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18 無邪気な諜報員、参上
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小さなレディ・ヴァイオレットには、毎朝やらなければならない大事な役目がある。
朝起きて顔を洗い、メイドに着替えを手伝ってもらって身支度を整えると、居間へと降りて行く。
火を入れられてあまり時間の経っていない居間は少し冷えるが、体温が高いまだ子供のヴァイオレットはその程度ものともせず、マントルピースへと駆け寄った。壁の方に寄せてあった踏み台をそこへ持って来て、飾られているアドベント・カレンダーの窓をひとつ開く――これが屋敷の主人である伯父から申し付けられた日課だった。
今日は十二月の十四日。降誕祭まではあと十日ほどで、ヴァイオレットがこちらに来てからも十日ほど経っていた。
「二十三日になったら、マリゴールド叔母様とテオが来るんですって。サミーも一緒に連れて来てくれるの」
一緒について来て様子を見守ってくれていたアニーに、ヴァイオレットは楽しそうに告げる。
「それは楽しみでございますね」
「うん。お母様が来られないのは悲しいけれど、今は大切な時期だってお父様が言ってたから、我慢しなくちゃね。私はお姉さんだから」
小さなレディの決意をアニーは微笑ましく見つめる。
「さあ、朝食の時間まで、先生のところに行っていらしてください。今日は散歩に行かれるのですか?」
「今日は図書室よ」
楽しげな微笑みを残してヴァイオレットは図書室へと駆けて行く。
新しい家庭教師の授業は楽しい。元々勉強は好きな方で、自分一人での勉強も苦にはならなかったが、彼女の教え方はユーモアがあって大好きだ。
とことこと走っていると、階段を降りて来る伯父の姿が見えた。
「あら、伯父様。今日はお早いんですね」
朝食の時間にきちんと起きていることなど三日に一度ほどの伯父の姿に、ヴァイオレットは意外そうな口調で声をかける。今日は身支度まで整えているのだから更に驚きだ。
「お母様と同じようなことを言うようになったね、ヴィオラ」
「何処かにお出かけなの?」
いつものフロックコート姿ではない伯父の服装に首を傾げると、そうだよ、と頷かれた。
「今日は森に行って来るよ。鹿が獲れればいいんだけど」
狩りに行くらしい。動物を銃で撃つなんて可哀想でヴァイオレットには理解出来ないことだが、鹿肉のスープは好きだ。
伯父の健闘を祈りつつ、再び図書室を目指した。
「先生、お早うございます」
窓際に大好きな家庭教師の姿を見つけたヴァイオレットは、礼儀正しく朝の挨拶をした。
「Bonjour」
しかし、返ってきたリュネットの言葉にハッとして慌てて言い直す。
「ボンジュール」
ふっとリュネットは微笑む。
「発音はまだ苦手のようですね。もう一度」
「ボンジュール」
「先生の口をよく見て。Bonjour」
「ボ、Bonjour」
「はい。よく出来ました」
合格点がもらえてホッとする。
フランス語の読み書きは、まあ不自由しない程度に習得しているのだが、発音に関してはまだ苦手分野で、そのあたりを徹底的に教え込んでくれ、と母から指導要請があったらしい。後々必要なこととはいえ、母国語すらもまだ勉強中の八歳児には少し荷が重かったが、先生の教え方は丁寧なので嫌ではない。少々スパルタさを感じるときもあるが。
リュネットは一冊の本をヴァイオレットに差し出した。
「フランス語の小説を見つけておきました。レディ・ヴァイオレットのお年では少し難しい内容かも知れませんが、今日からはこれを音読することにしましょう」
「はい、先生」
受け取った本の表紙には『LesTroisMousquetaires』と書いてある。どんな物語なのかはまだわからないが、面白そうだ。
その本を持ったまま朝食の為に食堂に行くと、丁度伯父も席に着くところだった。
「なにを持って来たのかな、お姫様。伯父様に見せてくれるかい?」
小さな姪の抱えて来た本に気がついたマシューは手を差し出し、それを見せてもらう。
「ああ、三銃士か」
「伯父様、知っているの?」
「知っているさ。何年か前に僕が買った本だからね」
出版されたのは十年ほど前で、その頃大陸の方に遊学していたマシューは、なかなか人気があると噂されていたその本を購入して持ち帰ったのだ。
自室の本棚になかったので人にやってしまったのかと思っていたが、図書室に置いてあったらしい。少しだけ懐かしむ。
「どんなお話?」
「忠義に熱い青年達が、悪者を倒すお話だよ。詳しくは自分の目で読んで確かめるといい」
勧善懲悪物の活劇譚だろうか。そんな風に見当をつけつつ、楽しみになって頷いた。
ヴァイオレットの年齢では恋愛小説などはまだ読んだことがない。童話や寓話集が中心だが、アーサー王伝説などの英雄譚については父が面白可笑しく話し聞かせてくれるので、興味はとてもある。この本もそういった類の本だろうと推察した。
食事を終えた伯父は、そのまま出かけるらしい。大物を仕留めて来るよ、と笑顔を残して出て行ったが、あまり期待をしないでおく。
ヴァイオレットもこのあとは勉強の時間だ。食後のお茶を飲んで部屋に戻り、授業の支度を整えて学習室へ向かった。
「あら、お嬢様。今ストーブに火を入れたところなんですよ」
ストーブの前に屈み込んでいたミーガンが顔を上げ、申し訳なさそうに頭を下げる。部屋の中が暖まるまでにはまだ時間がかかるのだ。
大丈夫、と頷いてストーブの傍に行き、ミーガンの隣に屈み込んだ。
「傍にいれば暖かいでしょ?」
「まあ……危ないですから、絶対に触らないでくださいね」
注意をしつつも心配なのか、リュネットが来るまで傍にいることにしたようだ。少しそわそわしながらも、ヴァイオレットの様子を窺っている。
「ねえ、ミーガン」
「なんですか?」
「ミーガンは先生と仲がいいのよね? お友達?」
この十日ほどの間で、リュネットがミーガンと楽しげに笑っている姿を何度となく見た。二人でいるところを見かける回数が圧倒的に多かったので、一番親しいのだろうと見当をつけてみる。
「友達というわけではないですけど……どちらかというと、親しくさせてもらっていると思います」
ちょっと誇らしげに言うと、ヴァイオレットは嬉しそうに頷いた。
「先生って恋人はいるのかしら?」
小さなお嬢様の口から出て来た大人びた話題に、ミーガンは目を真ん丸にする。
「なんですって?」
「こ・い・び・と。ミーガンはいる?」
「いませんよ。エレノアさんも……たぶん、いないと思います」
リュネットがこの屋敷で暮らすようになってからもうすぐふた月ほどになるが、彼女の口からそういった話題が出たことはない。寧ろリュネットは男性があまり好きではないような雰囲気で、主人であるマシューを除いては、家令のハワード以外と話している姿はほとんど見かけない有様だ。年下のピーターとは多少世間話もするようだが、他の従僕達とはそんなことをしている様子はまったく確認出来た覚えがない。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
八歳ならもう好きな男の子の一人や二人いてもいい年齢で、そういうことに興味を持ってもおかしくはないだろうが、大人に対して振るにはちょっと年不相応な話題の気がする。
訝しむ表情を隠しもしないミーガンに、ヴァイオレットはにやりと笑った。
「私ね、お母様からミツメイを受けている諜報員なの」
「密命ですか?」
なにかのごっこ遊びだろうか、と怪訝に思いながら声を潜めて鸚鵡返しにすると、そうよ、とヴァイオレットは頷いた。
「協力者になるなら教えてあげる」
「えぇ~……どうしましょう」
気になるかといえば、少し気になる。彼女の母が絡んでいるとなると、なにか面倒事ではないだろうか、と少し不安もあった。
「遅くなってごめんなさい。……あら、ミーガン」
なんと答えようかと迷っているところに、少し遅れていたリュネットがやって来た。
「丁度よかった。今日はゴードンさんがいらっしゃる日なの。午後からレディ・ヴァイオレットのこと……」
「あ、うん。わかった。お嬢様、今日の午後は私とお出かけしませんか? 村にスケート場が出来ているんです」
「スケート? 私、とても得意よ!」
ヴァイオレットは子供らしい表情で笑った。
午後の予定はそれで決まりですね、と応じたミーガンも微笑み、勉強の邪魔をしないように出て行った。
「ごめんなさいね、レディ・ヴァイオレット……」
自分の仕事の都合で授業を休むどころか、メイドに相手をさせたりもしていることを申し訳なく思って謝ると、しっかり者の生徒は首を振った。
「先生が別のお仕事をしていることは聞いています。このお屋敷に住んでいるのは、そのお仕事の為だって。でも、私がいい生徒で、先生が私に勉強を教えてもいいと思えたら、私の家庭教師としてお家に来てくれるって、お母様が言ってました」
「まあ」
「だから先生は、先生のお仕事を優先させてください。先生がお仕事をしている間、私はミーガンやポリーに遊んでもらいますから、心配ご無用」
胸を張ってにっこり笑う生徒の姿に、リュネットも笑みを零す。
「あなたが頼もしい生徒で、とても嬉しいです。では、今日は歴史の勉強から始めましょう。前回は何処までお話ししたかしら?」
「薔薇戦争が始まるところまでです、先生」
「そうでした。今から約四百年前の一四五五年、白薔薇のヨーク公リチャードが赤薔薇のランカスターへ反乱を起こし――」
リュネットの声は聞いていると心地がいい。かと言って、眠くなるわけでもない。
歴史の授業は退屈なことが多かった。内容をただ詰め込むことが多かった所為だろう。けれど、リュネットの授業はもう少しわかりやすくて、覚えやすいように物語仕立てにしてくれているときもあり、ただ詰め込んでいくのとは少し違う。先を急かしながら話を聞いていると、時間はあっという間に過ぎてしまうことがほんの少しだけ悲しかった。
歴史の次は国語の授業で、今日の題材はシェイクスピアの史劇からだった。丁度歴史の授業で教えられた薔薇戦争を題材にした『リチャード三世の悲劇』という作品で、とても興味深い。登場人物達の気持ちを考えたり、読み解いたりすることを指示されたが、それがまた楽しかった。
あっという間に昼食の時間となり、伯父がいない為、今日の昼食は一人で摂ることになった。少し寂しい気持ちもあったが、あまり気にしない。
午後は出かけるので、ミーガンを捕まえて着替えを手伝ってもらう。
「汚してもいい服はどれです?」
「私、転ばないわよ」
「でも、万が一ということもあります。これは大丈夫ですか?」
「あ、それは気に入ってるから嫌。そっちのクリーム色のにして」
着替えを済ませると、ハワードに言って荷馬車を貸してもらい、ジェシカ特製のおやつを詰め込んだバスケットを抱えて乗り込んだ。ミーガンはついでに村でのお遣いを頼まれていた。
天気はまあまあいいが、気温はそんなに高くない。これなら氷はしっかりしているだろうし、楽しめそうだ。
「そういえば、さっきのお話ですけど」
村までの道中まったく会話がないのも気不味いので、ミーガンは先程の話を持ち出した。
「お嬢様はなんの諜報活動をなさっているんです?」
「……知りたい?」
ミーガンが興味を示してくれたことが嬉しくて、ヴァイオレットはにんまりとする。
「私の使命はね、先生に恋人がいるのかどうか探ることと、伯父様が先生を虐めていないか探ることなの」
なんだそれは、とミーガンは苦笑する。
「旦那様はお優しい方ですし、エレノアさんはマーガレットお嬢様のお友達ということで、殊更優しくされていると思いますよ。今は移ってしまいましたけど、こちらに来た頃は客間に寝泊まりしていたくらいですし」
そんなミーガンの答えに「チッチッチッ」とヴァイオレットは指を振った。
「甘いわよ、ミーガン。裏では虐めているかも知れないわ!」
まさか、とまた苦笑する。
マシューは使用人に対しても親切で優しく、いつも気を遣ってくれている。他のお屋敷に勤めているメイド仲間の話とは雲泥の差があると感じるほどに、ここでの待遇はかなり恵まれていた。お給金も悪くない。
そんなマシューに対し、リュネットは時折威嚇するような仕種を見せることがある。けれどそれは、虐められているから警戒しているということではなく、どうやら男性があまり好きではないようなので、女性に対して気安いマシューの態度が気に入らないのだろう、とミーガンは思っていた。
「……ああ、そういえば、最近夜はよく二人きりでお話しされているみたいですね」
ここのところ毎晩、シェリー酒のグラスとホットミルクを用意するように言いつけて来るし、マシューの部屋の傍を通りかかるとドアが開いたままで、中から話し声が漏れ聞こえて来る。その声はマシューとリュネットのものだし、彼女が酒に弱いという話は本人から聞いたことがあるので、ホットミルクを飲むのは彼女なのだろうと思われた。
ドアが開いているので、なにかいかがわしいことをしている様子もなく、ときには微かな笑い声も混じるし、深刻そうな調子で言い合っていることもある。身分は違えど昔からの知り合いであるようなので、二人きりで相談することでもあるのだろう、と使用人達の間では密かな噂になっていた。
使用人の使う空間で過ごしてはいるが、リュネットは主人の客分だという認識が共通であったので、二人の毎晩の行動は特に訝しく思われることもなく、誰も触れなかった。不思議な関係だとは思っているが。
そんな二人のことよりも、メイド達の間で今一番興味を持たれているのが、マシューがこちらに戻って来て以来、一度もリタを呼んでいないことだ。
以前の彼はよくリタと会っていたし、二人のそれがどういう関係であるのかは、ミーガンもなんとなくわかっていた。それがこの二週間ほどは一度もないので不思議なものだ。
リタの他にもそういう関係だったメイドは何人かいるらしいのだが、ミーガンが勤め始める前にみんな辞めてしまっているし、噂程度にしか知らない。それでも、あの当主が女性と遊んでいるという噂は昔から絶えなかった。
(そういえば、エレノアさんって謎が多い人だよなぁ)
リュネットの顔を思い浮かべながら、ぼんやり思う。
本人は家庭教師をしている中産階級の出だと言っているが、主家のお嬢様とは何年も前からの親友だというし、その為にロンドンのお屋敷では客人扱いをされている、とタウンハウス勤めのメイド達が言っていた。だからといって、客人扱いのときに高飛車で横柄な態度を取るような人ではないので、彼女のことを嫌っている様子の者はない。
立ち居振る舞いは貴婦人のように美しく、それに似合う知性があって品もある。言葉遣いも丁寧だ。
それなのに、持っている服は少し古い見かけのものが多いし、鞄や靴なども相当使い込まれたものを身に着けている。ミーガンの方がお洒落かも知れない。髪型もいつも引っ詰めているようなものばかりで、若くて美人なのが勿体ないくらいに地味に装っている。
偽名を名乗っているのも謎だ。嫌な親戚に追われているので、逃げる為に偽名を使っていると言っていたが、それもまた彼女の素性を謎に包み込む。
「伯父様と先生は、恋人だと思う?」
夜に二人で会っているという話を聞いたヴァイオレットが、確認するように尋ねてきた。
そんなことあるわけない、というのがミーガンの回答だ。
「旦那様はどう思っていらっしゃるのか私なんぞではわかりかねますけども、エレノアさんはたぶん、男性が苦手なんですよ。だから、恋人もなにもないんじゃないでしょうか?」
「そうなの?」
「エレノアさんは特にそういうこと言いませんけど、たぶんそうだと思います。旦那様に対しても、ちょっと身を引いているところがあるような……」
「もしかして、伯父様が虐めたから男の人が嫌になって、恋人がいないのかしら」
「あはっ。なんでそうなるんですか」
なにがなんでもマシューがリュネットを虐めていることにしたいらしい。決してそんな関係ではないというのに、随分な誤解を与えているものだ。
「だって先生はとっても美人だから、恋人がいないなんておかしいじゃない?」
「まあ、こんな田舎にいるには勿体ない美人なのは確かですね」
そのことには同意する。地味に装っているのは、きっと例の嫌な親戚とやらから逃げる為にしていることで、人目を惹く彼女の容姿では、都市部ではすぐに見つかってしまうのかも知れない。
「でも、伯父様が虐めてないのなら、どうして先生は伯父様がお嫌いなのかしら? 男の人だから?」
だから何故そういう結論に至るのか、とミーガンは苦笑した。
「苦手にしてはいるようですけど、嫌ってはいないと思いますよ。そうでなきゃ、深夜に一対一で話なんてしないでしょう? お嬢様は嫌いな人と二人っきりでお喋りなんてしますか?」
「しない」
心底嫌そうな顔で首を振る。大嫌いな友達の顔でも思い出したのだろう。
そでしょう、と相槌を打つと、ヴァイオレットは大きく溜め息をついた。
「でも、メグ叔母様の結婚式で見たの。伯父様が話しかけると、先生、プイッてするのよ。こーんなお顔で!」
大袈裟に眉間に皺を刻みつけながら振り返るので、ミーガンは驚いた。
確かにリュネットはマシューのことを苦手としている様子はよく見かけるが、そこまであからさまに拒絶している様子はさすがに見たことがない。しかし、この小さなレディがそんな嘘をつくとも思えないので、それは事実なのだろう。これまたリュネットの謎が深まる。
なんでまたそんなことを探っているのだろう、とミーガンは不思議だった。母親の指示ということだが、リュネットの身上調査でもするつもりなのだろうか。それならば、ちゃんとした調査員を手配すればいいことだろうし、雇い主であるマシューの方が詳しく知っているだろうから、直接尋ねればよさそうなものなのに。
話しているうちに村に着いたので、スケート場になっている池の畔を目指して馬車を進める。そこにはヴァイオレットと同じような年頃の子供達や、仲睦まじそうなカップルが何組か集まっていた。
「それで、ミーガン。私に協力してくれる?」
スケート用の靴は少し大きかったので、念の為に持って来ていた厚手の靴下を二枚重ねで履かせていると、ヴァイオレットが小首を傾げた。
「諜報活動のお手伝いですか?」
そう、と小さな女諜報員は頷いた。
「この十日ばかり、私も一生懸命探ってみたんだけど、大人には大人にしか出来ない話もあると思うのよね」
随分とませた物言いをする。ミーガンは内心でほんの少し呆気に取られた。
「だからね、ミーガンはその大人の話を探って欲しいの」
「エレノアさんに恋人がいるかどうかってこととか、ですよね?」
「うん。それ最重要」
最重要なのがその部分なのか、と溜め息が零れる。
ヴァイオレットの母親はいったいなにを考えているのだろう。とても不思議だった。
ゴードンの後任が決まったらヴァイオレットの家庭教師を引き受けることになっているらしいという話は、ヴァイオレットがこちらに来た日に聞いた。とても有難い話で、家庭教師という仕事が好きなリュネットは心から嬉しいと微笑んでいた。
大切な娘の家庭教師として長く続けてくれるかどうか、恋人の有無から判断しようというのだろうか。確かに、結婚を約束した恋人がいて、雇ってから一年も続かずに辞められたりしたら、面倒だとは思う。それとも、恋人がいる浮ついた気質だと判断する為だろうか。それならば、マシューがリュネットを虐めているかどうかという情報は無用のような気がする。
ミーガンには上流階級の人が考えていることはよくわからない。
靴紐を結び終えたので、手を貸してリンクの上に導いてやってから手を離した。ヴァイオレットは自分で申告していた通り、スイスイと身軽に氷の上を滑り回る。楽しそうだ。
子供達はいつの間にか集まって一緒に遊び始めたので、ミーガンも彼等の保護者や付添いのメイド達と合流し、束の間のお喋りと、貴重な情報交換の時間を楽しんだ。
「そういえば、リタ。そろそろ辞めるんでしょ?」
顔見知りのメイドがそんな話を振って来たので、ミーガンはほんの少し驚きながらも、やっぱりな、と頷いた。
「まだはっきりと聞いてはいないんだけど、最近ラリーさんがよく来るのって、やっぱりそういうことなのかな。本当によく来るのよ」
「あーそうなんだ。じゃあ、本当っぽいね」
「でも、あのリタだよぉ? よく結婚する気になったよね、ラリー」
一人がほんの少し嘲笑じみた口調で言うと、そうよね、と全員が苦笑しながら同意した。
みんな生まれも育ちもこの辺りなので、リタのことは昔から知っている。それ故に、最近の彼女が誰とどういうことをしているのかも、当然ながらみんな知っていた。
ラリーは村の中では裕福な家柄だ。顔は美形ではないが醜男というほどでもなく、がっしりとして背は高く、ついでに真面目な働き者だ。年齢も二十代後半という結婚するにも丁度いい年頃で、結婚適齢期の娘達の中では相手として最有望株だった。
そんなラリーの選んだのがあのリタで、多少のやっかみも含まれているのだろう。集まった面々は少し歪んだ笑みを浮かべ、微妙な態度をしている。
ここでも恋愛の話なのだな、とミーガンは乾いた笑いを零す。
ついさっきまで小さな女諜報員からリュネットの恋人の有無について語られていたというのに、今度はリタとラリーの結婚の噂だ。女は何歳でもこういう話題が好きなのだろう。
(エレノアさんも、こういう話は好きじゃなさそうだよなぁ)
リュネットの涼しげな横顔を思い浮かべながら、次々に花開く噂話に適当な相槌を返した。
朝起きて顔を洗い、メイドに着替えを手伝ってもらって身支度を整えると、居間へと降りて行く。
火を入れられてあまり時間の経っていない居間は少し冷えるが、体温が高いまだ子供のヴァイオレットはその程度ものともせず、マントルピースへと駆け寄った。壁の方に寄せてあった踏み台をそこへ持って来て、飾られているアドベント・カレンダーの窓をひとつ開く――これが屋敷の主人である伯父から申し付けられた日課だった。
今日は十二月の十四日。降誕祭まではあと十日ほどで、ヴァイオレットがこちらに来てからも十日ほど経っていた。
「二十三日になったら、マリゴールド叔母様とテオが来るんですって。サミーも一緒に連れて来てくれるの」
一緒について来て様子を見守ってくれていたアニーに、ヴァイオレットは楽しそうに告げる。
「それは楽しみでございますね」
「うん。お母様が来られないのは悲しいけれど、今は大切な時期だってお父様が言ってたから、我慢しなくちゃね。私はお姉さんだから」
小さなレディの決意をアニーは微笑ましく見つめる。
「さあ、朝食の時間まで、先生のところに行っていらしてください。今日は散歩に行かれるのですか?」
「今日は図書室よ」
楽しげな微笑みを残してヴァイオレットは図書室へと駆けて行く。
新しい家庭教師の授業は楽しい。元々勉強は好きな方で、自分一人での勉強も苦にはならなかったが、彼女の教え方はユーモアがあって大好きだ。
とことこと走っていると、階段を降りて来る伯父の姿が見えた。
「あら、伯父様。今日はお早いんですね」
朝食の時間にきちんと起きていることなど三日に一度ほどの伯父の姿に、ヴァイオレットは意外そうな口調で声をかける。今日は身支度まで整えているのだから更に驚きだ。
「お母様と同じようなことを言うようになったね、ヴィオラ」
「何処かにお出かけなの?」
いつものフロックコート姿ではない伯父の服装に首を傾げると、そうだよ、と頷かれた。
「今日は森に行って来るよ。鹿が獲れればいいんだけど」
狩りに行くらしい。動物を銃で撃つなんて可哀想でヴァイオレットには理解出来ないことだが、鹿肉のスープは好きだ。
伯父の健闘を祈りつつ、再び図書室を目指した。
「先生、お早うございます」
窓際に大好きな家庭教師の姿を見つけたヴァイオレットは、礼儀正しく朝の挨拶をした。
「Bonjour」
しかし、返ってきたリュネットの言葉にハッとして慌てて言い直す。
「ボンジュール」
ふっとリュネットは微笑む。
「発音はまだ苦手のようですね。もう一度」
「ボンジュール」
「先生の口をよく見て。Bonjour」
「ボ、Bonjour」
「はい。よく出来ました」
合格点がもらえてホッとする。
フランス語の読み書きは、まあ不自由しない程度に習得しているのだが、発音に関してはまだ苦手分野で、そのあたりを徹底的に教え込んでくれ、と母から指導要請があったらしい。後々必要なこととはいえ、母国語すらもまだ勉強中の八歳児には少し荷が重かったが、先生の教え方は丁寧なので嫌ではない。少々スパルタさを感じるときもあるが。
リュネットは一冊の本をヴァイオレットに差し出した。
「フランス語の小説を見つけておきました。レディ・ヴァイオレットのお年では少し難しい内容かも知れませんが、今日からはこれを音読することにしましょう」
「はい、先生」
受け取った本の表紙には『LesTroisMousquetaires』と書いてある。どんな物語なのかはまだわからないが、面白そうだ。
その本を持ったまま朝食の為に食堂に行くと、丁度伯父も席に着くところだった。
「なにを持って来たのかな、お姫様。伯父様に見せてくれるかい?」
小さな姪の抱えて来た本に気がついたマシューは手を差し出し、それを見せてもらう。
「ああ、三銃士か」
「伯父様、知っているの?」
「知っているさ。何年か前に僕が買った本だからね」
出版されたのは十年ほど前で、その頃大陸の方に遊学していたマシューは、なかなか人気があると噂されていたその本を購入して持ち帰ったのだ。
自室の本棚になかったので人にやってしまったのかと思っていたが、図書室に置いてあったらしい。少しだけ懐かしむ。
「どんなお話?」
「忠義に熱い青年達が、悪者を倒すお話だよ。詳しくは自分の目で読んで確かめるといい」
勧善懲悪物の活劇譚だろうか。そんな風に見当をつけつつ、楽しみになって頷いた。
ヴァイオレットの年齢では恋愛小説などはまだ読んだことがない。童話や寓話集が中心だが、アーサー王伝説などの英雄譚については父が面白可笑しく話し聞かせてくれるので、興味はとてもある。この本もそういった類の本だろうと推察した。
食事を終えた伯父は、そのまま出かけるらしい。大物を仕留めて来るよ、と笑顔を残して出て行ったが、あまり期待をしないでおく。
ヴァイオレットもこのあとは勉強の時間だ。食後のお茶を飲んで部屋に戻り、授業の支度を整えて学習室へ向かった。
「あら、お嬢様。今ストーブに火を入れたところなんですよ」
ストーブの前に屈み込んでいたミーガンが顔を上げ、申し訳なさそうに頭を下げる。部屋の中が暖まるまでにはまだ時間がかかるのだ。
大丈夫、と頷いてストーブの傍に行き、ミーガンの隣に屈み込んだ。
「傍にいれば暖かいでしょ?」
「まあ……危ないですから、絶対に触らないでくださいね」
注意をしつつも心配なのか、リュネットが来るまで傍にいることにしたようだ。少しそわそわしながらも、ヴァイオレットの様子を窺っている。
「ねえ、ミーガン」
「なんですか?」
「ミーガンは先生と仲がいいのよね? お友達?」
この十日ほどの間で、リュネットがミーガンと楽しげに笑っている姿を何度となく見た。二人でいるところを見かける回数が圧倒的に多かったので、一番親しいのだろうと見当をつけてみる。
「友達というわけではないですけど……どちらかというと、親しくさせてもらっていると思います」
ちょっと誇らしげに言うと、ヴァイオレットは嬉しそうに頷いた。
「先生って恋人はいるのかしら?」
小さなお嬢様の口から出て来た大人びた話題に、ミーガンは目を真ん丸にする。
「なんですって?」
「こ・い・び・と。ミーガンはいる?」
「いませんよ。エレノアさんも……たぶん、いないと思います」
リュネットがこの屋敷で暮らすようになってからもうすぐふた月ほどになるが、彼女の口からそういった話題が出たことはない。寧ろリュネットは男性があまり好きではないような雰囲気で、主人であるマシューを除いては、家令のハワード以外と話している姿はほとんど見かけない有様だ。年下のピーターとは多少世間話もするようだが、他の従僕達とはそんなことをしている様子はまったく確認出来た覚えがない。
「どうしてそんなことを訊くんですか?」
八歳ならもう好きな男の子の一人や二人いてもいい年齢で、そういうことに興味を持ってもおかしくはないだろうが、大人に対して振るにはちょっと年不相応な話題の気がする。
訝しむ表情を隠しもしないミーガンに、ヴァイオレットはにやりと笑った。
「私ね、お母様からミツメイを受けている諜報員なの」
「密命ですか?」
なにかのごっこ遊びだろうか、と怪訝に思いながら声を潜めて鸚鵡返しにすると、そうよ、とヴァイオレットは頷いた。
「協力者になるなら教えてあげる」
「えぇ~……どうしましょう」
気になるかといえば、少し気になる。彼女の母が絡んでいるとなると、なにか面倒事ではないだろうか、と少し不安もあった。
「遅くなってごめんなさい。……あら、ミーガン」
なんと答えようかと迷っているところに、少し遅れていたリュネットがやって来た。
「丁度よかった。今日はゴードンさんがいらっしゃる日なの。午後からレディ・ヴァイオレットのこと……」
「あ、うん。わかった。お嬢様、今日の午後は私とお出かけしませんか? 村にスケート場が出来ているんです」
「スケート? 私、とても得意よ!」
ヴァイオレットは子供らしい表情で笑った。
午後の予定はそれで決まりですね、と応じたミーガンも微笑み、勉強の邪魔をしないように出て行った。
「ごめんなさいね、レディ・ヴァイオレット……」
自分の仕事の都合で授業を休むどころか、メイドに相手をさせたりもしていることを申し訳なく思って謝ると、しっかり者の生徒は首を振った。
「先生が別のお仕事をしていることは聞いています。このお屋敷に住んでいるのは、そのお仕事の為だって。でも、私がいい生徒で、先生が私に勉強を教えてもいいと思えたら、私の家庭教師としてお家に来てくれるって、お母様が言ってました」
「まあ」
「だから先生は、先生のお仕事を優先させてください。先生がお仕事をしている間、私はミーガンやポリーに遊んでもらいますから、心配ご無用」
胸を張ってにっこり笑う生徒の姿に、リュネットも笑みを零す。
「あなたが頼もしい生徒で、とても嬉しいです。では、今日は歴史の勉強から始めましょう。前回は何処までお話ししたかしら?」
「薔薇戦争が始まるところまでです、先生」
「そうでした。今から約四百年前の一四五五年、白薔薇のヨーク公リチャードが赤薔薇のランカスターへ反乱を起こし――」
リュネットの声は聞いていると心地がいい。かと言って、眠くなるわけでもない。
歴史の授業は退屈なことが多かった。内容をただ詰め込むことが多かった所為だろう。けれど、リュネットの授業はもう少しわかりやすくて、覚えやすいように物語仕立てにしてくれているときもあり、ただ詰め込んでいくのとは少し違う。先を急かしながら話を聞いていると、時間はあっという間に過ぎてしまうことがほんの少しだけ悲しかった。
歴史の次は国語の授業で、今日の題材はシェイクスピアの史劇からだった。丁度歴史の授業で教えられた薔薇戦争を題材にした『リチャード三世の悲劇』という作品で、とても興味深い。登場人物達の気持ちを考えたり、読み解いたりすることを指示されたが、それがまた楽しかった。
あっという間に昼食の時間となり、伯父がいない為、今日の昼食は一人で摂ることになった。少し寂しい気持ちもあったが、あまり気にしない。
午後は出かけるので、ミーガンを捕まえて着替えを手伝ってもらう。
「汚してもいい服はどれです?」
「私、転ばないわよ」
「でも、万が一ということもあります。これは大丈夫ですか?」
「あ、それは気に入ってるから嫌。そっちのクリーム色のにして」
着替えを済ませると、ハワードに言って荷馬車を貸してもらい、ジェシカ特製のおやつを詰め込んだバスケットを抱えて乗り込んだ。ミーガンはついでに村でのお遣いを頼まれていた。
天気はまあまあいいが、気温はそんなに高くない。これなら氷はしっかりしているだろうし、楽しめそうだ。
「そういえば、さっきのお話ですけど」
村までの道中まったく会話がないのも気不味いので、ミーガンは先程の話を持ち出した。
「お嬢様はなんの諜報活動をなさっているんです?」
「……知りたい?」
ミーガンが興味を示してくれたことが嬉しくて、ヴァイオレットはにんまりとする。
「私の使命はね、先生に恋人がいるのかどうか探ることと、伯父様が先生を虐めていないか探ることなの」
なんだそれは、とミーガンは苦笑する。
「旦那様はお優しい方ですし、エレノアさんはマーガレットお嬢様のお友達ということで、殊更優しくされていると思いますよ。今は移ってしまいましたけど、こちらに来た頃は客間に寝泊まりしていたくらいですし」
そんなミーガンの答えに「チッチッチッ」とヴァイオレットは指を振った。
「甘いわよ、ミーガン。裏では虐めているかも知れないわ!」
まさか、とまた苦笑する。
マシューは使用人に対しても親切で優しく、いつも気を遣ってくれている。他のお屋敷に勤めているメイド仲間の話とは雲泥の差があると感じるほどに、ここでの待遇はかなり恵まれていた。お給金も悪くない。
そんなマシューに対し、リュネットは時折威嚇するような仕種を見せることがある。けれどそれは、虐められているから警戒しているということではなく、どうやら男性があまり好きではないようなので、女性に対して気安いマシューの態度が気に入らないのだろう、とミーガンは思っていた。
「……ああ、そういえば、最近夜はよく二人きりでお話しされているみたいですね」
ここのところ毎晩、シェリー酒のグラスとホットミルクを用意するように言いつけて来るし、マシューの部屋の傍を通りかかるとドアが開いたままで、中から話し声が漏れ聞こえて来る。その声はマシューとリュネットのものだし、彼女が酒に弱いという話は本人から聞いたことがあるので、ホットミルクを飲むのは彼女なのだろうと思われた。
ドアが開いているので、なにかいかがわしいことをしている様子もなく、ときには微かな笑い声も混じるし、深刻そうな調子で言い合っていることもある。身分は違えど昔からの知り合いであるようなので、二人きりで相談することでもあるのだろう、と使用人達の間では密かな噂になっていた。
使用人の使う空間で過ごしてはいるが、リュネットは主人の客分だという認識が共通であったので、二人の毎晩の行動は特に訝しく思われることもなく、誰も触れなかった。不思議な関係だとは思っているが。
そんな二人のことよりも、メイド達の間で今一番興味を持たれているのが、マシューがこちらに戻って来て以来、一度もリタを呼んでいないことだ。
以前の彼はよくリタと会っていたし、二人のそれがどういう関係であるのかは、ミーガンもなんとなくわかっていた。それがこの二週間ほどは一度もないので不思議なものだ。
リタの他にもそういう関係だったメイドは何人かいるらしいのだが、ミーガンが勤め始める前にみんな辞めてしまっているし、噂程度にしか知らない。それでも、あの当主が女性と遊んでいるという噂は昔から絶えなかった。
(そういえば、エレノアさんって謎が多い人だよなぁ)
リュネットの顔を思い浮かべながら、ぼんやり思う。
本人は家庭教師をしている中産階級の出だと言っているが、主家のお嬢様とは何年も前からの親友だというし、その為にロンドンのお屋敷では客人扱いをされている、とタウンハウス勤めのメイド達が言っていた。だからといって、客人扱いのときに高飛車で横柄な態度を取るような人ではないので、彼女のことを嫌っている様子の者はない。
立ち居振る舞いは貴婦人のように美しく、それに似合う知性があって品もある。言葉遣いも丁寧だ。
それなのに、持っている服は少し古い見かけのものが多いし、鞄や靴なども相当使い込まれたものを身に着けている。ミーガンの方がお洒落かも知れない。髪型もいつも引っ詰めているようなものばかりで、若くて美人なのが勿体ないくらいに地味に装っている。
偽名を名乗っているのも謎だ。嫌な親戚に追われているので、逃げる為に偽名を使っていると言っていたが、それもまた彼女の素性を謎に包み込む。
「伯父様と先生は、恋人だと思う?」
夜に二人で会っているという話を聞いたヴァイオレットが、確認するように尋ねてきた。
そんなことあるわけない、というのがミーガンの回答だ。
「旦那様はどう思っていらっしゃるのか私なんぞではわかりかねますけども、エレノアさんはたぶん、男性が苦手なんですよ。だから、恋人もなにもないんじゃないでしょうか?」
「そうなの?」
「エレノアさんは特にそういうこと言いませんけど、たぶんそうだと思います。旦那様に対しても、ちょっと身を引いているところがあるような……」
「もしかして、伯父様が虐めたから男の人が嫌になって、恋人がいないのかしら」
「あはっ。なんでそうなるんですか」
なにがなんでもマシューがリュネットを虐めていることにしたいらしい。決してそんな関係ではないというのに、随分な誤解を与えているものだ。
「だって先生はとっても美人だから、恋人がいないなんておかしいじゃない?」
「まあ、こんな田舎にいるには勿体ない美人なのは確かですね」
そのことには同意する。地味に装っているのは、きっと例の嫌な親戚とやらから逃げる為にしていることで、人目を惹く彼女の容姿では、都市部ではすぐに見つかってしまうのかも知れない。
「でも、伯父様が虐めてないのなら、どうして先生は伯父様がお嫌いなのかしら? 男の人だから?」
だから何故そういう結論に至るのか、とミーガンは苦笑した。
「苦手にしてはいるようですけど、嫌ってはいないと思いますよ。そうでなきゃ、深夜に一対一で話なんてしないでしょう? お嬢様は嫌いな人と二人っきりでお喋りなんてしますか?」
「しない」
心底嫌そうな顔で首を振る。大嫌いな友達の顔でも思い出したのだろう。
そでしょう、と相槌を打つと、ヴァイオレットは大きく溜め息をついた。
「でも、メグ叔母様の結婚式で見たの。伯父様が話しかけると、先生、プイッてするのよ。こーんなお顔で!」
大袈裟に眉間に皺を刻みつけながら振り返るので、ミーガンは驚いた。
確かにリュネットはマシューのことを苦手としている様子はよく見かけるが、そこまであからさまに拒絶している様子はさすがに見たことがない。しかし、この小さなレディがそんな嘘をつくとも思えないので、それは事実なのだろう。これまたリュネットの謎が深まる。
なんでまたそんなことを探っているのだろう、とミーガンは不思議だった。母親の指示ということだが、リュネットの身上調査でもするつもりなのだろうか。それならば、ちゃんとした調査員を手配すればいいことだろうし、雇い主であるマシューの方が詳しく知っているだろうから、直接尋ねればよさそうなものなのに。
話しているうちに村に着いたので、スケート場になっている池の畔を目指して馬車を進める。そこにはヴァイオレットと同じような年頃の子供達や、仲睦まじそうなカップルが何組か集まっていた。
「それで、ミーガン。私に協力してくれる?」
スケート用の靴は少し大きかったので、念の為に持って来ていた厚手の靴下を二枚重ねで履かせていると、ヴァイオレットが小首を傾げた。
「諜報活動のお手伝いですか?」
そう、と小さな女諜報員は頷いた。
「この十日ばかり、私も一生懸命探ってみたんだけど、大人には大人にしか出来ない話もあると思うのよね」
随分とませた物言いをする。ミーガンは内心でほんの少し呆気に取られた。
「だからね、ミーガンはその大人の話を探って欲しいの」
「エレノアさんに恋人がいるかどうかってこととか、ですよね?」
「うん。それ最重要」
最重要なのがその部分なのか、と溜め息が零れる。
ヴァイオレットの母親はいったいなにを考えているのだろう。とても不思議だった。
ゴードンの後任が決まったらヴァイオレットの家庭教師を引き受けることになっているらしいという話は、ヴァイオレットがこちらに来た日に聞いた。とても有難い話で、家庭教師という仕事が好きなリュネットは心から嬉しいと微笑んでいた。
大切な娘の家庭教師として長く続けてくれるかどうか、恋人の有無から判断しようというのだろうか。確かに、結婚を約束した恋人がいて、雇ってから一年も続かずに辞められたりしたら、面倒だとは思う。それとも、恋人がいる浮ついた気質だと判断する為だろうか。それならば、マシューがリュネットを虐めているかどうかという情報は無用のような気がする。
ミーガンには上流階級の人が考えていることはよくわからない。
靴紐を結び終えたので、手を貸してリンクの上に導いてやってから手を離した。ヴァイオレットは自分で申告していた通り、スイスイと身軽に氷の上を滑り回る。楽しそうだ。
子供達はいつの間にか集まって一緒に遊び始めたので、ミーガンも彼等の保護者や付添いのメイド達と合流し、束の間のお喋りと、貴重な情報交換の時間を楽しんだ。
「そういえば、リタ。そろそろ辞めるんでしょ?」
顔見知りのメイドがそんな話を振って来たので、ミーガンはほんの少し驚きながらも、やっぱりな、と頷いた。
「まだはっきりと聞いてはいないんだけど、最近ラリーさんがよく来るのって、やっぱりそういうことなのかな。本当によく来るのよ」
「あーそうなんだ。じゃあ、本当っぽいね」
「でも、あのリタだよぉ? よく結婚する気になったよね、ラリー」
一人がほんの少し嘲笑じみた口調で言うと、そうよね、と全員が苦笑しながら同意した。
みんな生まれも育ちもこの辺りなので、リタのことは昔から知っている。それ故に、最近の彼女が誰とどういうことをしているのかも、当然ながらみんな知っていた。
ラリーは村の中では裕福な家柄だ。顔は美形ではないが醜男というほどでもなく、がっしりとして背は高く、ついでに真面目な働き者だ。年齢も二十代後半という結婚するにも丁度いい年頃で、結婚適齢期の娘達の中では相手として最有望株だった。
そんなラリーの選んだのがあのリタで、多少のやっかみも含まれているのだろう。集まった面々は少し歪んだ笑みを浮かべ、微妙な態度をしている。
ここでも恋愛の話なのだな、とミーガンは乾いた笑いを零す。
ついさっきまで小さな女諜報員からリュネットの恋人の有無について語られていたというのに、今度はリタとラリーの結婚の噂だ。女は何歳でもこういう話題が好きなのだろう。
(エレノアさんも、こういう話は好きじゃなさそうだよなぁ)
リュネットの涼しげな横顔を思い浮かべながら、次々に花開く噂話に適当な相槌を返した。
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