侯爵様と家庭教師

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16 侯爵様のお戯れ

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 ヴァイオレットは三日後の汽車で、夕方前にはこちらに来ると電報が届いた。それまでにゴードンに事情を話し、授業スケジュールを組もうと思う。

「ちょっとゴードンさんのところまで行って来ます。村に用事があればお遣いしますけど、なにかありますか?」

「あ、ジェシカさんが注文あるって言ってた。ちょっと待ってて」

 マントを羽織って身支度を整えていると、料理長のジェシカから預かったメモをアニーが持って来る。ヴァイオレットが来ることになった為、足りなくなった食材を追加したいのだという。雑貨屋オズボーンの店主サイラスに渡してくれればいいという話なので、了承して手提げにしまった。
 昨日一日ちらついていた小雪は僅かに積もっている。そろそろ本格的な降雪シーズンになるのかも知れない。こちらの地方は初めて来ているので、どれくらい雪が積もるのかは全く見当がつかないが、南にあるロンドンより降るのは確実だろう。

(ヴァイオレットさんは、雪遊びお好きかしら?)

 あまりにも積雪が多ければ散歩もままならないだろう。だからといって家に閉じこもりきりというのも不健康だし、外遊びに連れ出してやらなければ――などと、三日後にやって来る可愛い生徒のことを考えながら歩いていると欠伸が零れた。ここ何日かよく眠れない日が続いている所為だ。
 もちろん不眠になっている原因はわかっているが、それを意識したら駄目だと思い、考えないように努力しているところだ。その時点で相当意識してしまっているということに、残念ながらリュネットはまだ気づいていない。
 火照ってきた頬に冷えた指先を押し当てながら、リュネットは眉間に皺を寄せる。
 女性にだらしないマシューのことをあんなにも汚いと感じていたというのに、その彼に迫られても強く拒絶出来ず、剰え、受け入れつつある自分がとても嫌だった。とても嫌なのに、その態度を改めることが出来ないことがまた嫌だった。
 初めてキスをされたときは突然のことに驚いたし、まわりに人が大勢いる状況で恥ずかしくて堪らなかったが、ジョセフから守る為の一芝居だと思ったので、拒絶する気はなんとか宥めた。そのあとのキスはそうではなかった。拒めばいいことなのに、本気で拒めなかった。昨日のこともそうだ。
 いったいなんなのだろうか、この気持ちは。リュネットは溜め息を零した。

(悩んでも答えなんて出ないのに……)

 こんなに悩む必要など初めからない。彼を受け入れる気がないのなら、殴ってしまえばいいことなのだ。今までのように。
 怯えて委縮するばかりでなにも出来なかった自分を助けてもらったことは、本当に感謝している。頼もしいとさえ思った。しかし、それとこれとはまったく別問題だろう。
 拒絶したいのに出来なくて、そんな自分が嫌で、嫌だと思っているのに拒絶出来なくて、やっぱりそんな自分が嫌で――なんだか堂々巡りだ。抜け出せない深みにはまっている。

「あら。戻られてたんですね、お嬢さん」

 再び特大の溜め息が零れたところで声をかけられた。顔を上げると、リタがこちらに向かって来るところだった。
 葬儀のあと、一人暮らししていた祖母の家の片づけがあるらしいと聞いていたのだが、随分と早い時間帯に戻って来ているのが意外だった。掃除の手際がいい人なので、早く済んでしまったのだろうか。

「お祖母様のことお聞きしたわ。お悔やみ申し上げます」

「ありがとう。覚悟はしていたからそう気落ちもしていないのですけど」

 丁寧に弔意を示すと、リタは肩を竦めて苦笑する。けれどその笑顔は虚勢を張っているように見えて、リュネットには痛々しく思えた。ご両親は疾うに亡く、祖母一人孫一人でずっとだったらしいので、気落ちしていないわけがないのだ。

「これから村に行かれるの?」

「ええ。ゴードンさんのところに」

「また雪が降り出しそうだからお気をつけて」

「ありがとう」

 立ち止まったのは本当に少しの間のことで、当たり障りのない会話を終えて別れ、リュネットは村への道を、リタは屋敷への道をそれぞれまた歩き始める。
 だいぶ村に近づいて来てから、また溜め息が零れた。
 以前からリタと会うとモヤモヤした気持ちになっていたものだが、今日はそれに輪をかけている。胸のあたりが苦しくなるくらいに変な気分で、そのことにまた落ち込んだ。
 彼女のことは嫌いではない。けれど、変な場面を見てしまったので、苦手に感じているのは事実だ。彼女と顔を合わせる度にこんな気持ちになっているので、どうしても気が滅入る。

 ゴードンの家に行く前にオズボーンに寄り、料理長からのメモを託ける。サイラスは配達に行っていて不在だったが、今日は彼の母が店番をしていて、見慣れない顔が珍しかったのか少しだけ立ち話をした。
 リリーはどうしたのかと思えば、彼女はもう本当に出産間際らしく、大事を取って安静にさせているところらしい。

「子供が生まれたら見に来てちょうだいな」

 初孫を待ち望むサイラスの母はそう言って笑い、ゴードンへの手土産に購入したマフィンを少しおまけしてくれた。
 二度ほど訪ねたことのあるゴードンの家に着くと、彼は自慢のハーブ畑に積もった雪を掻いているところだった。

「こんにちは」

「……おお、エレノア。どうしたね?」

「はい。ちょっとご相談がありまして」

「いいよ。今お茶を淹れるから、上がりなさい」

 中腰になっていた為に軋む腰を軽く叩きながら立ち上がったゴードンは、玄関の方を示した。頷いて中に入ると、庭先での話し声が聞こえていたのか、ゴードンの妻であるアビゲイルが玄関へと顔を覗かせた。

「あら、いらっしゃい」

「お邪魔します。これ、お土産です」

「わざわざありがとう。お茶淹れるから座って」

 玄関のコート掛けにマントをかけさせてもらってから、食堂兼居間である部屋に入る。ここに入るのは今回で三度目だが、なんだかとても懐かしい気持ちになる温かい空間だ。居心地がいい。

「なんとまあ。あのカトレア様の子供が、もう家庭教師ガヴァネスなんぞ必要な年齢になったのか……わたしも年も取る筈だなぁ」

 温かいハーブティーを頂きながらヴァイオレットの話をすると、ゴードンは感慨深げに零した。先代のときから帳簿管理をしていたゴードンは、カートランド家の子供達が幼い頃からよく知っているらしい。算数が苦手だったカトレアの勉強を見てやったこともあるとか。
 そんな小さかったお嬢様の娘が同じくらいになっているのかと思うと、時の流れをしみじみと感じてしまうようだ。

「いいよ、わかった。わたしの仕事は午後にしよう」

「ご無理を言ってすみません」

「なぁに、構わんさ。元々急ぎの仕事ということでもない。そんなものより子供の教育の方を優先させなきゃいかんし、エレノアの次の勤め先がかかっておるのだろう? 問題ない」

 頭を下げるリュネットにゴードンはにこにこと応じた。
 今まで仕事は午前中から午後のお茶の時間くらいを目安にしていたのだが、午前中はなるべくなら勉強の時間に充てたいと思い、そのことを相談しに来たのだが、快諾してもらえてよかった。もう一度礼を言って頭を下げる。

「でも、寂しくなるわねぇ」

 お茶のお替わりを淹れながら、アビゲイルが溜め息を零す。
 中継ぎで来ていたのでいつかはいなくなるとわかってはいるのだが、ここひと月の間でそれなりに親しくなった関係だけに、ほんの少しの惜別感がある。それはリュネットも同じ気持ちだった。
 ヴァイオレットが来るのは三日後で、その翌日から授業を始めようと思っていることを告げ、アビゲイルお手製の甘さ控えめなハーブクッキーを土産にもらってゴードンの家をあとにした。

 外に出ると、リタの言っていた通りに小雪がちらつき始めていた。突然吹雪に変わることもなさそうなので急ぐ必要はないだろう、と雪除けにフードを被る。
 先日来たときもどんよりとした曇り空だったが、今日は雪が積もっている分、更に色がなく感じられて寂しげだ。特に楽しめる景色がないことを残念に思いながら、屋敷への道をのんびりと進む。たった今お茶を頂いて来たところだが、屋敷のお茶の時間までには帰れそうだ。

(ヴァイオレットさんはどれくらいお勉強が出来るのかしら。まずは簡単な試験問題を作って、どの程度理解しているのかを確認して。それから……)

 授業計画を練りながら歩いていると、馬の蹄の音が近づいて来る。邪魔になるといけないと思って道の端に寄ると、何故か速度を落として傍で止まられた。

「やあ、リュネット」

 そう呼びかけるのは、この地には一人しかいない。
 眉間に皺を寄せながら振り仰ぐと、馬でやって来たのはやはりマシューだった。後ろには同じく騎乗したバーネットもいる。

「村に行ってたのかい?」

「はい。ゴードンさんのところに」

「僕も軽く視察して来たところなんだ。乗りなよ」

 言うと思った。リュネットはツンと顔を逸らして「結構です」と断った。

「なんで? 向かうところは同じなんだから、乗ればいい。馬の方が速いし」

「歩けますから」

 断られることくらいわかっているだろうに、どうして声をかけて来るのだろう。いちいち断るのも面倒なので、いい加減にして欲しい。
 しかし、リュネットの気持ちとは真逆の意味でマシューも同じ感想を抱いていたらしく、乾いた笑い声が響く。

「ねえ、リュネット。不毛なやり取りはやめようよ。僕がこういうとき譲らないってことは、きみもいい加減学習しているだろう?」

 その問いかけにリュネットは答えなかったが、少ししてから大きく溜め息を零した。それが答えだった。
 マシューはにっこりと満足気に微笑むと馬を降り、リュネットへ手を差し出した。

「バーネット、先に戻っていていいぞ」

「はい、旦那様」

 心得た従者は馬に鞭を当て、二人を置いて先に屋敷へと向かって行った。
 二人きりにされたリュネットはバーネットを責めたい気分を抱きながらも、彼が主人の命令に逆らうわけがないので、ほんの少しの腹立たしさをマシューに向けることにする。
 マシューは愛馬をゆっくりと歩かせている。それは乗馬に不慣れなリュネットを気遣っての優しさかも知れないが、歩いているのとたいして変わらない速度にリュネットは心底迷惑そうな顔をした。

「なんで送り迎えを頼まなかったんだい?」

 リュネットがムスッとした表情で黙りを決め込んでいると、マシューが尋ねてきた。
 特に理由などない。時間もそうかからずに歩ける距離だし、歩くことに不便を感じてもいなかったのでそうしただけだ。そう伝えると、ふぅん、とマシューは頷いた。

「今度からは僕に言うといい。送るから」

「……お気遣いは有難いですけど、結構です。気にしないでください」

 同じようなやり取りを今までにいったい何度交わして来たことだろうか。少しどころではなくうんざりしつつ、どうせこれも聞き入れてはくれないのだろうな、と半分くらいは諦めにも似た気持ちになる。

「ねえ、リュネット」

 溜め息を零したところで不意に耳許で低く囁かれ、思わず悲鳴を上げそうになるがなんとか堪える。腕に鳥肌が立ったのを感じた。

「もしかして、なにか僕に怒っていないかい?」

 耳を押さえながらまじまじと見つめる。なにを言っているのだろうか、この男は。
 散々あんなことをしておいて、リュネットが怒っていないとでも本気で思っているのか。本気でそう思っているのなら呆れてしまう。
 確かにリュネット自身強く拒めないでいたが、何度も駄目だとは訴えた。それを無視していたのはマシューの方で、聞いていなかったとは言わせたくない。

「……お心当たりがないのなら、気の所為なのではないですか?」

 どうせなにを言っても無駄なのだから、とリュネットは適当に流してしまうことにした。態度は悪いがどうしようもない。こういうやり取りこそ不毛だ。
 そんなリュネットの様子を見てなにを思ったのか、マシューは急に手綱を引くと馬の腹を蹴り、鞭を当てた。ゆっくりと歩いていた馬は嘶きと共に走り出す。
 突然の出来事にリュネットは悲鳴を上げ、バランスを崩しかけて落ちそうになるが、支えられてなんとか免れる。

「僕にしがみつかないと落ちるよ」

 どうすればいいのかわからなくなって慌てているリュネットの耳に、マシューの楽しげな声が響く。それでこれがわざとなのだとわかった。
 そっちがその気ならこちらにも意地がある。慣れないながらも必死に体勢を整え、激しい揺れに滑り落ちないように踏ん張りつつ、なにがなんでも彼の方へは倒れまいと鞍にしがみついた。
 だが、やはり慣れないので仕方がない。ほんの一瞬力のかけ方を間違えた瞬間、後ろに大きく仰け反り、結局マシューの胸へと倒れ込んでしまった。
 慌ててどうにかしようとするが、激しく揺れ動く馬上ではどうすることも出来ず、必死にマシューの上着を握り締めることしか出来なかった。なんと情けないことだろうか。

「まったくきみの意地っ張りは敬服に値するね」

 五分ほどして屋敷に到着すると、マシューはしがみついたまま固まっているリュネットに苦笑を向けた。素直にしていればこんなに恐い目に遭わなくて済んだのに、と憐れむような目で見つめられていることに気づき、醜態を晒した自分が情けなくなった。
 恥ずかしさと悔しさから泣きたい気持ちになりながらも、降りる為には結局マシューの手を借りるしかなく、それもまた情けなくて堪らなかった。

「まあ、きみはそういうところが可愛いと思うけど」

 不自然な姿勢で固まったままでいるリュネットを抱き上げて降ろしてやり、マシューは微かに笑ってリュネットの額に口づける。その行為にビクリとし、リュネットはよろめきながらその手を振り払った。

「そういうこと、やめてください……!」

 相変わらず、こういうことをするときのマシューは、決して悪びれた様子を見せない。なんの衒いもなく、さも当然のようにリュネットに触れ、キスをする。
 こんなことをするような関係ではないというのはわかっているのに、リュネットには抵抗も拒絶も出来ない。どうしてもっと毅然と強い態度で接することが出来ないのだろう。

「リュネット?」

 呼び止められるのを無視して、リュネットは使用人用の出入り口へ駆けて行く。マシューは僅かに苦笑し、出迎えの為に出て来た下僕のピーターに手綱を預けた。

「あ、お帰りぃ。エレノアさん」

 裏手の出入り口から駆け込むと、丁度休憩の支度を始めたところだったらしく、ミーガンがカップを並べているところだった。
 その声が聞こえたのか、料理長のジェシカが顔を出し、注文をして来てくれたか、と尋ねられるのへ頷きを返す。だが、先程の動揺から上手く声が出なかった。

「……どうしたの? 何処か痛い?」

 ミーガンは目敏くリュネットの表情を見止め、なにかあっただろうことを察する。
 なんでもない、と僅かに震える声で答え、部屋に荷物を置いて来る旨を告げて階段へ向かった。
 部屋に戻ってマントをかけて手提げを片付けると、ふらふらとベッドに腰を下ろす。息をつくとどっと疲れが出た。知らずうちに涙が溢れそうになる。

「情けないわよ、リュネット……」

 マシューに触れていた肩のあたりを摩り、己を叱咤するように呟く。
 彼の前ではどうしても弱いところばかり見せてしまう。ドナルドやジョセフに接するときのように怯えている為ではなく、なにかもっと違う感情によって委縮してしまっているのだ。だからキスをされても逃げられないし、抱き締められても振り解けない。
 今は特に、慣れない大きな馬の背に乗って疾走されたことで、それが恐くて動揺している部分もあるのだろうが、自分でも怪訝に思うほどに心も身体も強張っていた。
 何故なのだろう。本来なら自分はもっと強かった筈だ。それなのに、マシューに対してはどうにも上手くいかない。
 どうにかしなければ。
 もうすぐヴァイオレットがやって来る。幼い彼女の前で、指導する立場の者として、こんな情けない醜態を晒すわけにはいかないではないか。
 落ち着かなげに二の腕や手首を掴んだり摩ったりしながら、なにかいい案はないか、と考える。
 しばらくして、ふっと考えついた。

(いいえ、でも……)

 一度は首を振って打ち消してみるが、でもそれはとても妙案に思えた。
 リュネットがマシューの前で身動きが取れなくなってしまうのならば、彼が同意せざるを得ないような尤もらしい理由をつけて、その行為を止めさせればいいのだ。
 上手くいくかは賭けだ。けれど、他に方法はない。そうでもしないと、リュネットはヴァイオレットの前でまで醜態を晒してしまう。そんな情けないことだけは、家庭教師として、どうしても避けなければいけないものだった。
 机に移動して紙を広げ、少し震える手首を軽く回したり揉んだりして落ち着かせてから、ペンを手にする。
 見出しは『適切な雇用関係についての三ヶ条』としておく。そうして三つの約束事を列記した。
 書き上げてからよく見直して文面に満足すると、それを持ってマシューの部屋に向かう。
 ノックをしてみると在室だったらしく、すぐに返事があった。普通に入って行くと、マシューが驚いたような、意外そうな表情をした。

「どうしたんだい?」

 さっきの今で顔を出したのが予想外だったのだろう。確かに普段のリュネットだったら顔を出したりしなかっただろうが、今日は用事が出来たのだから仕方がない。
 リュネットは未婚の男女が同席する際のマナーとしてドアを開けたまま部屋に入り、つい今しがた書きつけて来た紙を「どうぞお受け取りください」と突き出した。

「……適切な雇用関係についての三ヶ条?」

 見出しの言葉にマシューは怪訝そうな目を向ける。

「レディ・ヴァイオレットが逗留することに当たって、以下のことを遵守してくださいますようお願い申し上げます。ひとつ、リュネットと呼ぶことを止めて頂きたい。理由はレディ・ヴァイオレットに混乱を与えない為です」

 言い聞かせるようにリュネットは文面を読み上げ始める。

「ふたつ、過剰な接触を止めて頂きたい。理由はレディ・ヴァイオレットに悪影響を与える可能性が無きにしも非ずだからです」

「悪影響ねぇ……」

「みっつ、レディ・ヴァイオレットが逗留中は、保護者として適切な態度を心掛けてください。大切なお嬢様をお預かりしているのですから、家庭教師の私だけではなく、伯父である侯爵の協力も必要だと思われます」

 簡潔に訳すと『本名を呼ぶな・不必要に触るな・紳士らしく振る舞え』と要求しているのだ。リュネットがいつも迷惑に感じている事柄だが、八歳のヴァイオレットの前ではあまり好ましくないものだと思っている。
 ふぅん、とマシューは頷きながら、もう一度文面に目を通した。

「これを約束することで、僕にはなにか見返りがあるのかい?」

「は? 見返り、ですか……?」

 納得させることばかりを考えていたので、そんなものを要求されるとは思わなかった。そもそもがこんなことを書き出して頼まなければならないことの方が問題なのだが、そのことについては言及しないつもりらしい。

「――…なにか見返りがあれば、それを守ってくださると?」

 困惑気に尋ねれば、約束するよ、とマシューは笑みを向けた。
 それならば、ここはリュネットがその条件を飲むべきだろうか。それで快適な環境が手に入るのなら与えない意味はない。
 なにかを得る為には、強硬な態度ばかりでは手に入らない。ときには軟化し、相手の意を酌んで譲歩することも重要だ――それはわかっていることなのだが、マシュー相手だとなんだか面倒なことが起こりそうで、あまり気乗りはしなかった。

「では、なにかひとつだけ、侯爵の我儘を聞きます。もちろん、私に出来る範囲のことで……その、変なことではなく、です」

「変なこと?」

「だから、その……キスしろ、とか……そういうこと、以外です」

 そういうことをされたくないから、この約束事を考えて来たのだ。
 真っ赤になってもごもごと告げると、マシューは笑った。

「それはとても魅力的だけど、駄目なら仕方がないね」

 残念そうに言いながらも、表情はやけに楽しそうだ。
 それから少し考えるような仕種をしてから、閃いたようにひとつ頷く。

「では、きみの時間を僕にくれないだろうか?」

「時間……ですか?」

「そう。ヴァイオレットを寝かしつけたあとの一時間だけでいい。きみには触れないと約束するし、部屋のドアも開けておくことを誓う。日付が変わる前には必ず解放するよ」

 どうだろうか、と尋ねられ、リュネットは逡巡する。
 この口振りだと、なにか変なことを企んでいる様子はない。ゆっくりと話をする時間でも設けようというところだろうか。
 リュネットもマシューには聞きたいことがいろいろある。実家とのこととか、先日彼が口にした『メグの恩人』という言葉も気にかかるし、他にも教えてもらいたいことがいくつもある。

「わかりました」

 マシューからの提案をリュネットは飲むことにした。これはリュネットにとっても悪い話ではないと思う。

「交渉成立だね。じゃあこの紙の続きに、上記を遵守するならばって書き加えてくれる?」

 机とペンを借り、言われた通りに『遵守するならば、毎晩一時間程話に付き合う。但し、日付は超えないこと』と書き加えた。
 マシューは満足そうに頷き、余白にサインを施した。リュネットにも同様にサインを求めるので、契約成立の証としてリュネットも名前を書く。

「それじゃあ、こういうことでよろしく。ミス・エレノア・ホワイト」

 手を差し出されたので握り返す。

「これは僕が保管しておくね。それできみには、僕が写したものを保管しておいてもらいたい。お互いの筆跡なら偽装のしようがないだろう?」

「あ、そうですね。お願いします」

 確かにマシューの言う通りだ。契約書はお互いに保管しておくのが望ましい。
 マシューは抽斗から便箋を一枚取り出し、リュネットが書いて来た三ヶ条を素早く写していく。写し終えたものが一言一句違わないことをしっかり確認し、また二人で承諾のサインをした。
 便箋を受け取り、礼を言ってマシューの部屋をあとにする。

 マシューと対等な交渉が出来たのは今日が初めてだ。いつも意見は否定されたり却下されたり、最終手には上手く言い包められるばかりで、リュネットの意思が通ったことはほとんどなかった。
 今日はそれが通った。やっと対等に見てもらえたようで、嬉しかった。結局はいつものように丸め込まれたような気が少しするのだが、いつもよりはずっとマシだ。これくらいなら、リュネットは自分が負けなかったと思える。
 今までにも何度かこういう話し合いの場があったが、きっと子供扱いされていたのだろう。だから意見を聞き入れてもらうことがほとんどなかったのだ。
 ようやく大人として認められたようで嬉しかった。知らない間に思わず口許が綻び、笑みが零れる。
 にやにやしながら部屋に戻り、マシューの書いた契約書を丁寧に抽斗にしまった。


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