侯爵様と家庭教師

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15 家庭教師の帰還

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 ロンドンのタウンハウスは執事のサンダースに采配を任せ、使用人達の半分ほどを引き連れて領地に向かうことになっているのだという。
 メグの結婚式のことで屋敷全体がバタついていた印象で、よく知らないリュネットから見ると領地行きも急に決まったような感じに思えていたのだが、以前からきちんと決まっていたことらしく、翌朝リュネットが起床した頃には、使用人達の支度はすべてすっかり整っていた。


「リュネット、カティから手紙が来ているんだけど」

 荷物の積み込みが行われている横で、ギリンガム伯爵家のフットマンによって届けられたばかりの手紙を翳し、マシューが声をかけて来た。

「私に関係のあることですか?」

 一昨日会ったメグの姉のことを思い浮かべながら聞き返す。

「うん。きみ、ヴィオラの家庭教師ガヴァネスの話を打診されていただろう?」

「はい」

「カティは今、あまり無理の利かない時期らしいんだ。それで、本採用前の試用期間みたいなものと考えて、年末くらいまでヴィオラを預かってくれないか、ということなんだ」

「ヴァイオレットさんお一人をですか?」

 予想だにしていなかった申し出だった。

「うん。サミーには別の家庭教師テューターをつけているらしいから」

「そうなのですか……」

 仲のよさそうな姉弟だったので、引き離すのはなんだか可哀想な気がする。
 しかし、手紙の内容によると、ヴァイオレットはかなり乗り気らしい。家族とひと月離れるくらい気にならないようだ。
 強い子だなぁ、と思わず感心する。はきはきとものをはっきり言う子だったし、自立心旺盛なのかも知れない。マシューも同じ意見だったようで、僅かに苦笑していた。

「僕は構わないよ。ゴードンの手伝いに支障を来さないのなら、引き受けるといい」

「それは、大丈夫だと思いますけど……」

 ゴードンの許で行っている帳簿の整理は、覚えることは多いがそこまで複雑なものではなく、やり方さえ覚えてしまえば難しいことはない。作業も毎日ではないし、一日中やっているわけでもないので、勉強を教えながらでも対応は出来ると思う。
 そう答えると、マシューもそれで問題はないと判断したのか、カトレアに返事を書くということになった。
 家庭教師業に復帰するとなると、教科書が必要だ。リュネットは預けてあった教科書類も慌てて荷造りし、ほとんど積み込みの終わっている荷台に押し込ませてもらった。

「ポリー。悪いけど、何日かこちらに残って、ヴィオラを連れて来てくれないか」

 待っていたフットマンに返事を預け、積み込み作業の指示をしている年嵩のメイドを呼び止める。ポリーはメグが幼い頃は子守りのようなことをしてくれていたらしいし、今までの遣り取りを見ている限り、マシューは彼女に大きな信頼を寄せているのがわかった。彼女も心得たもので、主人の言いつけをすぐに了解している。
 そんなポリーを残して駅に向かい、使用人達は二等車に、マシューとバーネットは一等車へと分乗した。

「何処に行くんだい? リュネット」

 使用人達と同じように二等車に乗ろうとしていると、呆れたように声をかけられる。

「きみも学習しないね。この僕がそんなことを許すとでも?」

 有無を言わさずに腕を掴まれ、一等車の方へ連れて行かれる。またあの狭い車内で気不味い思いを抱くなんて冗談ではない、と嫌がるが、そんな些細な抵抗をマシューは意に介さなかった。

「ほら、マフィンを買ってあげるから」

「子供じゃないんですから、食べ物で懐柔しようとしないでください」

 呆れて眉を寄せるが、温かいマフィンから立ち上る美味しそうな香りを嗅いでいると、それを拒絶することは出来なかった。思わず受け取ってしまい、その隙に呆気なく車内に連れ込まれる。

「バーネット、他の者達にも買ってやってくれ」

 控えていた従者に小銭を渡し、分乗した使用人達に差し入れするように告げる。使いを頼まれた従者が消えると、車内には二人きりになった。
 勘弁して欲しい、と思いながら、意地を張って逆らうのも面倒になって来たので、また端の方へ腰を落ち着けようとすると、腕を引っ張られる。バランスを崩したリュネットは小さく悲鳴を上げながらマシューの上に倒れ込み、立ち上がろうとするところを伸びてきた腕に拘束される。

「ちょっ……、やめてください!」

「何故? この前は大人しくこうしていたでしょう?」

「……ッ! だから、あの夜のことは忘れてくださいと……!」

 リュネットは揶揄うようなマシューの言葉に頬を染め、眦を吊り上げる。
 あの夜からマシューはなんだかおかしい。以前からよく触って来る人ではあったが、ここのところそれに輪をかけている。
 以前はこういうことをされるのが嫌で堪らなかったのだが、触れられること自体にはそこまで嫌悪していないことに気がつく。何故、と自分の心境の変化に戸惑った。
 それでもこういうことは勘弁して欲しい。すぐにバーネットも戻って来るだろうし、そんなときにこんなところを見られたりしたら、一昨日の夜のとき並みに憤死ものだ。

「――…ねえ、リュネット。あまりそこで動かれると、僕の理性が保たないんだけれど」

 バーネットが戻る前になんとかして腕を解こうとしていると、マシューが耳許で囁いて来る。その声音に性的な色を感じ取り、リュネットは全身に鳥肌を立てた。
 どういう意味で言われているのかは、実際のところよくわかっていない。けれど、よくないことだというのは本能的に感じ取り、リュネットは素早く緊張を走らせた。
 すっかり固まってしまったリュネットの様子にくつくつと笑い含みながら、真っ赤になっている耳殻に唇を寄せる。

「なにをなさっているんですか、旦那様」

 戻って来たバーネットが、泣きそうな顔で硬直している年若い家庭教師と、そんな彼女を抱いている女遊びの激しい主人の姿を見て溜め息を零す。プラットホームから丸見えの状態でいったいなにをしているのだろうか。
 リュネットがそういうことに不慣れなのはわかっているくせに、なにを揶揄って遊んでいるのだ、と咎めると、マシューは渋々手を離した。その隙にリュネットは逃げ出そうとするが、バーネットの手に因ってドアが閉められる。基本的に列車の客車には内側からの取っ手がついておらず、安全対策の為に客席側からは開けられないようになっているので、リュネットはガッカリとした。
 誰か駅員が通りかかってくれないかと期待しているうちに汽笛が鳴り響き、発車の時刻となる。結局二等車へ移動することは叶わなかった。

 道中の車内では、バーネットがいくつかの報告を行い、主人からの指示を仰いでいる。彼は従者としてだけではなく、有能な秘書としてもマシューに仕えているらしい。
 停車駅のグランサムを過ぎ、更に北へ向かって走っていると、窓の外にちらちらと白いものが舞い始める様子が見て取れた。雪だ。
 ひと月ほど前にも同じように雪が降っていたな、とあのときは季節外れだった景色を思い返し、リュネットは吐息で白く染まる窓をぼんやりと眺めていた。




 長時間の旅を終えて最寄りの駅に着くと、以前と同じように、カントリーハウスからの迎えが来ていた。今回は荷物も人も多いので、荷馬車が二台と主人用の馬車だった。
 マシューは今度も自分と同じ馬車に乗るように言って来たが、リュネットは素直に従う振りをして、教科書の束を渡すように見せかけて押し付けると扉を閉め、すたこらと逃げるように使用人達の乗り込む馬車に同乗した。マシューが少し怒ったような表情で見て来たが知らん顔を決め込む。
 それから小雪のちらつく中を一時間ほど進み、カートランド家の領地の邸宅であるヒースホールの姿が見えて来ると、なんとなくホッとした。たった六日ほど離れていただけなのに、なんだかとても懐かしく感じる。

「お戻りなさいませ、旦那様」

 玄関の前では、厨房や洗濯場などの裏方の者達を除き、ハワード以下、表での使用人達が勢ぞろいで久方振りの主の帰還を出迎えた。

「エレノアさん、お帰り」

 荷物運びの手伝いに出て来ていたミーガンが笑顔でやって来て、リュネットの荷物を持ってくれる。

「ただいま。ちょっとなんだけど、みんなにお土産買って来たわ。あとで分けて」

「本当? 嬉しい。ありがとうね」

「リュネット」

 荷物を運びながら話していると、マシューがやって来る。ミーガンは叱られると思ってバツが悪そうな顔をするが、彼はそちらには目もくれず、駅で押しつけた教科書の束をリュネットに返しに来ただけですぐに踵を返した。

「ハワード、急で悪いが、数日中にヴィオラが来ることになった。子供部屋の用意を頼む」

「畏まりました。学習室のご用意もした方がよろしいでしょうか?」

「ああ、そうだな。すまない。電報を打っておけばよかったか」

「問題ございません。すぐに整えてさせて頂きます」

「頼んだ」

 有能な家令に命じながらマシューは屋敷の中へ姿を消して行く。
 ほう、とミーガンが息をついた。

「あーびっくりした。あんまりお会いしたことないから緊張しちゃった」

 確かにマシューの態度は、リュネットといるときより高圧的だ。どうしても緊張を強いられることだろう。
 ああいう振る舞いをしているところを見ると、彼が命じる側の人間なのだということを思い知らされる。それがなんとなく嫌だった。

「旦那様って、エレノアさんのことをリュネットって呼ぶよね。なんで?」

 部屋まで荷物を運び入れながら、ミーガンは不思議そうな顔をする。以前に来たときもそう呼んでいたので、少し疑問に思っていたらしい。そう思っても仕方がないと思う。
 だからやめて欲しいと何度も言っているのにな、と思いつつ、リュネットが本当の名前であることを説明した。
 ミーガンは好奇心が強い方だが、このことについては深く追求しないようにしてくれたのか、そうなんだ、と頷くだけで話を切り替えた。そして、変わらずにエレノアと名を呼んでくれる。そんな気遣いが嬉しかった。

 荷解きが粗方終わると、階下に降りて土産に買って来た焼き菓子や石鹸を配る。メイド頭のサラもアニーも喜んでくれたし、従僕達も菓子類には笑みを向けてくれたので一安心だ。水仕事の多い厨房と洗濯場の使用人達には、よく効くと評判の皸用の軟膏を買って来たのだが、とても喜んでくれた。

「……リタは?」

 少し気不味い関係にある赤毛のメイドの姿がないことに気づき、首を傾げる。

「昨日から実家。お祖母さんが亡くなったんだって」

「まあ……それはお気の毒だわ」

 高齢の祖母の具合がよくないという話は聞いていたが、つい数日前に見舞いに行った筈だった。その人が亡くなってしまうとは、リタ本人は覚悟をしているような口ぶりだったが、きっと気落ちしているに違いない。
 明日には戻るのではなかろうか、と話しているところに、タウンハウスから伴って来たメイド達が合流した。それぞれの荷解きが終えたらしい。
 領地とロンドンに別れて働いているので普段はまったく交流のない面々だが、初顔のメンバーはお互いに自己紹介をし合い、すぐに仕事の分担を決め始める。面識がほとんどなくても連携は十分に取れているようだ。
 この場で部外者であるのはリュネットなので、邪魔にならないように休憩室をあとにした。

「あ、ミス・ホワイト。丁度いいところに」

 自分の部屋に戻ろうと階段を上がっていると、上の方からハワードの声がする。顔を上げると手招きをされたので、それに従って進路を変更した。
 姿が見えていた三階に上がると、今まで行ったことのない奥の方にハワードの後ろ姿が見え、慌ててそのあとを追った。

「入られるのは初めてですよね」

 最奥にある部屋の前で待っていたハワードは、扉を開けながらそう尋ねてくる。リュネットの部屋は二階にあるし、一度だけマシューに話をする為に訪れただけで、三階は基本的に用がないので来たこともなかった。
 そこはなかなか日当たりのいい学習室だった。
 カートランド家の子供達は既に大きくなってしまっているので、この部屋が使われなくなって久しいのだろう。埃除けの布に覆われた部屋は少し寂しげだった。

「マリゴールドお嬢様がお使いになられて以降使われていなかったので、ここに掃除以外で人が入るのは、十六年振りくらいになりますね」

「メグは使っていなかったんですか?」

「ええ。マーガレットお嬢様は、ほとんどヨークシャーのお屋敷でお育ちになられましたので。こちらにいらっしゃったのも、先代の旦那様が亡くなったあとに呼び寄せられたとき以外では、二度か三度ほどです」

 メグを生んで以降あまり体調の思わしくなかった先代侯爵夫人レディ・カートランドの療養の為、マシュー以外の子供達はヨークシャーの屋敷で過ごすことが多く、末っ子のメグはこちらにはあまり来なかったのだという。
 各家庭でいろいろな事情があるものなのだな、と思いつつ、少し寒いが換気の為に窓を開き、埃除けの布を外して行った。
 布がすっかりと外されると、本来の学習室の姿が現れる。その様子に、リュネットはなんとも感慨深い気持ちを抱いた。

(また子供達に勉強を教えてあげられる……)

 ひと月と少し家庭教師業から離れていたが、やはり自分はその仕事が好きだと思うし、また教鞭を取れる日が来ると思うと胸が高鳴った。

「机や椅子に傷みはなさそうですね。あとで人を呼んで掃除をさせましょう。あと、備品で必要なのは白墨チョークと……うーん、オズボーンに注文しておかなければ」

 授業で必要なものがあれば書き出しておいてくれ、と言われ、大きく頷く。
 棚や黒板なども不備がないか点検し、ハワードは外に出る。リュネットもそのあとに続いて出て行ったが、ふと、隣の部屋に目を向けた。学習室の隣はだいたいが家庭教師の私室に宛がわれる為の小部屋なのだ。

「ハワードさん、この部屋の鍵はありませんか?」

「ございますよ」

 階下へ戻りかけていたハワードは立ち止まり、鍵の束から必要な鍵を探し出して開けてくれた。
 ここに来る前に勤めていたホルス男爵家にはこのような部屋がなく、使用人の部屋を使うように指示されていたので、家庭教師の為の部屋に入るのは久しぶりだ。
 学習室と同じようにここの家具にも埃除けの布が掛けられていたが、リュネットの胸は喜びでいっぱいになる。
 窓も大きく嵌め殺しではなく、部屋の中は雪曇りの今日でさえこんなにも明るい。今までお世話になって来た家の中で一番快適な部屋ではないだろうか。それだけで踊り出したいくらいにとても嬉しい。

「あの、ここも掃除したいのですけど、道具をお借りしても構わないでしょうか?」

 掃除くらいならお嬢様育ちのリュネットでも出来る。女学校で最低限のやり方は習ったし、週に一度は奉仕活動として行っていたからだ。
 しかし、ハワードは僅かに渋い顔をする。

「それは……旦那様に許可を頂きませんと、わたくしからはなんとも……」

 困ったような声音で申し訳なさそうに告げられる。
 やっぱりな、というのが正直な感想だった。リュネットの居室として客間を与えたのはマシューだし、勝手な判断でその指示を変えてしまうわけにはいかないのだろう。

「わかりました。侯爵はどちらでしょう? お部屋でしょうか?」

「はい、恐らくは。ここの廊下をまっすぐの突き当たりです」

 当主の居室は学習室と同じ階の反対側だということだ。考えてみれば少し変わった配置だな、と思うと、何代か前に子供がとても多い代があったので、そのときに少し改築をした結果なのだと教えてくれた。こちらは娘達用の学習室で、階段を挟んで向かい側の並びにもっと広い本来の学習室があったのだが、そちらは今では物置のような使われ方をしているらしい。
 ここで暮らし始めてまだひと月程なので、知らないことが多い。礼を言って別れ、言われた通りの部屋を目指す。
 ノックをして呼びかけると、マシューは中にいたようだ。すぐに返事があり、入室の許可が告げられた。

「やあ。なにか急ぎの用でも?」

「そうですね。ちょっと緊急です」

 揶揄う調子のマシューの言葉を軽く受け流しながら、単刀直入に「部屋を替えて欲しいのです」と訴えた。

「ヴァイオレットさんがいらっしゃって、私が家庭教師としての職務を全うする為にも、学習室の隣の部屋を使いたいんです。帳簿管理のお仕事に支障を来したりもさせませんので、許可をください」

 リュネットの訴えに、マシューは微かに吐息を漏らした。

「あの部屋は随分と狭いよ?」

「問題ありません。今のお部屋が広すぎるんです」

「三階だし」

「日当たりはいいですね。窓もちゃんと開くようです」

「本に囲まれて埃っぽいんじゃない?」

「そんなことありません。天国のようです」

 マシューの意地の悪い言葉に応えるリュネットは、瞳をキラキラと輝かせた。あの部屋にどうしても移りたいのだ。
 書き物をしていたマシューはペンを置いて立ち上がると、つかつかとリュネットに近寄る。そうして、急接近に驚いて身構えるリュネットへ向かって声を落とし、囁くように「いいの?」と尋ねた。

「な、なにが、ですか?」

 その声音が鼓膜を振るわせると同時に全身に鳥肌が立ち、リュネットは僅かに後退る。
 マシューはそのあとを追うように一歩踏み出し、指先でリュネットの細い顎を捕らえた。

「ここは僕の部屋で、きみの部屋も同じ階になる」

「え、ええ……そうですね」

 なにを当たり前のことを言っているのだろう、と思いつつ、間近に迫るマシューの顔にどぎまぎとした。
 そんなリュネットの心中を知ってか知らずか、マシューは軽く身を屈め、唇が触れそうなくらいに近寄って耳許に囁く。

「僕ときみを隔てるものは、二枚のドアと廊下だけ――すぐ傍にきみが眠っているかと思うと、僕は、夜毎きみのベッドに忍び込むかも知れない」

 リュネットは慌ててマシューの胸を押し遣った。
 驚いて双眸を瞠ったまま目の前の男をまじまじと見つめ、困惑気に眉間に皺を寄せる。

「……この前からいったいなんなのですか? そんなに私を揶揄って楽しいんですか?」

 やはりマシューはあの夜からなんだか様子がおかしい。いつもと変わらないと言えばそうなのだが、いつも以上に触って来るし、変なことを口にする。ロンドンを発つときの列車の中でのこともそうだ。
 こういったことに関してリュネットが未熟だから、揶揄ってふざけているのだろうか。

「揶揄っているつもりはないよ」

 ふっと微笑むと、怪訝そうにしているリュネットの目を見つめた。

「きみのことが欲しいと思っているから、ストレートに告げているだけなんだけど」

 遠回しに言ってもきみはわからないだろうから、と低く囁き、見つめ合っていた瞳が不意に近づく。ハッとしたリュネットは慌てて手を翳し、キスをしようとしたらしいマシューを押し留める。

「やっぱり揶揄っているではないですか!」

 そうとしか考えられない。これが愛の告白だなんて思いたくもなかった。
 マシューは震えながら抑えつけてくるリュネットの手を外し、その指先に口づける。リュネットは驚いてすぐに真っ赤になったが、掴まれた手を振りほどくことも出来ず、困惑気に目の前の男を振り仰ぎ、首を振った。
 マシューはリュネットの抵抗などものともせず、指先に触れさせていた唇を腹の方へと移し、強張って逃げようとする掌にも触れさせ、最後に手首の内側に痕を残すようにきつく唇を押し当てた。その一連の仕種がすごく恥ずかしいもののように感じて、リュネットは瞳を潤ませて首を振る。

「腹が立ったって、言っただろう?」

 リュネットの細く白い手首に小さな赤い花が咲いたことを認めると、マシューはもう一度唇を押し当て、新たな花を咲かせる。
 なんのことを言っているのだろう、とリュネットが混乱しながら記憶を遡ると、宴会から逃げるように抜け出して来た帰り道の馬車の中で囁かれた、あの意味がわからなかった呟きに辿り着く。あのあと、リュネットは息が出来なくなるくらい何度もキスをされ、気を失いかけた恥ずかしい結果に行き着くのだ。
 あれはリュネットに対して腹が立っているという意味だったのだろうか、と困惑しているうちに、三つめの花が咲いた。

「ジョセフ・スターウェルがきみを妻にするって言ったとき、とても腹が立ったんだよ」

 大切な宝物を扱うようにもう一度指先に優しく口づけながらも、マシューは眉間に皺を寄せる。酷く苦々しそうな表情だ。

「ねえ、レディ・リュネット」

 まだ言葉の意味が呑み込めず、夜空を落とし込んだかのような濃紺の瞳を見開くリュネットに、マシューは囁く。

「きみに対する僕のこの気持ちは、いったいなんなんだろうね?」

 そんなの知るわけがない。知りたくもない。
 リュネットよりも十年分は長生きで、更に人生経験の豊富なマシューの知らないことを、世間知らずと揶揄される小娘のリュネットが知る由もない。
 リュネットはいやいやと首を振った。少し潤んでいた瞳は更に濡れ、涙が溢れ出そうになる。
 手首を捕まえているのとは別の手がリュネットの頬に伸びて来て、優しくそこを撫でて後れ毛を払い除けながら、首の後ろへと伸びていく。

「――…駄目ノー……」

 この先になにが待ち受けているのかおぼろげながらに感づいたリュネットは、震える声で囁いた。けれど、それは微風が撫でる程の僅かながらの拒絶で、先程のように手で押し退けることは出来ていない。
 震える吐息が混じり合い、熱が重なり合う。

「駄目」

 呼吸を求めて僅かに開いた隙間に囁く。それが初心なリュネットに出来る精一杯の抵抗だった。

「なにが駄目?」

 その震える囁きに、マシューも囁き返した。

「言って、リュネット。なにが駄目?」

 答えようとするが、それを許さないように唇を塞がれる。リュネットは泣き出したくなった。
 リュネットこそ訊きたかった。マシューに対するこの気持ちがいったいなんなのかを。




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