愛執の匣

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4話

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 匡一きょういち昂大たかひろは四歳と半年ほど年の差がある兄弟だ。

 たいした年齢差ではない。けれど、上の匡一は、母の優香子ゆかこが妊娠した頃には当然自我が芽生えていて、自分に弟妹が誕生するということにいろいろと考えを廻らせてもいた。誰に似たのか少しませた子供だった匡一は、そのことに関してちょっと捻くれた考え方などもしていたものだ。
 そんな匡一が結論として至ったのは、生まれるのが弟であれ妹であれ、パシリに使える手下が増える、というものだった。

 しかし、そんな匡一の思惑は見事に裏切られる。
 隣家に幼い匡一を預けると、苦しそうな表情でタクシーを呼んだ優香子を案じている間に、いつの間にか産院に行っていた父の国光くにみつが帰宅し、弟が誕生したことを教えられた。今日からお前もお兄ちゃんだから、もっといい子になるんだぞ、という言葉には素直に頷いた。この頃から優等生だったのだ。

 生まれたばかりの赤ん坊がなにも出来ない存在だということは、賢い匡一は知っていた。つまり、子分として従えられるようになるには、少し時間を置かなければならないのだ。少し残念ではあるが、先行投資と思えばたいしたことではない。
 そんな子供らしからぬ考えを抱いていた匡一は、産院で大仕事を終えた優香子と、生まれたばかりの弟を見舞って愕然とした。
 真っ白なベッドで眠っていたのは、とても人間とは思えない皺くちゃの赤い顔をした変な生き物だったのだ。

 赤ちゃん可愛いねぇ、と棒立ちになってその生き物を見つめていた匡一に、国光が鼻の下を伸ばして笑った。
 これが可愛いのか、と匡一は更に驚愕した。生まれたばかりの赤子などこのようなものだと、成長した今になっては理解出来ているが、幼かった当時の匡一には、あれが自分の弟だなど到底思えなかったのだ。人間だとすら思えなかった。

 そして、それからしばらくは地獄だった。

 赤ん坊は常に泣いている。眠っているか泣いているかのどちらかだというくらい、起きている間は泣いている。静かになったと思ったら眠っている。
 匡一はうんざりだった。退院した優香子はその泣き喚く生物にかかりきりだし、国光も帰宅したらまず赤ん坊だ。匡一は以前よりひとりで過ごすことが多くなった気がする。
 もしも匡一が女の子だったら、子供ながらも生まれ持った女としての母性が刺激され、弟の世話を甲斐甲斐しく手伝ったりしたかも知れない。けれど、生憎匡一は男だ。自分でもまだ大人の助けを必要としている年齢なのに、他人の世話を手伝ってやろうなどという気持ちは毛頭なかった。
 そんなことはないとわかっていても、両親の愛情と関心をすべて赤ん坊に奪われたようで、匡一は益々弟を嫌いになった。


 転機が訪れたのは、弟がこの世に生を受けてひと月ほど経った頃だ。
 この頃になると、赤ん坊は少ししっかりした顔つきになってくる。ぐにゃぐにゃするばかりの首なども、少しずつ落ち着いてくる頃だ。

 その少し人間に近づいて来た弟のことを、何気なく覗いてみた。
 檻のように柵に囲まれたベッドの中で、大きな瞳がきょろりと動いた。くりくりとした瞳の色は、外国の血が入っている父方の因子が強く色素の薄い匡一の瞳よりは黒く、甘いミルクチョコレートのような色をしていた。
 そのチョコレート色が、じっと匡一の顔を見つめていたのだ。
 新生児と呼ばれるこの頃の赤ん坊は、まだ視力というものがはっきりとしてはいないらしいのだが、匡一はその小さな弟が、自分のことをしっかりと見つめているのだと感じた。

 赤ん坊は大きな瞳で匡一をじっと見つめ――笑った。
「あう」だか「うっぱあ」だか、よくわからない言語を発して、匡一へ笑いかけたのだ。

 小さな匡一の手よりも更に小さな手がパタパタと動き、匡一を呼んでいるようだった。傍に来い、と。
 匡一は躊躇いがちに手を伸ばし、赤ん坊の手の傍に差し出した。
 小さな小さな指が匡一の指を握り締め、ぎゅうっと自分の方へ引き寄せようとした。けれど、一瞬抵抗した匡一の力には叶わず、赤ん坊の小さな指はつるりと抜けてしまう。それにちょっと驚いたような目をしたが、その小さな生き物は再び匡一の手へと手を伸ばしてきた。

 たったそれだけの仕種で、匡一の中の嫌悪は氷解した。
 この小さな生き物――昂大と名づけられた幼い弟は、匡一を求めている。その仕種を知っただけで、匡一はその昂大が堪らなく愛しくなった。


 その日以来、匡一は昂大にべったりになった。優香子にやり方を聞いて、オムツ替えも手伝った。お乳を上げることは出来なかったが、抱っこして哺乳瓶を咥えさせてやることは出来た。必死にミルクを飲みつつ、たまにチラリと匡一を見上げる仕種がすごく可愛くて、その目線を受けるのが愉しくて仕方なくなった。
 その頃から十四年も経った今でも、優香子には冗談交じりの嫌味として言われることだが、昂大の初めて呼んだ名前はママでもパパでもなく、匡一を意味する「にー」だった。

 少しずつ成長していく昂大は、母も父も大好きだが、それよりも匡一に懐いていた。ご飯を食べるのも匡一の傍、お風呂に入るのも一緒、遊ぶときも一緒、お布団も一緒でなければ大泣きする。幼稚園に行っている僅かな時間さえ、小さな昂大には嫌な時間だったようだ。
 そんなに懐いてくれる弟の姿に、兄も満更ではない。掴まり立ちを手伝ったのも匡一だったし、離乳食を毎食与えていたのも匡一だ。朝起きると自分の着替えと弟の着替えをやってやり、幼稚園から帰って眠るまで、べったり一緒にいる。それが当たり前の生活だった。

 匡一が自分の異変に気づいたのは、小学校の高学年になる頃だった。
 弟の昂大が可愛くて堪らないという感情は、クラスの中では少し異質な自覚はあった。女子も男子も、自分の兄弟姉妹達はだいたい鬱陶しい存在だと感じているのだ。匡一のように、朝から晩までべったりで、喧嘩ひとつしたこともないという兄弟はとても珍しい。匡一が大人びた性格をしていたことと、昂大が大人しい性格だったことも要因かも知れないが、少し変わっているということだけは匡一も承知していた。

 しかし、匡一はある日気づいてしまったのだ。
 自分は昂大に、よからぬ感情を抱いているのだ、ということを。

 桐ケ谷きりがや家は、家長の国光が情熱的なラテン系の血との混血という所為か、挨拶代わりでキスをするのは当たり前の家だった。もちろん外ではやらないが。
 だから匡一も昂大も、お互いにキスをすることに抵抗は少なかった。

 けれど、あの日の匡一は少し違っていた。
 いつもは頬に触れさせる唇を、ふざけて唇に触れさせた。昂大は「くすぐったい」と笑っていた。その笑い方が可愛らしかったので、もう一度触れさせた。少し強く押しつけると、昂大は鼻にかかったような小さな吐息を零した。その吐息を感じた匡一は、なんともいえない感情がお腹の辺りから湧き上がってくるのを感じた。

 もっといっぱいキスしたい。
 こんなものでは足りない。
 昂大の吐息をもっと感じたい。

 よくわからなかったその感情の正体が判明したのは、学校で保健の授業を受けているときだった。
 夫婦となった大人の男女が行う生の営み――そのときはよくわからず、教師の持ち出したフリップに描かれた裸の男女が同衾しているイラストにクラスメート達がなにやらきゃあきゃあと騒いでいるのを聞き流していたが、ああ、となんだか理解してしまった。

 このセックスという行為は、いつぞやに見ていた映画の中のあのシーンだな、と考える。母だとそういうシーンはまだ幼い匡一に見せまいとチャンネルを変えたり、早送りしたりもするが、父はそういうことはあまり気にしない。だから見覚えがある。
 殺し屋の夫婦が大喧嘩をするのだが、キスをして身体を絡め合わせ、教師が使用したフリップのようにベッドに寝ながらではなかったが、セックスをして、いつしか仲直りしている、というようなシーンだったと思う。よくわからないが、子供は見てはいけないシーンなんだろうな、と漠然と思いながらもドキドキと鑑賞していたその行為が、子作りの為のものだとは知らなかった。
 あの映画を見ていたとき、匡一は自分の中でなにか芽生えたものがあるのを感じていた。それがなんだったかよくわからないでいたが、教師の説明を聞きながら映画のシーンを思い出していて、ふと、昂大のことを思い出した。それですべてが腑に落ちた。
 匡一は昂大と、あの映画の夫婦のようなことをしたい、と思ったのだ。
 男同士ではありえないことだ。だが、匡一は昂大に、映画の中で夫が妻にしていたようなことをしたいと思ったのだ。


 どうすればいいのかはなんとなくこの授業で理解した。このセックスという行為なら、キスよりももっと強く昂大と結びつくことが出来るのではないか――そう考えたら、これを是非昂大としたくなってしまった。
 けれど、大人のすることだと説明されている。結婚して夫婦となった男女がすることだとも。
 男同士では出来ないのだろうか。教師に訊いてみれば答えてくれるだろうか。そんなことをいろいろ考えたが、それは質問してはいけないことなのではないかと思って、匡一は黙した。
 大人になるまでにはまだ時間がある。それまでに、男同士でもセックス出来る方法を調べておこう。今はネット社会だ。電子空間で検索ボックスに必要な単語を並べてアクセスするだけで、知りたいことはすぐにわかるものなのだ。なんの苦もない。

 昂大が大人になったら、セックスをしよう。セックスをしたらきっと今よりもっと昂大と近くにいられる筈だ――大人びていてもまだ子供の匡一はそんなことを純粋に夢想していた。


 それから少し経った頃からだった。べったり引っついていた昂大が、急に兄離れを始めたのは。
 いや、兄離れなんてレベルではなかったかも知れない。とにかく匡一から離れようとしていた。傍に寄るのさえも嫌がったほどだ。

 匡一の抱いていた愛情が劣情へと変わったことを、昂大は敏感に悟ってしまったのだろうか。
 少し寂しかったが、これも大人になる試練かも知れない。少し早いが、反抗期というものなのだろう。大人になる為の通過儀礼なのだと、保健の教科書に説明があった。
 昂大の反抗期が過ぎ去れば、幼い弟は大人へと近づく。そのことが匡一の心を躍らせた。




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