高原貸文房具店

竹野内 碧

文字の大きさ
3 / 15

沙奈の色

しおりを挟む
 田舎での生活は慣れない事ばかりだった。まず全体的に静かだった。夜は特に静かだ。そして真っ暗だった。私が住んでいたのは帝都の中でも住宅街だったけれど、それでも割と遅い時間まで人の往来があった。ガス灯が私の知っている時間に消えた事はない。父が言うにはそれでも10時過ぎには消えてしまうらしいけれど、それを見た事はほとんどなかった。一度でも見たいと思ってせがんでみたけど、許しを貰った年越しの時にも案の定眠ってしまって悔しくて大泣きをしたのを覚えている。そうこうするうちに戦争が始まったので、結局見れずじまいだ。

 戦争の被害が少なかったこの土地は、当たり前のように人々が笑って生活していた。食料は配給で決められたものじゃない。私は久しぶりにご飯をお腹いっぱいに食べた。お風呂は家の風呂ではなく銭湯だ。初めて入る銭湯に、勝手が分からない私は土地の女の子に馬鹿にされた。勝手が分からないのは銭湯だけじゃない。全てが違っていた。私が昔当たり前のように口にしていたクッキィやショコラは、ここでは大変効果で珍しいもの。大きなデパァトなんてものはここでは夢の世界だ。セルロイドの人形なんて見たことがない。

 小学校に通う子供たちは、ほとんどが赤ん坊のころから互いを見知った者同士だった。そこに転校した私はちょっと異質な存在だった。遊び方はダイナミックで、沙奈には分からない独特の方言を使ったりする。なんとか皆と仲良くなりたくて、覚えている限りの帝都で生活を沢山した。ただし、孤児院の頃の話はあまり愉快な物ではないので裂けていた。
 みんなもここにいる限り知りえない世界に、最初は目をキラキラさせて話を聞いてくれた。だけど次第にそれが自慢話に聞こえてしまったのだろう。調子に乗って話していたら、「都会から来た自慢娘」というレッテルを貼られてしまった。そもそも言葉だってイントネイションが違う。帝都弁でしゃべる私はスカした奴だと思われていた。子供たちにとっては両親を失った子供というよりも、そっちの方がインパクトあったようだ。次第に私の周りには人がいなくなっていった。

 それで不登校になってしまっていた。学校が怖くて、帝都に戻りたくて、何よりも両親に会いたかった。どれももう叶わない事なのに、それで祖父を困らせていた。

「沙奈…こっちに来てごらん」

 祖父に呼ばれて手招きをする方向へと行くと、そこにはいくつかのインク瓶があった。この形には見覚えがある。

「覚えているか?これはお前のお父さんが万年筆に使っていた色だぞ」
「あ!」

 少し緑がかった不思議な色のブルゥブラック。紙に書くと最初は群青色なのに、次第に緑色が顔を出してくる。それが不思議で、そのインクを使ってよく絵をかいてもらっていた。

「俺はここで簡単なインクの調合をしているんだが、これは久志が成人する時に作ってやった。あいつの一番好きな色だったんだぞ。そしてこっちはお母さん、芳子さんの方だ。嫁入りする時に選んだのが、この紫だったんだよ」

 父が出兵する時、母は自分の万年筆を父に渡していた。戦争が終わり、父の戦友がその訃報と共に届けたのが、この二本の万年筆だった。祖父はそれを丁寧に手入れを施したのち、仏壇の引き出しにしまっていたのだ。

「お前にもインクを作ってやらないといけないなぁ」

 にっこりと微笑んで私の頭を撫でると、何色がいいか聞いてきた。緑色も綺麗だけど赤も捨てがたい。渡されたガラスペンにインクを付けてもらって、恐る恐る書いてみると、すーっと驚くほど滑らかにインクが出てきた。このガラスペンは祖母のお気に入りだったらしい。

「簡単に割れるものではないけど、落としたりすんじゃないぞ?」

 ほんの少し脅すような口調で言われると、かえって力が入ってしまう。途端にぶるぶると震える線に、祖父は大笑いをした。ガラスペンに付けて、すーっと線を描く。ガラス瓶に入った水で濯いで、今度は別の色を付ける。そうやってああでもないこうでもないと、まだ日が高いうちに始めたのに、あまりにも夢中になって、気付いたら満点の星空になった頃、ようやくお気に入りのオレンジと茶色の中間の様な色が出来上がった。

「ふむ、面白い色になったなぁ。じゃあこれが沙奈の色だな」

 そういって台帳に丁寧にその配合をメモしていく。その後、祖父は「これは特別な時にだけ入れてやるからな」と、他のインクとは違うラベルが貼ってあるインクボトルを引き出しから出した。それをキュッと開けてガラス棒を突っ込み、引っ張り上げると、キラキラしたインクがぽとりと落ちた。

「うわぁ!きれい!」
「金のインクだ。これだけでも使えるけれど、このインクにほんの少し垂らすとな、インクだまりの所に面白い表情が出るんだ。ちょっと書いてみろ」

 予備だと思っていたインクに、ほんの一たらし金のインクを加える。ふぁっと広がったそれを丁寧に混ぜて、ガラスペンに付けて紙に名前を書いてみた。祖父の言う通り、そのインクはインクがほんの少したまって濃くなったところに、キラキラとした表情を加え、それが何とも言えない豪華さを出していた。

「じぃじ!すごい!キラキラしてるよ!」
「そうだろ?これは沙奈だけだからな。普段はこっち。なにか特別な時はこっちを使え」

 祖父は紙に木版を押し付け、名前を書いてくれた。それを瓶に丁寧に貼る。「久志」「芳子」と共に「沙奈」の名前が入った瓶が並べられた。

 祖父はそうやって私に色々と教えてくれた。買い出しと言って帝都にも連れて行ってくれた。私が住んでいた所はすっかり街並みが変わっていて、大家さんも空襲で大けがをしてしまったので、息子に代替わりしていた。その息子さんが私を孤児院に連れて行ってくれた人で、祖父に私の居場所を教えてくれた人でもあった。ひとしきりお礼を言って、懐かしい街を後にした。

 祖父は決して学校へ行けとは言わなかった。でもそれだけに私は逆にどこかで後ろめたさを感じるようになっていった。

 暫くして同じ商店街の八百屋の次男坊で二つ年上の中林雄二、通称ゆうちゃんが部屋から出ようとしない私に何度も声を掛けてくるようになった。彼はガキ大将気質で正義感が強かった。もしかしたら祖父に頼まれたのかもしれない。ようやく根負けした私は学校へ行くことが出来た。
 最初は恐る恐るだった。でもみんなが謝ってくれた。後で聞いたことだけど、クラスの子を問い詰めて、不登校の原因が分かったゆうちゃんがみんなに激怒したらしい。それが先生にも伝わり、また滅茶苦茶怒られた。そして特別授業と称して、戦争帰りの人の話を聞いて、クラス中が大号泣になったそうだ。私はなにがなんだかわからなくて混乱したけれど、単純な子供たちはそれで態度が一変していた。なにか困ったことがあったら助けてくれるし、分からないことは笑いながら教えてくれるようになった。気付けば私も同級生の輪の中で大声で笑って遊んでいた。

 なにもかも目まぐるしく、時間はどんどん通り過ぎていく。その中でインバネスコートを羽織った学生さんがうちに通っていたことがあった。当時小学生の私から見たら、その人は凄く大人に思えた。ゆうちゃんを始め、男の子はみんな真っ黒になった元気な子ばかりだったし、大人もがらっぱちなおじさんや祖父の友達ばかり見ていたせいで、その人は穏やかな笑みを静かに浮かべていた。
 祖父に聞いた所、家は少し離れた所なのだが、なにせ家族が多くて家では集中して勉強ができない。田舎の小さな図書館は夕方には締まってしまう。だから大学受験が終わるまでの半年ばかり、学校が終わったら、ここの居間で店番しながら勉強する事になったそうだ。一人っ子の私は突然兄が出来たようで嬉しかった。そしてその人の兄弟が他に7人もいる事に吃驚して、色んな話をしてもらったのを覚えている。「昌お兄ちゃん」はゆうちゃんに言わせると「優男」らしい。以前剣道の大会で年下であるゆうちゃんの兄に、体当たりでふっとばされたと言っていた。確かにいつもニコニコしていて、喧嘩とかは無縁のようにも感じた。

「いいか。ここには大事な勉強しに来てんだ。兄ちゃんの邪魔すんじゃねぇぞ」

 嬉しくてうっかり遊んでしまいそうになる私に、怖い顔をして釘を刺してきた祖父の言いつけだったけど、全然懲りていなかった。初めて会ってあいさつした時は緊張こそしたけれど、あちらは沢山の兄弟がいる長男坊。子供の扱いがすごく上手くて、ゲェムも沢山知っていて、何度か祖父の目を盗んで遊んでもらっていた。

 だけど、それがある時を境に一変する。

 学校の遠足から帰って疲れ切った私は、夕飯もそこそこに眠りこけてしまった。喉が渇き水を求めて、階段を降りると、そこにはデスクランプの光を浴びながら、真剣な顔をしている昌お兄ちゃんがいた。何度もペエジが行ったり来たりする分厚い本。静かな中カツカツと響き渡る鉛筆が走る音。いつもニコニコ遊んでくれる笑顔とは別の、その横顔がとても神聖なものに見えた。彼は私と遊んでいないときは、こうやって勉強していたのだ。すごくショックだった。

 そうだ。お兄ちゃんは私と遊ぶためにここにいるのではない。祖父の言っていたのはこういう事だったんだ。
本当は邪魔してごめんなさい、というべきだったのに、私に気付いた昌お兄ちゃんがいつものように破顔したのを見て何も言えなくなってしまった。

 ごめんね。ごめんねお兄ちゃん。邪魔ばかりして。いつもニコニコして、楽しくて、気付かなかったの。

 それからというもの私は昌お兄ちゃんの事を不自然なほど避けるようになってしまった。祖父にもたしなめられたけれど、加減が分からない。でも嫌ったわけではないことを伝えたかった。自分の感情が上手く扱えなくて、それに苛立ってしまったこともあるけれど、それを訂正する術すら私にはなかった。
 だから彼がいないときにこっそりと忍び込んで、気付くかどうかわからないけれど、お兄ちゃんが使っていたノォトの最後のペェジに「お勉強のじゃまをしてごめんなさい。がんばって大学受かってください。応えんしています」とだけ書いた。ずっと頑張っていた昌お兄ちゃんは見事に第一志望の国立大学に合格した。お家の事と大学の手続きなどで忙しくて、私が学校に行っている間に母子で報告に来たそうだ。ちゃぶ台には紙に包まれたお礼の饅頭。それをかじった時、甘いはずなのになぜか涙の味がした。食べ終わってお茶を飲み干すまで、祖父はずっと背中を向けていてくれた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...