永遠への階~オルセレイド王国物語~

弥生

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第39話 初めて欲したもの

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 軽く重ねられた唇がゆっくりと離れていく。
 それは一瞬の出来事であったが、シルフィアの思考を停止させるのには十分だった。
 シルフィアは大きく目を見開き、笑みを浮かべているアークレイを見上げた。
 夕方とはいえ、まだ十分明るい空の下。
 しかも騎士や従者たちの居る前で・・・・・口づけをされたのだ。

「へ・・・・・・へい・・・・・・」

 かあっっと一瞬にして顔が赤くなる。

「陛下!」

 慌てて腕を突っぱねてアークレイの腕から逃れようとするが、その腕が緩むことはなかった。

「名を呼んでくれないからだ」

「だ、だからと言って!」

「なあに、大丈夫だ。俺の背に隠れて、他の者たちには見られておらぬよ」

 まるで悪戯を成功させたかのような笑みに、シルフィアは呆気にとられてしまう。

「何も口づけくらいで恥ずかしがることもあるまい?」

「ですが!」

「昨夜、散々したではないか。強く抱きあって、幾度も幾度も口づけを。忘れたのか?」

 シルフィアの頬に指を滑らせて、にっと口の端を上げて笑うアークレイに、シルフィアは顔を真っ赤に染めてしまう。

「俺は忘れていないぞ。いや、忘れようとしても忘れられるものではない。貴方との口づけはとても甘く、蕩けるようなこの柔らかな唇に、俺はすっかり酔わされたのだから」

「へ、へい・・・・・・」

 すっと唇に人差し指が触れた。

「もう一度口づけされたいか?」

「・・・・・・」

「まあ、別に俺は構わないが?」

 少し首を傾げて覗き込んでくるアークレイに、シルフィアはうっと言葉をつまらせる。
 意地悪な問いかけにどう答えるべきか、シルフィアは落ち着きを無くし、忙しなく瞳を動かす。

「シルフィア?」

 答えを促すように、頬を指先で撫でられる。
 シルフィアは目を伏せ、だがおずおずと視線を上げた。

「アークレイ様・・・・・・」

 シルフィアの小さな声は、アークレイの耳に届いたようだ。
 嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、シルフィアの細い身体を抱き寄せた。

「口づけが出来ないのは残念だが、シルフィアに名を呼んで貰えるのはやはり嬉しいものだな」

 力強い腕に包まれて、シルフィアも思わず笑みをもらしてしまう。

「アークレイ様はまるで、大きな子供のようです」

「ん?俺がか?」

「はい」

 身体を僅かに離し、アークレイは一瞬首を傾げてカリカリと頭を掻いた。

「子供か・・・そう言われればそうかもな。俺とてたまには我侭を言いたくなる」

「我侭、ですか?」

「ああ。俺はあまり我侭を言わない子供だったらしいからな」

 確かに、人一倍責任感が強そうなアークレイのことだ。
 周囲を困らせるような我侭を言うことなど、決してしなかっただろうことはシルフィアも容易に想像できた。

「あれが欲しいとかこれをやりたいとか、何かに執着するような性質でもない。特に趣味や特技も無いからな。まあ、ある意味面白味がない男だと言えるが」

 アークレイは苦笑し、長い足を組み、長椅子の背にゆっくりと凭れた。

「趣味も特技も無い?」

「そうは見えないか?」

「はい。アークレイ様は幼い頃より、何でも出来る方だったとお聞きしておりますから」

 剣術や馬術、弓の腕もかなりのもの。
 その一端は、合同演習でシルフィアも目の当たりにした。
 法律や経済、歴史など、あらゆる知識が豊富で、執務官や学士たちも皆、アークレイの見識の広さを誉めていたくらいだ。
 絵画や音楽など、芸術方面にも力を入れていると聞いている。

「まあ・・・・・・広く浅くといったところだが。色々な分野に目を広げろというのが父上の教育方針だったからな。しかし、これといって夢中になるほどのものもなかったし」

 意外だった。
 どのようなことに対しても、そつのないアークレイのことだから尚更だ。

「ああ。初めてなのかも知れないな。俺が我侭を言うのも、何かを欲したのも」

 アークレイはシルフィアの肩にかかった白金の髪に指を伸ばし、サラサラとこぼれおちるその感触に柔らかな笑みを浮べた。

「アークレイ様が欲したものでございますか?それはどのようなものなのでしょうか?」

 シルフィアの髪を梳いていた指を止め、アークレイは「は?」とシルフィアの顔を凝視してきた。
 まるで穴が開くのではないか、とも思うほどマジマジと見られ、その視線に戸惑うシルフィアだったが。

「は・・・・・・あははははっ!」

 呆気にとられたシルフィアの目の前で、手を顔で覆ったアークレイは大きな声で笑ったのだ。
 それは、花園に響き渡らんばかりの大きな笑い声だった。
 そのようなアークレイは珍しいのだろう。
 後方で控えている宮殿騎士や侍従たちが、皆一様に驚いた顔をしていた。

「は・・・・・・腹が痛い・・・・・・は、あはははっ」

「な、何事でございますか!」

 シルフィアの肩に手を置いて、アークレイはうなだれるように顔を伏せて、肩を奮わせて笑い続けている。
 一体何を笑われたのかわからず、シルフィアは戸惑いを隠せない。

「いや・・・・・・すまない・・・・・・」

 ようやく笑いがおさまり顔を上げたアークレイは、笑い過ぎたのか半分涙目になっていた。

「・・・・・・これほど笑ったのは久しぶりだ」

「アークレイ様!」

「そう怒るな。綺麗な顔が台無しだぞ?いや、そういう表情も可愛らしいが」

「なっ!」

 頬に手が当てられて恥ずかしげもなく言われ、シルフィアは頬が熱くなるのを抑えられなかった。

「いや、しかし・・・・・シルフィアがまさか、ここまで鈍いとは思わなかったな」

「・・・・・・に、鈍い?」

「そうだ。俺が欲したのは・・・・・・」

 アークレイはシルフィアの耳元に顔を寄せて、甘く蕩けるような声でそっと囁いた。

「シルフィア、貴方だ」

 びくっと肩を奮わせたシルフィアの顔が、これ以上にないといったくらい紅く染まった。
 一瞬、聞き間違いかと思った。
 アークレイが欲したもの。
 それは、シルフィアなのだと。

「ア・・・・・・アークレイ様・・・・・・お、お戯れを・・・・・・」

「戯れなどではないというのは、『昨夜』、散々証明して差し上げただろう?」

『昨夜』という言葉を強調したアークレイの言葉に、シルフィアは全身の血が逆流するのではないかと思うほどに身体が震えた。

「俺が欲しいのは貴方だ、シルフィア。貴方の全てが欲しいのだ」

「そ・・・・・・そのような・・・・・・」

「シルフィアの心も身体も全てが欲しい。昨夜は我慢などするのではなかったと、今は少しだけ後悔している」

「我慢でございますか?」

「ああ。貴方を最後まで抱けばよかった。そうすれば、心だけでなく身体も俺のものに出来たのに」

 シルフィアの頬を撫でたアークレイの指が、何かの意図を持ってシルフィアの唇を滑っていく。

「・・・・・・最後?」

『最後』という意味がシルフィアにはわからなかった。
 きょとん・・・と目を見開くシルフィアだったが、アークレイはそれに気づかない。

「まあ、そうはいっても無理をさせたくなかったからな。貴方は初めてだろうし、俺とて同性は初めてだし、何より準備不足だったからな・・・・・・まさかまさか、ウォーレンごときに勿体無いと言われてしまうとは、まったく俺も情けないことだ・・・・・」

「あの・・・・・・申し訳ございません、アークレイ様」

「ん?」

「『最後』と仰いましたが・・・・・・それは、どのようなことなのでございますか?」

 また笑われるのではないかと恐る恐る尋ねれば、アークレイは唖然とした表情でシルフィアを見下ろしてきた。

「あ・・・・・・の・・・・・?」

 何か間違った問いかけをしてしまったのだろうか。
 しばらく固まっていたアークレイは不意に顔をそらし、右手で顔を覆い、はあ・・・・・と大きなため息を吐き出した。

「シルフィアがこの手のことに疎いだろうことは俺もわかっていたが、ここまで温室育ちの純真無垢だったとは思わなかったな・・・・・・」

「え?」

「ご家族の方々は教えようとしなかったのか?ああ、いや・・・・・・確かにシルフィアであれば、穢れを知らぬままでいて欲しいと思うのも道理か・・・・・・まさか自慰も知らぬというのでは・・・・・・いや、ありえるか。もしやご両親は、生涯シルフィアを誰とも結婚させないつもりだったのではないだろうか・・・・・・というより、シルフィアの相手となる女性も気の毒か・・・・・・」

 顔を覆ったまま、唸る様な低い声でブツブツと言うアークレイに、シルフィアは不安を覚えてしまう。
 アークレイが何を言っているのかさっぱり理解が出来ないが、何か自分はアークレイを呆れさせるような失敗をしてしまったのだろうか。

「あ、の?アークレイ様?」

「ああ、いや、すまない・・・・・・俺の言い方が悪かったな」

 顔を上げて、いつものとおりの笑顔を浮かべるアークレイに、シルフィアはほっと安堵する。

「ウォーレンのように、直接的な言葉で言うのは俺の好みではないのだが、はっきり言わねばどうやら貴方には伝わらないようだ」

「え?」

「シルフィア」

「は、はい」

「子はどのように出来るのか、それは知っているか?」

「え?」

「子がどのように出来るのか、だ。知っているか?」

 突然何を言い出すのかと目を瞠り呆気にとられるが、質問の内容は一応理解出来た。

「え?あ、はい・・・・・・書物で読み知っております」

「書物の中の知識か・・・・・・まあ良い。では、男女の営みは?」

「え?」

「子を成すための男女の営みだ」

「・・・・・・え?」

「まわりくどくてわからないか?そうだな・・・・・はっきり言えば、性行為・・・だ」

「え・・・・・・え・・・・・・ええ!?」

 何故そのようなことをアークレイが言うのか、しかも、まさかアークレイの口からそのような言葉が出てくるとは思わず、シルフィアは顔を真っ赤にして口を覆ってしまう。

「あ・・・・の?え・・・・・・と?」

「性行為だ。わかるか?当然知っているな?経験はなくとも、知識くらいはあるだろう?19歳とはいえ、貴方も子供ではないのだからな?」

「あ・・・う・・・え、と・・・・・・その・・・・・・」

「それは何も子を成すためだけのものとは限らない。愛し合う者同士がより深く愛を確かめ合うための行為でもあるし、愛などなくとも、一時の快楽を求めるためだけに行為に耽る場合もあるというし・・・ま、さすがにそれは俺も理解は出来ないがな」

 ちらっと翠の瞳がシルフィアに向けられるが、狼狽し、焦るばかりで何をどう答えればいいのかわからず、顔を真っ赤にさせたまま、まるで魚のように口をぱくぱくとさせるだけだった。

「性行為。もう一度問うが、わかるな?」

 言葉は返せなかったが、シルフィアは戸惑いつつもコクコクと小刻みに頷き返す。
 そんなシルフィアの膝の上に手を置き、アークレイは口の端を上げてにっと笑った。

「それが、『最後』、だ」
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