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第二章 死の年
死の年
しおりを挟む数日後、年が明けた天正十九年(一五九一年)一月、椿事が起きた。
妙が突然の病に冒されたのである。原因不明の高熱を出し、十歳の妙はみるみるうちに衰弱した。それだけでは済まない。多田羅の家では主である父、昌武も母のお栄も兄弟も、家中の者がみな、妙と同じように病に冒され、次々と死んでいった。
多田羅は毎日、誰かを送り、妙の看病をする、そんな日々が続いた。
ある日、多田羅が熱で汗まみれになった妙の体を拭ってやっていると、不意に手拭いが赤く染まった。
どこか怪我でもしたのか、と慌てて妙の体を確かめようとすると、
「初めての月のものがきたようです」
とか細い声で妙が言う。多田羅の手を握り、さらに続ける
「だからもう大丈夫です。女にしていただいても」
バカな、と目を見張る。
確かに血が布団についてはいるが、妙の体の中心からは血など流れていない。誰かの入れ知恵で血袋でも使ったか、何か細工をしたのだろう。
「そんなことはいいんだ。気にするな、妙。とにかく今は体を休めて、早う元気になれ」
そう言って多田羅は、妙の目をのぞき込んだ。
けれど妙は「もう大丈夫」と繰り返して、息を弾ませ、多田羅の体を受け入れるために体を開こうとした。
多田羅は、妙の着物の前を閉じ合わせ、その体をすっぽりと布団でくるみこんだ。
「そんなことをするな! 何度も言っているだろう。お前はきっとどこかの武家、貴種の姫君なのだ。いずれ時が来れば、お前の体はうんと可愛がってやる。だから、その日を待っていろ」
布団の上から、妙の頭があるあたりにそっと手を置く。その感触はあまりに頼りない。(こんなに小さい頭、まだ子どもではないか……)
多田羅はくっと涙が溢れて、思わず天井を仰ぎ見た。
布団の中からは、くぐもった声がした。
「私は武家の娘などではありませぬ。きっと、そこらの野で生まれ落ちた百姓の子」
お前はきっと名のある武家、貴種の生まれだと、多田羅が言う度に、妙はいつも歌うように笑って否定したものだった。
「もう喋るな! 疲れるぞ」
そう叱るのにも妙は
「……どうか私を本物の女房様に……」
と布団の中で喘ぐように言いつのる。
「お前を死なせはせぬ!」
励ますように多田羅が大声でそう言うと 妙の小さな手が布団からそっと出て、彼の着物の裾をつかんだ。
その右手の親指、例の古傷があるあたりに血が滲んでいる。
妙は自分の手を小柄で切って、血を絞ったらしい。
痛いだろうと多田羅は、妙のその指を口の中に入れた。血の味、妙の生きている味が、濃く強く口の中に広がった。
「待っていろ!!」
妙に何か精のつくものをという思いに駆られ、多田羅は屋敷を出て、冬の寒空に飛び出した。その後を慌てて、斑目が追う。
多田羅が外に出た途端、その体を、わっと粉雪と読経が包みこんだ。
「この鳴り響くような読経はなんだ?」
屋敷の近隣でも病で死者が溢れているのかと、班目に尋ねた。
班目は、そんなこともご存じないのかという主への侮蔑が混じらないよう、注意深くことを語った。
多田羅はまるで知らなかったが、妙の発病と時を同じくして、豊臣秀吉の嫡子で三歳になる鶴松も病になり、前後不覚の重態に陥っていた。秀吉の命を受け、国中の神社仏閣では病気平癒の祈願が行われ、祈祷と読経と抹香とが、入り交じり溢れかえり、日本(ひのもと)を覆っていた。
また、秀吉が右腕として頼りにしきっていた弟の秀長も病の床にあり、先はもう長くないだろうと、世間では囁かれていた。
まさに天下人、秀吉の周りに死の影が音をたてずに忍び寄ろうとする、そんな年の正月だった。
「鶴松様はまだ三歳。おいたわしいことでございますな」
斑目の言葉に「そうか」と頷いたものの、多田羅にはまるで響かなかった。
秀吉の子が死のうと知ったことではないと、はっきり思った。
全身を押し包むようにあちこちの家や寺からあふれ出る祈祷も読経も、多田羅にはただ煩いだけのものだった。むしろ、妙を奪っていく不吉なものだという怒りすらわいた。
こんなものに妙を奪われてたまるか、という炎のような感情が、ただ多田羅を突き動かした。
根尾谷の冬は早い。
山谷を吹く風が村を氷漬けにしたように、雪と灰色の空で包み込んでいる。
ここでどんな獣が獲れるのというのか――。
寒空の下で掌をこすり合わせる斑目の目には、山のあちこちに縄罠を張り、米粒ほどの大きさで空をまばらに飛ぶ鳥たちに向かって石を投げ、撃ち落とそうとする主の姿は狂人にしか見えなかった。
この流行り病で、斑目も妻を亡くした。助信という子まで成した女だ。むろん、悲しいとは思った。しかし、その死にあたって、これほどの必死さは抱くことはできなかった。
(若は無垢なお方なのだ)
どうしようもないものをもてあますように、班目は呟いた。
「いた! 猪だ!!」
班目の独り言を破るように、槍を持った多田羅が雷神のように走り出した。
そんな日が何日か続いた。
ときに罠で猪が獲れ、ときに投石で烏(からす)を仕留めた。けれど、弱り切った妙は獣臭が強い猪の汁を受けつけず、口に椀をあてがうと、むせて吐いた。烏は腹を割りさばいてみると、灰色がかった禍々しい色の肉で食べる気も失せ、多田羅は庭に打ち捨てた。
(今日こそは妙が食べられるものを)
祈るように念じ、仕掛けた罠に向かったその日、罠にかかっていたのは小さなホオジロだった。
肉がほとんどない。
多田羅は失望し、ぎりっと奥歯を噛むと、手の中の鳥を乱暴に絞め殺して籠に放り込んだ。
「ケッ」
その時、多田羅は舌打ちのような、奇妙な音を耳にした。
なんだ、いったい。
顔を上げて、枯れ草の揺れる野や遠くに広がる川辺の水景色に目をやった。
「ケッ」
川辺の遥か彼方に、うごめく白い影がある。
それを見た、多田羅の息が止まった。
(あれは、まさか……)
「礼様! あれは鶴ではございませんか!」
隣にいた斑目が、先に声を上げる。
その言葉に、吉兆だ! と多田羅は叫んだ。
ダッとすぐさま走りだし、獲物の元に駆け寄る。
罠縄に足を取られ、くねくねと身もだえする鳥は、目の黒い縁取り以外は、どこもかしこも真っ白だ。
古来より、鶴の肉を食べれば永遠の長寿を保つと伝わる。
かつて織田信長は、明智光秀を饗応役にし、帝のために鶴の肉で拵えた椀物を出した。この時代、鶴肉は「伝説の貴食」と言っても決して過言ではない。
「待っていろ! 妙!」
多田羅は、足元の白い鳥を抱きしめた。
これさえ食べさせてやれば、妙の命は助かる――。
その思いは、この瞬間から多田羅にとって一つの信仰になった。
斑目と二人で鶴を生け捕りにし、屋敷に持ち帰ったが、いざ料理をという段になって、斑目が進言した。
「妙様はまだ肉を食べられるほどに回復してはおりませぬ。せっかくの貴重な鶴肉。ここはもう少し妙様が回復するまで、鶴を生かしておいては?」
それもそうかと、多田羅は頷いた。
そこで多田羅はホオジロをさばいて、生姜と大根菜ととともに一昼夜ことことと火を通して汁にすると、さらしで漉し、その上澄みを、とろとろに煮溶とかした粥と合わせた。
それをよじって先を尖らせた布切れに含ませて、妙の口に押し当てる。熱でほとんど意識のなかった妙は、乳房に吸いつく赤子のように、そのかゆ汁を吸い飲んだ。
その様子に、生まれ落ちてすぐに畑に捨てられ、母の乳の味も知らぬ赤ん坊の妙を思い、不憫なと、多田羅は泣いた。
妙は目を閉じて、はたはたと顔に降りかかる多田羅の涙を受け止めていた。
久しぶりに雪が止んだ五日目の朝、妙は床の中で「礼様」と、呟くほどに回復した。
妙の枕元に多田羅は蛙のように這いつくばって囁いた。
「お前のために、鶴を生け捕ったぞ。それを食べて、お前は永遠に命をつないでいくのだ」
妙は頷いた。
(うれしゅうございます)と声にはならなかったが、口が小さく動いた。その息が多田羅の鼻先で白くなり、甘くなって消えた。
けれど、この五日、ずっと妙の側につききりだった多田羅は、知らなかった。
鶴を世話していた斑目が、大阪城の秀吉に宛てて書状を書いていたのを。
何が起きているのだ?
釜からさかんに湯気の立つ厨に立ち、庭木につながれた鶴を見ていた多田羅は、突如、屋敷に現れ、「大阪城からの使者である」という口上を述べた男に、目を見張った。
その男は玄関ではなく、雪が積もる庭先に現れ、
「今、まさに命の瀬戸際にいる関白殿下の若君、鶴松君のため、この鶴を大阪城に運ぶ」
多田羅に向かってそう言ったのである。
男は、九能善次(くのうぜんじ)と名乗った。
胸元と太い二の腕に黒々とした毛がのぞいている。多田羅に劣らぬ巨漢であった。
何より九能の口ぶりには、所望や要請といった生易しいものはなく、「天下人秀吉による決定」という揺るぎない強さが宿っていた。
そんな九能に向かって、多田羅は叫んだ。
「誰が、大事な鶴を秀吉などに献上するものか、これは俺の妻、妙のものだ!!」と。
だが、使者はあくまで使者であって、秀吉その人ではない。
九能は、綺麗に剃り上げた月代頭を、多田羅に向かって深々と下げた。
「鶴を献上せねば、私が死なねばならなくなる」
「死ね! お前の肉でも首でも、煮て焼いて、関白の子に与えればよいだろう」
そう怒鳴った。
多田羅自身、このひと月で父も母も兄弟も、すべて亡くした。そして今、何より大事な妙も失おうとしている。
まだ、喋るのもやっとの妙に鶴を食べさせてやるのだ。
そのことしか頭の中にはない。
多田羅は、刀に手をかけた。
秀吉に取られる前に、今ここで鶴を殺してやる、とまで思い詰めている。
そのただならぬ気配に、ケエエエーッと、庭の鶴が身をよじった。
この五日、鳥汁の残り滓や蛇肉を斑目から与えられていた鶴は、捕えた時よりもさらにつやつやと毛艶を増している。
斬る! といきりたつ多田羅の袖に、斑目がむしゃぶりついた。
「礼様は多田羅の家を取り潰すおつもりか! 鶴を献上せねば、関白殿下の怒りに触れて、九能殿どころか、若も私も、妙様もみな死ぬのですよ!!」
「そんなことはわかっている!」
怒鳴り返した多田羅は刀を捨て、厨の地面にどうと倒れ伏し、「いやだ!」と赤子のように手足を地に激しく打ちもがいた。
そのまま、這いずって九能の足にすがりついて、叫んだ。
「知らぬ! 鶴松の命などどうなろうと俺は知らん!! 九能殿、大阪に帰り、根尾の我が屋敷にいた鳥は鶴ではなかったと関白に言え! 頼む、言ってくれ!」
しかし九能は、黙って首を振った。
「主命でござりますれば」
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