それでも日は昇る

阿部梅吉

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たとえ何もできなくてもそこにいるだけで価値がある 1

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 その日の出来事は本当に不思議だった。
 俺はあいつの彼氏になった。
 いや、むしろあいつが俺の彼女になった。いずれにせよ違和感がある文章だ。俺はその日、風呂に入りながら『老人と海』を読んだ。最後まで老人は前向きだった。一方俺は……。

 もう一度おさらいしよう、今日起きたことを俺は風呂の中で思い出した。

 あれからお昼ご飯を食べ、俺たちは本屋を見て回った。ある作家の新作短編が出ていたからと、俺と優理愛は同じ小説雑誌を買った。その後絵本コーナーをうろつき、お互いに子供のころにどんな作品が好きだったかを披露した。

優理愛がかこさとしの『だるまちゃん』シリーズで俺は『ふたりはともだち』。二人とも好きだったのは『エルマーのぼうけん』。それから『かいけつゾロリ』に『ズッコケ三人組』、『もしかしたら名探偵』に『怪談レストラン』。そうそう、俺たちは二人とも、小学生のころからむさぼるように本を読んでいた。時には図書館の本棚を丸々全部読んでしまうような子供だった。俺たちはとても盛り上がった。いつから本が好きになったかなんて覚えていないほど本が身近だった。

 俺たちはほとんどいろんな分野の本を見て回った。俺は例えば生物学や化学などからっきしだが、優理愛はそんな知識をも持ち合わせているみたいで、『元素図鑑』や『鉱物図鑑』を見てほれぼれしたり、『ニュートン』の最新号を立ち読みして面白いと語ってくれたが、俺にはさっぱりわからなかった。ただ、彼女が興奮して嬉しがっているのはわかったから、それを見ているのは悪くなかった。

 一通り店内を見終わった後、二人でまた休憩スペースに並び、彼女のルイボスティを飲みながら新しく買った小説短編を読んだ。不思議な感覚だった。二人でいるのに一人でいて、一人でいるのに二人でいるような感じだった。無言で小説を彼女の前で読んでいても、俺も彼女も何ら不都合なく、むしろその無言が心地よいとさえ感じられた。俺が短編一つを読み終えたのと同時に優理愛も同じタイミングで読み終わり、またあーだこーだ話した。

「やっぱりあなたはすごいわね」

彼女は唐突に言った。

「なんで? 優理愛の方がいろいろなこと知っていて、すごいと思うけど。俺、化学とか物理とか、ヒッグス粒子のすばらしさなんて今まで知らなかったし」

本心を言えばいまだにわからないが、そこは黙っておいた。

「そう? でも、貴方ってとても素晴らしいものを持っていると思う。そうね、それこそ『こめたろう』みたいに」

「そうかあ? 俺なんて何もできなくってすごい悩んだけどな。いまだに悩んでいるし。俺、桜木ヒカルとその才能を見つけた奴と、三人で文芸部を立ち上げたんだ。二人ともすごい才能のあるやつんなんだ。桜木ヒカルは言わなくてもわかる通り、毎日誰に言われなくっても、たとえ誰かに中傷されたとしても書くのをやめない奴なんだ。それこそ毎日毎日、努力と言うよりは夢中になって書いてしまうタイプでね、本当にアイツには敵わない。本当はあいつにせっつかれて小説を書き始めたんだけどさあ」

優理愛は目を丸くして本を読む手を止め、じっと俺の話を聞いていた。その目は澄んでいて吸い込まれそうだ。

「そんでもう一人、桜木ヒカルの才能を見つけたやつもすごい奴だったんだ。行動力があって弁が立つ。生徒会にも入っていて、成績も毎回上位。先生からの信頼も厚くて交渉にはうってつけだった。持ち前の行動力で文芸部を立ち上げただけでなく、ビブリオバトルに参加して俺をその世界に引き連れてくれたんだ。俺はそいつにただただ感謝しかないんだ。この二人がいなかったら、俺と優理愛も出会っていない」

「へえ」

優理愛は自分の水筒を持ちながらじっと考え込んだ。

「とてもうらやましい」

それは、彼女の心の底から出た言葉だったのだろう。その気持ちはわかる。俺だって,こんなにも本の話ができる人間に出会ったのは初めてのことだったから。
 趣味を理解される喜び、つい和えられる喜び、共有できる喜び、新しいことを知って刺激になる喜び。優理愛にとってはそれが「文芸部」ではなく「俺自身」でしかないのだろう。彼女の言葉が宙に浮かんで、俺の頭の中を反響させた。

うらやましい、か。

「俺は、本当に恵まれているんだな」

ポツリと俺が言う。俺のその言葉も、彼女の持つ水筒の中に吸い込まれていくように感じた。


 「ねえ、私たち、つきあいません?」

彼女は唐突に言った。

「え?」

俺は何を言っているのかわからなかった。

「私たち、付き合った方が合理的だと思うのですけれど」

彼女は真顔で、真剣な表情で言った。

「付き合うって、異性と異性が互いに付き合うやつ?」

「そうです」

彼女はきっぱりとした口調で言った。今日の彼女は吃らない。

「私は貴方からとても刺激を受けます。だから、付き合うことが合理的だと判断したのです」

証明問題の答えを聞かされているような気分だったが、それは紛れもなく告白だった。
一風変わってはいたが。

「はあ」

俺はこんな答えしかできない。

「俺なんかでいいの?」

「『俺なんか』?」

優理愛はとても怪訝な顔をした。

「なぜそんなにあなたは自分を卑下するの?」

「だって俺別に何もできないし、ただ本を読むことしか才能がないし、目つきだって悪いし、」

「私があなたを魅力的だと判断したからいいんです」

彼女は俺の言葉を遮ってきっぱりと言った。

「それに、」

と彼女は言った。

「貴方は何かに価値がないと生きてはいけないと思っているみたいですけれど」

彼女はなぜか敬語になっていた。本当に言いたいことがあるとき、そういう口調になる癖があるのだろうか。

「別に、何もできなくても生きている価値はあると思いますし、たとえ成功してもしなくても、人生の荒波を対処して頑張っているだけでそれは尊いことだと思いません?」

 俺は、救われた。
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