高原貸文房具店

竹野内 碧

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シゲさんの困った事情

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「おい、沙奈坊。いい加減時計屋にならねぇか?」

 そういいながら瓶底メガネをかけた初老のシゲさんは、このところまたよく顔を出すようになっていた。

「んー、じぃじに時計にだけは手を出すな、あれは沼だ。嵌ったら抜けらんねぇ沼だって口を酸っぱく言われてたからなぁ」
「くそっ!あのジジィはロクでもない言葉を遺しやがって!」

 実際の所興味がないわけじゃない。というかむしろ楽しそうではある。細かいビスと歯車。それが無数に組み合わさって一つの時刻を示す。ただそれだけの為に淡々と同じリズムを刻みながら仕事をこなす。しかもシゲさんの所にある秘蔵の懐中時計を見せてもらったけれど、その細工は息を飲むほど美しくて、何時間でも眺めていられそうなものだった。でもシゲさんの後を継ぐとなると、ここを閉めないといけない。片手間でやるほど生易しいものじゃない。この町で唯一の時計屋であるシゲさんの店は結構忙しいのだ。

 何よりシゲさんには麻里ちゃん曰く色ボケバカ息子がいる。私の父くらいの年齢の。そして一人に縛られるのが嫌だ、と数々の女性と浮名を流し、祖父も「シゲはいいやつだが、あそこの息子はちょっとなぁ」と眉をひそめていたのを知っている。ちょこっと見かけたことがあるけれど、私には周りの女の子が騒ぐ「ダダ漏れの色気」というのがよく分からなくて、むしろなんだかだらしないようにも思えた。彼を巡ってか女好きが原因でトラブルが絶えないというけれど、どこがそんなにいいんだろうと首を傾げる。私には街中で気軽に声をかけてくるおじさんだ。だけど君子危うきに近寄らず。だから時計に手を出すと…云々は半分方便でもある。

「あのねぇシゲさん、納品書を買いに来たんじゃないの?」
「あ、いけね!かみさんに怒られる!ここで油を売っているのがバレたら殺される!まぁ沙奈ちゃんもちったぁ考えてみてくれよ!」

 恐妻家のシゲさんだけど、本当は凄く奥さんを大事にしているのは商店街の誰もが知っている。すごく美人な奥さんは普段はシゲさんにツンツンしているけど、時折本人のいない所でのろけたりするんだから。悪態はちょっと不器用なシゲさんの気持ちの裏返し。年下の私がいうのもなんだけど、可愛い似たもの夫婦。そんな両親を見て、どうしてあんなに軽い息子が仕上がるんだろう、というのは商店街の密かな七不思議のひとつである。
 シゲさんは買い物をしたものとタイプされた領収書を受け取ると、余計な言葉を残してそのまま小走りで帰っていった。

「時計屋にならないんですか?」

 文房具を見るふりをして盗み聞ぎしていたな。シゲさんからは死角になっていた棚の陰から、ひょいと顔を出した白川さんが、少し意地悪な笑みを浮かべていた。

「時計屋になるっていうことは、シゲさんの娘になるって事ですよ、嫁入りって事です」

 ちらっと一瞥してから、視線を元に戻す。今日は修理の依頼は入っていないから、溜まった伝票整理をしなくちゃいけない。数字関係が苦手な私だけれど、これをちゃんとしておかないと、後で大変だし、税務署の人にも怒られてしまう。伝票をノォトに記載し、確認をする。そして算盤だと計算間違えをするので、計算機のハンドルをガシャガシャ回して小計などを出す。この大きな計算機も祖父がどこからかもらってきたものだ。最近は大きな銀行などでは電卓が導入されてきているが、あれはコンセントの場所に置き場所が影響される。乾電池はまだ高いからもったいない。このタイプライタァの小型版の様な計算機は、そういう心配がないことがありがたい。レバァが堅くなり、ギアが噛んでいたのを、オイルを注入するなどして復活させたのだ。

「嫁は困るなぁ」
「私だって嫌です。見てくれはかっこいいけれど、中身は全然ダメ!」
「おや、沙奈ちゃんはああいう男の顔が好きなんですか?」

 ちょっとだけ剣呑とした空気が漂っていたような気がするけれど、それは一瞬だったので気のせいかもしれない。白川さんとシゲさんの息子は二、三度ここで遭遇している。例によって白川さんがノォトなどを物色していた時に、徹夜で麻雀をしていたという息子さんがシゲさんのお使いでやってきた。
 妙に胸元を開けたシャツがだらしなく、流行を気取って長めに切ったヘアスタイルは、襟足を輪ゴムで止めたくなってしまう。香水とほんのり漂うお酒の匂いのせいで気持ち悪くなり、彼が帰った後はプリプリ怒りながら、可能な限りの窓を開けて空気の入れ替えをした位だ。
 そんな私を見ているくせに、白川さんがこうやって意地悪な質問をしてくる。。

「よくわからないです。顔で付き合いを決めるわけじゃないですから」
「それは素敵だな。いい人がすぐに出来そうだ」
「だれもこんな変な娘なんてもらってくれません!」

 いつの間にかこちらに寄ってきた白川さんはとぼけた顔を見せた。これは絶対に冷やかしているんだ。

「変?そんな事ないですよ」
「いいんですよ。私は麻里ちゃんやしおりちゃん達みたいにおしゃれでもなければ、家事が上手でもない。機械弄りが好きな変人なんです!」

 これは以前ゆうちゃんに言われたことだ。ゆうちゃんは頼れるところもあるけれど、こういう意地悪な事を言って私を揶揄って遊ぶ。一度それを麻里ちゃんに怒られたら、おばさんに怒られるよりも小さくなっていた。だけど私だって自覚はしているんだ。自分にそういう魅力がないってことくらい。

「恋をして可愛くなるのは女の子の特権でしょう」
「そんな可愛さ私にはないんです!」

 今日の白川さんはなんだか意地悪だ。いつもの穏やかな白川さんじゃない感じがする。

「君は自分の魅力に気付いていないですね」
「ひゃっ!」

 拗ねて作業に没頭するふりして下を見ていたから、白川さんがカウンタァ越しに身をかがめ、顔を近づけてきたのに気付かなかった。一瞬だけ彼の吐息がおでこを掠め、心臓が飛び跳ねるかと思った。

「し、白川さん!?」
「ここ」
「へっ?」

 トントンと指で帳面を叩かれた先を見る。

「記載ミス。一段ずつズレてますよ」

 よく見ると上の段と同じ数字を書いている場所がある。こういうことをやらかすから、私は最初鉛筆で描いたのちボォルペンで清書をしていた。
 すぐ傍に感じてしまった白川さんの香りと息遣い。今まで祖父や優ちゃん達には感じなかった感情がせり上がってくる。それが恥ずかしくて、誤魔化すために慌てて消しゴムを掛けたら、こんどは帳面をぐしゃりと折ってしまった。

「ぎゃっ!」
「あーあ、慌てないの。大事な帳簿でしょう。沙奈ちゃんはあわてんぼうだなぁ」

 カウンタァに肘を掛けて涙を堪えるように笑っている。だって仕方ないじゃないか。機械は眺めていたら大体構造が分かるけれど、数字は気付くと私を眠りに誘う悪魔なのだ。それでも祖父が亡くなった後、一人で頑張ってきたのに!
 余りにも笑われているせいで、だんだん恥ずかしさが悔しさへと変化する。下を向いたまま押し黙ってしまった私を見て、白川さんは慌てて帳簿を持ち上げた。

「沙奈ちゃん、良ければ私が帳簿係をやりますよ。銀行で働いていたから、こういう事は得意なんです」

 突然の申し出を訝しんで睨み付ければ、更に白川さんが「悪いことをしようとかそういうんじゃなくて!」と付け加えた。

「私は高原さん…君のおじいさんにとても感謝しているんです。仕方ないこととは言え、本当に困っていた所を助けてもらった。そしてそのおかげで今の私がある。感謝してもしたりないのに、返す相手がいない。ならばその方が大事にされていた人を助けるのは自然の流れでしょう?少しでいいからお手伝いさせてください」
「お手伝いなら…配達…」
「それはだめ」

 間髪入れずに返答されたので驚いたら、ものすごくバツが悪そうに顔を背けていた。

「いえ…力仕事とかなら、いくら非力な私でも沙奈ちゃんよりもなんとかなります。……ただ」
「ただ?」
「………ないのです…」
「え?」

 ごにょごにょとした口調になったから、肝心の部分が聞き取れなかったので聞き返すと、半ばヤケクソになったかのように「免許がないんです!」と叫んだ。白川さんがこんな大きい声を出すのを初めてだった。

「分かってます!昨今免許が男性のステイタスの一つになりつつあるのも!でも必要なかったというかなんというか、なんなら配達を一緒に行ってお手伝いならできますけど、それじゃ意味がないでしょう」

 いつも涼やかな白川さんがメガネがずり落ちそうになるほど慌てふためている。そうか。私は免許を直接試験場で二回受けて合格したけれど、麻里ちゃんたちがそれは異常だと騒いでいた。たしかに女性で免許を持っている人は少ない。というかこの田舎町ではほとんどいない。まぁ農家のおばちゃんなんかは勝手に運転しているけれど。そういったらそういうレベルじゃないと、これまた騒がれた。

 白川さんはなんでもできそうだと思っていたけれど、そんなことはなかったんだ。なんだかほっとしてしまった。

「私、本当に困っていたんです。簡単なはずなのに、税金の計算とか色々とあって…。だから頼ってもいいですか?あまりお礼は出来ないのが辛いんですけど」
「言ったでしょう?これは恩返しの一つだって。お礼もお給料もいらないですよ。なんなら店番も引き受けますよ。今は暇な時期だし。そうすれば沙奈ちゃんも店を閉めずに、安心して配達に行けるでしょう?私に恩返しをする場所を与えてください」

 こんな風にお願いをされて断ることなんてできるだろうか。こくりと頷いて商談成立。契約を作るべきか、と悩んだら、白川さんが笑いながらレポォト用紙に「白川昌一郎は店番と帳簿関係のお手伝いをします。報酬は高原沙奈が煎れるお茶」と書き、そこに促されるように二人で署名をした。白川さんの字はあのノォトと同じ、まっすぐ癖のない綺麗な字だった。それを大事に箱にしまうと、「まるで婚姻届けだね」なんて余計なことを言うから、今度は手元にあったインク壺を倒しそうになってしまった。
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