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リク)侯爵様の手帳
しおりを挟むマシューの過去の女性とのことが読んでみたい、と仰ってくださった方がいましたので、
ご要望に適っているかわかりませんが書かせて頂きました。
ご笑覧ください。
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「これと、これと、これもいいな。教会のバザーに寄贈しておいてくれ」
埃を被っていた本棚から絵本や童話集を選り分け、積み重ねたものを従僕に渡す。
「これは随分傷んでいるな。……修繕は出来そうか、ハワード?」
長年愛用していたランプを手にして、家具の移動を手伝っている家令を呼び止める。
「そうですね。このくらいなら、なんとか」
「じゃあ、頼む。終わったら僕のところに持って来てくれ」
「畏まりました」
今日は朝から、マシューが家督を継ぐまで使っていた部屋の大掃除だ。
置いたままになっていた本や小物などを選別し、家具の傷みを確かめ、寝具を新しいものに変え、新しい住人――六歳になった長男を迎える為の準備を整えるのだ。
カートランド家の慣習で、嫡男の教育は五歳になったら始めることになっている。エリファレットも去年から元家庭教師である母リュネットの指導を受けていたが、下の双子が最も手のかかる時期になってしまったので、専任の家庭教師を雇おう、ということになったのだ。新しく子守りを雇うよりは、家庭教師を招いた方が都合がいいだろう。
そういったわけで、では勉学に集中出来る環境を、と少し早いが子供部屋から独立することになったのだ。
寄宿学校に入る前に粗方整理はしたし、家督を継ぐ前にも度々片付けてはいたのだが、それ以降十五年ほど放ったままになっていた。使用人達がきちんと掃除をしてくれてはいたが、住人不在の部屋というのはやはり傷むものなのだ。
「――…ははっ。懐かしいな。こんなところにあったのか」
「旦那様、思い出に浸るのは結構ですが、選別の手はお止めになられませんように」
「わかっているよ。これは階下の男性諸君で必要ならもらってくれ。さすがに教会への寄付には出来ないからな」
「なんです?」
ぽんと寄越された数冊の本に、ハワードは僅かに眉を寄せる。
「艶本。たぶん今はもう発禁になっているものだ」
「……女性陣に見つからないようにしないといけませんね」
溜め息混じりに零し、他の本を積み上げていた従僕に耳打ちして渡す。彼はニヤッと笑い、マシューへ頭を下げると他の仲間にも耳打ちし、揃って笑い声をあげた。
学生時代はこういったものも先輩経由でいろいろと回って来た。それを回し読みしていたのだが、時折こうして、誰に渡ることなく残ってしまうことがある。あの本もマシューが買ったものではなく、誰かから回って来たものだと思った。
マシューがこういった欲求を書物などで癒す必要は、とうの昔になくなっている。けれど、処分するにも少々やり難さがあるし、まだ六歳の長男の目に触れさせるには憚りがあるものなので、こうして必要としている者のところへ行ってくれるのが一番だ。
「旦那様、本棚の裏から手帳が出て参りました」
絨緞も取り替える予定なので、家具を運び出していた従僕が、埃にまみれた一冊の古びた手帳を持って来た。
受け取りながら、なんだろう、と思わず首を傾げる。表紙に見覚えはあるので、確かに自分の持ち物だったのだろう。
埃を払ってページを捲り、マシューは思わず顔を顰めた。
「旦那様?」
あまり愉快そうではない表情になった主人の様子に、ハワードは首を傾げる。
「……いや、なんでもないよ」
マシューは僅かに表情を歪めながらも平静を装って返事をした。
「あとは任せる。その辺の小物とかはエリファレットに見せて、欲しがるようだったら使わせて。他のものは全部教会と孤児院に」
「畏まりました」
「部屋にいるから、なにかあれば呼んでくれ」
「はい。お茶をご用意致しますか?」
ハワードの問いかけに頷きながら、そそくさといった態で部屋を出て行く。
様子が変だな、と思いはしたが、優秀な家令は主人の事情には深く踏み込まない。階下へお茶の支度を頼んでから、何事もなかったかのように家具移動の作業に戻った。
マシューは自分の部屋に戻ると、埃を被って少し汚れたフロックコートをソファに脱ぎ捨てながら、先程の手帳を改めて開き直す。
「まだこんなものが残っていたとはなぁ……」
どのページにも、女性の名前と日付が書きつけられている。
何月何日に誰と何処へ行ったか、なにを贈ったかなど――マシューが過去に付き合っていた女性達との備忘録のようなものだ。
多少のことはこんなメモ書きをしなくても覚えていられるのだが、深い付き合いをする相手の人数がだんだんと増えていった為、失礼をしないように記録するようになったのだ。これはそのうちの何冊目かの手帳だった。
「レディ・フランセス……あぁ、あの頃か」
確か二十三、四歳の頃に付き合っていた伯爵令嬢だ。ツンとした肉の薄い唇が孤高さを漂わせた女性だった。結婚が決まって最後の火遊びとばかりに、二週間ほどだけ深い仲だったのだ。
あのツンと澄ました唇が時折甘ったるく「カートランド卿」と呼ぶ声が、今も懐かしく思い起こされる。
***
「私ね、結婚が決まりましたの」
キスをねだってきたその唇で、そんなことを言う。
マシューはちょっと双眸を瞠ってから、目の前でにんまりと微笑む唇を指先で撫でた。
「それはおめでとう、レディ・フランセス」
「あら。惜しんではくださいませんの?」
いやに平然とした口調で祝福を述べられたので、フランセスは少しだけ唇を尖らせた。
「惜しんで欲しかったのですか?」
「いやな方ね」
片眉を上げて口許を歪めると、脱ぎ捨ててあったコルセットを拾い上げる。
「お相手はどなたですか?」
慣れた手つきで紐を締める背中に向かって、マシューもシャツを羽織りながら尋ねる。
フランセスは肩越しに振り返り、僅かに苦笑した。
「聞いてもお笑いにならないでくださいましね?」
「僕が女性を嘲笑うような男だとでも?」
それは心外だ、と告げると、彼女は微かに笑った。彼女らしくない、少し寂しげな笑みだった。
「新大陸の方ですの。大きな炭鉱を持っていらっしゃる方でね……」
そこで言葉を僅かに途切れさせる。
本国の人間ではなく、新大陸の者ということは、恐らく爵位は持たない商人なのだろう。そんな男の許へ嫁ぐには、フランセスのプライドは高すぎる。
それでもその縁談を受けたということは、断れない事情があるのだ。
「レディ・フランセス……」
手を伸ばすと、彼女はそっと握り返してきた。
「別に嫌々ではありませんのよ。こんな薹の立った女でも是非にと請うてくださるのですから」
彼女は二十六歳だった。話題も豊富でユーモアのセンスもあり、実に魅力的な女性だったが、二十歳前には嫁ぐ者がほとんどの上流階級に於いて、完全に行き遅れていた。
それもこれも、彼女に淫売という噂が常について回ったことが原因だろう。
もちろん何人もの男が彼女とベッドを共にしたし、マシューもその一人である。けれどそれは、彼女がそれだけ魅力的だったことの証明でもある。
「もうお会いするのは最後ですわ、カートランド卿」
ドレスの背中の釦を留めるのを手伝っていると、微笑んだ彼女はそう言った。
「……いつ発たれるんですか?」
乱れた髪を纏めて櫛を挿す様子を眺めながら、ぽつんと尋ねる。今度は少し明るい声音で「来月の頭には」と短い答えが返った。
もうそんなに日がないではないか、と中旬を過ぎている今の日付を思い浮かべ、少々唖然とした気分になった。
「随分と急な話だ」
「そうでもなくてよ。纏まったのは年末のことでしたし」
今は初夏だ。つい最近までもお気に入りの詩人とは懇意にしていた様子だし、その前も男爵家の子息や陸軍大佐と親しくしていた。
婚約者が決まってからも態度を改めなかったのか、と少々呆れた心地になるが、逆にそれが彼女らしくて、思わず笑ってしまう。
それでもさすがに身辺整理を始めたらしい。今までキスまでしかしたことのなかったマシューと身体の関係にまでなったのは、最後の思い出作りかなにかというところだろうか。
身体の相性は悪くなかった。それ故に、今更ながらに少々惜しさを感じる。
フランセスと知り合ったのは二年以上前のことで、魅力的な彼女に求婚しようと思ったことも何度かあったが、血統主義者の彼女の父はスコットランド人であるマシューを嫌っていたし、そういう話までには至らなかった。
そんなフランセスの父が彼女の結婚相手として選んだのが、イングランド人であっても新大陸に渡った男で、しかも爵位も持たないような人物だということは――醜聞持ちの娘を本国の社交界から追い払うのがそもそもの目的だろうか。そうだったのなら憐れなことだ。
すっかりと身支度を整えたフランセスの前に立ち、マシューは微笑む。
「では、レディ・フランセス。お別れのキスをしても?」
彼女はにっこりと艶やかな笑みを浮かべ、マシューの首筋に両腕を絡めてきた。
重なり合った唇の感触は何度も交わしたものだったが、これで最後なのかと思うと、離れ難さも感じられた。
それでも、どちらからともなく離れ、静かに見つめ合う。
「――…さようなら、カートランド卿」
「さようなら、レディ・フランセス。お幸せに」
彼女とはそれきりだ。
アメリカの社交界の話は零れ聞く程度ではあるが、あれだけ派手だった彼女の噂はほとんど聞こえてこない。恐らく炭鉱王の夫の許で幸せなのだろう。
フランセスと別れたあとに付き合うようになったのは、ボードウィン夫人だ。
数年前に男爵である夫を亡くした彼女は、フランセスとは正反対のぽってりとした厚い唇が印象的な女性で、その左下に描いた黒子が艶っぽさを強調していた。
マシューは特定の『交際相手』を定めると、他の女性とキス以上のことをするのは控えることにしていた。多くの女性達と懇意にして来たが、その線引きだけはきちんとしておくのが筋だと思っていたからだ。
ボードウィン夫人は、そんなマシューが久々に交際相手として選んだ女性だった。
初めの出会いは、彼女の十五歳になる娘を嫁にどうか、という話からだったのだが、夫人の方が熱を上げてしまったというわけだ。女性の年齢など気にしないマシューも、まだ若い彼女の色気に惹かれた面もある。
斯くしてマシューは十歳少々年上の未亡人と深い付き合いを始めたのだが、妹と同い年の彼女の娘は、母親の若い恋人が非常に気に入らなかったらしく、いつ訪ねてもつんけんとしていた。
その態度に、マシューはある少女の面影を重ねていた。
メグの一番の親友である彼女は、身寄りがなく、寄宿学校の長期休暇の際に帰る家がない為、毎回メグに連れられてカートランド家に滞在している。マシューもそれを歓迎していたが、初対面でマシューに暴言を吐いた彼女は恐縮している様子で、感謝と礼の言葉を述べつつもいつも気不味そうにしているのが可愛らしい。
数日前に夏の長期休暇に入った妹達は、初日から湖水地方に在る別荘に行っている。昨日、メグから近況を伝える手紙が届いていたので、そろそろマシューもそちらに顔を出そうと考えていたところだ。
従者のバーネットに荷造りをしておくように伝え、ボードウィン夫人の屋敷へと向かう。
数日前にくだらないことで口論になって以来、夜会で顔を合わせてもあからさまな無視を決め込んでいたというのに、今朝になって『謝罪をしたいから来て欲しい』となんともしおらしいメッセージが届いたのだ。これを無碍にするほどには狭量ではない。
言われた通りに屋敷へと行けば、玄関先で出くわした件の娘は相変わらずつんけんしていた。
「もういらっしゃらなくてもよろしかったですのに」
この数日、姿の見えなかった毛嫌いしているマシューに対して、珍しく挨拶してきたと思ったら、そんな生意気を言ってくる。
「あなたが僕をよく思っていないのは存じ上げていますが、敬愛するお母上に呼び出されたので、下僕はこうして参上したわけです」
「下僕だなんて……! あなたの方が主人なのではないですか?」
「まさか。僕はあなたのお母上に魅了された憐れな男ですよ」
マシューが笑うと、娘は苛立った顔をした。
「あのお母様が、そんなに魅力的だとは思えないもの」
そう吐き捨てるように告げると、ツンと顔を逸らして日傘を掴むと出て行った。
あの年頃の女の子は難しいな、と思いながら、夫人の待つ私室へと通される。
「お座りになって」
やって来たマシューに向かい、ボードウィン夫人は女主人然とした態度で椅子を勧める。
その態度に、おや、とマシューは内心で首を傾げる。謝罪をしたいと言って呼び出したわりには、少々態度が上からだ。衣服もデイドレスでないどころか、ガウンを羽織って寝起きのような姿だった。
「……随分と、お早いお出ましでしたこと」
チクリと棘を含んだ声音で呟き、横目で視線を投げて来る。
メッセージを受け取ったのは十一時過ぎのことで、今はあと少しで十六時になるところ。急な呼び出しであったのだし、失礼には値しない時間帯だと思うのだが。
それでも気に入らないのならば仕方がない、とマシューは微笑んだ。
「申し訳ありません、美しいグレース。久々に愛しいあなたからお声かけ頂いて、嬉しさに舞い上がってしまったのではありますが、失礼があってはいけないと身支度に時間がかかってしまったのです」
そう流暢に答えるマシューは、いつでも身嗜みに気を抜いたことはない。
ふん、とボードウィン夫人は鼻を鳴らし、立ち上がった。
「そんな言葉、あたくしが信じると思いまして?」
綺麗に整えられた爪の光る指先が、マシューの顎先に触れ、クイッと上向かせる。
「つれない方ね。普通は、男性の方から許しを請うべきではなくて?」
囁きながら唇を重ねてくる。マシューは拒まなかったが、ほんの僅かに苛立ちも感じた。
つまりは、マシューの方から謝罪するべきだったのだ、と彼女は言う。
口論のくだらない原因にマシューの非はもちろんなかったが、自尊心の高い女性相手ならいくらでもこちらが折れてやる。しかし、彼女はマシューを一切寄せつけようとしなかった。そんな相手に不様に縋りつくほどには、マシューもプライドが低くはない。
「……それは、申し訳ありませんでした。あなたは時間を置いて欲しそうに見えたので、しばらく様子を見ようと思ったのです」
一応の謝意を見せると、ボードウィン夫人は満足気に唇を笑ませた。
「しようのない方ね。許して差し上げるわ、今回は」
そう言って、再び唇を重ねてくる。肉厚の彼女の唇は吸いつくように密着するので、それが心地よい。
熱く舌を絡ませながら、夫人はその肉惑的な肢体をくねらせ、ガウンの腰帯を解いて脱ぎ落す。彼女はこの時間帯には不似合いな、肌が透けるほどの薄絹のナイトドレスを纏っていた。
(参ったな……)
何度も唇を重ねながら、彼女の手はマシューのフロックコートを脱がしにかかる。なにを求められているのかは容易に知れた。
しかし、今夜はカトレアの晩餐に招かれているのだ。明日にはメグ達のところに発とうと思っていたので旅支度の確認もあるし、いろいろと時間がない。
女性と肌を重ねることは好きだ。彼女達のやわらかな肌に触れ、その温もりに包まれると安心する。だからこそ、こういう時間のないときに性急に事に及ぶのは、欲求を満たそうとしているだけのような気がして、あまり好まないのだ。
「グレース……すみません。今日はそういうつもりではなかったのです」
やわらかな曲線の肩を掴んでそっと押し戻しながら、素直に心情を述べて謝罪する。
気分が乗らないときにおざなりに愛したくはない、と申し訳なさそうに告げると、それは逆に機嫌を刺激してしまったらしく、彼女はムッとしたように表情を歪めた。
彼女はマシューの足許に腰を下ろすと、トラウザーズに手をかける。
「グレース……」
その様子に僅かに呆れながらも、強い拒絶はしない。女性がこんなことをするなど余程のことだろう。その心を否定したりはしたくない。
しかし困ったものだ。どうやってやめさせよう――と、襟を寛げて曝け出した豊満な乳房にマシューのものを挟み込む恋人の姿を見て、なんとも言えない心地になる。
そもそも彼女はこんなことをするような女性だっただろうか。
年上の所為か、ベッドの中で主導権を握りたがる気来はあった。それでも、もう少し慎み深さがあったというか、こういうことを積極的にするような女性ではなかった筈だ。乳房で揉み擦りながら先端を口に含み、舌先で愛撫している様子に、僅かな違和感を覚える。
この数日の間にいったいなにがあったのだろう、と内心で首を傾げていると、ボードウィン夫人は上目遣いにこちらを見上げて来た。
「どうしたのですか、グレース。あなたらしくもない」
舐っている様子を見せつけるように大胆な舌遣いをする彼女に、マシューは尋ねる。
うふっ、と彼女は笑った。
「だって男性は、こういうのがお好きでしょう?」
そう囁く言葉が勝ち誇ったかのような響きを含んでいて、逆に背筋がゾワリとする。
マシューは思わず手を伸ばし、彼女の額を押さえつけて乱暴に引き剥がした。
「な、なに……? どうしたの?」
唾液に塗れててらりと光る唇が、驚いたように戦慄く。
男性はこういうことが好き――確かにそうかも知れない。マシュー自身、こういうことは嫌いではない。
しかし、以前の彼女がこんなことをしたことはない。交際を始め、肌を重ねるようになってふた月程にはなるが、今まで一度としてなかった。
「ねえ、グレース」
マシューは溜め息を零しながら、ボードウィン夫人の顎に手をかける。
「貴方の魅惑的なこの唇に、こんなことを教え込んだのは、いったい誰なんです?」
この問いかけに、ボードウィン夫人は双眸を大きく瞠った。
「亡くなったご夫君? 違いますよね。彼はそういう風な人ではなかった」
数年前に亡くなったボードウィン男爵は、とても穏やかな好人物だった。その彼が女性にこのような奉仕的なことをさせるとは考えにくい。つまり、彼女にこんなことを教えたのは亡くなった夫ではない可能性が高い。
しかし、この慣れた様子から、実際に体得したものと考えられるわけだが、今まで三日と空けずに肌を重ねてきたマシューに対して一度としてしたことがないのだから、付き合う以前のことだという可能性は低いのではなかろうか。
結論として、彼女は極最近、マシュー以外の男性にこういう性技を教わった――つまり、ベッドを共にした可能性がある。
そのことに気づいたマシューは、己の中にあった彼女への愛情が、急激に醒めていくのを感じた。
「僕はあなたとこういう関係になるときに言いましたよね? あなたのベッドに招くのは僕だけにして欲しいと。僕以外の男のベッドに招かれるのも遠慮して欲しいと」
元々多情な女性ではなかったので、そういうことを危惧してはいなかったのだが、どうやら違ったらしい。残念なことだ。
「僕自身、潔白な身の上ではないから、あなたの過去の男のことなどは気にしませんし、何人いたとしても構わなかったんです。同時に身体の関係を持っていなければ」
両の手では足りないほどの女性と懇意にして来たマシューにとって、二人以上の女性と同時に交際しないことは、約束出来る精一杯の誠意のつもりだった。だからそれを相手の女性にも求める。他に関係を結びたい存在が現れたなら別れることを条件とすることで、お互いに嫌な気分にはならない誠実な交際をしているつもりだった。
彼女もそれに同意して交際を始めたと思っていたのだが、違ったようだ。
「待って、マシュー!」
別れの言葉すらも告げず、マシューは夫人の声を背に受けながら部屋を出た。
「だから言ったじゃない」
足早に屋敷を出て馬車に乗り込もうとしていると、声をかけられた。マシューを毛嫌いしているボードウィン男爵令嬢だ。
「あのお母様に、あなたを跪かせるほどの魅力はない、って」
くるり日傘を回してこちらへ向けた表情は、怒りと呆れと憐憫が綯い交ぜになった複雑なものだった。
「ご自分が女性にとても人気があるってご存知ですか、カートランド侯爵?」
馬車に乗り込むのをやめて向き直ったマシューに、少女は問いかける。
「古いお家柄で、多くの領地と資産をお持ちになっていて、交友範囲も広くて人柄は悪くなく、若くてハンサム。しかもまだ独身――適齢期の女性達は、誰もがあなたとお近づきになりたいと思っている。年頃の娘を持つ親御さんもね」
「なにを仰りたいのかな?」
一応褒められているのだが、あまり喜ばしい口振りではない。思わず苦笑すると、母親似のぽってりとした唇がへの字に曲がる。
「お母様はね、小さな男爵家の五人姉妹の末娘で、たいした教養もなく、愛嬌のよさくらいしか取り柄のなかった人なの。そんな人が、なんの間違いがあったのか知らないけれど、女性達の憧れの男性の心を射止めたのよ? そりゃあ有頂天にもなるわよね」
その言い様にマシューは呆れた。
「きみは、お母上のことが嫌いなのかい?」
「お父様が生きていた頃のお母様は大好きだったわ。最近のお母様は、大嫌い!」
瞳を潤ませた少女は力いっぱいに叫ぶ。
結局彼女がなにを言いたかったかというと、マシューと恋仲になった母親が、自分には社交界きっての色男を虜にするほどの魅力があるのだと勘違いして、いろんな男性に愁派を送るようになったのが恥ずかしくて情けなくて、本当に嫌だったのだという。
カートランド侯爵の恋人ということで、友好的な関係を築きたかったまわりの人達もちやほやするわけだ。それでますます有頂天になった。そんな母親の愚かさが堪らなく嫌だったのだ。
「あなたがお母様を捨てれば、いい笑い者になるわ。自業自得だけれどね」
ちょっと煽てれば簡単に股を開く女――そんな不名誉な噂までされ始めていることを、母はまだ知らない。けれど、娘である自分の耳には入っている。家督を継いだ叔父の耳にもそろそろ入る頃だろう。そうなれば、家名を守る為、この屋敷を追い出されるのはわかりきったことだ。
「自分で蒔いた種だけれど、本当に馬鹿な事態になったものだわ。こんなことじゃ、私の縁談もどうなることやら……」
醜聞持ちの母を持つ娘を欲しがる者などいないに決まっている。
身の丈に合ったことをしていればよかったのだ。欲を出すからこういうことになる、と少女はその年齢に不似合いな達観した意見を呟き、生活に疲れた中年のような重々しい溜め息を零した。
「さようなら、カートランド侯爵。お呼び止めしてごめんなさい」
あまり気持ちのこもらない別れの言葉を口にすると、小花柄のスカートを翻し、少女は屋敷の敷地から出て行った。その後ろ姿を見送っていると、門の向こうで同じ年頃の少年が手を振っていたので、彼と出かけて行くのだろう。
母親の所為で良縁が期待出来ないと諦観している彼女は、もしかすると、既に今後を見据えて生き始めているのかも知れなかった。
女性は強かだ――そう感じながら、待たせていた馬車に乗り込む。
それ以来マシューは、特定の『恋人』を作ることはやめた。
温もりが欲しいだけならそういう店に行けばいいし、懇意にしている女性達の中には火遊びを楽しみたい人も何人かいたので、そういう人のベッドに潜り込めばいい。性欲と一瞬の慰めを求めるだけなら、不自由はしない身分だったのは幸いとするべきか。
それ故に、次に『恋人』と呼ぶべき存在を作るときは、結婚を視野に入れてのときだけにしよう、と思ったのだ。
***
「なにを読んでいらっしゃるの?」
「うわっ!」
突然かけられた声に、思わず大きな声を出す。
椅子から飛び上がって振り返ると、双眸を大きく瞠ったリュネットが立っていた。
「リュヌ? いつからそこに?」
「ついさっきです。お茶を持って来たから声をかけたのに、返事もしないんだもの」
そんなに驚くと思わなかったわ、と呟きながら、カップにお茶を注ぎ淹れる。
「随分と熱心に読んでいらしたのね。なんのご本?」
何度も呼んだのに気づきもしないくらいに集中していたのだから、余程面白い本なのだろう、とリュネットが尋ねると、マシューは苦笑して肩を竦め、持っていた手帳を暖炉に放り込んだ。
「なんでもないよ。ちょっとした日記みたいなものだったのだけれど、恥ずかしくてね」
「だからって、燃すことないじゃないですか」
呆れて溜め息を零しながら、カップを渡す。
「初めから燃すつもりだったんだよ」
「日記なんて、思い出として取っておけるのに」
両親との思い出の品がほとんど手許にないリュネットは、思い出を捨てるようなことが悲しく感じるのだ。燃えて爆ぜている手帳だったものを見つめ、溜め息を零した。
物言いたげな視線を暖炉に送っている妻の横顔を見て、マシューは苦笑する。
「恥ずかしいものだって言っただろう?」
「あなたにも恥じ入る過去があったのですか?」
「当たり前じゃないか」
その答えは意外なものだ。マシューはいつでも自信たっぷりで、過去への羞恥や悔恨など持ち合わせていないような気がしていたのに。
ふうん、と頷くリュネットの手を取り、引き寄せて膝の上に抱える。リュネットはちょっと驚いたようだったが、怪訝そうに「なんですか?」と尋ねるだけだ。
「例えば……きみに初潮がきたときのこととか」
「な……っ!?」
「もっとスマートに対応してあげられれば、きみに恥ずかしい思いをさせなくて済んだかなぁ、とか」
思い返せば、幼かった妻の髪をマシューが初めて結ったのも、彼女の身体に大きな変化が訪れたのも、あの湖水地方に所有していた別荘でのことだった。熱心に欲しがる人がいたので、何年も前に売ってしまったのだが、少し勿体ないことをしたかも知れない。
あの夏のことを思い出して小さく笑うと、真っ赤になった妻は、肩のあたりを拳で殴りつけてきた。もちろんたいして痛くはない。
「ごめん」
素直に謝るが、リュネットは真っ赤になった顔を背け、膝の上から立ち上がろうとする。それをしっかりと押さえ込んで引き寄せ、逃げられないようにする。
「……っん、もう!」
「ごめんって。馬鹿なことを言ったのはわかっているから、怒らないでよ」
ぎゅっと押さえ込まれるので、リュネットはそれ以上抵抗出来なかった。
腹が立っているのに、なにか思うところがあって本気で怒れないでいるとき、唇を尖らせて真っ赤な顔でそっぽを向く様子は、昔から変わらない。三人の子供の母親になった今でも、マシューを苦手にしていた少女の頃の面影を残している。
そんな様子が愛しくて堪らなくて、その尖った唇の先に口づける。
「――…っ、あなた!」
「だってキスして欲しそうに尖らせているから」
「そんなわけないじゃないですか!」
怒って苦情を述べる唇を塞ぎ、そのまま黙らせる。数えきれないほどのキスをしてきたというのに、リュネットの応じ方は未だに何処か拙く、それがマシューにいつまでも彼女に恋をした頃の自分を思い起こさせる。
「リュヌ、ベッドに行こう?」
キスの合い間に襟許を寛げてやりながら囁きかける。驚いたリュネットは目を見開き、眉根を寄せてキッと睨みつけてきた。
「今が何時だと思っているのですか。まだ十五時ですよ」
「でも、きみを愛したい」
「だからって……っ。すぐに子供達も昼寝から起きてしまうし」
「まだ時間はるだろう?」
笑いながら囁き、スカートの裾に手を差し入れると、すぐにドロワーズの隙間からリュネットの肌を探り当てる。先程のキスに反応していたのか、そこは僅かに潤んでいた。
「大丈夫。呼ばれてもすぐに出て行けるように、服は脱がさないから」
何度も抱いたので、リュネットのいいところはすべて知っている。指先でそこを擽れば、抵抗していた筈の妻は甘い吐息を漏らす。
「リュヌ。愛しい僕のお月様――きみだけだ。僕を満たしてくれるのは」
マシューが拓かせた媚肉の合い間に自身を滑り込ませ、耳許で甘く囁くと、唇を噛み締めて声を堪えていたリュネットは、僅かに睨むような目つきを投げかけてくる。彼女のこういう挑発的な視線はいい。もっと虐めてやりたくなる。
「……マシュー」
ゆるゆると腰を動かしていると、リュネットが吐息交じりに囁きかける。
「こんなところでは、嫌……ベッドに行って……」
真っ赤になった顔を首筋に擦りつけ、両腕で縋りついてくる。
「畏まりました、奥様――愛しい人」
そう頷いて笑い、マシューは最愛の妻を抱えて立ち上がった。
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