3 / 3
夢想する青年
しおりを挟む
「ほんとに今の仕事つらいんだよ」
「そうなの、大変ね」
「俺はこんな仕事をするために生まれてきたんじゃない。もっと大きなことをやる男だ」
「そうなの、凄いわね」
「それなのに酷いんだよ。今の雇い主は。いつも俺に対してきつくあたってくる」
「そうなの、大変ね」
「でも、そこに居る女性が綺麗なんだ。彼女をあんな所から助けだしてみせる」
「そうなの、凄いわね」
最近良く来店するようになったネッカーと言う青年が毎日同じ事を繰り返して言ってくるため、ミストレルもおざなりな返事をしてしまう。
見た目は細身で金髪碧眼、頭髪や服装等の見た目にはこだわっているように思えた。だが、少し不真面目な印象は受ける。
先日、このあからさまにどうでもいいと言わんばかりの受け答えさえしなかった時は、その場で凄い怒り出し、店のカップを一つ割られてしまった。
昼食代は置いて行ってくれたが、わざと割られたカップの代金は置いて行ってくれなかった。
だが、その次の日しれっと来店してきたので、カップの話をしたら、俺はそんな事しないだろう。何かの間違いだとまで言われてしまった。
呆れつつも受け答えさえすれば売上になるので、何かしゃべっている時は内容を聞かずに二つの言葉をしゃべることにしていた。
「そうなの、大変ね」
「おいおい、ミストレル。ネッカーはもう居ないぞ。俺にまでその受け答えはさすがに心が痛いぞ」
「あら、ごめんなさい。嫌な口癖になっちゃってるわね」
「疲れてるんじゃないか?数日店休んだらどうだ?」
「そうよ。いつも一人でお店やってるのに、あんなのまで相手にしてるんだもの。疲れていたっておかしくないわ」
「数日くらいならミストレルの料理食べられなくてもワシは問題ないぞい」
「ありがと。でも、ちゃんと奥さんの手料理を褒めてあげてね。女性はそういう所結構気にするから」
この様な会話が他の日でも、違うお客さんだったとしてもあったりする。心配してくれるのはありがたいけど、こちらも商売なのと、思ったより疲れないので気にしていなかった。
ひょっとしたら他のお客さんが気を使って彼が居ない時にしか話しして来ないからなのかもしれないけど。
「聞いてくれよミストレル」
「そうなの、大変ね」
「まだ何も言ってないよ」
「あら、ごめんなさい」
いつもの調子でただ大変とか俺は凄いとか言い始めるのかと思いきや、普通の会話をし始めたのでミストレルは少し戸惑ってしまった。サンドイッチに挟む為のハムが1枚床に落ちてしまったほど動揺してしまったのだが、仕事に集中することで何とか表情には現さなかった。
「俺が働いている所に綺麗な女性が居ると言ったよな」
「ええ、覚えているわ」
「彼女がこの前泣いていたんだ」
「そうなの、大変ね」
「もう、彼女をあんな所で働かせておけない。俺が助け出すしか無いと思わないか?」
「勘違いじゃないかしら?」
「いや、絶対そうだ。彼女には涙が似合わない。俺がきっと救い出してみせる!」
「そうなの、凄いわね」
途中からこちらを見ないで何時もの様に中空を眺めながら話ししていたので、ミストレルはおざなりな返事に戻していた。
結局帰るまで、いつもの調子で済んでしまったので、何が言いたかったのか頭に入って来なかった。
ある日、ネッカーが夜のお酒だけを出す時間帯、それも、他のお客様が既に帰っており、そろそろ店を閉めようと思ったタイミングで来店する。
「ミストレル!! 紅茶をくれ!!それにウィスキーを4滴入れてくれ!!」
外にも聞こえんばかりの大きな声でネッカーが注文する。だが、ミストレルは動揺することせずに淡々と受け答えする。
「今日はどの様なご用件でしょうか」
「随分と他人行儀だな、あんなに通った俺じゃないか」
「今日はどの様なご用件でしょうか」
ミストレルの表情がいつもと全く違うことに気づいたネッカーは、少したじろぎながら言葉を進める。
「今の雇い主が居るって言っただろ?」
「……」
「……相づちもしてくれないのかよ。まぁいいや。そいつを殺したい。だから毒をくれ」
「わかりました。ですが、幾つか条件がございます」
「条件?なんだよそれ」
「一つ、料金は前払いでお願いします。それと、金額は使用対象人物と内容により変動します」
「前払いなのかよ。あと金額変わるのかよ……。しかたねーな」
「二つ、当喫茶店では絶対に使用しないでください」
「おう。それは大丈夫だ」
「三つ、毒が出来上がってからから効果が維持されるのは一日だけです。それ以内にお使いください」
「1日だけかよ。ケチクセーな」
「四つ、全てのことに対し、秘密は厳守でおねがいします」
「おう。口は固いぜ」
「以上が守れるようでしたら、お作り致します。ですが、四つ目のことに関しては毒を作らなくても守って頂きます。もし他の人に話してしまった場合、私の知人が貴方のもとに行くでしょう。何処にいようとも」
「大丈夫だ。それで、金額はどのくらいだ?」
「まず、相手の名前を教えてください」
「雇い主でわからねえのかよ。ヴィノフだよ」
「わかりました。では、金貨4枚になります」
「たけえな!! たかだか毒を作るだけだろうが!!」
「人の人生を狂わせるのにこの金額ですよ。嫌でしたらお受けしないだけです」
「わかったよ!! 払うよ!!」
「いつお使いになりますか?」
「明日の夜使う!! 明日までに金用意してくるから、その時までに毒を準備しておけよ!!」
「わかりました。それでは明日の夜に、他のお客様が居ない時間にお越しください。その時にお渡し致します」
「わかったよ!!」
そう言うとネッカーは乱暴に椅子を退け、怒りながら外に出ていってしまった。
翌日の夜、閉店間際にネッカーは毒を受け取りに来た。
そして、投げるように金貨を置き、毒を催促する。
「ほら! 金貨4枚!! 早く毒を出せ」
ミストレルは既に準備しており、すぐにカウンターの上に瓶を二つ置く。
「瓶が二つあるけどなんだ?」
「片方、こちらの瓶はヴィノフさんにお使いください。もう一つの瓶は実行する前に貴方がお飲みください。緊張をほぐしたり、疲れが取れます」
「おお、気を使ってくれてありがとうよ!」
そう言うとネッカーは慌てて2本の瓶を引ったくるかのように奪って店を出ていく。
「ようやくあの娘を開放することが出来る、待ってろ!」
ネッカーは店を出るとすぐに走り始めた。子供が新しいものを買ってもらったような喜びを表に出しながら走る。言葉通りに彼女のことを開放できると信じて。
だが、まだ街中を走っている最中に突然男から声がかかる。
「よう、ネッカー。飲んでけよ、いい女が居るんだよ」
「テス、俺は忙しいんだ。また今度にしてくれ」
「ほんとにいいのか? いい女が入ったんだよ」
「いや……、俺は……忙しい」
「胸がな、ドーンってな」
「俺は……忙しい……」
「まだ、誰も手を付けてないらしいんだよ」
「行こうか」
「そう来なくっちゃ!! 案内するぜ!!」
「1日あるって言ってたからな。まだ時間はある」
「なんか言ったか?」
「いやいや、何でもない」
ネッカーは、雇い主の所に居る彼女に対する名残惜しさというかその様な感情を全く持たずに、店の中に何があるのか、何が待っているのかという好奇心をむき出しのまま、店の中に入ってしまった。
「ん……? ああ、悪い寝ちまったようだな」
「おはよう。飲んだ後随分とぐっすり寝てたな」
「今どのくらいなんだ?」
「もう外が明るいよ。とっくに夜が明けちまったよ」
「なに!! まずい、行かなければ!!」
「おーい、金置いてけ」
「金貨1枚置いていく。後で余った分はちゃんと返せよ!!」
そう言うとネッカーは慌てて店を後にして仕事場に向かう。顔には遅刻してしまうという焦りの表情を浮かばせながら。
「足りねーんだがな……。まあ良いか。前回はかなり貰えたからな」
外に出ると日が既に登っており、昼にはまだ時間があるというくらいだろう。ネッカーはいらつき、愚痴を言いながら戻ろうとする。だが、ふと今から行っても間に合わないし、怒られることが確定している事に気づく。次第に走る勢いが落ちていき、最後には止まってしまった。
「くそっ! やっぱり飲むんじゃなかった!!」
いらつきは頂点に達していたが、ふとネッカーの頭の中に何か思い浮かぶ。
「もういいや。どうせ今日の夜には殺すんだし」
それに気づいたネッカーは、仕事をすることを放棄し、遅い朝食というか、昼食を食べた後どこかで眠ることにした。
辺りが暗くなった辺りでネッカーは目を覚まして行動に移す。通い慣れた道を通り、敷地内に入る前に腹になにか入れてくればよかったと思うが現状手持ちに何もない。あるのは毒だ。そういえばと気づいた物、ミストレルの言った言葉を思い出す。緊張をほぐしたり、疲れが取れると言う飲み物について。
「そう言えば、飲んでくれって言われたものがあったな。飲んでみるか」
服のポケットに入れていた小さめの瓶を2本取り出す。何の飾りっけもない瓶だ。よくこんな瓶を選ぶものだとネッカーは思うが、気にしないで飲むことにした。
「そう言えば、この紐が付いている方を飲んでくれと言ってたな」
コルクの蓋を抜き、口元に瓶を持っていく。すると、まだ体が眠気から覚めていないのか、手から瓶がするりと抜け落ちてしまった。
「ちっ、やちまった。瓶が割れたんじゃ、こりゃ飲めねえよな」
結局腹が減っていらついたまま雇い主の家に忍びこむことになった。朝の早い仕事であるため、このくらいの時間であれば既に寝ている予定だ。
雇い主の家に忍び込む。立て付けの悪い窓を覚えているためにそこを開けて。
鍵もかかっているはずなのだが、この窓は隙間からちょっとした器具を使えば簡単に開いてしまう。木の軋む音を鳴らしながら窓が開く。あまり大きな音にならないようにゆっくりと力をかけて。
窓から飛び降りた時に木の床と靴が当たり、そして椅子に体があたったため、かなり大きな音を立ててしまう。慌てて隣の部屋にある机の下に隠れ、家主に見つからないよう息を潜める。
しばらくしても、屋内への物音がしないので、見つからなかったと胸をなでおろしながら机の下から這い出る。
忍び込んだ場所は本来、就業中は休憩、談話室と言う形になっており、外からの出入りが自由になっている場所だ。ネッカー含める従業員や期間で手伝いに来る人達の憩いの場ともなっている。そして逃げ込んだ隣の部屋は、本来会議室などとして使われている。ネッカーにしてみたらこんな所で何を打ち合わせするのかさっぱりわからないのだが、頻繁に打ち合わせをしている所を目撃している。
「ふう、危ない所だった」
改めて、雇い主の殺害をするために部屋を移動していく。この家は平屋建てになっており、現在戻ってきた談話室より雇い主の部屋は奥にある。途中は他の従業員用の寝室があり、その奥に雇い主の男の部屋がある。その先に本来助けだしたい女性の部屋がある。
ネッカーはこの従業員部屋ではなく、街に近い所の一軒家で一人暮らししている。この中に2人ずつ男性従業員がいるのだが、ネッカーはこの中に入りたくはなかった。ネッカーはこの仕事が嫌だし、もっと大きなことをして世界に羽ばたいていくつもりだったからだ。
「彼女を救いだしたらどうしようかな」
まだ詳細のビジョンを作れていない。だけど、二人で頑張れば何でも出来るはずだ。そう思うと、これからやることが非道なことではなく、未来を切り開くための良い行動と思え、力が湧いてくる。
おかげで先ほどの音を立てて侵入が知られてしまったかもしれないという恐怖心が一気に無くなり、足音をさせないようにゆっくりと歩いて行く。
従業員の部屋を通り過ぎ、雇い主の部屋につながる執務室の前へとたどり着いた。
この先に目的の雇い主が居るこ。上手く成功させることが出来るかと思うと、このドアを開くことを一瞬ためらってしまう。だが、開けなければ成功させることは出来ない。
意を決してドアを開けるためにドアノブに手をかける。だが、その瞬間妙な音が聞こえ始めた。
「ハッハッハッ……」
雇い主の部屋より奥の方向、救い出したい彼女の部屋の辺りから規則正しいが細かく早い音が聞こえる。
なにか嫌な予感がする。この音、仕事の合間に聞いた記憶がある。そう思い、音のする方向を向いてみると、うっすら30cmくらいの暗い塊が見える。暗がりなのではっきりと見えないが、ネッカーにはこの影には見覚えがあり、目を凝らすとよりその存在がはっきりと認識することが出来た。
『ちょっと待て! 何故こいつがここに居る?!』
声にこそ出さなかったが、ネッカーは心の中で叫びだす。その暗がりに居る存在、その正体はここで飼い慣らしているブリアードと呼ばれる種類の大型犬だ。本来温厚であり、賢い犬のはずなのだが、昔からネッカーに対しては懐いたことがなかった。
ここでこの犬を殺してしまうのも良い。だが、手元には武器と言えるものは一つも持っていない。唯一の武器と呼べそうなものはこの左手に持っている毒だけ。だが、これは雇い主に使わなくてはならない。だが、早く判断しないとこの犬は大きな声で鳴き出すだろう。
自分が一番やらなくてはならないこと。それはここの雇い主を殺し、彼女を開放すること。多少の障害が会ったとしても乗り越えなければならない。それに、確かあと二部屋だ。雇い主がこの声に気づき、起き始める前に殺してしまうことは出来るだろう。
このブリアードに鳴かれても問題無しと判断したネッカーは、握りかけていたドアノブをしっかりと握り、回し始める。
ドアノブを回しきった所で即座に中に入るためにドアを体で押す。
だが、数センチドアが開いた瞬間、反対側から押されるような感覚があり、体が弾き戻されてしまった。
『なんだ?!』
体が弾き戻される時の衝撃はドアにも伝わり、音が響き渡る。
大きな音が鳴ってしまったことだが、慌てずにもう一度開こうと試す。だが、途中でドアが開かない、引っかかる場所があった。
『鍵か!?』
単純なことだが、雇い主は自分の部屋に向かうための執務室にも鍵をかけていたのだ。ネッカーはその鍵の開き方を知らない。こんな所に鍵があったことさえ気づかなかった。
この鍵を体当たりで壊して中に入ろうと決めた瞬間、様子を見ていた大型犬が行動に出た。
「バウッワウッワンッ!!」
静まった屋内全体に響き渡るような大きな声。大型犬なので、声が大きいことは良い事なのだろうが、今回ばかりは逆に働いてしまった。
『糞っ!!』
このままでは従業員だけでなく、雇い主まで目を覚まして出てきてしまう。それに、この鍵を簡単に開ける方法も見当たらない。だが、それ以上に、座っていた大型犬が今は四足で立ち始めていた。さらに気づいたのだが、この大型犬には首輪が付いているが、つなげているリードが何処にもなかった。
その大型犬の行動に危険を感じたネッカーは跳ねるように談話室に戻っていく。そして慌てて侵入してきた窓から逃げ出していた。
「バウッバウッ!!」
辛くもブリアードの噛み付きから逃げ出したネッカーだが、大型犬の鳴き声は談話室の辺りから何度も響き、外だけでなく、屋内全域にまで届くだろう大きな声だった。
このままでは色々と怪しまれてしまうので、ネッカーは街の方へ走りながら逃げる事にした。
街へ一直線で行く事が出来れば良いのだが、この敷地の外周には柵があり、本来なら遠回りしなければならない。だが、今はその様なことをしている暇はない。その柵を飛び越えて逃げることにした。
「クソ犬!! アイツのせいで全てが台無しだ!!」
悪態をつきつつも足の勢いは止まらない。そして問題の柵が近くになり、そのままの勢いで飛び逃げようとした。
だが、柵の頂点に足が引っかかり、ネッカーはそのまま行っ回転して尻餅をついてしまった。
「いってぇ……」
転んだ時にふと何かが割れるような音を耳にしていた。
「畜生、毒も割れちまったじゃねえか……」
足が引っかかった拍子で手から離れ、勢いそのままに道に叩きつけてしまい、瓶が真っ二つにわれ、中に入っていた毒が全部漏れでてしまっていた。
金貨4枚と言うとても高価な毒を使う間もなく壊してしまったことに後悔し、その場で座り込んでしまった。
だが、逃げてきた方向から犬の鳴き声が聞こえてきたので、脱力している場合ではないことを悟り、再度全力で走り逃げざるを得なかった。
「何か物音がこっちでしたような気がするんだがな」
白髪混じりの体つきのがっしりした男性が大型犬に連れて来られる形で柵の近くまで歩いてきた。その大型犬にはリードがついていないため、自由に走り回っている。柵は完全に封鎖してる形ではなく、杭をつないでるような形であるため、簡単に犬くらいなら行き来できていた。
「こらっ! その何かわからないものを舐めるんじゃない!!」
大型犬が突然止まり、何か地面を眺めていると思った瞬間、割れた瓶から漏れでた液体を舐めていた。
主人が怒るために、渋々諦める形で舐めるのを止めたのだが、その場を遠く離れるまで何度も何度も振り返る事をしていた。
「ミストレル!! 毒を飲ませること失敗した!! 匿ってくれ!!」
ネッカーはミストレルの店に駆け込み、入るなり中に人が居ることさえも確認せず、突然そう話し始めた。
「ああ、すまねえ。人が居たのか。ミストレル、ともかく何処かに匿ってくれる所ないか?」
カウンターで一人、スーツを着込んだ身なりのいい男性が座っていた。しかしネッカーはその男性が居ることを気にせず、秘匿しなければならない事、毒のことを簡単に話してしまっていた。
「ネッカー、後にしてくれる?」
「そんな事言うなよ、ミストレルと俺との仲じゃないか!」
どういった仲なのかさっぱりとわからないミストレルは困惑した表情となるが、ネッカーはそんな事お構いなしに匿ってくれと、殺すことを失敗したから匿ってくれと囃し立てる。
「君、ネッカーと言いましたか。私の屋敷に来ますか?」
「あんた誰だ、随分と身なりが良いが」
「自己紹介が先ですね。レオン・ド・ベグルフォールと申します」
「ああ!! 川を東に向かったとこにある大きな屋敷の貴族様か! でも、こんな所で何してるんだ?」
「今日は社交界もありませんし、自分の好きな時間という事です」
「そうかい。でも助かった! さあ、早く連れて行ってくれ!」
「私はまだやることがありますので、先に行ってください」
「わかった!!」
返事をするとすぐにネッカーは店を飛び出していってしまった。乱暴に放たれたドアが勢い良く戻ってきて大きな音を立てて閉まる。
店の中にドアの閉まる音やネッカーの走り去る音等が無くなり、ようやく静寂が戻った時、カウンターに座っている男から言葉が発せられた。
「ミストレル、この度は御身の身辺をお騒がせしてしまい、大変申し訳無く思います。彼の事は私に任せて頂きたく、そして、大変恐縮なのですが、いつもの物を所望致したく申し上げます」
レオンと呼ばれた貴族はカウンターに座っていた状態からわざわざ立ち上がり、儀礼用なのかもしれないが、ともかく深くお辞儀をしつつ謝罪した。
その言葉を聞くとミストレルは何も言わずにカウンターから離れ、数分後何か液体の入った小瓶を一つ持ってきた。
「ご好意大変有難く存じます。今後はこの様なお騒がせすることが無い様尽力いたしますので、お許し頂けると有難く存じます」
無表情のままのミストレルはレオンの言葉を聞くと軽く頷き、カウンターに手に持っていた小瓶を置いた。
「それでは、こちらは迷惑料を含めた代金になります。お納め下さい」
レオンは、お金の入っているであろう袋をミストレルの前に置いた後、両手で大事そうにその子瓶を受け取る。そして、飲み干していない紅茶をそのままにして外に待たせてある馬車に向かい歩いて行った。
「すっげー! 近くで見ると本当にでかいな!!」
ネッカーは捕まってはならないとひたすら走りながらこの屋敷を目指していた。街から少し離れた場所にあるが、雇い主の家とは反対方向であるために、見つかる可能性は殆ど無い。だが、やましい事をしたという気持ちがそうさせたのか、この屋敷の中を早く見てみたいという好奇心か、ほとんど休むこと無く短時間でこの屋敷までたどり着いていた。
敷地を区切っている門から入り、広くて長い庭を通り過ぎ、屋敷のドアまでたどり着く。本来ならここまで広い敷地の貴族の庭というものをもっと見てみたかったのだが、闇も深くなってきている時間のため、月明かり程度ではしっかりと確認することが出来ないので諦めることに。
「おーい! 誰かいないかー!」
ドアを叩きながら大声でネッカーは中の人を呼び始める。叩き方も乱暴に、ドアノッカーをドアのほうが壊れるのではないかという勢いで叩くガンガン打ち鳴らす。
一頻り叫び、叩き終え、まだ出てこないのかと乱暴にドアを蹴り破ろうかと考えていた辺りでドアが開く。
「この様な夜分にどちら様でしょうか」
ドアが開かれると、身なりの整った黒い服を着た執事と思われる白髪の男性が顔をのぞかせる。
「おう、あんたのところの主人に厄介になりに来た。中に入れてくれ」
「ご主人様のお知り合いでしょうか?」
「ああ、そう言ってんだろう」
「そうですか、承知いたしました。それではご案内致します。こちらにどうぞ」
白髪の男性床に引いてあるは淡々と話を進め、ネッカーを応接間と思われる所に案内する。
屋敷の中に入ったネッカーは、綺麗に整頓され、そして磨かれた調度品、美術品、そして床に引いてある絨毯に驚き、目を回しそうになる。一部屋しかない家に住んでいるネッカーにとって、3階建てのこの屋敷は何部屋あるのか想像さえつかなかった。
白髪の男性はネッカーのことを意識してか、ゆっくりと歩いていたので、ネッカーが目的地を見失うという事はなかった。だが、屋内装飾に圧倒され、言葉が出てこないという状況には変わりがなかったが。
通された部屋も装飾の品が良く、椅子も柔らかそうな作りになっており、ネッカーが今までに座ったことの無さそうな物になっていた。
座ると体が包まれるような柔らかい素材になっているので、思わず声が出そうになるが、ようやく余裕が出来始めたネッカーはなんとかその声をこらえることが出来た。
「それではお飲み物を用意致します。少しお待ち頂けますようお願い申し上げます」
「あ……ああ、頼む」
屋敷の中に入ってから初めて声を出すことが出来たネッカーだが、白髪の男性が部屋から出てすぐに周りに飾ってある美術品や調度品を眺めに腰を上げた。
「凄いな……。こんなもの見たことねえ……。売ったらいくらになるんだろう……」
芸術感や美的感で言うわけではなく、金銭感で言うところがネッカーだと言える所だろうか、それとも育ちなのだろうか。だが、ここにある品々は決して安くはない物ばかりなのは間違いないと思われた。
まだ部屋の中の3分の1位しか眺め終えていない所でドアがノックされ、慌てて椅子に戻り返事をする。
返事を聞いてから2拍程してから白髪の男性がワゴンにお茶のセットを乗せて運び入ってくる。
落ち着いたはずのネッカーだったが、この様なもてなしを受けたことがないため、また緊張し始めてしまった。
紅茶を入れてもらい、口に運ぶが緊張からか味がわからない。さらにはその紅茶をこぼしてしまったので、恥ずかしくなってしまい、強気な言動になっていってしまった。
「お茶より酒をくれ!酒!!」
正直、お茶の様な繊細なものが解るほどネッカーは知識も知恵も、舌も持っていない。酒のほうがまだ酔えるだけわかりやすいし、飲んでいるので解るだろうという事だ。
少し時間が経ってから白髪の男性が持ってきたのはワインだった。ボトルも少々飾り気を施してあるワインであるため、手をかけた高いものではないかとネッカーでさえそう思った。
今までに見たこともない様なコップだった。ガラスで造られ、形状も逆円錐型、そして円錐の下部に綺麗な飾り付けがしてあり、これだけでも芸術品なのではないかと思わせるような作りだった。
ネッカーは普段木のコップに適当に注がれたワインやウィスキー等を飲んでいたため、この様な飲み方には慣れておらず、動揺を見せないようにするので精一杯で、結局お酒の味もほとんど解ることがなかった。白髪の男性が少し失礼しますと言って部屋の外に出てからようやく味がわかってきたくらいだった。
「旦那様、おかえりなさいませ」
「ああ。一人の横柄な男は来なかったか?」
「はい。旦那様のお知り合いという事でしたので、応接間にお通ししてあります」
「応接間か。どれだ」
「最奥の場所にございます」
「一番格の低いところか。それで構わない」
「ありがとうございます」
「あそこなら壊されても盗まれてもさほど痛いものは無いからな」
ミストレルの店に居た品の良い男性、レオンは自宅に戻ってきた所、執事にネッカーの事と、通された場所を聞き、着替える事無くネッカーの居る応接間に歩いて行った。
執事が応接間にノックをして入り、レオンを招き入れる。
「ネッカー君、待たせてすまない。ここでは話をすることも出来ないので、奥の部屋に移動しても良いだろうか」
レオンは入るとすぐにネッカーの居る方向に向き、部屋を移動することを提案する。
緊張からかネッカーは跳ね上がり、変な声で返事をすると、レオンの案内でそのまま着いて行くことになった。
屋敷の端にあるドアから出るともう一つ少し古めの屋敷が屋根付きの廊下の先にあった。レオンはランタンの灯を使い先導していく。暗いが綺麗に整地され、整った石畳で舗装されているため、足元が不安になることがなかった。
古めの屋敷のドアを開け、さらに奥に進んでいく。中央まで来た後、直線と右とにわかれた通路を右に向かい、少し歩いた後さらに左に折れ、最奥の部屋に向かった。
「さあ、ここで話をしよう」
レオンがドアを開けると先ほどの部屋とは打って変わって、かなり殺風景な部屋となっていた。だが、長い間使われていなかったような感じはせず、掃除が行き届いた様にも見えた。しかし、殺風景と言ったが、ネッカーが借りている家と比べると遥かに豪華であり、部屋の作りや備え付けの調度品等も使用感のある良い部屋と言えるだろう。
先ほどの椅子とは少々違うが、座面が柔らかい素材で出来ている3人がけの椅子の真ん中に座り、レオンは反対側にある一人用の椅子に座り話し始めた。
「さて、これからだが君はどうしたい?」
「ほとぼりが覚めるまで匿って欲しい」
「君は何をしたのかい?」
「ミストレルから買った毒を使って雇い主のヴィノフを殺そうと思ったんだ」
「なるほど。それを失敗したと」
「ああ」
そこまで聞くとレオンは2回ほど遠くに聞こえるように拍手をした。
拍手を終え手を戻した瞬間、ノックも無しに黒服の男が二人入ってきて、ネッカーの後ろに周り、両腕を押さえつけ、首を上げさせた。
「何するんだ!!」
「大丈夫。良い薬があるから飲んでもらうだけだ」
そう言うとレオンは胸のポケットから飾り気のない瓶を取り出し、蓋を開け、ネッカーの鼻を押さえ、息を吸うために口を開いた瞬間、その瓶の中身を注ぎ込んだ。
ネッカーは何を飲まされるのかわからなかったため、抵抗しようとしたが、腕を掴んでいる男の力は強く、全力を出しても少しも動くことがなかった。口の中に無理やり流し込まれたドロリとした液体を吐き出そうとしたが、舌の上に流れた味がとても甘く、思わず飲んでしまった。
全てを飲み干したネッカーは両腕を放され、一息つく。
「意外と美味かったな、その飲み物」
意外な感想を述べるネッカー。その感想を聞いたレオンは驚きの表情をした。
だが、その表情はすぐに元に戻ることになった。
何故なら、ネッカーは前のめりに倒れこみ、椅子から落ち、床に頭を強打したのだが、そのまま動かなかったのだ。
「ふう。効かなかったのかと思ったよ。さて、この寝息を立てている男を川に捨てておいてくれ」
「承知いたしました」
黒い服を着た二人は返事をすると熟睡しているネッカーを運び出していった。
川は古めの屋敷から歩いてすぐ近くにあり、黒服二人は崖の上からネッカーを川に投げ捨てると、何事もなかったかのように戻っていった。
冷たい水に投げ捨てられたネッカーは冷たさから目が覚め、現在の状況を把握する。
「畜生!! 俺を殺すつもりだったのかよ!!」
レオンがやろうとしていることを悟ったネッカーは冷たい水から這い上がろうともがきながら叫ぶ。しかし、ネッカーは海の街の男。今の仕事はどうであれ、泳ぐことは昔から容易だった。
「こんな事で死んでたまるか!! 俺は海の男だ!!」
もう少し下流、街に近い場所にいけば水面と地面が近くなり、這い上がることが出来る場所がある。そこに向かってネッカーは泳ぎ始める。
「ミストレルのことも、あのレオンと言ったか、あの男のことも、言いふらしてやる! それか、口止め料をもらうのもいいかもな!!」
自分をこの様な状況に追い込んだ二人の事を恨み、復讐をすることを誓う。ただ単に殺すだけではなく、何をしようかと。ミストレルは綺麗な女性だ。自分の好きにしたらどれだけ気持ちのいいことだろうかと。レオンはかなり金を持っているだろう。その男からは逃亡資金と、その後の援助金も貰えるといいかもしれないな。
その様な事を色々と考えていると、街に近づき、這い上がれる地点が見えてきた。
後少しで届くという所でネッカーは体の異変に気づく。
「なんだ? 体が動きづらい…」
そう思った瞬間、ネッカーの全身の筋肉が硬直し、泳ぐことができなくなってしまった。
『まずい!! このままでは溺れてしまう!!』
だが、硬直した体は腕や足だけではなく、手の指、足の指、果ては口やまぶたまで動かすことができなくなっていた。
硬直と息苦しさに耐え、なんとか呼吸をしたいと思い込んでいた時、一気に硬直が溶け、息を吸うチャンスが訪れた。だが、既に現在は水中。肺に入っていったのは空気ではなく大量の水だった。
苦しい思いをしたネッカーが水面に向かって泳ぎ出そうとした瞬間、再度体の硬直が訪れ、ネッカーはそのまま沈んでいった。
「ミストレル。聞いたかい。昨日ヴィノフんとこの牧場と、レオン様の屋敷に強盗が入ったって聞いたぞ」
「おうおう、俺もその話知ってるぞ。ヴィノフんとこは朝犬連れて散歩してるトコに遭遇して聞いたよ。それもあるんだが、ネッカーって覚えてるよな。あいつが港で遺体であがったらしいぞ」
「ネッカーいっちまったのか。そうなるとヴィノフんとこの若い娘は安心できるんじゃないか? ネッカーがずっと言い寄ってきて困ってるって泣いてたからな」
「そうなの、大変ね」
「……、ミストレル、その言い方無いんじゃないか?」
「あら、ごめんなさい。ほんと嫌ね、口癖になってるわ」
「そうなの、大変ね」
「俺はこんな仕事をするために生まれてきたんじゃない。もっと大きなことをやる男だ」
「そうなの、凄いわね」
「それなのに酷いんだよ。今の雇い主は。いつも俺に対してきつくあたってくる」
「そうなの、大変ね」
「でも、そこに居る女性が綺麗なんだ。彼女をあんな所から助けだしてみせる」
「そうなの、凄いわね」
最近良く来店するようになったネッカーと言う青年が毎日同じ事を繰り返して言ってくるため、ミストレルもおざなりな返事をしてしまう。
見た目は細身で金髪碧眼、頭髪や服装等の見た目にはこだわっているように思えた。だが、少し不真面目な印象は受ける。
先日、このあからさまにどうでもいいと言わんばかりの受け答えさえしなかった時は、その場で凄い怒り出し、店のカップを一つ割られてしまった。
昼食代は置いて行ってくれたが、わざと割られたカップの代金は置いて行ってくれなかった。
だが、その次の日しれっと来店してきたので、カップの話をしたら、俺はそんな事しないだろう。何かの間違いだとまで言われてしまった。
呆れつつも受け答えさえすれば売上になるので、何かしゃべっている時は内容を聞かずに二つの言葉をしゃべることにしていた。
「そうなの、大変ね」
「おいおい、ミストレル。ネッカーはもう居ないぞ。俺にまでその受け答えはさすがに心が痛いぞ」
「あら、ごめんなさい。嫌な口癖になっちゃってるわね」
「疲れてるんじゃないか?数日店休んだらどうだ?」
「そうよ。いつも一人でお店やってるのに、あんなのまで相手にしてるんだもの。疲れていたっておかしくないわ」
「数日くらいならミストレルの料理食べられなくてもワシは問題ないぞい」
「ありがと。でも、ちゃんと奥さんの手料理を褒めてあげてね。女性はそういう所結構気にするから」
この様な会話が他の日でも、違うお客さんだったとしてもあったりする。心配してくれるのはありがたいけど、こちらも商売なのと、思ったより疲れないので気にしていなかった。
ひょっとしたら他のお客さんが気を使って彼が居ない時にしか話しして来ないからなのかもしれないけど。
「聞いてくれよミストレル」
「そうなの、大変ね」
「まだ何も言ってないよ」
「あら、ごめんなさい」
いつもの調子でただ大変とか俺は凄いとか言い始めるのかと思いきや、普通の会話をし始めたのでミストレルは少し戸惑ってしまった。サンドイッチに挟む為のハムが1枚床に落ちてしまったほど動揺してしまったのだが、仕事に集中することで何とか表情には現さなかった。
「俺が働いている所に綺麗な女性が居ると言ったよな」
「ええ、覚えているわ」
「彼女がこの前泣いていたんだ」
「そうなの、大変ね」
「もう、彼女をあんな所で働かせておけない。俺が助け出すしか無いと思わないか?」
「勘違いじゃないかしら?」
「いや、絶対そうだ。彼女には涙が似合わない。俺がきっと救い出してみせる!」
「そうなの、凄いわね」
途中からこちらを見ないで何時もの様に中空を眺めながら話ししていたので、ミストレルはおざなりな返事に戻していた。
結局帰るまで、いつもの調子で済んでしまったので、何が言いたかったのか頭に入って来なかった。
ある日、ネッカーが夜のお酒だけを出す時間帯、それも、他のお客様が既に帰っており、そろそろ店を閉めようと思ったタイミングで来店する。
「ミストレル!! 紅茶をくれ!!それにウィスキーを4滴入れてくれ!!」
外にも聞こえんばかりの大きな声でネッカーが注文する。だが、ミストレルは動揺することせずに淡々と受け答えする。
「今日はどの様なご用件でしょうか」
「随分と他人行儀だな、あんなに通った俺じゃないか」
「今日はどの様なご用件でしょうか」
ミストレルの表情がいつもと全く違うことに気づいたネッカーは、少したじろぎながら言葉を進める。
「今の雇い主が居るって言っただろ?」
「……」
「……相づちもしてくれないのかよ。まぁいいや。そいつを殺したい。だから毒をくれ」
「わかりました。ですが、幾つか条件がございます」
「条件?なんだよそれ」
「一つ、料金は前払いでお願いします。それと、金額は使用対象人物と内容により変動します」
「前払いなのかよ。あと金額変わるのかよ……。しかたねーな」
「二つ、当喫茶店では絶対に使用しないでください」
「おう。それは大丈夫だ」
「三つ、毒が出来上がってからから効果が維持されるのは一日だけです。それ以内にお使いください」
「1日だけかよ。ケチクセーな」
「四つ、全てのことに対し、秘密は厳守でおねがいします」
「おう。口は固いぜ」
「以上が守れるようでしたら、お作り致します。ですが、四つ目のことに関しては毒を作らなくても守って頂きます。もし他の人に話してしまった場合、私の知人が貴方のもとに行くでしょう。何処にいようとも」
「大丈夫だ。それで、金額はどのくらいだ?」
「まず、相手の名前を教えてください」
「雇い主でわからねえのかよ。ヴィノフだよ」
「わかりました。では、金貨4枚になります」
「たけえな!! たかだか毒を作るだけだろうが!!」
「人の人生を狂わせるのにこの金額ですよ。嫌でしたらお受けしないだけです」
「わかったよ!! 払うよ!!」
「いつお使いになりますか?」
「明日の夜使う!! 明日までに金用意してくるから、その時までに毒を準備しておけよ!!」
「わかりました。それでは明日の夜に、他のお客様が居ない時間にお越しください。その時にお渡し致します」
「わかったよ!!」
そう言うとネッカーは乱暴に椅子を退け、怒りながら外に出ていってしまった。
翌日の夜、閉店間際にネッカーは毒を受け取りに来た。
そして、投げるように金貨を置き、毒を催促する。
「ほら! 金貨4枚!! 早く毒を出せ」
ミストレルは既に準備しており、すぐにカウンターの上に瓶を二つ置く。
「瓶が二つあるけどなんだ?」
「片方、こちらの瓶はヴィノフさんにお使いください。もう一つの瓶は実行する前に貴方がお飲みください。緊張をほぐしたり、疲れが取れます」
「おお、気を使ってくれてありがとうよ!」
そう言うとネッカーは慌てて2本の瓶を引ったくるかのように奪って店を出ていく。
「ようやくあの娘を開放することが出来る、待ってろ!」
ネッカーは店を出るとすぐに走り始めた。子供が新しいものを買ってもらったような喜びを表に出しながら走る。言葉通りに彼女のことを開放できると信じて。
だが、まだ街中を走っている最中に突然男から声がかかる。
「よう、ネッカー。飲んでけよ、いい女が居るんだよ」
「テス、俺は忙しいんだ。また今度にしてくれ」
「ほんとにいいのか? いい女が入ったんだよ」
「いや……、俺は……忙しい」
「胸がな、ドーンってな」
「俺は……忙しい……」
「まだ、誰も手を付けてないらしいんだよ」
「行こうか」
「そう来なくっちゃ!! 案内するぜ!!」
「1日あるって言ってたからな。まだ時間はある」
「なんか言ったか?」
「いやいや、何でもない」
ネッカーは、雇い主の所に居る彼女に対する名残惜しさというかその様な感情を全く持たずに、店の中に何があるのか、何が待っているのかという好奇心をむき出しのまま、店の中に入ってしまった。
「ん……? ああ、悪い寝ちまったようだな」
「おはよう。飲んだ後随分とぐっすり寝てたな」
「今どのくらいなんだ?」
「もう外が明るいよ。とっくに夜が明けちまったよ」
「なに!! まずい、行かなければ!!」
「おーい、金置いてけ」
「金貨1枚置いていく。後で余った分はちゃんと返せよ!!」
そう言うとネッカーは慌てて店を後にして仕事場に向かう。顔には遅刻してしまうという焦りの表情を浮かばせながら。
「足りねーんだがな……。まあ良いか。前回はかなり貰えたからな」
外に出ると日が既に登っており、昼にはまだ時間があるというくらいだろう。ネッカーはいらつき、愚痴を言いながら戻ろうとする。だが、ふと今から行っても間に合わないし、怒られることが確定している事に気づく。次第に走る勢いが落ちていき、最後には止まってしまった。
「くそっ! やっぱり飲むんじゃなかった!!」
いらつきは頂点に達していたが、ふとネッカーの頭の中に何か思い浮かぶ。
「もういいや。どうせ今日の夜には殺すんだし」
それに気づいたネッカーは、仕事をすることを放棄し、遅い朝食というか、昼食を食べた後どこかで眠ることにした。
辺りが暗くなった辺りでネッカーは目を覚まして行動に移す。通い慣れた道を通り、敷地内に入る前に腹になにか入れてくればよかったと思うが現状手持ちに何もない。あるのは毒だ。そういえばと気づいた物、ミストレルの言った言葉を思い出す。緊張をほぐしたり、疲れが取れると言う飲み物について。
「そう言えば、飲んでくれって言われたものがあったな。飲んでみるか」
服のポケットに入れていた小さめの瓶を2本取り出す。何の飾りっけもない瓶だ。よくこんな瓶を選ぶものだとネッカーは思うが、気にしないで飲むことにした。
「そう言えば、この紐が付いている方を飲んでくれと言ってたな」
コルクの蓋を抜き、口元に瓶を持っていく。すると、まだ体が眠気から覚めていないのか、手から瓶がするりと抜け落ちてしまった。
「ちっ、やちまった。瓶が割れたんじゃ、こりゃ飲めねえよな」
結局腹が減っていらついたまま雇い主の家に忍びこむことになった。朝の早い仕事であるため、このくらいの時間であれば既に寝ている予定だ。
雇い主の家に忍び込む。立て付けの悪い窓を覚えているためにそこを開けて。
鍵もかかっているはずなのだが、この窓は隙間からちょっとした器具を使えば簡単に開いてしまう。木の軋む音を鳴らしながら窓が開く。あまり大きな音にならないようにゆっくりと力をかけて。
窓から飛び降りた時に木の床と靴が当たり、そして椅子に体があたったため、かなり大きな音を立ててしまう。慌てて隣の部屋にある机の下に隠れ、家主に見つからないよう息を潜める。
しばらくしても、屋内への物音がしないので、見つからなかったと胸をなでおろしながら机の下から這い出る。
忍び込んだ場所は本来、就業中は休憩、談話室と言う形になっており、外からの出入りが自由になっている場所だ。ネッカー含める従業員や期間で手伝いに来る人達の憩いの場ともなっている。そして逃げ込んだ隣の部屋は、本来会議室などとして使われている。ネッカーにしてみたらこんな所で何を打ち合わせするのかさっぱりわからないのだが、頻繁に打ち合わせをしている所を目撃している。
「ふう、危ない所だった」
改めて、雇い主の殺害をするために部屋を移動していく。この家は平屋建てになっており、現在戻ってきた談話室より雇い主の部屋は奥にある。途中は他の従業員用の寝室があり、その奥に雇い主の男の部屋がある。その先に本来助けだしたい女性の部屋がある。
ネッカーはこの従業員部屋ではなく、街に近い所の一軒家で一人暮らししている。この中に2人ずつ男性従業員がいるのだが、ネッカーはこの中に入りたくはなかった。ネッカーはこの仕事が嫌だし、もっと大きなことをして世界に羽ばたいていくつもりだったからだ。
「彼女を救いだしたらどうしようかな」
まだ詳細のビジョンを作れていない。だけど、二人で頑張れば何でも出来るはずだ。そう思うと、これからやることが非道なことではなく、未来を切り開くための良い行動と思え、力が湧いてくる。
おかげで先ほどの音を立てて侵入が知られてしまったかもしれないという恐怖心が一気に無くなり、足音をさせないようにゆっくりと歩いて行く。
従業員の部屋を通り過ぎ、雇い主の部屋につながる執務室の前へとたどり着いた。
この先に目的の雇い主が居るこ。上手く成功させることが出来るかと思うと、このドアを開くことを一瞬ためらってしまう。だが、開けなければ成功させることは出来ない。
意を決してドアを開けるためにドアノブに手をかける。だが、その瞬間妙な音が聞こえ始めた。
「ハッハッハッ……」
雇い主の部屋より奥の方向、救い出したい彼女の部屋の辺りから規則正しいが細かく早い音が聞こえる。
なにか嫌な予感がする。この音、仕事の合間に聞いた記憶がある。そう思い、音のする方向を向いてみると、うっすら30cmくらいの暗い塊が見える。暗がりなのではっきりと見えないが、ネッカーにはこの影には見覚えがあり、目を凝らすとよりその存在がはっきりと認識することが出来た。
『ちょっと待て! 何故こいつがここに居る?!』
声にこそ出さなかったが、ネッカーは心の中で叫びだす。その暗がりに居る存在、その正体はここで飼い慣らしているブリアードと呼ばれる種類の大型犬だ。本来温厚であり、賢い犬のはずなのだが、昔からネッカーに対しては懐いたことがなかった。
ここでこの犬を殺してしまうのも良い。だが、手元には武器と言えるものは一つも持っていない。唯一の武器と呼べそうなものはこの左手に持っている毒だけ。だが、これは雇い主に使わなくてはならない。だが、早く判断しないとこの犬は大きな声で鳴き出すだろう。
自分が一番やらなくてはならないこと。それはここの雇い主を殺し、彼女を開放すること。多少の障害が会ったとしても乗り越えなければならない。それに、確かあと二部屋だ。雇い主がこの声に気づき、起き始める前に殺してしまうことは出来るだろう。
このブリアードに鳴かれても問題無しと判断したネッカーは、握りかけていたドアノブをしっかりと握り、回し始める。
ドアノブを回しきった所で即座に中に入るためにドアを体で押す。
だが、数センチドアが開いた瞬間、反対側から押されるような感覚があり、体が弾き戻されてしまった。
『なんだ?!』
体が弾き戻される時の衝撃はドアにも伝わり、音が響き渡る。
大きな音が鳴ってしまったことだが、慌てずにもう一度開こうと試す。だが、途中でドアが開かない、引っかかる場所があった。
『鍵か!?』
単純なことだが、雇い主は自分の部屋に向かうための執務室にも鍵をかけていたのだ。ネッカーはその鍵の開き方を知らない。こんな所に鍵があったことさえ気づかなかった。
この鍵を体当たりで壊して中に入ろうと決めた瞬間、様子を見ていた大型犬が行動に出た。
「バウッワウッワンッ!!」
静まった屋内全体に響き渡るような大きな声。大型犬なので、声が大きいことは良い事なのだろうが、今回ばかりは逆に働いてしまった。
『糞っ!!』
このままでは従業員だけでなく、雇い主まで目を覚まして出てきてしまう。それに、この鍵を簡単に開ける方法も見当たらない。だが、それ以上に、座っていた大型犬が今は四足で立ち始めていた。さらに気づいたのだが、この大型犬には首輪が付いているが、つなげているリードが何処にもなかった。
その大型犬の行動に危険を感じたネッカーは跳ねるように談話室に戻っていく。そして慌てて侵入してきた窓から逃げ出していた。
「バウッバウッ!!」
辛くもブリアードの噛み付きから逃げ出したネッカーだが、大型犬の鳴き声は談話室の辺りから何度も響き、外だけでなく、屋内全域にまで届くだろう大きな声だった。
このままでは色々と怪しまれてしまうので、ネッカーは街の方へ走りながら逃げる事にした。
街へ一直線で行く事が出来れば良いのだが、この敷地の外周には柵があり、本来なら遠回りしなければならない。だが、今はその様なことをしている暇はない。その柵を飛び越えて逃げることにした。
「クソ犬!! アイツのせいで全てが台無しだ!!」
悪態をつきつつも足の勢いは止まらない。そして問題の柵が近くになり、そのままの勢いで飛び逃げようとした。
だが、柵の頂点に足が引っかかり、ネッカーはそのまま行っ回転して尻餅をついてしまった。
「いってぇ……」
転んだ時にふと何かが割れるような音を耳にしていた。
「畜生、毒も割れちまったじゃねえか……」
足が引っかかった拍子で手から離れ、勢いそのままに道に叩きつけてしまい、瓶が真っ二つにわれ、中に入っていた毒が全部漏れでてしまっていた。
金貨4枚と言うとても高価な毒を使う間もなく壊してしまったことに後悔し、その場で座り込んでしまった。
だが、逃げてきた方向から犬の鳴き声が聞こえてきたので、脱力している場合ではないことを悟り、再度全力で走り逃げざるを得なかった。
「何か物音がこっちでしたような気がするんだがな」
白髪混じりの体つきのがっしりした男性が大型犬に連れて来られる形で柵の近くまで歩いてきた。その大型犬にはリードがついていないため、自由に走り回っている。柵は完全に封鎖してる形ではなく、杭をつないでるような形であるため、簡単に犬くらいなら行き来できていた。
「こらっ! その何かわからないものを舐めるんじゃない!!」
大型犬が突然止まり、何か地面を眺めていると思った瞬間、割れた瓶から漏れでた液体を舐めていた。
主人が怒るために、渋々諦める形で舐めるのを止めたのだが、その場を遠く離れるまで何度も何度も振り返る事をしていた。
「ミストレル!! 毒を飲ませること失敗した!! 匿ってくれ!!」
ネッカーはミストレルの店に駆け込み、入るなり中に人が居ることさえも確認せず、突然そう話し始めた。
「ああ、すまねえ。人が居たのか。ミストレル、ともかく何処かに匿ってくれる所ないか?」
カウンターで一人、スーツを着込んだ身なりのいい男性が座っていた。しかしネッカーはその男性が居ることを気にせず、秘匿しなければならない事、毒のことを簡単に話してしまっていた。
「ネッカー、後にしてくれる?」
「そんな事言うなよ、ミストレルと俺との仲じゃないか!」
どういった仲なのかさっぱりとわからないミストレルは困惑した表情となるが、ネッカーはそんな事お構いなしに匿ってくれと、殺すことを失敗したから匿ってくれと囃し立てる。
「君、ネッカーと言いましたか。私の屋敷に来ますか?」
「あんた誰だ、随分と身なりが良いが」
「自己紹介が先ですね。レオン・ド・ベグルフォールと申します」
「ああ!! 川を東に向かったとこにある大きな屋敷の貴族様か! でも、こんな所で何してるんだ?」
「今日は社交界もありませんし、自分の好きな時間という事です」
「そうかい。でも助かった! さあ、早く連れて行ってくれ!」
「私はまだやることがありますので、先に行ってください」
「わかった!!」
返事をするとすぐにネッカーは店を飛び出していってしまった。乱暴に放たれたドアが勢い良く戻ってきて大きな音を立てて閉まる。
店の中にドアの閉まる音やネッカーの走り去る音等が無くなり、ようやく静寂が戻った時、カウンターに座っている男から言葉が発せられた。
「ミストレル、この度は御身の身辺をお騒がせしてしまい、大変申し訳無く思います。彼の事は私に任せて頂きたく、そして、大変恐縮なのですが、いつもの物を所望致したく申し上げます」
レオンと呼ばれた貴族はカウンターに座っていた状態からわざわざ立ち上がり、儀礼用なのかもしれないが、ともかく深くお辞儀をしつつ謝罪した。
その言葉を聞くとミストレルは何も言わずにカウンターから離れ、数分後何か液体の入った小瓶を一つ持ってきた。
「ご好意大変有難く存じます。今後はこの様なお騒がせすることが無い様尽力いたしますので、お許し頂けると有難く存じます」
無表情のままのミストレルはレオンの言葉を聞くと軽く頷き、カウンターに手に持っていた小瓶を置いた。
「それでは、こちらは迷惑料を含めた代金になります。お納め下さい」
レオンは、お金の入っているであろう袋をミストレルの前に置いた後、両手で大事そうにその子瓶を受け取る。そして、飲み干していない紅茶をそのままにして外に待たせてある馬車に向かい歩いて行った。
「すっげー! 近くで見ると本当にでかいな!!」
ネッカーは捕まってはならないとひたすら走りながらこの屋敷を目指していた。街から少し離れた場所にあるが、雇い主の家とは反対方向であるために、見つかる可能性は殆ど無い。だが、やましい事をしたという気持ちがそうさせたのか、この屋敷の中を早く見てみたいという好奇心か、ほとんど休むこと無く短時間でこの屋敷までたどり着いていた。
敷地を区切っている門から入り、広くて長い庭を通り過ぎ、屋敷のドアまでたどり着く。本来ならここまで広い敷地の貴族の庭というものをもっと見てみたかったのだが、闇も深くなってきている時間のため、月明かり程度ではしっかりと確認することが出来ないので諦めることに。
「おーい! 誰かいないかー!」
ドアを叩きながら大声でネッカーは中の人を呼び始める。叩き方も乱暴に、ドアノッカーをドアのほうが壊れるのではないかという勢いで叩くガンガン打ち鳴らす。
一頻り叫び、叩き終え、まだ出てこないのかと乱暴にドアを蹴り破ろうかと考えていた辺りでドアが開く。
「この様な夜分にどちら様でしょうか」
ドアが開かれると、身なりの整った黒い服を着た執事と思われる白髪の男性が顔をのぞかせる。
「おう、あんたのところの主人に厄介になりに来た。中に入れてくれ」
「ご主人様のお知り合いでしょうか?」
「ああ、そう言ってんだろう」
「そうですか、承知いたしました。それではご案内致します。こちらにどうぞ」
白髪の男性床に引いてあるは淡々と話を進め、ネッカーを応接間と思われる所に案内する。
屋敷の中に入ったネッカーは、綺麗に整頓され、そして磨かれた調度品、美術品、そして床に引いてある絨毯に驚き、目を回しそうになる。一部屋しかない家に住んでいるネッカーにとって、3階建てのこの屋敷は何部屋あるのか想像さえつかなかった。
白髪の男性はネッカーのことを意識してか、ゆっくりと歩いていたので、ネッカーが目的地を見失うという事はなかった。だが、屋内装飾に圧倒され、言葉が出てこないという状況には変わりがなかったが。
通された部屋も装飾の品が良く、椅子も柔らかそうな作りになっており、ネッカーが今までに座ったことの無さそうな物になっていた。
座ると体が包まれるような柔らかい素材になっているので、思わず声が出そうになるが、ようやく余裕が出来始めたネッカーはなんとかその声をこらえることが出来た。
「それではお飲み物を用意致します。少しお待ち頂けますようお願い申し上げます」
「あ……ああ、頼む」
屋敷の中に入ってから初めて声を出すことが出来たネッカーだが、白髪の男性が部屋から出てすぐに周りに飾ってある美術品や調度品を眺めに腰を上げた。
「凄いな……。こんなもの見たことねえ……。売ったらいくらになるんだろう……」
芸術感や美的感で言うわけではなく、金銭感で言うところがネッカーだと言える所だろうか、それとも育ちなのだろうか。だが、ここにある品々は決して安くはない物ばかりなのは間違いないと思われた。
まだ部屋の中の3分の1位しか眺め終えていない所でドアがノックされ、慌てて椅子に戻り返事をする。
返事を聞いてから2拍程してから白髪の男性がワゴンにお茶のセットを乗せて運び入ってくる。
落ち着いたはずのネッカーだったが、この様なもてなしを受けたことがないため、また緊張し始めてしまった。
紅茶を入れてもらい、口に運ぶが緊張からか味がわからない。さらにはその紅茶をこぼしてしまったので、恥ずかしくなってしまい、強気な言動になっていってしまった。
「お茶より酒をくれ!酒!!」
正直、お茶の様な繊細なものが解るほどネッカーは知識も知恵も、舌も持っていない。酒のほうがまだ酔えるだけわかりやすいし、飲んでいるので解るだろうという事だ。
少し時間が経ってから白髪の男性が持ってきたのはワインだった。ボトルも少々飾り気を施してあるワインであるため、手をかけた高いものではないかとネッカーでさえそう思った。
今までに見たこともない様なコップだった。ガラスで造られ、形状も逆円錐型、そして円錐の下部に綺麗な飾り付けがしてあり、これだけでも芸術品なのではないかと思わせるような作りだった。
ネッカーは普段木のコップに適当に注がれたワインやウィスキー等を飲んでいたため、この様な飲み方には慣れておらず、動揺を見せないようにするので精一杯で、結局お酒の味もほとんど解ることがなかった。白髪の男性が少し失礼しますと言って部屋の外に出てからようやく味がわかってきたくらいだった。
「旦那様、おかえりなさいませ」
「ああ。一人の横柄な男は来なかったか?」
「はい。旦那様のお知り合いという事でしたので、応接間にお通ししてあります」
「応接間か。どれだ」
「最奥の場所にございます」
「一番格の低いところか。それで構わない」
「ありがとうございます」
「あそこなら壊されても盗まれてもさほど痛いものは無いからな」
ミストレルの店に居た品の良い男性、レオンは自宅に戻ってきた所、執事にネッカーの事と、通された場所を聞き、着替える事無くネッカーの居る応接間に歩いて行った。
執事が応接間にノックをして入り、レオンを招き入れる。
「ネッカー君、待たせてすまない。ここでは話をすることも出来ないので、奥の部屋に移動しても良いだろうか」
レオンは入るとすぐにネッカーの居る方向に向き、部屋を移動することを提案する。
緊張からかネッカーは跳ね上がり、変な声で返事をすると、レオンの案内でそのまま着いて行くことになった。
屋敷の端にあるドアから出るともう一つ少し古めの屋敷が屋根付きの廊下の先にあった。レオンはランタンの灯を使い先導していく。暗いが綺麗に整地され、整った石畳で舗装されているため、足元が不安になることがなかった。
古めの屋敷のドアを開け、さらに奥に進んでいく。中央まで来た後、直線と右とにわかれた通路を右に向かい、少し歩いた後さらに左に折れ、最奥の部屋に向かった。
「さあ、ここで話をしよう」
レオンがドアを開けると先ほどの部屋とは打って変わって、かなり殺風景な部屋となっていた。だが、長い間使われていなかったような感じはせず、掃除が行き届いた様にも見えた。しかし、殺風景と言ったが、ネッカーが借りている家と比べると遥かに豪華であり、部屋の作りや備え付けの調度品等も使用感のある良い部屋と言えるだろう。
先ほどの椅子とは少々違うが、座面が柔らかい素材で出来ている3人がけの椅子の真ん中に座り、レオンは反対側にある一人用の椅子に座り話し始めた。
「さて、これからだが君はどうしたい?」
「ほとぼりが覚めるまで匿って欲しい」
「君は何をしたのかい?」
「ミストレルから買った毒を使って雇い主のヴィノフを殺そうと思ったんだ」
「なるほど。それを失敗したと」
「ああ」
そこまで聞くとレオンは2回ほど遠くに聞こえるように拍手をした。
拍手を終え手を戻した瞬間、ノックも無しに黒服の男が二人入ってきて、ネッカーの後ろに周り、両腕を押さえつけ、首を上げさせた。
「何するんだ!!」
「大丈夫。良い薬があるから飲んでもらうだけだ」
そう言うとレオンは胸のポケットから飾り気のない瓶を取り出し、蓋を開け、ネッカーの鼻を押さえ、息を吸うために口を開いた瞬間、その瓶の中身を注ぎ込んだ。
ネッカーは何を飲まされるのかわからなかったため、抵抗しようとしたが、腕を掴んでいる男の力は強く、全力を出しても少しも動くことがなかった。口の中に無理やり流し込まれたドロリとした液体を吐き出そうとしたが、舌の上に流れた味がとても甘く、思わず飲んでしまった。
全てを飲み干したネッカーは両腕を放され、一息つく。
「意外と美味かったな、その飲み物」
意外な感想を述べるネッカー。その感想を聞いたレオンは驚きの表情をした。
だが、その表情はすぐに元に戻ることになった。
何故なら、ネッカーは前のめりに倒れこみ、椅子から落ち、床に頭を強打したのだが、そのまま動かなかったのだ。
「ふう。効かなかったのかと思ったよ。さて、この寝息を立てている男を川に捨てておいてくれ」
「承知いたしました」
黒い服を着た二人は返事をすると熟睡しているネッカーを運び出していった。
川は古めの屋敷から歩いてすぐ近くにあり、黒服二人は崖の上からネッカーを川に投げ捨てると、何事もなかったかのように戻っていった。
冷たい水に投げ捨てられたネッカーは冷たさから目が覚め、現在の状況を把握する。
「畜生!! 俺を殺すつもりだったのかよ!!」
レオンがやろうとしていることを悟ったネッカーは冷たい水から這い上がろうともがきながら叫ぶ。しかし、ネッカーは海の街の男。今の仕事はどうであれ、泳ぐことは昔から容易だった。
「こんな事で死んでたまるか!! 俺は海の男だ!!」
もう少し下流、街に近い場所にいけば水面と地面が近くなり、這い上がることが出来る場所がある。そこに向かってネッカーは泳ぎ始める。
「ミストレルのことも、あのレオンと言ったか、あの男のことも、言いふらしてやる! それか、口止め料をもらうのもいいかもな!!」
自分をこの様な状況に追い込んだ二人の事を恨み、復讐をすることを誓う。ただ単に殺すだけではなく、何をしようかと。ミストレルは綺麗な女性だ。自分の好きにしたらどれだけ気持ちのいいことだろうかと。レオンはかなり金を持っているだろう。その男からは逃亡資金と、その後の援助金も貰えるといいかもしれないな。
その様な事を色々と考えていると、街に近づき、這い上がれる地点が見えてきた。
後少しで届くという所でネッカーは体の異変に気づく。
「なんだ? 体が動きづらい…」
そう思った瞬間、ネッカーの全身の筋肉が硬直し、泳ぐことができなくなってしまった。
『まずい!! このままでは溺れてしまう!!』
だが、硬直した体は腕や足だけではなく、手の指、足の指、果ては口やまぶたまで動かすことができなくなっていた。
硬直と息苦しさに耐え、なんとか呼吸をしたいと思い込んでいた時、一気に硬直が溶け、息を吸うチャンスが訪れた。だが、既に現在は水中。肺に入っていったのは空気ではなく大量の水だった。
苦しい思いをしたネッカーが水面に向かって泳ぎ出そうとした瞬間、再度体の硬直が訪れ、ネッカーはそのまま沈んでいった。
「ミストレル。聞いたかい。昨日ヴィノフんとこの牧場と、レオン様の屋敷に強盗が入ったって聞いたぞ」
「おうおう、俺もその話知ってるぞ。ヴィノフんとこは朝犬連れて散歩してるトコに遭遇して聞いたよ。それもあるんだが、ネッカーって覚えてるよな。あいつが港で遺体であがったらしいぞ」
「ネッカーいっちまったのか。そうなるとヴィノフんとこの若い娘は安心できるんじゃないか? ネッカーがずっと言い寄ってきて困ってるって泣いてたからな」
「そうなの、大変ね」
「……、ミストレル、その言い方無いんじゃないか?」
「あら、ごめんなさい。ほんと嫌ね、口癖になってるわ」
0
この作品の感想を投稿する
みんなの感想(2件)
あなたにおすすめの小説
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた
下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。
ご都合主義のハッピーエンドのSSです。
でも周りは全くハッピーじゃないです。
小説家になろう様でも投稿しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。
ミストレル…謎だ…。
感想ありがとうございます。
まだ2話ですので、もう少し話を重ねていけばわかるようにしていくつもりです。
ですが、わざとミステリアスにしておくのも面白いとも思っておりますので、何処まで公開するべきかまだ決めておりません。
次は間が開いててしまうと思いますが、その時もどうぞご贔屓に。
感想ありがとうございます。
神と悪魔という線引であれば、悪魔かも知れません。
まだしっかりとした物が自分の中に定着していませんので曖昧なことしか言えませんが、
それだけにはしないつもりです。