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38 二度目の求婚
しおりを挟む「正直なお話をお聞かせ頂きたいですわ、お兄様」
どうせ駅に行くまでの通り道なのだから、帰る前にちょっと顔を出して行ってくれ、とカトレアから連絡をもらって立ち寄ったギリンガム家のタウンハウスには、妹達三人が勢揃いしていた。
リュネット達はチャールズから今回の詳しい顛末を聞いているところだが、マシューだけは妹達に別室へと呼び出されている。
「なんだ、雁首揃えて……」
給仕された紅茶を受け取りながらマシューは眉間に皺を寄せた。午前の早いうちから集まっているなんて、珍しいこともあるものだ。
「メグちゃんから聞きましたのよ、お兄様。エレノアさん――いいえ、リュネットさんと、いったいどういう関係になっていますの?」
責めるような口調のカトレアからメグの方へ視線を向け、ああ、と溜め息が零れる。
「なんの話かと思えば……お前達には関係がないことだろう」
血の繋がった兄妹ではあるが、三人とももう他家に嫁いでいる身だ。実家の雑事など気にする必要もない。
しかし、それはマシューの立場からの話だ。妹達はそうは思っていない。
「なんですって!?」
即座に眉を吊り上げたのはマリゴールドで、それに同意したのはメグだった。
「私の親友に関わることよ。関係ないわけないじゃない」
「でも、僕とリュネットの問題だ。僕か彼女がなにか言わない限り、お前達には関係がないだろう? 余計な詮索と口出しは野次馬のようでみっともないぞ」
そう言われてしまえばその通りだ。別に自分達になにか実害があるわけもないのだから、兄達がどのような関係であろうとも、三人に口出しする権利はない。
それでもメグは気に入らない。はぐらかして黙秘する兄の様子に腹が立った。
そんな兄に「確かに仰る通りね」とカトレアは同調した。
「カトレアお姉様まで……」
メグが悲しげに呟く。姉はメグの味方だと思っていたのに。
悲しげにしゅんとなった末妹へ目を向けてから、大袈裟なほどの溜め息を零し、カトレアは緩く首を振った。
「でもね、お兄様。私達の心配もわかってくださいませんこと? だってほら、お兄様は、その……今までいろいろとおありになったから……ねぇ?」
わざと言葉を濁し、ちろりと横目で兄の顔を見る。マシューは決まり悪そうにした。
今までの自分の素行の悪さはわかっているし、そのことで妹達に多少迷惑をかけていた自覚もある。そんな今までの経緯から、リュネットとのこともそういったものではないのか、と心配されても反論することは出来ない。前科は山程あるのだから。
痛いところを突かれてしまった。マシューは紅茶を啜って気持ちを落ち着けてから、小さく息を吐く。妹達は胡乱気な目つきで兄を見つめているが、心の内ではかなりにやにやとしていた。
「僕は、リュネットを妻にしたいと思っている」
淡々と告げられたその考えに、メグは心中で拳を握り締める。カトレアとマリゴールドも驚いて口許を覆った振りをしながら、同様ににやりとした。
ようやく兄からしっかりとした言質を取れたのだから嬉しくない筈がない。やはり彼は、リュネットのことを相当気に入っていたのだ。
「まあ、そうでしたか」
カトレアはわざとらしいくらいの口調で、初めて聞いて驚いたような態を装う。マリゴールドも頷いた。
女性関係の派手な話題で社交界とゴシップ紙を賑わせていた兄も、ようやく身を固める決心をしてくれたのだ。それを嬉しく思わずしてなんとする。
「リュヌが私のお義姉様になるのね」
メグは声を弾ませ、二人が結婚することを歓迎する意思を見せた。
マシューは妹達の様子を見ていてなにか感じたようだが、そのことに関してはなにも言わず、そうだな、と他人事のように頷いた。
「あら。なにか問題でもありますの?」
こういう態度のときの兄は、大抵なにか思うところがあるのだ。カトレアはその様子を敏感に感じ取り、怪訝そうに兄を見つめ返した。
うん、と頷きながら、マシューは手許のカップに視線を落とす。残り少なくなっている紅茶の表面に、少し暗い表情の自分が映り込んでいることに気づき、意外にも自分が落ち込んでいることを自覚させられた。
「……リュネットは、たぶん、家庭教師の仕事を続けたいんだと思う」
マシューの気持ちは受け入れられ、彼女からも答えが返されはしたが、心の奥底ではまだ僅かに拒んでいると思う。その理由の大きなものが、自分の力で糧を得ると決めた夢の実現だとマシューは思っている。
リュネットは家庭教師という仕事に誇りを持っているし、その仕事が好きだ。それは見ていればすぐにわかることだから、マシューはその気持ちを卑しいと見下したり、愚かしいと否定したりはしない。教鞭を取って生き生きとしているリュネットは、とても素敵だと思うから。
けれど、マシューの妻となってはそれは叶わない。
仕事をすることを容認してやりたいが、家庭教師というものは普通は住み込みでの仕事であり、淑女にも許された職業ではあるので、未亡人や行かず後家の女性達が就くことはあるが、さすがに夫が存命している侯爵夫人がそんなことをするわけにはいかないだろう。
自分の子供が生まれたら勉強を教えてやることも出来るだろうが、社交シーズンともなればそんな暇はなくなるだろうし、マシューの妻となれば結局仕事を諦めなければならないのだ。そのことがマシューは心苦しく感じている。
諦めて結婚に踏み切るしかないと決心させる為には、孕ませてしまえばいい、とマシューは思っていた。子供が出来れば働きになど出れなくなるし、大人しく家庭に入るしかないだろうと思ったからだ。家族の愛情に餓えているリュネットが、己の内に宿った命を粗末にするとも思えなかったので、それが最良の策だと考えたのだ。
しかし、その目論見は一度失敗しているし、ジュヌヴィエーヴからは釘を刺されているし、マシューはどうすべきか悩んで立ち止まっている状態だ。
「変わった子ねぇ。侯爵夫人なんて、なりたくてもなれるものじゃないのに」
マリゴールドは呆れたように呟いた。
人付き合いなどで多少の苦労はすることになるだろうが、裕福な暮らしは約束されているし、つらい目に遭いながら他人に扱き使われて働く必要などないのに。
「そこがリュヌのいいところなの」
心優しい頑張り屋さん、というのがリュネットに対するメグの評価だ。それにはマシューも同意する。
「とにかく、この件はこれ以上口出ししないでくれ。僕には僕の考えがあるから」
今まで散々浮名を流してきたマシューが、初めて本気になった恋だ。しかも相手はあのリュネットで、何度も迫ってようやくこちらへ気持ちを向けて来てくれたところだというのに、妹達に突き回されるのだけはごめんだ、と首を振る。
三人が心中で揃って舌打ちを漏らしたとき、ヴァイオレットとサミュエルが興奮気味に部屋に駆け込んで来た。
「お客様がいらしている最中ですよ」
相手は兄や妹なので問題はないが、一応窘める。ごめんなさい、と二人は謝ったが、すぐに母の許へ駆け寄って来て口を開いた。
「お母様! エレノア先生のお祖母様って、エレノア先生にそっくりなの!」
「お祖母様なのにそっくりなんだよ!」
子供達の興奮する様子を見たマシューとメグは、あれは確かに驚くだろう、と苦笑する。ジュヌヴィエーヴの姿を見ていないカトレアとマリゴールドは首を傾げるばかりだ。
「さて……そろそろ汽車の時間もあるし、お暇しようかな。お前達の話は終わりだろう?」
「ええ、そうね。玄関までお見送りするわ」
三人は立ち上がり、領地へ帰る兄を見送ることにする。いいのに、とマシューは笑うが、呼び立てたので礼儀は果たしたい。
玄関に行くと、リュネットがコートを受け取っているところだった。表情が僅かに暗いのは、ドナルド達の話を聞き、ここ最近のつらかったことを思い出していたからだろう。
「あ、レディ・ギリンガム……」
カトレアの姿に気づいたリュネットは顔を上げ、その声に気づいたジュヌヴィエーヴとアリスティドも振り返った。
「今回は大変でしたね、リュネットさん。ご無事でよかったわ」
「はい。ギリンガム卿にはいろいろ助けて頂きまして、本当になんとお礼を申し上げていいものか……」
「気になさらないで。我が家もあなたにはお世話になりましたもの。アドベントシーズンは、子供達を預かってくださって助かったわ」
「お力になれたのなら幸いです」
久しぶりに会ったヴァイオレットとサミュエルも元気そうで、リュネットは嬉しくなる。
カトレアはそんなリュネットの後方へ目を向け、帰り支度を整えているジュヌヴィエーヴへと会釈した。
「リュネットさんのお祖母様でいらっしゃいます?」
「ええ、そうですわ、レディ・ギリンガム。ご挨拶もせずにお邪魔していて、申し訳ございません」
「私こそお出迎えもせずに失礼致しました」
礼儀正しく挨拶しながらも、その目はジュヌヴィエーヴの顔に釘づけになる。瓜二つの容貌にも驚きだが、とても二十歳近い孫がいるようには見えない。そんな視線に慣れているジュヌヴィエーヴは微笑み返すだけに留める。
「このあとは如何なさいますの? 兄達とご一緒にカートランドへ?」
わざわざ海を渡って来てすぐに帰ることはなかろう、と当たりをつけて尋ねると、市内に宿を取っているということだった。
「まあ。そうですの……。失礼ですが、どちらに?」
「ベイズウォーターの方に。もう荷物は預けて参りましたし、駅まで見送りをしてそのまま送って頂く予定ですのよ」
メイフェアのリッツではなかったか。その地区なら何年か前に開業した宿だろうな、と見当をつけ、
「どのくらいご滞在の予定ですの? もしよろしければ、一度お夕食にお招きしたいのですけれど」
当たり障りなく尋ねる。リュネットの親族なら親しくなっておいて損はないし、兄の援護に役立つかも知れない。
「いろいろとやることもありますので、取り敢えず十日程の予定でお部屋は抑えましたの」
ジュヌヴィエーヴはおっとりと微笑んで答え、そのあとは滞在を延長するか、宿を移るかはまだ決めていないと答えた。
「それでしたら、是非我が家にお越しくださいませ。奥様がなさることって、今回のことに関してのこともあるでしょうし、それは夫が手助け出来ると思うのですけれど」
ロンドン警視庁に行くにしてもこちらからの方が近いし、中心地寄りである。交通の便もいいと思うのだが、と提案すると、ジュヌヴィエーヴは困ったようにアリスティドを見つめた。
「こう仰って頂いているけれど……」
「いいんじゃないですか? 旅費が抑えられるのは有難いですし、ご迷惑でなければ甘えさせて頂いても」
モンクレーヌ家はそれなりに裕福ではあるが、常に大金を持ち歩いているわけではない。今回の旅費も多少余裕がある程度にしか持参していないので、少しでも浮くなら財布的に助かる、とアリスティドは明け透けなく答えた。
それもそうね、とジュヌヴィエーヴも頷く。
「では、お言葉に甘えさせて頂きますわ、レディ・ギリンガム。けれど、何日かしたら領地の状況を見る為に発とうと思っておりますので、お世話になるのはそちらから戻ってからに致します」
「いつでも大歓迎ですわ。お越しになる日をお待ちしておりますわね」
見送りについて来ていたヴァイオレットは瞳を輝かせる。嬉しそうにカトレアのスカートを引くので、優しく頭を撫でてやった。
そんな会話をしていると、マシューが時計を見て「時間がないな」と呟いた。
「何時の汽車に乗るのよ?」
「十一時だよ。思ったより長居してしまった」
もう十時をとっくに回っている。予定時間ギリギリではないか。
大変、と四人を慌てて外へ送り出し、馬車に押し込んだ。
「じゃあね、リュヌ。手紙書くから」
「うん。私もすぐに出すわ」
メグと頬にキスし合って別れ、リュネットも馬車に乗り込む。
「兄様! これ渡すの忘れてたわ」
屋敷の中に戻っていたマリゴールドが走って来て、マシューに小さな箱を渡した。
「二日早いけど、お誕生日おめでとう。私達からよ」
箱を受け取ったマシューは妹達の笑顔に面食らう。マシューから妹達にはやっていたが、妹達が嫁いでからはもらった覚えがない。
「なんでまた……」
「だって二十代最後じゃない。なにか記念になるものをね」
三人はにこにこと楽しそうに笑っている。思わず溜め息が零れて苦笑したが、心から礼を言った。
「お誕生日なのですか?」
走り出した車内でリュネットは箱を見つめながら尋ねた。
「うん。十一日」
二十九歳にもなるので、もう楽しく祝うような年齢でもないが、と苦笑する。
知らなかったわ、とリュネットは少しだけ気落ちした。世話になりっぱなしなので、なにか礼をするにはいい機会の日だというのに、なにも用意出来ていない。あと二日しかないのなら準備するのもままならないではないか。
残念そうにしている孫の横顔を見たジュヌヴィエーヴは、その手をそっと握って慰めるように撫でてやった。リュネットは礼を言うように微笑む。
ギリンガム家に立ち寄っている間に、駅に先回りしていたバーネットが切符を買ってくれていたので、駅に着くとすぐに乗車出来る状態だった。それでも発車時間まで間がない。
危なかった、と安堵しながらプラットホームに向かい、今回は意地を張らず、素直にマシューと同じ一等車に乗り込んだ。
「帰国前に一度こちらまでお越しください」
マシューは礼儀正しくジュヌヴィエーヴの手を取り、領地への招待を口にする。
「そうですわね。この子がお世話になっているのですから、一度ご挨拶に伺わせて頂きますわ」
「アリスティドも。美味しいスコッチを用意しておきますよ」
「やあ、それは嬉しいな。こう見えても酒には目がなくて」
育った国柄かワインが一番好きだが、他の酒もなんでも飲む。アルコール類は得意ではなさそうな容貌なのに、実はかなりの酒豪らしい。
「ではね、リィリ」
祖母はいつもの歌うような声音で囁いた。それが幼い頃に呼ばれていた愛称だと気づき、思わず目が潤んでしまう。
別れのキスを交わしたところで発車のベルが鳴り響いた。汽笛も大きく響き渡る。
駅に来る時間がギリギリだった為、別れを惜しむ余裕がなかったのが残念だ。ゆっくりと遠ざかって行く祖母と又従兄弟に手を振り、リュネットは目許を拭った。
「いい人達だったね」
マシューは微笑んだ。ええ、とリュネットも微笑む。
この世にはドナルドとジョセフしか近しい親戚が存在していないと思っていたが、他にも親身になってくれる心優しい親戚がいたことが嬉しい。
もっといろいろと話したいことはあったが、祖母は先々代ノースフィールド伯爵夫人として、当代のドナルドが運営していた領地がどうなっているのか確認する責任がある、と言っていた。警察に逮捕された彼と面会したあと、顧問弁護士であるローガンを伴って領地に向かうらしい。
結局ドナルドは、詐欺と誘拐未遂で立件されることになった、とチャールズが言っていた。誘拐容疑は現行犯だったこともあり、マシューが提出した届けがあってもなくても同じことだったようだ。詐欺事件の方は、以前から既に何件か被害届が出されていて、逮捕に至るまでそう間もなかったという話だ。
ハウスも同じく誘拐と恐喝と、証拠を捏造偽証したという警察官にあるまじき行為に手を染めた為、取り調べもなく拘置所送りになったらしい。リュネット――拘留者に嫌がらせを行っていたことも問題視されている。
袖の下を受け取って多少の便宜を図ったり、目溢しをする警官はいくらでもいる。それでもハウスは己の慾の為にやりすぎた。
愚かだな、とチャールズは溜め息を零していた。リュネットもそう思う。
酷い人達ではあったが、こんなにも呆気なく、あっさりと逮捕され、彼等が必死になっていたのはいったいなんの為だったのだろう、と感じた。彼等は他人を陥れてでも必死に守ろうとしていたすべてを失ったのだ。
「そういえば、ギリンガム卿にお聞きするのを忘れてしまったのですが、ホルス男爵夫人はなにか罪に問われたのでしょうか?」
彼女の宝石を盗んだという理由で、リュネットは連行された。そして十一日間にも渡って拘留されることになったのだ。
「いや。ナッシュ・ワイルドを確保してからどうにかする、とメイヤーズ警部が言っていた。今はまだなんともないと思うよ」
一応屋敷のまわりに、警察からの監視はついているらしい。
そうですか、とリュネットは頷いた。ホルス男爵夫人とはあまりいい思い出はないが、ドナルド達に利用されただけなら、出来れば見逃してやって欲しい。少し元気が余り気味の素直で可愛い娘達が傷つくのは可哀想だ。
行方がわからなくなっているワイルドが見つかったら、話を聞きに行くかも知れない、とチャールズは言っていた。拘留期間のことは思い出したくもないし、警察とももう関わり合いたくはないが、リュネットは事件に巻き込まれた被害者であるし、証言をしなければならないのは仕方のないことなのだ。
溜め息を零しながら窓の外を見る。霧雨が降っているようで、車窓を曇らせていた。
今日はそこまで冷え込んではいないが、エディンバラに着く頃には霙か雪に変わっているかも知れない。また到着時刻が送れるのは嫌だな、と気分が落ち込んだ。
「リュネット」
不意に名前を呼ばれたので振り返ると、マシューはこちらを見つめて微笑んでいた。
「なんですか?」
返事をするリュネットも思わず笑みを浮かべる。
「愛している」
微笑んだマシューの言葉はとても優しい響きを含んでいた。
けれど唐突に告げられたその内容に、リュネットは頬を染めて慌てて視線を逸らす。
「あ、どうぞ、わたしのことはお気になさらずに」
入口に近い場所に腰を下ろしていたバーネットが、淡々とした少し素っ気ない口調で、自分のことは壁紙か置き物くらいに思っていてくれ、と答える。
そういうわけにはいかない。しかし、走行中の列車から降りることも叶わず、どうにもならない。
「――…人がいるところで、そういうこと言うのは、やめてください。本当に」
火照る頬を抑えながら睨みつけると、マシューは楽しげに微笑む。
「じゃあ、人気のない場所でなら、いくら言ってもいいのかな?」
肯首しにくい言い回しをするのはやめて欲しい。リュネットは言葉に詰まり、微笑むマシューと、静かに控えるバーネットを交互に見つめた。
「そう……ですね……」
消え入りそうなほど小さな声で頷き、そのまま項垂れた。恥ずかしくて顔が上げられない。
そんなやり取りをしているうちに停車駅のひとつであるピーターバラに到着した。
「お腹空きませんか? なにか食べるものを買って来ます」
停車するや否や、バーネットはそんなことを言って外に出てしまった。呼び止めたかったけれど、流れるように自然な動きで出て行かれてしまったのでどうしようもない。
車内にはマシューと二人きりになってしまった。さっきの今でこの状況はちょっと嫌だった。
「リュネット」
ほら来た、とリュネットは焦って頬を染めた。
以前のような曖昧な認識ではなく、マシューのことを好きだとはっきりと自覚した。けれど、やはりまだこういうことには慣れない。
愛している、と言われたら、私もよ、と答えればいいのか。けれどそれは、まだなんだか気恥ずかしい。
「結婚しよう」
どう答えればいいのか、と悩んでいるリュネットに、想像していたのとは違う言葉が投げかけられた。
「僕の妻になって欲しい」
リュネットは静かに双眸を瞠る。見つめてくるマシューの瞳はまっすぐだった。
マシューから求婚されるのは二度目だ。けれど、以前のときよりもすんなりと、彼の言葉が胸の奥に落ちて来る。
「きみのことを心から愛している。きみが傍にいない人生は嫌だ」
この十日ばかりの間、リュネットを失うかも知れないという不安に駆られながら暮らしていて、改めて強く思った。リュネットのことを愛していると。
それはリュネットも同意したくなる。
鈍感な自分は、追い詰められた状況の中で、ようやくマシューへの気持ちを自覚した。彼が傍らにいてくれないことがなにより不安だった。
けれど、いいのだろうか。
リュネットは家もなにも持たない娘だ。財産と言えば五ポンドほどの貯金と、両親が嫁入りの為に残してくれたというワイト島にある小さな別荘だけ――他にはなにもない。
マシューはいくつもの領地を持ち、相当な資産もある古い家柄の当主だ。そんな彼にリュネットが釣り合う筈もない。
(でも……)
リュネットは震える手を伸ばす。マシューはその手を取り、優しく握り締めた。
「……そのお申し出、とても嬉しいです」
これは本心だ。以前は戸惑いしかなかった求婚の言葉も、今は確かに嬉しく感じている。
リュネットは一度目を閉じ、それからゆっくりと笑みを浮かべた。
「私でよろしければ……」
その答えにマシューは微笑んで立ち上がり、リュネットの隣へと腰を下ろす。
「撤回はさせないよ?」
握っていた手に口づけ、低く囁く。はい、とリュネットも頷いた。
マシューの手が頬に伸びてきて、輪郭を優しく撫でられる。リュネットは目を閉じた。
唇に降りてきたキスは優しかった。けれど恥ずかしさからリュネットは震え、少し逃げようと逸らす。マシューはそこを追い駆け、窓際に追い詰めて深く口づけた。
窓から伝わってくる冷気はひんやりとしているのに、マシューが与えてくるキスは熱い。その熱さに背筋がぞわりと震えた。
「ん……侯爵……」
自分の中のなにかが刺激されるのを感じながら、リュネットは小さく喘ぐ。その頼りなげでいて可愛らしい声を塞ぐように、マシューは更に深く口づけた。
「――…バーネット、あと五分待てなかったのか」
リュネットが息苦しさから喘いだとき、戻って来た従者にマシューは不機嫌な声を響かせた。
ほかほかと湯気を立てるフィッシュアンドチップスを買って来た従者は、しれっと「発車時刻だったので」とだけ答えて包みを渡して来た。それと同時にベルと汽笛が鳴り響く。
マシューは不機嫌そうに舌打ちした。
「覚えていろよ」
バーネットは素知らぬ顔で、恥ずかしげに俯くリュネットにも包みを渡してくれた。
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