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一心孵卵
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熱が出た。昨日の大雨のせいだろう。親は仕事に出掛け、妹も学校へ行った。一人でしんと静まり返った部屋にいると、生協のトラックの流す音楽や、保育園へ通う前の子どもたちのざわめきが、眠っていても耳についた。
ふらふらするまま起き上がり、時計を確認する。一時。お昼御飯にと作ってくれたお粥はとうに冷め、食べる気にもなれなかった。
薬を水で流し込み、氷枕を取り替えた。こんな平日に休むなんていつぶりだろう。仕事を始めてから一度もなかったんじゃないか。去年までは大学がない日はいつもごろごろしていたというのに。
布団へ戻ると、うろ覚えのまま聞いた用事を思い出した。「洗濯物取り込んどいてね」母が言っていた。仕方なくベランダへ出ると、母お気に入りの緑のカーテンが膨らんでいた。それを払いのけると、風がべたついた体を吹き抜け、肌を撫でていった。
気持ちいい。柵の上へ上り、目一杯浴びた。見下ろせば遥か十一階分。子どもが遊んでおり、家々はミニチュアに見えた。遠くでは、小学校のチャイムが鳴っていた。
落ちて、みようか。
ちょっとした思い付きだった。本当にするとは思わなかった。一歩前へ踏み出せば、当然身体は風を裂き、下へ下へ落下した。
あ、死んだ。そう思った。
「……おー」
思わず声が出た。ため息のような、感嘆のような、そんな声。
何の奇跡か、随分綺麗に着地していた。子どもは隣で目をぱちくり。そりゃそうだ、十一階から落下すれば普通は死んでいる。
立ち上がってみても何ら異常はない。もう一度やってみたい。その思いだけが異常ながら、再びマンションの階段を上った。
もう一度やればどうなるだろう。好奇心は止められず、十一階の共同廊下の手すりを掴むが早いか、塀を超えるように飛び込んだ。
はた。二階に車用の雨避けがあったのを忘れていた。さっきとは異なって青く染まる眼前。打ちっぱなしのトタン屋根からは錆びた釘が飛び出しており、再び死を覚悟した。
バンッ。トタンの弾ける音。
そのまま越えて、高く跳ね上がる。無理に足を駆動させて、次の着地点を求めた。
結論から言えば、無事だった。衝撃を逃がせずにそのまま足を動かすと、トタンを次々踏み抜いた。軽く凹んでいくそれを尻目に、駆け出す身体は既に次の着地点を求めていた。
幼い頃登った塀までは、およそ三メートル強。塀の高さは三メートル弱。
行くしかない。
「うっ、うおおおぉぉぉぉおおおぉ!!!」
雄叫び。思ったより心地いい。そのまま前へ踏み出せば、足の裏に固くざらついた、熱い感触。見事着地、否、次は!!
右足は虚空へ振った。前へ向かう力は制動しきれない。見れば、遥か下方に屋根の連なり。
行くか?
行け!
叫ぶまま、弾丸のように身体は落ちて向かった。
昔から、ジェットコースターに乗っている時は叫びながらも夕飯のことを考えていた。怖い反面、どこかで別のことを考える癖があった。まずい、窓開けっぱなし。今そんなことを考えてどうなるというのか。それは、自分にもわからないのに。
すっかり煤と埃と砂で汚れきった足では、屋根は滑った。着地しても、うまく踏ん張れなかった。
次だ、次!
もう止まるなんて頭になかった。思うことは、前へ進むことばかり。行かねば死ぬ。死なないなら進む。行ききって、息切って、生ききって、活ききって。
行け!
死ね!
行け!!
住宅地の屋根屋根を飛び越える。ただひたすら、飛んで回る。時には犬のように手をついて、ランナーのように両腕を振り回して、前へ!
前へ!
心はまるで卵から孵ったよう。熱っぽさにはまだ侵されている。フィーバー。まさしく、フィーバーしている!薬でも冷めやらぬ熱!こんなにも最高な心地、今まで感じたことはない!思うのはそればかり、それ、のみ!
高台に建っている我が家はもはや遠い。どこへ向かっているかはわからない。斜めになった屋根ですら自分を止めてくれない。このまま、どこまででも行ける、そんな気がした。
足を滑らせたのは、その不意の一瞬だった。家と家の隙間へ落ち、背面に焼けつくような痛み。奇跡は一度だから奇跡なのだ。そんな言葉を聞いた気がした。
目をぱちぱち。空は、どこまでも青く、快晴と言うに申し分なかった。遠くでは子どもが三輪車を漕いでいる。母お気に入りの緑のカーテンは膨らんではためき、洗濯物はそのままだった。
遠退く意識の中で、三輪車はジャリンジャリンと鳴っていた。生協のトラックはゆっくりと、残響のような音楽を響かせていた。
背中が、熱い。
ママー!叫ぶ子どもが駆けていく。
あ、死んだ。
ふらふらするまま起き上がり、時計を確認する。一時。お昼御飯にと作ってくれたお粥はとうに冷め、食べる気にもなれなかった。
薬を水で流し込み、氷枕を取り替えた。こんな平日に休むなんていつぶりだろう。仕事を始めてから一度もなかったんじゃないか。去年までは大学がない日はいつもごろごろしていたというのに。
布団へ戻ると、うろ覚えのまま聞いた用事を思い出した。「洗濯物取り込んどいてね」母が言っていた。仕方なくベランダへ出ると、母お気に入りの緑のカーテンが膨らんでいた。それを払いのけると、風がべたついた体を吹き抜け、肌を撫でていった。
気持ちいい。柵の上へ上り、目一杯浴びた。見下ろせば遥か十一階分。子どもが遊んでおり、家々はミニチュアに見えた。遠くでは、小学校のチャイムが鳴っていた。
落ちて、みようか。
ちょっとした思い付きだった。本当にするとは思わなかった。一歩前へ踏み出せば、当然身体は風を裂き、下へ下へ落下した。
あ、死んだ。そう思った。
「……おー」
思わず声が出た。ため息のような、感嘆のような、そんな声。
何の奇跡か、随分綺麗に着地していた。子どもは隣で目をぱちくり。そりゃそうだ、十一階から落下すれば普通は死んでいる。
立ち上がってみても何ら異常はない。もう一度やってみたい。その思いだけが異常ながら、再びマンションの階段を上った。
もう一度やればどうなるだろう。好奇心は止められず、十一階の共同廊下の手すりを掴むが早いか、塀を超えるように飛び込んだ。
はた。二階に車用の雨避けがあったのを忘れていた。さっきとは異なって青く染まる眼前。打ちっぱなしのトタン屋根からは錆びた釘が飛び出しており、再び死を覚悟した。
バンッ。トタンの弾ける音。
そのまま越えて、高く跳ね上がる。無理に足を駆動させて、次の着地点を求めた。
結論から言えば、無事だった。衝撃を逃がせずにそのまま足を動かすと、トタンを次々踏み抜いた。軽く凹んでいくそれを尻目に、駆け出す身体は既に次の着地点を求めていた。
幼い頃登った塀までは、およそ三メートル強。塀の高さは三メートル弱。
行くしかない。
「うっ、うおおおぉぉぉぉおおおぉ!!!」
雄叫び。思ったより心地いい。そのまま前へ踏み出せば、足の裏に固くざらついた、熱い感触。見事着地、否、次は!!
右足は虚空へ振った。前へ向かう力は制動しきれない。見れば、遥か下方に屋根の連なり。
行くか?
行け!
叫ぶまま、弾丸のように身体は落ちて向かった。
昔から、ジェットコースターに乗っている時は叫びながらも夕飯のことを考えていた。怖い反面、どこかで別のことを考える癖があった。まずい、窓開けっぱなし。今そんなことを考えてどうなるというのか。それは、自分にもわからないのに。
すっかり煤と埃と砂で汚れきった足では、屋根は滑った。着地しても、うまく踏ん張れなかった。
次だ、次!
もう止まるなんて頭になかった。思うことは、前へ進むことばかり。行かねば死ぬ。死なないなら進む。行ききって、息切って、生ききって、活ききって。
行け!
死ね!
行け!!
住宅地の屋根屋根を飛び越える。ただひたすら、飛んで回る。時には犬のように手をついて、ランナーのように両腕を振り回して、前へ!
前へ!
心はまるで卵から孵ったよう。熱っぽさにはまだ侵されている。フィーバー。まさしく、フィーバーしている!薬でも冷めやらぬ熱!こんなにも最高な心地、今まで感じたことはない!思うのはそればかり、それ、のみ!
高台に建っている我が家はもはや遠い。どこへ向かっているかはわからない。斜めになった屋根ですら自分を止めてくれない。このまま、どこまででも行ける、そんな気がした。
足を滑らせたのは、その不意の一瞬だった。家と家の隙間へ落ち、背面に焼けつくような痛み。奇跡は一度だから奇跡なのだ。そんな言葉を聞いた気がした。
目をぱちぱち。空は、どこまでも青く、快晴と言うに申し分なかった。遠くでは子どもが三輪車を漕いでいる。母お気に入りの緑のカーテンは膨らんではためき、洗濯物はそのままだった。
遠退く意識の中で、三輪車はジャリンジャリンと鳴っていた。生協のトラックはゆっくりと、残響のような音楽を響かせていた。
背中が、熱い。
ママー!叫ぶ子どもが駆けていく。
あ、死んだ。
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