はいこれ、ゆっくり食べるのよ」
そう言うとミストレルはロジーの目の前に三角形に切り分けられた食べ物、しかも甘そうな食べ物を置く。
「ミストレル、これはなに?」
「りんごのタルトよ。美味しいんだから」
「りんご?タルト?」
ロジーはほとんど果物を食べたことがなかった。いや、食べたことはあったのだが、まだ記憶に残る年齢ではなかっただけなのだろう。多分食べれば思い出すだろう。
食べたことのないもの。見たこともないもの。その様なものを口にするのは怖い。だが、ミストレルが出してくれるものは美味しい物。そういうイメージがあるので、怖いけれど、少しワクワクしていた。
「ねえ!!食べて良いの?」
「今日はロジーの誕生日だもんね。ゆっくりと味わって食べるんだよ」
「ありがとう!!ミストレルお姉ちゃん!!」
一口大に切り分け、こぼさないように何とか口に入れる。だが、まだ噛んではいなかった。嫌いなものを口の中に入れて噛まないでいる。子供のよくやる食べたフリだ。
だが、口の中から香る美味しそうな匂い。この誘惑に負け、口に入れたタルトを噛み始める。2・3回噛んだ後ロジーの目はキラキラし始めた。
「あまーい!! おいしーい!!」
その様子を嬉しそうにアンテロは眺めていた。今までロジーの誕生日はタイミング悪く祝うことが出来ていなかった。ある年は船の入港が夕方になり、積荷の確認をしなければならなかった。ある時は、倉庫の荷崩れ。ある時は……。
いつも早く帰るとアンに伝えて待っていてもらっていたが、仲間に言伝をお願いして商会に残らざるを得なかった。その為いつかはこの子の誕生日を祝いたい。そして、アンが亡くなってからは今年は絶対祝わなくてはならない。そう思い、1ヶ月ほど前からミストレルに相談していたのだ。
ミストレルも我が子とは言わないが、生まれたばかりから見ている子のロジー。可愛くないわけがない。その為、知り合いに相談し、ようやくこの形を整えることが出来た。もっと大々的に行いたいが、ミストレルも商売、アンテロも懐事情は良くない。そう考えると友達を呼ぶことが出来ず、質素にせざるを得なかった。結局アンテロの用意した金額では特別な料理とケーキを用意するのが精一杯。それでも足りなくてミストレルからも出していた。
カウンターから見えるロジーの横顔。ほとんど食べることの出来ない甘いケーキを口に入れ、幸せいっぱいの顔をしている。
ミストレルはその表情をしばらく堪能することにした。その間他のお客からお酒が足りない等色々と言われていたが、全部無視する事に決めた。
幸せいっぱいの誕生日会から数日後、取引先の大きな商会が抱えている大きな船がこの港に寄り、アンテロの商会に荷物の授受することになっていた。
今まで誰もこの商会ではやることの出来なかった規模での取引。こればかりは商会総動員して取り掛かった。既に卸先の商会も幾つも決まっており、実数が確定次第、即馬車に乗せ輸送させると言う準備も整えていた。ここまでしなければならない理由だが、自分の商会だけでは倉庫の規模が足りないのである。他の商会の倉庫も借りているが、正直全然足りない。その為に、最終受取り数を確認した後、即出荷と言う荒業を行わなくてはならなかったのだ。
大規模商会との取引で他の商会の倉庫を借りることは無くはない。だが、自分の倉庫を無理矢理にでも開けて、更に他の商会の空倉庫を幾つも丸々借りきるというのは今回が初めてだった。
「数量の確認急げ!! アドリー商会の入庫数は確定したか!! あわせてペシオ商会のも頼む!! クレージュ商会の倉庫に達することはあるかもしれん。しっかりと確認せよ!! だが、無理矢理に他の商会に詰めて煮崩れするのなら、クレージュ商会の倉庫はちゃんと借り受けろ!!」
「はい!!」
陣頭指揮を取るアンテロ。他の商会員も気合の入り方が違う。この大口の取引はアンテロが行ったものではない。アンテロの教えている弟子みたいな若年者がなんとか勝ち取ったものだ。だが、商品の出納状況までは全く管理出来ないと泣きつくと言うより、商会長への相談があり、アンテロが抜擢された。
本来なら、全て自分の手柄、最初から最後まで自分で全うさせるのが筋であるが、出来ない事を出来ないとはっきりと言ってきたので、対応することが出来た。
正直、プライドを捨ててくれたおかげでこの商会は崩壊の危機を乗り越えたようなものだ。だが、商会のメンバーにとっては、出来ないと言ってくれた事がとてもプラス要因になり、意外とこの若者は信頼置ける者、将来も期待できる者として扱われるようになった。アンテロも普段から目をかけていた一人であったので、この成長具合はとても喜ばしいことだった。
最終数量の確認も済み、他の商会への出荷も開始する。なんとか、商会で借り受けていた倉庫分の出荷は本日中に終わらせることが出来そうだとアンテロは安堵する。
樽や木箱を含めて約400トン。こんな大規模な量を本日中に7割近く出荷出来た事自体、奇跡だと思っている。実際は借り受けた倉庫にも収まりきらず、自分たちの商会の目の前の通りに憲兵が来ないことを祈りながら倉庫代わりに置いていた。本日中に出荷するものであったので、何とかなったのだが。
「ようやく一息付けますね」
「そうだな。アンテロご苦労様」
「その言葉は全部出荷してからお願いしますね」
「そうだな。まだ終わってないものな。そう言えば、ロジーはまだ商会に居るのか?」
「女性の従業員にお願いして家に返しました。夕食を食べている頃だと思いますよ」
「そうか。すまんな。アンも居なくなってしまって、甘えたいざかりの年頃だろう」
「いえ、私達家族が食べていけるのもクロルさんのおかげですから」
「そう言ってくれるか。ありがとう。所で、船には乗らんかね?ロジーは私が面倒みるよ?」
「良い話で終わらせればいい人なのに、どうしてそうなるんですかね?」
「はははは、気にしないでくれ」
「そうします。それでは、倉庫をもう一度確認してから今日は帰りますね」
「ああ、よろしく」
外はもう薄暗くなってきている。その為、手持ちランタンに火をつけてからアンテロは倉庫に向かうことにした。
既に他の従業員や作業員は帰宅しており、もうアンテロしか居なかった。商会にはまだ数人残っているが、もう皆帰る頃だろう。
そんな中、アンテロが倉庫に来たのには明日の出荷で手早く出来るように積荷を分けているかを確認しに来たからだ。
今日はほとんど数量確認と最速出荷をする為に奔走していたのでこの倉庫は確認できていなかったのだ。
「よし、入口側から順番に出荷準備できているな。俺が居なくなっても何とかなりそうにはなってきたが、ロジーが居るからな」
アンテロは本当なら船に乗り大海原に出てみるのが夢だった。だが、アンが居たからこの街にとどまっていた。そしてアンは亡くなり、二人の一粒種、ロジーが居るからとどまっている。ロジーは大切な娘だ。居なくなればなんて考えたこともない。そう遠くない将来、彼女が嫁入りするまでは船に乗ることはないだろう。遅咲きの船乗りとして役に立つかは別だが、商人としての交渉能力は悪くはないと思っている。だから、その年でも乗せてくれると良いな位は考えていた。
「ん?」
アンテロは倉庫の真ん中あたりでうっすらと違和感を感じ、その場に向かう。薄暗く、ランタンの灯だけでは見えないのでかなり近くまで行く事になった。
「この積み方危ないな……、まだ人は残っていたよな……」
下の方にある箱が少し潰れかけていた。このままでは大事な商品が倒壊してしまうだろう。早く手を打った方が良いと入り口に体を向けた瞬間何かが壊れる音が鳴る。
「なんだ?」
音の鳴った方向に首を向けるとアンテロの眼前が四角い木箱だけで覆われていた。
頭に強い衝撃があり、勢いそのままに倒される。倒れた後、幾つか強い衝撃が体を襲った。
「ぐっ……」
頭を強打したアンテロはしばらくその場で仰向けに倒れていた。頭が痛みで朦朧としていた意識が戻り、思考が動き始めると共に、現在の状況を少しずつ確認することが出来た。
まず、自分の頭にあたった木箱は危ないと思った場所の木箱だろう。幸い頭にあたった勢いで回転し、頭を押しつぶす事は無かった。中が比較的軽い商品だったのも不幸中の幸いだろう。だが、視界に入ったのはそれだけではなかった。ランタンが落とした拍子で壊れ、芯がむき出しに、そしてオイルも床に広がっていた。まだ思考がはっきりと動いていないので、綺麗な光だなと、数秒眺めてしまう。眺めているうちに思考が回り始め、火を消さなければ倉庫が炎上してしまう可能性をようやく理解した。
「このままでは危ない!!」
そう声をあげようとしたが、体が打ち身で痛み、声が出ない事が理解できた。だが、その痛みを理解した瞬間、激痛が3箇所から届く。
「ああああああ!!!!」
痛みに耐え切れず、声にならない悲鳴を上げる。だが、その悲鳴には悲しい感情も含まれていた。
ランタンの落ちている位置がやや離れた位置にある理由。激痛。視界の片隅にある黒い液体。
そう、アンテロは長年付き添った自分の右腕が肘から先がなくなっていることに気づいたのだ。
クロルに仕事を認めてもらい、握手した右手。告白した時にアンから幸せにして欲しいと願われながら温かい両手に包まれた右手。誕生日会の時にロジーの柔らかい髪をゆっくりと撫でた右手。これからロジーを何度も抱きしめてあげたかった右手、将来生まれるであろうロジーの子供を抱きしめるはずの右手、死ぬ時にロジーや孫たちに握ってもらえるだろう右手。その色々な大切な思い出と一緒に育み育ってきた、そして未来をつかみとるはずの右手が無い。
徐々にその大切な物への思いがこみ上げ、痛みより悲しみが強くなり涙が止まらなくなってきた。
そこで涙に乱反射する眩しいものに気づく。そう壊れたランタンから出た火の存在だ。このままでは抱きしめる事が出来なくなるだけでなく、声も聞けなくなってしまう。そして、大切な仲間たちの商会が無くなってしまう。
慌てて消す方法を探すために首を左右に振り確認するが、激痛のもう一箇所、左腕側にも気づいてしまう。左に向いた瞬間、大きな木箱が目の前にあり、腕はその下敷きになっていた。軽い箱でも大人一人でなんとか持ち上がるものだ。交渉ばかりで力仕事等はほとんど出来ない細身の自分では片手でどうすることも出来ない。
諦め、脱力して火の方向に向かう。もう、焼け死ぬしか未来がないのか。と涙が溢れてきた所で視界の片隅にある黒い液体が見える。
今も大切な体の一部があった場所から流れ出る黒い水。自由に動けるのは先の無い右腕と首だけ。それに気づいたアンテロは痛む腕を無理やり動かし黒い水を口に含み、飛ばすように吹き出す。だが、届かない。吹き出す方向が悪く、それに量が足りない。次はもっと多くの黒い水を口に含み吹き出す。火のついた芯には少しかかるがまだ火は消えない。もう一度同じ事をしようとするが、急激に目眩が襲う。グルグルと視界が動く。だが、この目眩に負けてしまっては火を消すことが出来ない。口に含んだ黒い水を無理やり視界を集中させタイミングを見計り吹き出す。懇親の一撃とでも言うのか、最後の一回は上手く火にかぶり、火が消える。火が消えると同時にアンテロの意識も真っ暗になっていった。
「アンテロは戻ってきたか?」
「そう言えばまだ戻ってきていませんね。帰ってしまったのではないですか?」
「倉庫の鍵を持っているのだ。そのまま帰るわけ無かろう。倉庫を見てきてくれんかね?」
「はい」
クロルからの命令を受けた従業員は早く作業を終わらせたい気持ちで早歩きで倉庫に向かう。実際に後少しの計算で作業が終わり、帰れるところだったのだ。
明日も大変な作業がある。その為早く帰って休みたかったのだ。
倉庫にたどり着くと扉が開いていた。まだアンテロは中に居る証拠だ。何やっているのだろうかと渋々中を確認することにする。
だが、外はもう暗く、倉庫の中は真っ暗な状況にも関わらず、倉庫の中には灯が無かった。アンテロは扉を開けたまま何処かに行ってしまったのだろうか。帰ることはまずあり得ないので、とりあえず声をかけて見ることにした。
「アンテロさん、何処に居ますか?」
声をかけても返事がない。もう一度声をかける。今度は先程より大きな声で。だが、返事がない。
やはり何処かに行ってしまったのだろうと思い、倉庫から出て行こうと振り向いた瞬間視界の片隅に、通路の真ん中に荷物の崩れた後が見えた。出口からのランタンの灯でははっきりと見ることが出来ず、近づいて見ることにした。
「た……大変だ……!!」
近づいて確認すると荷崩れが起きていた。だが、それ以上に恐怖に陥ってしまった要因が赤黒い水に染まったアンテロの姿だった。
「お姉ちゃん!!ミストレルお姉ちゃん!!」
店の扉が何度も何度も叩かれている。まだ外のランタンは灯してあるので、閉店にしているつもりはない。お客さんは居ないのだが。
この店の扉は外に開く扉なので、引けば開くはず。なのに入ってこないお客の事を何事と思いつつミストレルは開けに行く。
扉を開くとゴンと当たる音がした。慌ててミストレルは開いた扉の隙間から覗きこみ、当たってしまった人を確認する。
「ロジー!! どうしたの?こんな時間に……」
扉を開けたせいか、鼻を抑えながらうずくまっているロジーが見えた。
ロジーはミストレルの声がするとすぐに立ち上がり、泣きながら叫び懇願する。
「お姉ちゃん!!パパを助けて!!お願い!!お願いだからああぁぁぁ……」
ミストレルに会えた安堵からか、不安が振り切ってしまったからか、ロジーはミストレルに抱きついたまま泣き出してしまった。
ゆっくりと背中をとん、とん、と叩きながら安心させるようにミストレルはロジーを軽く抱きしめる。
少し泣き止んだ後、要点を聞くとアンテロが仕事で怪我をしたそうだ。ただ、手が無くなったとも言っている。切断してしまったのだろうか。
「ロジー、今パパは何処に居るの?」
「クロルおじちゃんの家……」
「そう。わかった。これから向かうから少し待っててね」
そう言って店内の裏の入り口の鍵を閉め、2階に置いてある手持ちランタンを準備する。店内のランタンの灯も消し、最後に入り口の扉の鍵を閉め、2個のランタンも消す。
「さあ、クロルさんの家に行こう」
少し早歩きでミストレルとロジーは向かっていった。
「ミストレル、ありがとう」
アンテロは意識が戻っていた。だが、右腕切断、左腕切断。左足切断と言う最悪の事態になっていた。
アンテロのお礼は多くの意味が込められているだろう。ロジーを面倒見てくれたこと。誕生日会のこと。美味しい食事のこと。アンと引きあわせてくれたこと……。そして枕元に置いた瓶の事。
ロジーはミストレルを連れてクロルの家にたどり着くとすぐにアンテロの元に行き泣き始めた。だが、体力の限界かすぐ疲れて眠ってしまった。
その間にミストレルはクロルにアンテロの容態を聞き、ポケットに入れていた瓶をクロルに見せる。
「私は反対だ!! どんな状態であっても生きて欲しい……。ロジーは最悪私が引き取ると言う約束はしたが、彼にはまだまだやれることがいっぱいあるはずだ!!」
クロルは大きな声を出しミストレルに抗議する。だが、彼もわかっているのだろう。腕が無くなり書くことが出来なくなる。足も無いため歩くことが出来ない。この様な状況の者を雇ってくれる所はまず無い。クロルは雇い続けるかもしれないが、彼を生き続けさせるためにはどれだけの労力が必要になるか。正直想像も出来ないくらい大変だという事だけはわかっている。
その為、強く抗議した言葉の後、彼はすぐ下を向いてしまった。彼の将来を考えればミストレルに助けてもらうしか無いと……。
「ロジーはクロルさんが引き取ってくれるそうだよ。ミストレルにはこれ以上迷惑をかけられないしね」
痛みに耐えながら笑顔を作るアンテロ。この優しさが心に痛かった。
「この液体は飲めばゆっくりと眠ることが出来るわ」
「ありがとう。アンと一緒だね」
「さようなら。アンテロ」
「ありがとう。ミストレル」
ミストレルが部屋から出ていくとアンテロはつぶやきはじめた。
「アン、ごめんよ。約束守れなくて。そっちに行ったらすぐ謝りに行くからね。それと、一緒にロジーを見守っていこうね……」
日を跨ぐこと無くアンテロは眠りについた。
3日後、午前中にアンテロの葬儀は行われていた。
ミストレルはお店を休むこと無く、いつもの様に働いていた。
一番忙しい昼食のピークが過ぎ、少し暇になる時間に裏の扉が叩かれる。
ミストレルは扉を開き、外を覗こうとするとまたゴンと当たる音がした。
慌てて覗きこむと喪服姿で鼻を抑えうずくまっているロジーと、クロルが立っていた。
「ロジー、大丈夫?」
ロジーはミストレルの声が聞こえると、すぐ立ち上がった。だが、今度は抱きついて泣くのではなかった。
「お姉ちゃんの嘘つき!!」
怒りを込めた目をしながらロジーは力いっぱいの声でそう伝えると走りさってしまった。
呆然とするミストレルに対し、クロルは話しかける。
「大丈夫。ロジーには絶対君のことは教えないから」
そう言うと帽子を取り深々とお辞儀をするとロジーの走っていった方向に歩いて行った。
扉を閉め中に入ったミストレルは思い出していた。冬の木漏れ日の中他のお客さんに迷惑にならないようにと一番端の席に座って食事をする3人。まだ綺麗に食べることが出来ないのでアンに顔や手を拭かれながら食事をするロジー。その光景がたまらなく好きで眺め続けるアンテロ。
この光景がミストレルはとても好きだったことを。そしてこの温かい光景が永遠に失われてしまったことを。
「こんな時にも私は泣けないのね……。アン、ごめん。約束、守れなかったよ……」
「ミストレル、ありがとうね」
「アン……、ごめんね。私にはこれしか出来なくて……」
「良いの。私はすごく嬉しいわ」
「アン……」
「それと、ミストレル。約束してほしいことがあるの」
「アンの言う事なら守るよ」
「アンテロと結婚して」
「え?」
「いいわね、約束よ?」
「ミストレルに何言ったんだい?悩んだ顔してたよ?」
「ふふっ、良いの。そうそう、貴方にも約束してほしいことがあるの」
「ロジーのことかな?なんだい?何でも言ってごらん」
「ミストレルと結婚しなさい」
「何言ってるんだい、こんな時に」
「ミストレルの事好きだったんでしょ?」
「そう言っても……」
「いいわね、約束よ!! ふふっ」
アンは最後まで笑っていた。
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