侯爵様と家庭教師

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28 侯爵様に捧ぐ覚悟

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 いつまでも泣いていたって仕方がない、とリュネットは涙を拭った。

 床に当たる爪先が冷たくて、ブーツを履いていなかったことを思い出す。スカートの裾で足先を包み、寒さから身を守るように蹲った。
 ストーブには火が入っていないし、浴槽にお湯も張られていない浴室は冷え冷えとしていた。あまり冷えるとお腹が痛くなる、と不安になりながら身体を摩り、今の状況を整理することにする。

 マシューは思い通りにならないリュネットに腹を立てているのだろう。普段はこんな乱暴なことはしない人だが、怒るとこうなるのか、と妙に達観した気分になった。
 恐らく、彼は駄々を捏ねているのだ。小さな子供がするように。
 出会ったときからマシューはもう成人した男性だったので、こういう子供じみた面があるとは知らなかった。なんだかおかしくなってしまう。
 今の彼もリュネットと同じなのだろう。自分の感情が制御出来ていないように感じる。
 リュネットが自分の気持ちについて行けずに泣き出すのと同じように、マシューも感情の持って行き場を失い、原因となっているリュネットに当たっているのだ。それくらいはリュネットがいくら鈍感でも気がつく。

「エレノアさん? 大丈夫?」

 考え込んでいると小さく声をかけられた。ミーガンだ。慌ててドアに近づく。

「ミーガン、ここを開けられない? 出たいの」

「待ってて。ミセス・モンゴメリに鍵を借りて来る」

 この屋敷では全部屋の鍵を家令ハワード家政婦モンゴメリが一組ずつ管理している。男主人マシュー寄りのハワードはきっと貸してくれないので、モンゴメリに頼んでみるということだった。
 しばらくして二つの足音と鍵の束が擦れ合うジャラジャラという音が近づいて来た。

「エレノアさんがここに閉じ込められているの?」

 モンゴメリは朝の騒動を知らなかったらしい。怪訝そうな声でミーガンに尋ねながら、鍵を探している。

「――…まあ、驚いた。どうしたのですか?」

 ドアを開けると蹲ったリュネットが本当にいたので、モンゴメリは目を丸くした。ほらね、とミーガンは胸を張り、すぐにリュネットの隣に屈み込む。

「怪我はない?」

「ないわ。大丈夫」

「いったいなにをして旦那様を怒らせたの?」

「……わからないの」

 一番の原因は求婚を断ったことだろうが、それだけで閉じ込めたりするような人ではないと思う。他にもなにか怒らせるようなことをしてしまっているのだ。
 リュネットは溜め息を零し、ミーガンに手を借りて立ち上がった。

「可哀想に。すっかり身体が冷えてしまって……あらまあ! 裸足じゃないの」

 リュネットの様子を確かめたモンゴメリは再び目を丸くする。女性が身体を冷やしてはいけないわ、と暖かい部屋に連れて行ってくれようとしているところに、バーネットがやって来た。彼はリュネットの部屋からブーツを持って来てくれたようだ。

「遅くなって申し訳ありません。ハワードさんと旦那様をお諫めしていたもので」

 ご無礼をお許しください、と足許に屈み込み、冷え切った足に手早くブーツを履かせてくれる。男性に足首を見られるなんてとんでもないことだが、今は仕方がない。

「いったいなにがあったのです?」

 事情がわからないモンゴメリは不審そうにバーネットを見るが、彼は「私の口からは……」と濁して口ごもる。リュネットも俯いた。
 その様子だけで、経験豊富な家政婦はピンときたようだ。

「ポリーは何処です?」

「今、ハワードさんと一緒に、旦那様のところに」

「それならいいでしょう」

 タウンハウスのメイド頭をしているポリーは、マシュー達兄妹が小さい頃からの奉公人だ。今この屋敷の中にいる使用人の中で、主人一家とはモンゴメリの次に付き合いが長い。諫め役には最適だろう。

「エレノアさん――いいえ、レディ・リュネット。一緒に来て頂けますか?」

 その呼称にリュネットはびくりとする。青褪めてミーガンの様子を窺うと、彼女は怪訝そうにリュネットを見返してきた。
 貴族の娘だと知られたくなくて黙っていたのに、と嫌な気分になる。明るく前向きなミーガンとは、なるべく近い立場の友人として接していきたかったのに、きっとこれでそれは叶わなくなる。
 けれど、知られてしまったのなら仕方がない。リュネットは背筋を伸ばした。

「参ります」

 しゃんとした声で答え、バーネットに導かれて階段へと向かう。

「ミーガン、あなたは仕事に戻っていなさい。皆にもそう伝えておくのよ」

「あ、はい……」

 立ち去るリュネットの後ろ姿を見送っていたミーガンに指示を出し、モンゴメリもふたりのあとを追った。
 やっぱりなあ、とミーガンは納得した表情をした。以前からリュネットのことは不思議だと思っていたのだ。実家はちょっと裕福なだけの普通の家庭だと言っていたが、それにしては品がよすぎるし、雰囲気が違うと思っていたのだ。

(マーガレットお嬢様とお友達だっていうのも、そういうわけだったんだ)

 全部が腑に落ちた。そして、友達だと思っていたのに、真実を話してくれなかったことが、ちょっとだけ寂しく感じた。

 ミーガンがひとりでほんの少しだけ落ち込んでいる頃、リュネット達はマシューの部屋の前に辿り着いていた。
 ノックをしてドアを開けると、中では不貞腐れた子供のような表情でソファに腰掛ける当主に対し、ハワードとポリーが睨みを利かせている状況だった。

「大丈夫ですよ」

 青褪めるリュネットの肩を抱き、モンゴメリが囁く。リュネットも静かに頷き返した。

「もう一度伺います、旦那様」

 ハワードの声が静かにマシューに呼びかける。先程からずっと押し問答のような言葉の応酬を繰り返しているらしい。

「何故あのようなことをなさったのですか? 皆が納得出来る理由をご説明ください」

 せめてひっそりと行われたことならこんなことを咎めはしないが、今朝のマシューの様子は明らかにおかしかったし、尋常ではないと判断する。
 自分達の主人が、帳簿管理人補佐の為に滞在している少女に対してどのような感情を持っているのか、屋敷のほとんどの者達は暗黙の裡になんとなく理解している。理解しているからこそ、今朝の乱暴な態度には理解が示せないのだ。
 使用人から責められるという屈辱に腹立たしそうな表情をしているマシューは、部屋の隅にリュネットの姿を見つけ、更に機嫌を損ねた。

「なんでリュネットを出したんだ」

 詰問する声が低い。多分に苛立ちを含んでいるのは明らかだ。

「お連れして当たり前です。女性をあんなに冷えるところに閉じ込めるなんて酷すぎますよ、旦那様!」

 リュネットを庇いながらモンゴメリが声を荒げると、ハッとしたような表情になり、静かに頭を抱えた。そうして、長く長く息を吐き出す。

「……どうかしていたのは認める」

 両手で頭を抱えたまま呟き、もう一度溜め息をついた。
 どうしたものか、とその場にいた使用人達は顔を見合わせた。こんな様子の主人は今まで見たこともない。

「どうしてあんなことをなさったんですか?」

 ポリーが頭を抱えて俯いているマシューの傍に膝をつき、優しく尋ねる。強く責める口調ではなく、あくまで事情を聞く為だけの言葉を選ぶと、マシューは小さく「不安だった」と答えた。

「いくら尋ねてもリュネットは自分の本心を言ってくれないし、僕にどうして欲しいかも言わない。それがこんなにも不安に感じるとは思わなかった」

 リュネットには、一番の親友であるメグにさえなにも言わずに姿を消していた前科があるので、考えていることを教えてくれないことが不安なのだ、とマシューは言う。またなにも言わずに、忽然と身を隠してしまいそうで。
 だから閉じ込めてしまいたかった。いつの間にかいなくなってしまわないように。

「こんな不安なんて、身体を繋げれば満たされると思ったんだ。でも、心が繋がったわけじゃない。余計に不安になってしまった」

 肌を重ね合ったのにこんなにも虚しい気分になったのは初めてだ。今まではこれで満足出来ていたのに。
 そんなマシューの告白を聞いて、リュネットは胸の奥が痛むのを感じた。
 やはり、リュネットが彼に対する気持ちがわからず、モヤモヤと落ち着かない気分になっていることに不安を感じているのと同じように、彼もまた、リュネットがはっきりしないことに対して苛立ちを募らせていたのだ。
 今までマシューが付き合ってきた女性で、リュネットのような曖昧で不安定な気持ちの女性はいなかったことだろう。皆が皆マシューのことを好きで寄り添い、睦み合っていた関係だろうに、リュネットはそういうわけにいかない。それなのに、マシューのことを拒絶することはなく、ふわふわと傍には留まっている。そのことがマシューを苛立たせているのは、傍にいたバーネットもポリーも感じていた。

 嫡男として生まれたマシューは、のびやかに育てられてきた妹達と違い、幼い頃から我儘を言わないように躾けられてきていた。妹達の兄であるのだから、彼女達にも紳士的に優しくし、忍耐強くあれ、と厳しく父に言い含められていた。
 その彼が我を通そうとしている。しかし、そのやり方がわからずに、藻掻いているように見える。
 彼を幼い頃から知る使用人達は、僅かに同情した。彼は感情を抑えて温厚に振る舞うように育てられた為、この年になって知った激情の持って行き方がわからないのだ。

「旦那様は、レディ・リュネットのことをどうなさりたいのですか?」

 リュネットの肩を優しく抱きながら、モンゴメリは主人に尋ねる。
 マシューは溜め息を零した。

「結婚してくれって言ったら、身分が違うから無理だって言われた」

 その言葉にバーネット以外の三人の視線がリュネットへと向かう。リュネットは居た堪れなくなって俯いた。
 マシューがリュネットに対してあれこれなにかしている様子には気づいていたし、自分達も後押ししている面もあったが、求婚までしていたとは思わなかった。そして、それを断られているとも思わなかった。
 主人の行動がおかしい理由に納得がいき、それぞれに顔を顰めた。こうなってしまうと当人達の問題で、使用人である自分達が口出しを出来るような話ではない。

「旦那様は、リュネット様が屋敷からいなくならないと確信が持てれば、閉じ込めたりするおつもりはないということですか?」

 ハワードが言葉を選びながら尋ねる。
 そうだね、とマシューは頷いた。一時的のつもりだったとはいえ、寒い浴室に閉じ込めたことは反省しているらしい。
 ハワードはモンゴメリを振り返り、目配せして頷き合った。

「この度のことに関して、お嬢様は被害者であり、旦那様は加害者です。その自覚はおありですか?」

「ああ」

「結構です。そのことを踏まえまして――旦那様が冷静になられるまで、お嬢様と一緒にいさせるわけには参りません。これ以上お嬢様を傷つけさせることは看過出来ませんので。そのことに対してご意見は?」

「……ないよ」

「同意を頂けて嬉しゅうございます。では、お嬢様にはしばらく、旦那様のお目に触れない場所で過ごして頂きます」

 その言葉にはマシューが眉間に皺を寄せた。言い返そうと口を開きかけるが、ハワードから「目に触れずとも屋敷から遠ざけるようなことは致しません」と言質を取ったので抑える。

「旦那様は今日一日、お部屋から出られないようにお願い致します。お食事もこちらで。よろしゅうございますか?」

 まるで悪戯を叱られ、物置に閉じ込められる子供のような処置だ。だが、冷静さを取り戻すには、誰とも会わずに自分の行動を振り返る為、閉じ籠もっている方が都合がいいかも知れない。マシューは家令の指示に素直に頷いた。

「お嬢様から旦那様にお会いするのは自由としますが、必ず誰かを同行させてください。決して二人きりになられませんように」

 よろしいですね、と念押しされ、リュネットも頷いた。彼女からはマシューに会いに行ったりしないのだという考えなのだろう。
 以上です、とハワードは言葉を切る。
 マシューは文句は一切なにも言わず、家令の言葉に従うようだ。リュネットも同意した。

「モンゴメリさん、お嬢様をお願いしますね」

「心得ました」

 リュネットはモンゴメリのところに預けられるらしい。さあ、行きましょう、と促され、一緒に踵を返す。
 部屋を立ち去りながら振り返り、マシューの姿を確かめる。彼は大きく溜め息を零し、ソファの上に倒れ込んでいた。

「今日は金曜日ですけれど、ゴードンさんはいらっしゃるのですか?」

 階段を下りながらモンゴメリが尋ねてくる。リュネットが仕事に慣れてきたので、最近は週に四日、午後から半日だけやって来る。
 リュネットは首を振った。

「今日は四十回目の結婚記念日なのですって。だからお休みしたいそうです」

「まあ、そうでしたか。それでは、今日はゆっくり出来ますね」

 モンゴメリはにっこりと優しく微笑み、自分の仕事部屋へとリュネットを招き入れた。

「お腹は空いていませんか? 今お食事をお持ちしますね」

「あ、いいえ。自分で休憩室に行きます」

 そんなことまで手を煩わせるのは忍びない、とリュネットは困惑するが、モンゴメリはやんわりとそれを遮った。
 朝のひと騒動で、使用人達の関心はリュネットに向いていることは明らかだ。そんなところへ出て行けば、思わぬ方向で傷つくことになるかも知れない。

「私も食べ逃していますの。ここでこっそりと頂きましょう」

 待っていてくださいね、と出て行き、すぐに二人分の食事を持って戻って来た。
 軽くトーストしたパンと卵焼きと、こんがり炙られた厚切りのベーコンが美味しそうだ。リュネットは急にお腹が空いてきたような気がして、早速フォークを手にする。
 卵をひと口サイズに切って口の中に入れたとき、ノックの音がした。

「スープを忘れてたよ」

 そんなことを言いながら二人分のカップを持って現れたのは、ジェシカだった。南瓜が安く仕入れられたので、今日は南瓜のポタージュだという。
 礼を言って受け取り、ひと口飲んでみる。初めて飲んだスープは思ったよりもずっと甘く、食事というよりもお菓子のようだ。

「美味しい」

 ホッとするような優しい甘さのスープに思わず笑みが零れると、そうかい、とジェシカが微笑んだ。モンゴメリも同じように微笑んで見つめてくる。
 そこでリュネットは気づいた。二人がリュネットをとても心配してくれていたことに。
 マシューとの間になにがあったのか、誰も訊いてこない。それはもしかすると、だいたいの予想がついているからなのかも知れないが、その優しさに気づいた瞬間、リュネットの両目から涙が溢れてきた。

「大丈夫だよ。恐いことはないからね」

 そう言ってジェシカはリュネットの頭を抱き寄せる。大きくふくよかなジェシカの胸は、涙に濡れるリュネットの頬をすっぽりと包み込み、とても温かかった。
 早朝からホットミルクを作ってくれただろうジェシカは、バーネットが取りに来たという時点で、きっとなにがあったのかわかっているのだろう。だから、優しく頭を撫でてくれる手の温かさに、余計に涙が溢れてきた。

「私……拒めなかったのです」

 リュネットは吐息交じりに胸の内を零した。

「いけないことだとわかっていたのに、嫌だったのに、拒めなかったのです。意志の弱い私が悪いのです」

「そんなことないよ。馬鹿なこと言うもんじゃない」

 己を責めるリュネットの言葉をジェシカが遮って否定する。リュネットが悪いところなんてひとつもないのだ、と。

「あんたはなにも悪くない。こういうのは男が全面的に悪いと昔から決まっているんだ」

「そうですよ。悪いのは旦那様です」

 モンゴメリも同意し、ハンカチを持って来て涙を拭ってくれる。その優しさにリュネットはまた涙を溢れさせた。

「まったく酷い旦那様だよねぇ。こんなに可愛い娘を泣かすんだから」

 ジェシカは軽口のような雰囲気でそんなことを言う。リュネットの涙を重く捉えないようにしてくれているのだろう。

「育て方を間違えたかしらね」

 モンゴメリも同じく軽口を叩く。
 病弱だった先代夫人の代わりに、子供達に母親らしいことをしてやっていたのは、このモンゴメリだという。母代りというほど大袈裟なものではないが、乳母や子守りとは違った立場で子供達を見守ってきた。だからこそそんな母親のような言葉が飛び出すのだ。
 リュネットは微かに笑った。
 いろいろと酷いことをされたが、マシューが本当は優しい人であることは知っている。リュネットを大切にしてくれていることも。
 彼にあんな行動を取らせてしまったのは、どう考えてもリュネットの所為だ。ジェシカたちは否定してくれているが、リュネットが彼を苛立たせて追い詰めたのは事実だろう。

 手首に触れると、昨夜抑えつけられて痣になっているところが少し痛む。そんな乱暴なことをさせてしまったのも、リュネットがいけないのだ。
 これは責められたからそう思い込んでいるわけではない。先程のマシューの言葉を聞き、リュネットが曖昧な態度を取り続け、彼の優しさの上に胡坐を掻いて踏ん反り返っていたのが原因なのだと、今ならはっきりとわかる。寛大さに甘え過ぎていたのだ。
 リュネットは涙を拭いた。

「この髪……あの方が結ってくれたんですよ」

 マシューが髪を結ってくれている間、リュネットの心はとても落ち着いていたことを思い出す。髪を触れられていることを不快に感じることはなく、彼が丁寧に梳いてくれたり、編んだりするその動きを感じて、リュネットは何処か安らいでいた。
 リュネットの言葉を聞き、モンゴメリとジェシカは驚いたようだった。

「へえ……上手いもんだね」

「昔から手先の器用な方ではあったけど、こういうこともなさるのね」

 綺麗な編み込みになっている髪型を見て、二人は感心したようだ。ほうほうと頷き合いながら、リュネットによく似合っているその髪型を褒めた。

「ミセス・モンゴメリ」

 二人の賞賛に微笑み返しながら、リュネットは静かに告げる。

「私は、あの方ときちんと話さなければいけないのだと思います。あの方の優しさに甘えていたことを謝らなければ」

 弱々しく泣いていた少女の決意に、母親のような二人は心配そうにしながらも、勇気づけるような笑顔で頷いた。





 夕刻、メイド達の仕事も一段落し、夕食までの寸暇を得たミーガンを呼び止めた。

「一緒について来て欲しいの」

 ひとりで会うことはハワードから禁止されている。リュネット自身もひとりでマシューの許へ行く勇気はまだない。それでも、どうしても会わなければいけないと思っていた。
 ミーガンは少し戸惑った。勤め始めて以来、マシューとはほとんど接点がない。ただでさえ緊張する相手だというのに、今朝の騒動のこともあり、リュネットのお供をすることが躊躇われた。
 けれど、リュネットが自分を頼ってくれたという事実に、嬉しくもなった。

「いいよ。行きましょう」

 普段は決してこんなことはしないが、二人は小さな子供のように手を繋いでマシューの部屋に向かった。
 繋いだその手を通し、ミーガンはリュネットの緊張を感じ取った。指先どころか掌まですごく冷たくなって、微かに震えている。
 大丈夫だよ、という気持ちを込めて、手を握る力を少し強くする。ミーガンの手の温かさが伝わって、緊張が少しでも解けてくれるといい。
 ドアの前に辿り着くと、リュネットは緊張から少し青褪める。何度も唇を噛み締め、舐め、呼吸が僅かに上擦っているので、躊躇しているのだと思われた。だから代わりにミーガンがノックをした。
 中に控えていたバーネットがドアを開けてくれた。
 彼はリュネットが立っていたことに驚いたようだが、思いつめたような表情のリュネットに覚悟の気配を感じ取り、静かに招き入れてくれる。

「――…旦那様、レディ・リュネットがいらっしゃっています」

 マシューはソファの上に仰向けに寝そべり、両腕で目許を覆っていた。
 バーネットの呼び掛けにもしばらく反応しなかったが、ややして溜め息を零す。

「僕は今、物凄い自己嫌悪に浸っているんだ。きみに合わせる顔はないよ」

 何故あんなことをしてしまったのか、マシューは自分でもよくわかっていなかった。
 リュネットのことをこの腕から離したくなくて、何処かに閉じ込めてしまいたいという気持ちは以前からあったが、実行に移すつもりなど微塵もなかった。それ故に今日の行動は常軌を逸していたと思う。

「昨夜のこともだ。いくら謝っても仕方がない。きみのことを、きっと想像以上に傷つけたろうね」

 リュネットは激しくなる鼓動を感じながら、それを落ち着ける為に浅く呼吸を繰り返す。高まって行く緊張に手が震え始めると、その手をミーガンが強く握ってくれた。
 ミーガンは勇気づけるように頷いてくれた。リュネットも頷き返す。



 リュネットの声は静かに、しかしはっきりと響いた。
 いつものように爵位で呼ばなかったその声に、マシューは顔を上げる。

「謝罪をするのは、私の方です」

 少し震えそうになる声を意識しながら、リュネットはゆっくりと息を吸い込む。

「私はずっと、あなたの優しさに甘え過ぎていました。意図していなかったこととはいえ、あなたが怒っても当然のことをしていたのです」

 許してください、とリュネットは膝をついた。その姿にマシューは起き上がり、苦しげに「やめてくれ」と零した。

「僕がきみに愚かなことをした事実は変わらない」

「マシュー……」

 眉間に皺を寄せて苦悩する様子に、リュネットは悲しい気持ちになる。やはり彼を苦しめているのはリュネットなのだ。
 リュネットは手首の痣に目を落とす。

「私、あなたをどう思っているのか、まだ自分の気持ちがよくわからないのです」

 手首には細い線が何本か並んでいる。それが指の形だとわかった。昨夜、ここにはマシューの手が触れていたのだ。

「あなたは大好きなメグのお兄様です。尊敬しています。でも、少し恐く感じるときもあります」

 リュネットはたどたどしく自分の気持ちを言葉にしていく。

「今朝あなたは、私の髪を結ってくれました。それを嫌だとは感じませんでした」

 そう、とマシューは微かに笑って頷いた。

「あなたに触れられることを、嫌だとは感じていません――それが私がはっきりと意識している、あなたに対する気持ちです」

 リュネットは精一杯の笑顔を浮かべる。
 髪を触られるのは嫌ではない。抱き締められるのは嫌ではない。キスももう嫌ではない。身体を重ねるのは――さすがに抵抗があるが、他のことは嫌ではない。触れ合うことで安心するときもある。

「私は、あなたのことが……好きなのだと思います」

 マシューに対するこの気持ちは、亡き両親に対して抱いている気持ちとも、メグに対して抱いている気持ちとも違う。ミーガンに対しての気持ちとも、アニーやアンナ、ジェシカ、ミセス・モンゴメリなど、一緒に働いているこの屋敷の使用人達に抱いている感情ともまったく違う。
 酷いことをされたのに、マシューに対して感じていた気持ちに変化はなかった。酷い男だとは思ったが、以前のように嫌悪するようなことはなかった。
 異性にこんな気持ちを抱いたことは初めてで、リュネットにはこれをなんと呼ぶのかわからない。けれど、好意であることだけは確かだと思う。
 リュネットはミーガンの手から離れ、茫然とこちらを見つめているマシューの許へ歩いて行く。

「――…本気で言っている?」

 すぐ目の前に立ったリュネットを信じられない思いで見上げながら、マシューは表情を歪めた。

「これは本心です」

 好きだと思うのは本心だが、本当の気持ちがわからないのも本心だ。
 マシューにはそれだけでも十分だった。

「抱き締めてもいい?」

 いつも確認などしないくせに。おかしな人だ、と思いながら「……どうぞ」と答えた。
 マシューの腕が躊躇いがちに伸びてきて、リュネットの腰に触れ、そのままゆっくりと引き寄せる。リュネットはそれに抗わなかった。
 ああ、とマシューが吐息を漏らす。

 リュネットは、やっぱり、と思って微かに笑った。
 触られるのは嫌じゃない――それがリュネットの出せる答えなのだ。
 縋りつくように寄せられたマシューの頭を、リュネットは包み込むようにそっと抱き返した。


 

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