侯爵様と家庭教師

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14 強欲紳士、襲来

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 興奮している所為か、その夜はなかなか寝つけなかった。
 明け方頃にようやく眠りに就き、それからいくらもしないうちに人の気配で目を覚ますと、マシューがベッドに腰掛けていた。

「ジョセフ・スターウェルから手紙が来たよ。今夜こちらに来るそうだ」

 寝惚け眼のリュネットの額に口づけると、早朝にも拘らず持ち込まれた手紙を見せながらその内容を伝える。その言葉にリュネットは目を覚ました。

「今夜?」

 朝から乗り込んで来るかもと思っていたが、意外にも遅い時間帯を示してくる。
 領地にいる父親に連絡を取っているのだろう、とマシューは言った。

「きみはどうしたい? 午前中の列車で戻るつもりだったのだから、その通りにしてもいい。無理に会う必要はない。でも、彼等に会うなら僕も付き合うけど」

「いいえ、ひとりで……」

「大丈夫なわけないだろう? きみはそこまで愚かではないと思っていたけど、違うのかな」

 ムッとしたようにそう言ってリュネットの腕を掴むと、寝間着の袖を捲り上げる。細い腕には薄っすらと痣のようなものが出来ていた。ジョセフに掴まれた手の痕だ。皮膚が弱いのか、小さい頃から痣が消えにくい体質なので、こういう痕は必ず四、五日は残ってしまう。
 リュネットは黙ってその腕を引っ込めて袖を戻すと、静かに俯いた。

 昨夜は突然のことに驚いていたとはいえ、あまりにもなにも出来なかった。ジョセフになにを言われても、なにをされても、ただひたすら震えることしか出来ない無力さだった。そんな自分を情けないとしか思えない。
 マシューが連れ出してくれなければ、いったいどうなっていたことか――と考えたところで、昨夜のことがまざまざと思い出される。
 急に恥ずかしくなり、上掛けを持ち上げて顔を埋める。その様子にマシューが怪訝そうな顔をした。

「リュネット?」

 具合でも悪いのかと心配するが、リュネットの耳が真っ赤になっているのが見えて、なんとなく彼女の心中を察する。

「あのっ」

 顔を埋めたままリュネットは声を絞り出す。

「その……昨夜のこと、なのですけど」

「うん?」

 マシューは頷きながら、リュネットの背中に広がっている髪を一房掬い上げ、指先に絡めて遊び始める。滑らかで癖のない髪は触っていると気持ちがいい。

「どうか、その……わ、忘れて、ください……!」

 自分が昨夜なにをしでかしたのか思い返すだけで、顔から火を噴くほどに恥ずかしい。あの場にいた全員に口止めをすることなど無理なのはわかっているので、せめてその相手であるマシューだけでも忘れてくれないだろうか。
 髪を弄んでいたマシューの手がリュネットの頬に伸びて来て、上掛けに埋まっている真っ赤な顔を上げさせる。

「忘れるって、なにを?」

「え……」

 そんな訊かれ方をするとは思わなかった。僅かに驚いてマシューを見つめ返すと、彼は意地の悪い笑みを浮かべる。

「きみの唇の感触? きみが僕の腕の中で零した愛らしい声? それとも、今も見せてくれている、熟れた林檎のような可愛い顔のこと?」

 はっきりと言葉にされると、自分はなんと恥ずかしいことをしてしまったのだろうか、と改めて思い知らされる。リュネットは更に頬が熱くなった。
 馬車の中で押し倒したとき、リュネットはされるがままになりつつも微かに抵抗した。唇へのキスに不慣れな彼女は呼吸の仕方も不器用で、苦しげに喘いでは再びマシューに唇を塞がれるので、僅かな隙に「駄目ノー」と瞳を潤ませながら囁いた。その様があまりにも可愛らしくて、マシューは屋敷に着くまでの間、ずっとリュネットを離せずにいたくらいだ。お陰で彼女は酸欠に陥ってほとんど気を失いかけていて、降りるときも結局マシューに抱えられたままだった。

 あの声がもう一度聞きたい――マシューはリュネットの頬に触れていた手を首筋の方へ滑らせ、彼女が動揺している隙に引き寄せる。

「まあ、旦那様! 未婚の、それもお預かりしている他所のお嬢様の寝室に入られるなんて、無礼もいいところですよ!」

 今まさにマシューがキスをしようとしているとき、ノックの音と共に入って来た年嵩のメイドが室内に主人がいることに気づき、咎めるように声を上げた。

「さあさあ! 紳士らしく出て行かれませ。お嬢様のお支度の邪魔ですよ」

「ポリーには敵わないなぁ」

 追い立てられて仕方なく立ち上がり、真っ赤になったまま硬直しているリュネットの髪の一房に口づけると、微笑みを残して立ち去った。

「なんなんでしょうね、まったく……。驚かれましたよね、お嬢様」

 ぷりぷりと怒りながら、ポリーはリュネットを気遣う。
 その言葉に同意しながら激しく鼓動を打つ胸許に触れ、それを自覚するととても苦しくなった。苦しくて、切ない気持ちだ。
 今は昨夜のようなことは必要ない。つまり、この場面は毅然と拒絶するべきだったのだ。

(私、昨夜からおかしいわ……)

 以前はあれだけマシューに触れられるのも嫌だったのに、恥ずかしくて胸がドキドキはするが、今はそれほど不快に感じてはいない。変な感じだ。
 ジョセフとの緊迫した場面を助けてもらったので、感謝の気持ちから警戒が緩んでしまったのだろうか。

(助けてくれたことは感謝してるけど……でも、あんなことしなくてもよかったじゃない)

 あんなに人のいる場所でキスをしたのも、いやらしい手つきで抱き上げられたのも、なかなかに許し難い。ジョセフが屈辱的な表情をしていたので、効果はそれなりにあったのだろうが、それでもまだ納得は出来ない。

「あら」

 着替えを手伝ってくれていたポリーがふっと声を上げる。
 どうかしたのか、と不思議に思っていると、彼女は鏡台から白粉の入ったケースを持って来て、リュネットの耳朶の少し下のあたりに叩いた。

「どうしてそんなところに?」

 夜会に出るのでなければ化粧など必要もないし、そんなところだけに白粉をつけるのもおかしい。訝しんで尋ねるが、彼女は笑って誤魔化し、そそくさと退室して行った。




 夕方になると、侯爵家の顧問弁護士であるマクガイヤという男がやって来た。

「こちらの書面にサインをお願い致します」

 書斎に呼ばれたリュネットは、マクガイヤから一枚の書類を差し出された。

「――…このことは、以前にもお断りした筈なのですが」

 文面をざっと読むと、マシューがリュネットの後見人になることの同意書のようだ。
 リュネットはもう十八だし、一応ひとりで生活していた。後見人などは特に必要ではないと思う。
 その言い分はわかる、とマシューは頷いた。

「きみは自立した女性だとは思う。けれど、年若い女性がひとりで生きて行くには、世間はなかなかに厳しいものだということも知っているだろう?」

 反論の言葉はない。女性は結婚するまでは父親の庇護下に育ち、結婚したら夫の庇護下に入って生活する。それが世の中の普通だ。

「これがあることに因って、あなたには大きなメリットがあります。スターウェル家からの干渉を撥ね退けられるということです」

 マクガイヤは渋るリュネットに向かって丁寧に説明する。
 ドナルド・スターウェルはリュネットの親戚ではあるが、何年も前に養育を放棄している。その点を鑑みても、今までの実績がある後見人の方がリュネットに対する影響力は強くなる。つまり、ドナルド達がなにを言って来ても、後見人であるマシューの発言権の方が強くなるのだ。
 しかし、それは同時に、マシューがリュネットの人生に干渉してくることにもなる。それがリュネットには気にかかるのだ。

「僕はきみの生き方に口を挟むつもりはないよ。きみは頑固だし、言っても聞かないのはわかっているからね」

 こういうときのリュネットは考えていることがすべて表情に現れていて、心の内が手に取るようにわかる。だからそれを安心させる為の言葉を選ぶと、彼女はまだ不満そうながらも、それを信じたようだ。

「今夜のことの為にも必要な書類なんだ。昨日のことで、幸か不幸か、僕ときみは恋人同士ということを周知させたわけだけど、それは親類間の問題に口を挟めるほどの関係ではない。だから後見人という立場が必要なんだ」

 マシューの説明を聞きながら、リュネットは長く不思議に感じていた疑問を口にする。

「あの……以前からお訊きしたかったのですけれど、侯爵はどうして、私にそんなにもよくしてくださるのですか?」

 元々リュネットの実家とカートランド家とは親交がまったくない。今でも関係が希薄なので、その程度の間柄ということは、後見人を頼むほど親しくはないということだ。
 それなのに、マシューは困っているリュネットに何度となく救いの手を差し伸べてくれている。それを片っ端から突っ撥ねているからこそ、リュネットはますます不思議でならなかった。
 妹の親友だからといっても、そこまで親切にする必要はない。リュネットは孤児のようなものだし、親交を続けることに因って家が絡むこともないので、個人の付き合いだとしておけばいいものだと思う。

「なんと言えば、きみは納得するかな……」

 リュネットの問いかけに、マシューは珍しく困ったような顔を見せた。

「きみのことが気になったのは、初めて会ったときだと思う。小さな女の子が顔を真っ赤にして、大きな潤んだ瞳で睨みつけて来たんだから、印象にも残るよね」

 父親を亡くして悲しみに沈んでいたメグを、知り合いのいない寄宿学校などに放り込んだマシューを『なんと酷い兄だ』と非難したときのことを言っているのだろう。そのときのことを思い返し、生意気な小娘だったな、とリュネットは幼い自分のことを恥じ入る。マシューにも事情があったのだろうということは、大人になってきてなんとなくわかるようになってきたのだ。

「それからメグにきみの身の上を聞いて、可哀想な女の子だと思った。メグの恩人であるその子が困ったときは、出来る限りで力になってやろう、と思ったんだ」

 リュネットは双眸を見開く。

「恩人って……なんのことですか?」

 まったく心当たりがない。寧ろ助けられてばかりいたのは自分の方で、メグこそリュネットにとっては大恩人だった。

「わからないのならいいよ。ただ、僕達はきみのことをそう思っているって話だ」

 マシューの微笑みには歪なところがなく、彼が本当にそう思っているのだろうと思わせた。ますますわけがわからない。
 困惑するリュネットに、マシューは苦笑する。

「じゃあ、そうだな――貴族の義務ノブレス・オブリージュ、とでも言っておこうか。持たざる者を守るのも、貴族の果たすべき責任だ。家族のない若く力ない女性であるきみを、ある程度の権力と財力を持った貴族である僕が守る。貴族が弱者を守るのは当然であり、弱者がそれを甘受するのも当然である。違う?」

 そう言われても、リュネットにはまだ納得しきれない。
 そんな彼女に、マクガイヤが「どうかご署名を」と申し訳なさそうに告げて来る。納得しきれる説明ではなかったが、このあたりで妥協して欲しい、と言われ、少し不満を抱きつつも書類を手にした。
 確かにこれ以上ごねるのは、マシューの親切に対してあまりにも失礼だ。そのあたりのことはよくわかっているし、それを聞き入れられないのは自分の小さな矜持に因るものなのだから、リュネットは黙ってペンを手に取った。

「借りが出来るとか思っているのなら、ちょっとかなり早いけど、退職手当だと思ってくれればいいよ。お金ではなくて現物支給になるけど」

 ちょっとおどけたようにそんなことを言うので、呆れて思わず溜め息が零れた。
 署名を終えてマクガイヤが正式なものとして手続きを踏むと約束していると、階下から大きな声が響いて来た。その声にリュネットはハッとして青褪める。

「来たな」

 マシューは口許を僅かに笑ませるが、目がまったく笑っていない。恐ろしいくらいに怜悧な瞳で扉を見つめると、すぐにいつもの表情を取り戻してリュネットを振り返る。

「僕が先に行く。きみはマクガイヤ先生と少し間を置いて降りておいで」

 弁護士と目配せすると、マシューはそのまま書斎を出て行った。
 足音が遠のいてから書斎のドアを開けると、階下から「リュネットを何処に隠した!」という怒鳴り声が響いて来た。

「行きましょう」

 幼い頃に悲しい記憶と共に染みついた怒鳴り声を思い出し、凍りついたようにその場で足が竦んでいるリュネットの肩をそっと押し、マクガイヤが階下へと促す。リュネットは躊躇いながらも頷き、震える足を踏み出した。

「大声を出さないでください。聞こえていますよ」

 マシューは呆れたように目の前の招かれざる客に告げた。
 ドナルドは厳つい髭面を真っ赤にしながら、コートを受け取ろうと出て来た従僕を振り払う。

「いいからあの娘を出せ! 貴様が拐したらしいな!」

「人聞きの悪いことを……。レディ・リュネットは何年も前から妹の友人で、我が家の客人としてよく顔を出していましたよ」

 そんなことも知らないのか、と言いたげに鼻で笑うと、ドナルドはますます顔を赤くした。

「サンダース、お客人はどうせすぐに帰られる。お茶の支度はいらない」

 招かれざる客だが、礼儀を通して応接間に通そうと動いていた執事を呼び止め、支度を止めさせると、マシューはドナルドとジョセフを玄関ホールに立たせたままにする。歓迎するつもりはないし、長居させるつもりも一切ない。
 遥かに年下の青年侯爵から齎された侮辱的な扱いに、親子は揃って憤慨の表情を見せる。だが、長居をするつもりがないのも事実なので、そのことに関してはそれ以上文句を言わず、本題へと入る。

「リュネットを出せ。隠し立てするなら警察ヤードに訴えるぞ」

「ご自由に。僕はなにも疾しいことなどしていませんし、逆にあなた方の方が困るお立場なのではありませんか?」

「なんだと!?」

 そんな言い合いをしているところに降りて行くと、その姿に気づいたジョセフが父親の袖を引いた。

「父さん、リュネットだ」

 息子からの言葉にドナルドも顔を上げ、階段の途中にいたリュネットに目を向ける。その表情が僅かに驚愕に染まったのが見えて、リュネットは思わず身を竦める。

「リュネット? あの娘がか?」

 七年も会っていなかったので顔を覚えていなかったのだろう。自分の記憶の中にある娘のものと一致させようとしているのか、上から下まで何度も視線を往復させている様子がなんとも間の抜けている。そんなドナルドの滑稽な様子にマシューは心底呆れた。
 彼等はリュネットのことなど本当にどうでもよかったのだ。財産を取り上げてしまえば用はなかったし、最後の情けなのか、世間体だったのか、十八まで在学させてくれるという寄宿学校へ学費と寄付金を渡し、あとはもう関わり合うつもりは一寸たりともなかったのだろう。

 マシューはリュネットとマクガイヤを招き寄せる。

「彼女がレディ・リュネット・アメリア・スターウェルですよ。あなたの従兄弟姪でしょうに、おわかりにはならなかったのですか?」

 図星を突かれたドナルドは口許を歪めたが、事実なので反論は出来ない。マシューを鋭く睨みつけるので精一杯だったようだが、マシューはその視線を鼻で笑って躱す。
 ジョセフは昨夜の出来事が尾を引いているのか、リュネットの隣に立つマシューに腹立たしげな目を向けていた。

「リュネット、こちらに来い。わたしがお前の保護者なのだから、目上の命令には従うものだ」

 年下の若造にこれ以上見下されることには耐えられなかったのか、ドナルドは大股に歩み寄ってリュネットの腕を掴もうとした――が、それは難なくマシューに遮られる。

「気安く触れないで頂きたい。彼女はあなた方のものではない」

「なんだと!?」

 怒りの為に歯を剥き出すドナルドに向かい、マクガイヤが先程の書面を見せた。

「レディ・リュネットの後見人はこちらのカートランド侯爵です。あなた方には彼女に対してなにかを強制する権利はありません」

 ドナルドはその書面を受け取り、文面を追う。ジョセフも後ろから覗き込んで眉間に皺を寄せ、唇を戦慄かせた。

「こんなもの……!」

 ドナルドの大きな手が怒り任せに書面を真っ二つに引き裂くと、それをぐしゃぐしゃと丸め、力いっぱい床へ叩きつけて踏みつける。その一連の動作をマシューは無表情で眺め、呆れたように深く嘆息した。

「そうやって七年前も、先代ノースフィールド伯爵の遺言書を破り捨てたんですか?」

 その言葉にドナルドの表情がどす黒く染まる。

「若造……口を慎めよ!」

「大きい声を出さないでください。それに、口を慎まれるのはあなたの方だ」

 マシューは鋭い目つきで騒ぎ立てる親子を睥睨した。

「なにを勘違いなさっているのか知りませんが、僕はカートランドですよ、ノースフィールド?」

 階級社会である社交界に於いて、位階は重要なものだ。それを覆すことは出来ない。
 本来なら首を垂れるべき立場であることを強調され、ドナルドはますます憤慨した。まったく舐められたものだ、と怒りも顕わな様子をその表情が物語っている。

「……遺言書を破いたなどと、誤解もいいところだ」

 ドナルドは絞り出すように訂正を入れる。そのような事実はないと答えるが、マシューの使う探偵が調べたところによると、すべてがそうでないことはわかっている。特に妻子の後見についてはほとんど反故にしたようなものではないか。
 マシューが近づいて来た足音に気づいて背後を見ると、丁度バーネットが報告書の入った封筒を抱えてやって来たところだった。信頼のおける従者は、気を利かせて書斎からそれを持って来てくれたらしい。
 礼を言って受け取り、それをドナルドに差し出す。

「どうぞ、サー・ドナルド・スターウェル。これは写しですので差し上げます」

「……なんだ?」

「ご自分の目でお確かめになられては?」

 睨みつけながら受け取り、中身を改める。ざっと目を通して顔色を変えたのは言うまでもない。

「僕はレディ・リュネットの後見人として、その程度の情報は把握しています。しかし、彼女とご子息が結婚することになっているという情報は、一切出て来ませんでした。あなた方が吹聴した話以外ではね」

 この一ヶ月の間に探偵は更に調べを進めてくれ、彼等が理由にしているリュネット本人にしか相続が出来なくなっている遺産というのが、彼女の亡き母の持参金のうちのひとつである不動産であり、それはリュネットが嫁入りするときの持参金として使うようにというものだということまではしっかりと確証を持ってわかっている。伯爵家の顧問弁護士を務める人物にも会って確認した。
 嫁入り時に必要なものとされている為、当時まだ十歳だったリュネットには必要がなく、ドナルドの様子に不審を抱いた弁護士が一存で秘匿し、結婚相手を探す為に社交界に入る十六になるまで開示されることなく存在自体が秘されていたのだ。
 その遺言書が開示されたのが、相続人が既定の年齢に達した二年前――彼等が女学校を卒業してしまっていたリュネットを捜し始めた時期と重なる。

 リュネットの父である先代伯爵は、薄々なにかを感づいていたのかも知れない。それ故に、自分にもしものことがあったあと、愛娘が嫁入りの際に不便を感じないようにと配慮をしていたのだろう。
 その不動産ですら手放すのが惜しいドナルドは、息子と結婚させることで、それすらも奪おうと画策していたのだ。何処まで強欲な男なのだろうか。

 報告書を握り締めるドナルドの手が震えている。内容に間違いはなかったのだろう。

「父さん」

 ジョセフが父の肩を掴んで揺するが、ドナルドはその腕を振り払い、マシューに指先を突きつける。

「これで終わったと思うなよ、カートランド! 貴様がなにを画策しようと、その娘は我が家のものだ!」

 虚勢を張った負け犬の捨て台詞にしか聞こえない。マシューは苦笑じみた笑みを浮かべ、力が籠もりすぎてぶるぶると震えている指先を見遣った。
 その視線すら気に入らなかったのか、ドナルドは大きく舌打ちを零し、次にリュネットを睨みつける。

「この、阿婆擦あばずれが!」

 はっきりと向けられた侮蔑の言葉と表情に、リュネットは息を呑む。

「嫁入り前に男の世話になるなど、血筋は争えんな。さすがはあのフランス女の孫だ!」

 そう怒鳴って大きく足を踏み鳴らすと、息子に「帰るぞ」と告げて踵を返した。
 父の行動に驚いていたジョセフだったが、マシューとリュネットを交互に見て、こちらも下品な舌打ちを零して表情を歪める。

「後見人であるのなら尚のこと、リュネットに手を出すのは許されませんからね、カートランド卿」

 また来るからな、とこちらも捨て台詞を残して父の後を追った。
 しばらくして馬車の走り去る音が響き、無礼な客人達がまるで嵐のように立ち去ったのだとわかると、リュネットはフラフラとその場に頽れた。

「大丈夫かい?」

「え、ええ……大丈夫です」

 差し出された手に掴まって立ち上がるが、心臓はまだ激しくドキドキしている。
 恐かった、というのが本心だ。
 ドナルドと最後に会ったのは、両親の葬儀が終わった翌日だった。泣きながら眠っていたところを叩き起こされ、最低限の荷物を鞄に詰めるように命じられたかと思うと、それを持って出て行くように言い渡されたのだ。
 この屋敷はもうお前のものではない。屋敷にあるものはすべて家督を継いだ者の所有物であり、お前には一切持ち出すことは許されない――と告げ、リュネットの荷物を馬車へと積み込んだのだった。
 出かける前に母がお守りにと置いて行った首飾りすらも奪われそうになったが、さすがに気が咎めたのか、ドナルドの妻がそれを制止し、形見の品をひとつくらい持たせてやるべきだ、と持たせてくれたのだ。
 もうすぐ十一歳になろうかという幼いリュネットは、優しい父が読み聞かせてくれた本の一冊も、母が愛用していた針箱すらも持ち出すことが許されず、数着の着替えを持たされただけで屋敷を追い出された。あのときの寂しさと不安と恐怖は、七年経った今でも忘れることが出来ない。
 そんな悲しみの記憶の象徴でしかないドナルドに会ったのだ、平静でいられる筈もない。
 マシューは震えるリュネットをそっと抱き締めると、額に優しく口づけを落とす。

「もう笑って、リュネット。彼等は当分は来ないだろうし、これからは楽しいアドベントの季節クリスマスだよ」

 そんなマシューの囁きに青い顔を上げると、彼はにっこりと微笑んでいる。

「明日にはヒースホールに向かおう。だから今夜はさっさと食事を済ませて、準備をして眠ろうね」

「……その言い方だと、一緒に眠るみたいだからやめてください」

「僕は一緒に眠りたいと思っているけど?」

 リュネットは思わずマシューを突き飛ばすが、少女の非力さでは成人男性にとってはたいしたものでもなく、抱き締められていた腕を振りほどくので精々だ。

「きみはそういう表情の方が綺麗だ」

 青褪めていた顔に朱を上らせて睨んでくるリュネットに、マシューは嬉しそうに微笑む。
 なにを言っているのだ、と頬に触れて来た手を振り払いながら更にきつく睨むと、彼は軽く肩を竦めた。

「さあ、夕食にしよう。呆れた連中の相手をしていてお腹が空いたよ。マクガイヤ先生も是非ご一緒に」

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、ご相伴に与らせて頂きます」

「今日は着替えはいいかな。行こう」

 マシューはエスコートの為にリュネットへ腕を差し出すが、調子の戻って来たリュネットは当然それを無視し、ツンと顔を逸らしてひとりで食堂へと先に向かう。
 相変わらずの遣り取りにバーネットとサンダースは苦笑し、初めて目にするマクガイヤは目を丸くしたが、当のマシューは声を立てて笑うばかりだった。



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