侯爵様と家庭教師

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29 まだまだ曖昧な関係

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 そうですか、とハワードは微かな溜め息交じりに頷いた。

「お嬢様がそれでよろしいと仰るのなら、わたし共からはなにも言うことはございません」

 マシューの気持ちに応えることにしたリュネットの決意を、ハワードとモンゴメリは複雑そうな表情で受け止める。
 自分達の主人が昨夜なにをしたのか、彼女の身に起こった出来事を二人は一応は把握している。それでもいい、と本人が言うのなら、自分達には止めることもなにもないと思っているのだ。

「婚約式は早い方がいいですね」

 モンゴメリもまた溜め息交じりに呟いた。ほんのふた月ほど前にメグの結婚式を終えたばかりなので、少し期間を設けたいところだが、なるべく早い方がいいだろうと考える。
 その言葉に、いいえ、とリュネットは驚いたように首を振る。

「婚約をしたわけではありません」

 その答えには今度は二人が驚いた。

「でも、ご結婚なさるのでは?」

「そういうわけでは……」

 尤もな疑問だと思うが、リュネットは答えに窮してしまう。
 マシューの気持ちに寄り添うことを決めはしたが、結婚を考えてはいない。そのことをどう説明すればいいのか、と思案するが、上手い言葉が見つからない。
 ハワードとモンゴメリは顔を見合わせた。
 実際のところ、彼等はリュネットがマシューに対してどのような感情を抱いているのか、まだ把握出来ていない。けれど、あれだけ酷いことをした主人と共にいる決意をしたのだから、それなりの感情は持っているのだろう、とは思われた。

「もしかして、レディ・リュネットは、お仕事を続けられたいのですか?」

 モンゴメリはふと思いついた考えを尋ねてみる。
 家庭教師ガヴァネスの仕事を好きだという話は雑談の折に何度か聞いたことがあるし、年末に滞在していたヴァイオレットに勉強を教えている姿は生き生きとしていた。あの様子を見る限り、結婚して家庭に入ることよりも、仕事を続けたいのではないか、という考えが当て嵌まるような気がする。

 そうですね、とリュネットも頷いた。モンゴメリの指摘は、リュネットのはっきりしない気持ちの内のひとつを正確に当てていると思う。彼女のその指摘は大きく頷けるものだった。
 家庭教師の道を選んだのは、自分にも出来そうなことが勉強くらいだったので、それを活かした職業を求めた結果だったが、仕事内容的にはかなり自分に合っていたと今では思っている。あまり接したことのなかった子供は苦手だと思っていたが、いざ向き合ってみるとそうでもなく、勉強を教えることが好きだとも思えていた。

 マシューと結婚するということは、貴族の当主夫人レディ・カートランドとなることだ。そんな身分の女性が仕事をするわけにはいかず、リュネットは家庭教師の仕事辞めなければいけなくなる。
 今まではいろいろな事情が重なって長続きせずに困っていたが、仕事を嫌いなったわけでもなく、次の仕事先も一応は内定している状態なので、続けたい気持ちは強い。ゴードンの後任が決まったあとは、出来れば家庭教師の仕事に復帰したいと思っていたのだから。

 しかしながら、マシューとの結婚を渋る理由は、それだけではない。
 このことはリュネット自身もまだ上手く説明出来ない。マシューに対する気持ちもまだ曖昧なので、その所為もあるのだろう。

 リュネットが説明する為の言葉を探して悩んでいると、ハワードが「わかりました」と結論を出す。

「つまり、お嬢様と旦那様は、いずれはご結婚なさるかも知れないが、それが確定ではない――そういう交際をされるということですね?」

 その言葉はリュネットが悩んでいる関係性をぴったりと言い当てていた。
 そうです、と大きく頷く。
 マシューとの結婚が死ぬほど嫌だということはない。そうしなければいけない状況なら受けるだろう。しかし、積極的にしたいわけでもない。
 こういう考え方は、あまり歓迎されないものだろう。だから上手く説明出来なかった。
 なるほど、と主人に最も近い上級使用人の二人は頷いた。

「本来、使用人であるわたし達は、旦那様がお決めになられたことには異を唱えません。お二人がそういう関係を望まれるのなら、わたし共もそのお気持ちに従います」

 ハワードは自分達の考えをそう説明し、リュネットの気持ちを受け入れる旨を表明した。
 今朝は主人であるマシューに対して詰問したりもしていたというのに、口を出さない、と言い切るハワードの言葉にリュネットは思わず笑ってしまう。とんだ矛盾だ。
 そんなリュネットの笑みの理由に気づいたのか、ハワードは軽く咳払いをした。

「今朝のことは、出過ぎたことと自覚しております。けれど、本日の旦那様の行いはさすがに目に余るものであり、我々階下の者の風紀も乱されました故に、無礼を承知で少々諫言致しました」

「わかっています」

 年齢的に見て、マシューにとってハワードは兄のような存在なのではないか、と思うときがある。二人で話している姿などを見るとそういう雰囲気を感じるのだ。
 先代家令の孫だという話は聞いたことがあったので、きっと幼い頃から一緒に育ってきたのではないかと思う。そんな彼だからこそ、今朝のような態度に出たのだろうことは容易に想像がついた。
 ハワードが軽く咳払いをする。

「事情はわかりました。では今後わたし共は、お嬢様のことをどのお立場として接していけばよろしいでしょうか?」

 当主の交際相手として接するとなると、その関係はおおっぴらにするものなのか、秘めたるものなのかでも変わってくる。
 リュネットは緩く首を振った。

「今まで通りにしてくださると嬉しいです。私は帳簿管理人のゴードンさんの補佐役で、家庭教師のエレノア・ホワイトなのです」

 マシューとの関係については、変に意識して欲しくない気持ちが強い。周囲から意識されると、リュネット自身も意識しなくてはならなくなるだろうから。
 そのことを説明すると二人はすぐに理解してくれて、同意してくれた。

「では、今まで通り、当家の半客分という形でよろしいのですね?」

「そうして頂きたいです」

「わかりました。今朝のことは……そうですね、いつもの意見の行き違いということにしておきましょう」

 リュネットとマシューがよく意見を対立させていることは、屋敷の使用人達の誰もが知っていた。その説明で事足りるだろう。

「モンゴメリさんもそれでよろしいですよね?」

「ええ、そうですね。レディ・リュネットがそうお望みなら」

 なんだか歯切れの悪い言い方をする。そのことにはハワードも気づいたようで、意外そうな表情で「なにか不満でもありますか?」と首を傾げる。モンゴメリは少し困ったような顔をした。

「私が、というより、旦那様のご不興を買われるのではないかと思いまして……」

 その指摘にはリュネットが僅かに顔を顰める。
 確かにマシューが不機嫌になりそうだ。ただでさえ家庭教師の部屋にいることが気に食わないらしく、ヴァイオレットが帰って家庭教師業は休業になったのだから、元の客室に戻れ、と思い出したかのように度々口にしてくる。少々うんざりしていた。
 それでも、リュネットは今は雇われ人の身分だ。本来なら村に借家でも借りなければならないところを、厚意に甘えて滞在させてもらっているのだし、待遇としては使用人部屋を利用させてもらえれば十分なのだ。これ以上の厚遇は居た堪れない。
 そんなリュネットの言い分も理解出来るので、モンゴメリは微妙な表情をしているのだ。

「まあ、今朝もはっきり宣告させて頂きましたし、お嬢様――失礼。ミス・ホワイトには、今夜から別の部屋に移って頂きましょう」

 今リュネットが使っている家庭教師の部屋は、マシューの部屋と同じ三階にある。廊下の端と端とはいえ、行き来は簡単に、しかも人目につくことなく出来てしまう。既にそういう行為に至ったらしいとはいえ、未婚の男女の距離感としてはあまり好ましくない。
 今朝ハワードは、マシューに向かって、リュネットはしばらく彼の目に触れない場所で過ごさせる、と宣言しているので、その通りの部屋で寝起きしてもらおうということだ。これにはリュネットは反対する理由もなにもないので、素直に従う。

「荷物はそのままでも構いませんよ。どうせすぐに旦那様が文句を言われるでしょうから。身の回りのものを軽く纏めて、西塔の部屋に移ってください」

「西塔……ですか?」

 あまり意識したことはなかったが、この屋敷は城塞に近い作りをしているので、四方に塔がある。デザイン的なもので使用していないと思っていたのだが、どうやら内部は使えるようになっているらしい。

「旦那様のお部屋が東側にありますので、一番遠い位置ということで。以前は侍女などの上級使用人の部屋だったこともありますので、中は快適だと思います」

 掃除もしておいた、と言うので、リュネットは有難くその話を受けることにした。
 使用人が使っていた部屋ということで、階下への行き来も楽だという。使用人達の行き来する廊下の奥の方に鍵がかかっていたドアがあったのだが、どうやらその奥の通路と直結しているらしい。それは助かる、とリュネットは素直に喜んだ。




 その後の五日ほど、リュネットはマシューと顔を合わせなかった。
 特に用もないし、リュネットとしてはなにも変わらない日常を過ごしていたのだが、彼への気持ちをほんの少し自覚し始めていた為、時折ふと寂しさのようなものを感じはした。だが、だからといって、会いに行こうと考えるほどでもなかった。

「エレノアさんは冷めているよね」

 ジェシカの入れてくれたお茶を手に、午後のほんのひとときの休憩を満喫するミーガンは、ゴードンとの仕事を一段落させ、同じく休憩室にやって来たリュネットに言った。

「冷めてる、って?」

 お茶は温かいわ、などと的外れなことを考えながら座ると、ミーガンは大袈裟な溜め息を零した。

「明日から旦那様お留守なんだよ?」

「あら、そうなの?」

 初めて聞いた。マシューがハワードの言いつけを守って会いに来ないので、彼の情報はリュネットにほとんど伝わってこないのだ。
 旅行かしら、などとのんびり口にすると、ああ、とミーガンは再び溜め息を零す。
 ミーガンにだけは二人の関係のことをなんとなく伝えてある。彼女もそれは薄々感づいていたようで納得していたが、それ故に、リュネットの態度にやきもきしていた。

「なんでそんなに無関心なの? 普通はもっと気にかけるものじゃないの?」

「どうして?」

 自分に関わりのない範囲なら、マシューが何処でなにをしていようがまったく気にならない。関わりがあるのなら気になるが。
 本気できょとんとするリュネットの様子に、ミーガンはマシューが憐れに思えてきた。

「可哀想な旦那様……」

 その言い方は少し引っかかる。それではまるでリュネットがマシューに酷いことをしたみたいではないか。じっとりと見つめると、ミーガンも見つめ返してくる。

「ミーガンの言い方だと、私が侯爵に会いに行かなければならないみたい」

「だってそうでしょ? 旦那様からエレノアさんに声をかけるのは禁止だって、ハワードさんに聞いたもの。エレノアさんが会いに行くのは大丈夫なんでしょう?」

 だからといって用もないのに会いに行くのもどうかと思う。リュネットは顔を顰めた。
 その様子にミーガンは呆れ返った。

「一緒について行くから、会いに行って差し上げてよ」

 そう言って手を引っ張られる。
 なんで、というのが正直な気持ちだ。確かに五日も顔を見ていなくてほんの少し寂しいような気もしていたが、特に会いたいとも思っていないし、わざわざ離れて暮らしているのに自分から近づく意味がわからない。
 そういうところが冷めているんだ、とミーガンは怒る。
 よくわからないまま、ミーガンに引きずられてマシューの部屋までやって来たが、生憎と不在だった。居間の方にいる筈だ、とバーネットに言われ、下の階へと引き返す。
 もういいではないか、とリュネットは少しうんざりした。所在を探してまで会う必要性を感じないのに、ミーガンは強引だ。
 階段を降り始めるとピアノの音が聞こえて来た。どうやら居間の方にいるのは確実なようだ。

「失礼致します、旦那様」

 珍しくピアノに向かっているマシューに声をかけ、ミーガンは膝を折る。

「ミーガン? どうかした?」

 演奏の手を止めないまま尋ね、背中越しに僅かに視線を向ける。はい、と頷いたミーガンは、黙っているリュネットの脇腹を小突いた。
 リュネットは溜め息を零しながら、渋々とピアノの傍へと寄って行った。

「――…やあ。どうしたの? きみが訪ねて来てくれるなんて、明日は吹雪かな」

 リュネットの姿に気づいたマシューは手を止め、笑みを向けた。

「明日からお出かけなさると聞いて……」

 後ろからミーガンが睨みを利かせている気配をひしひしと感じながら、リュネットは言葉を選んで話を続けた。
 そんなリュネットの様子に気づいているのか、マシューはおかしそうに微かに笑い、そうだよ、と頷いた。

「この前話しただろう? ゴードンの後任候補のマイケル・グレアムに会って来るんだ」

 本来ならこちらに来てもらって面談をする予定だったのだが、向こうの仕事の都合との折り合いがつかず、こちらから動くことにしたらしい。
 そうですか、とリュネットは頷いた。いよいよこの土地との別れが近づいて来たわけだ。

「土曜日にヨークでヘンリーと会う約束があるし、三日ほど留守にするよ」

「そうですか。ヘンリーさんによろしくお伝えください」

 ふた月程前に結婚したばかりのメグの夫の名前から、彼女のことを思い出し、最近手紙を書いていなかったことに気づく。あちらからも届いていなかったのですっかりと失念していた。

「ところで、リュネット」

 今夜にでも手紙をしたためよう、と考えていると、マシューが少し不機嫌そうな目を向けてくる。なんだろう、と首を傾げると、

「いつまでそんな離れたところにいるの? もう少しこっちに来て、ちゃんと顔を見せてよ。もう五日もきみと話していなかったんだから」

 と言って手招きするように手を差し出された。
 傍まで来ているが、手も触れぬ距離だ。それがマシューは気に入らないらしい。

 行動に困って後ろを振り返ると「ほらね」と言わんばかりの表情をしたミーガンが、行け、と手振りで示していた。リュネットは眉間に皺を寄せ、溜め息を零す。
 仕方なくもっと傍へ行ってすぐ隣に立つと、マシューは不機嫌そうな顔をやめてにっこりと微笑む。

「会いたかった」

「……そうですか」

「きみに会えなくて、とても寂しかった」

「はあ」

「キスしていい?」

「人がいます」

 マシューの言葉に対して端的な言葉で答えていることに気づき、これは確かに冷たい対応だ、とリュネットもさすがに思い至る。慌てて「手を握るくらいなら」と応じると、マシューはすぐにリュネットの手を握ってきた。

「なにか土産を買って来るよ。なにがいい?」

「特に欲しいものはありません。お気遣いありがとうございます」

 この答えにはマシューがつまらなさそうな顔をする。その様子に、こういうときは可愛らしくなにかしら強請ねだるものがマナーなのだろうか、と考えてみるが、リュネットは欲しいものが本当になかった。強いて言うならば、緑と赤の刺繍糸がなくなりそうになっていることが気になる程度だ。
 いくら考えても他にはなにも浮かばない。

「それでは……刺繍糸をお願いしてもいいでしょうか?」

「刺繍糸?」

「緑色と赤色がなくなりそうなのです。緑は明るめの色合いのものを二種類ほどと、赤は濃いめで朱に近いものを買って来て頂けると、助かります」

 雑貨屋オズボーンのサイラスとリリーに双子が生まれたので、赤ん坊の健やかな成長を願い、魔除けの意味があるナナカマドを刺繍していたのが原因だ。緑の葉と赤い実の所為であっという間に使い切ってしまいそうになっている。
 いいよ、とマシューは頷いた。本当はもっと高価なものを強請って欲しいところだが、リュネットはそういう贅沢はあまり好まないようで、今回頼んできただけでも珍しいことなのだ。

「他には? なにか菓子でも買って来ようか?」

 大抵はジェシカが作ってくれるが、街に出れば珍しい味や見た目のものもある。そういうものはどうか、と尋ねるが、リュネットはあまり気乗りしなかった。
 首を振りつつ考え、言葉を探す。

「では、あの……ご無事にお帰りください」

 ようやく思いついた言葉がそれだったのだが、マシューを驚かせるには十分だった。
 マシューは双眸を瞠ってリュネットを見つめ返し、ややして破顔した。

「きみの口からそんな言葉を聞けるなんてね」

 感激した、と握っていた手に口づける。リュネットは頬を淡く染めた。
 少し離れている位置とはいえ、人が見ているところであまりべたべたと触らないで欲しい。恥ずかしいのだが、と僅かに顔を顰めながらマシューの旋毛を見下ろす。

「リュヌ」

 マシューはリュネットの腰に腕を回し、抱き寄せる。なにを言っても無駄だろう、と一応は抗わずに従うが、背後に控えているミーガンの視線が気になって仕方なかった――が、そのミーガンの姿が見当たらないことに気がついた。いつの間にいなくなってしまったのだろうか。
 二人きりになるな、とハワードから言われていたというのに、とリュネットは僅かに身体を強張らせる。その様子に気づいたマシューはリュネットの視線を追い、彼女がなにに対して焦っているのかに感づいた。

「大丈夫、なにもしないよ」

 そう言いながら抱き寄せる力のかけ方を変え、リュネットを隣へと座らせる。

「でも、キスはしたいな」

 人目がなくなったからいいだろう、と囁きながら頬に触れ、驚いたように固まっているリュネットに微笑みかける。
 咄嗟のことに言葉を探して答えられずにいると、その沈黙を肯定だと受け取ったのか、マシューが唇を寄せてきた。重なり合う熱に、リュネットは思わず身を震わせる。

 マシューのキスは優しい。羽が触れるような軽いキスを何度か繰り返したあと、頬に触れていた手が首の後ろに回されたかと思うと、深く口づけてくる。優しさから一変したそのキスに眩暈がする。リュネットは息を詰め、縋りつくようにシャツを握り締めた。
 キスへの応え方などまだわからない。マシューが舌を絡めてくるので、それにたどたどしく添わせる程度で精いっぱいだ。

「――…んっ……ふぅ……」

 酸素を求めて少し唇を逸らそうとすれば、鼻にかかるような甘ったるい吐息が漏れる。それがなんだか媚びているようで恥ずかしかったが、マシューの手が背骨のあたりを撫でるのに震え、もう一度吐息を漏らした。

「可愛いね、リュヌ」

 キスの合間にマシューは囁く。とても愛しげな声で。
 その声は嫌いではないと思った。
 何度も深く口づけられるのへ応えながら、この行為を嫌がっていない自分のことを、リュネットははっきりと認め、素直に受け入れた。そう感じると、胸の奥に小さく温かなものが灯ったような気がする。

 一頻ひとしきりキスを堪能したかと思うと、リュネットが意識を手放す前に解放してくれた。
 それでも多少は息が上がり、手足に思うように力が入らなくなる。ぐったりした肢体を抱き締め、その背をマシューは優しく撫でた。

「明日の朝、きみの髪を結わせてよ」

 今度はなにを言い出すのか、とリュネットはぼんやりと瞳を瞬かせる。

「髪を結うのは嫌いじゃないって言ってたじゃないか。しばらく留守にするんだし、いいだろう?」

 どうやらマシューは、五日も会えずにいたことと、これから更に三日ほど会えなくなることとあるので、リュネットと少し触れ合いたいようだ。
 少し考えた末に、それくらいならいいだろう、と許可を出した。
 翌日は十一時の汽車に乗る予定だから、と言われたので九時に会うことを約束して、もう一度キスをしてから別れた。
 ミーガンは居間を出てすぐのところに立っていた。ふらふらと出て来たリュネットを見つめ、とても満足そうだった。
 彼女が何故そんな表情でにんまりとしているのかはわからなかったが、リュネットも少しだけなにか満たされたような心地になっている自分に気づき、実は考えていたよりももっとマシューに会いたくなっていたのだな、と納得した。
 けれど、ミーガンの言う通りだったことがなんとなく癪だった。ちょっとだけ拗ねたような表情を見せると、彼女は慌てて謝って来たので、いつの間にか姿を消していたことは許してあげることにした。

 翌日は約束通り、マシューに髪を弄らせてやった。
 今回は先日とはまた違う髪型に結うので、改めてマシューの器用さを知る。練習などをしている風でもないのに、と不思議だったが、以前メグが読んでいた婦人向けの雑誌に掲載されていた髪型特集を見て覚えていたらしい。
 耳が少し隠れるようにふんわりとさせながら、後ろの高めの位置に編んで纏めた髪を留めている今日の髪型は、先日の編み込みより少し大人っぽい。何処となく古風さもあって、リュネットは嫌いではなかった。
 しかし、マシューは気に入らなかったようだ。

「もう少し研究の余地あり、かな」

 本当はやり直したかったようだが、時間もないということで断念し、しばらくいろいろな角度から眺めてそう結論づける。
 帰ったらまた試させてくれ、と言われたので、呆れながらも頷いた。
 こんなことばかり上手くなっても仕方がないだろうに、と思うのだが、マシューにとってはリュネットの髪を弄れることに意味があるようだった。
 取り敢えずは上機嫌になって出かけて行くマシューとバーネットの姿を見送り、リュネットはいつもの仕事に戻った。面接にはゴードンも一緒に行くことになっているので、今日はひとりでの作業となる。

 昼食も終えて再び帳簿整理に没頭していると、真っ青に顔色を悪くしたミーガンから、来客があったことを知らされた。

ロンドン警視庁スコットランド・ヤードの警部だって名乗ってるんだけど」

 訪ねて来るような人はいないのに、と怪訝に思って立ち上がると、ミーガンが素早く耳打ちしてきた。
 それこそ一切関わり合いのない名称と階級の人物だ。リュネットは顔を歪める。

「とにかく、会ってみなくちゃいけないわね」

 ミーガンの話によると、少しお腹の出た中肉中背の警部は「エレノア・ホワイトさんはいらっしゃるかね」と比較的丁寧な物腰で訪ねて来たのだという。
 いったいなんの用なのだろうか。リュネットは警察の世話になるようなことをした覚えはないし、なにか事件に関わった覚えもない。
 唯一あるとすれば、ドナルド達が捜索願とでも称してなにか訴えたか、だ。

「エレノア・ホワイトさんかね?」

 四十後半か五十絡みくらいの見た目の警部は、心配そうにしている使用人達の人垣を掻き分けてやって来たリュネットにそう尋ねた。

「そうです。どちら様でしょうか?」

「ロンドン警視庁のジョン・ハウス警部と言います」

 警部は名乗りながらちょいっと帽子を持ち上げ、気持ちばかりの会釈をした。
 ハウスはリュネットのことをじろじろと眺めながらコートの懐を探り、折り畳まれた紙を取り出す。

「えー、エレノア・ホワイト」

 皆が怪訝そうな表情で見守る中、ハウスは折り畳まれた紙を広げ、その場の全員に文面が見えるように掲げ持った。

「お前を窃盗と傷害の容疑で逮捕する」




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