花と靱(はなとうつぼ)

夏目真生夜

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第8章 事件

事件

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慶長五年(一六〇〇年)の正月、細川家の隠居翁、幽斉が不意に勝俊の屋敷を訪れた。
 すでに秀吉は老耄の果てに病没し、関ヶ原の合戦が迫っている。さまざまな政治と思惑があり、勝俊と幽斉はどちらも徳川家康方の東軍に与していた。
 その日、珍しく若狭に雪が降った。
 勝俊が亭主として茶室で対峙すると、幽斉は白い息を吐いて目を細めた。
「海に降りゆく雪というのは初めて見ましたが、まことに風流なものですな」
「そう見えますか。水面に向かって雪が次々と身投げするようで私は好きませぬな」
 幽斉は気を悪くする風もなく
「大蔵殿らしい言いぶりですな」
 と出された菓子をつまみ、
「ところで床の間の書、あれは気色、筆墨、実に面白い」
 そう口元で笑った。
 床の間にあるのは、初夜の夜に勝俊が書き写した、例の長可の遺書である。
 花入には花はなく、杉の木の枝が一本挿してあり、室内にはかすかに生木の木香が漂っている。
「ありがとうございまする」
 勝俊は、点てた茶を幽斉の前にすすめた。
「この雪ゆえ、枯れ枝以外に何もなきこの茶室。せめてもと、書には『欲しい、欲しい』と無垢に願う人の想いを活けてございます」
「なるほど」
 幽斉はもう一度、床の間を見た。
 幽斉の目に床の間の杉の枝は、老耄して死んだ秀吉の細腕に見えた。
 その秀吉に向かって茶器や母、末弟、それに妻女の行く末を託した長可の遺言状は、勝俊の端正な筆の力もあり、幽玄な空間を形作っている。
 勝俊は言った。
「細川様、あなた様のお考えを伺いたいのです。私はずっとこの長可殿の書にこめられた真意を考え続けておりました。実は私にこの書をもたらした妻の梅は、兄は臆病な遺書を残したと怒り恥じておりました」
「長可殿が臆病……」
 まさかと幽斉は笑い、言った。
「あれほど欲望にまっすぐな男はいなかったでしょう」
 旧織田家家臣の幽斉は森可成と朋輩であり、その子の可隆や長可とも茶や和歌を通じて親交があった。森家の事情には深く通じている。 
 勝俊は頷いた。
「戦場での槍働きも、茶も書もそのような方であったと聞き及んでおります。ですから、私はこの遺書は、長可殿の夢だと思うに至ったのです」
「夢? 夢とはいかな意味です? 秀吉様の軍が敗れた暁には、一族郎党みな死ねという、武家としての華々しい夢のことですかな?」
「その逆です。この書には何度も京にと出てまいります。かまいてかまいてかまいてと強く念を押し、母や弟を京に置かせてほしいと書いております。最初は、文中にあるように京にいる太閤様のおそばに母と弟の二人を置いてほしいという意味かと思いましたが、近頃になって、ようやくわかったのです」
 勝俊は、靱肩衝の茶入を懐から取出した。
「長可殿の茶器好みは物狂いと称されるほどに苛烈でしたな。当時、借金をしてまで名物を贖ったと聞いております」
 幽斉が頷いた。
「そういう物狂いがあるお方でしたな」
「遺言にも茶道具の託し先が細々と書かれております。
 にもかかわらず、戦場で名を轟かせたご自身の名槍『和泉守兼定』には一言も触れておりませぬ。
 きっと長可殿は死に臨み、秀吉様が天下をとり、太平となった世で、茶の湯に傾注して風雅の道に暮らす夢を思い描いたのでございましょう。
 それが叶わぬゆえ、せめて縁者には京の文化の風の中で生き暮らしてほしいと、激しく願ったのでしょう。私にはそんな気がいたします」
「その解釈に、奥方はなんとお答えになられましたかな?」
「『いずれにしても兄上は狂者であった。茶道具はしょせん道具に過ぎませぬ。人は生き、道具を使って輝かねばならない』――と」
「闊達な言いぶりですな」
 幽斉は目を細めた。
「しかし私の生涯において、この靱肩衝は武具ではあらねど確かに戦道具でございました。
 これがあったればこそ、亡父に縁のあるこの若狭国を所領にすることができました。またあなた様と引き合わせてくれ、こうして私達は歌の師と弟子となり、それははからずも京で帝や公家方の知己を得、さらに和歌の道を極めるよう私を導いてくれたのですから」
「生涯などと大層な言葉を使うとは、貴殿はまさか、次の大戦では死ぬ気でおられるのか?」
 そう勝俊に向かって問う幽斉の口調もひどく静かだった。
 勝俊は黙っている。
「今、京の風流に恋い焦がれているのは、亡くなった長可殿ではなく、どうやらあなた様ご自身のようですな」
 勝俊は素直に頷いた。
「そのようです」
 幽斉は破顔した。
「確かに京はよき所です。ああ、どうやら私も同じ穴の貉かもしれませぬ」
「細川様、あなた様はどうなされるおつもりか」
 聞かでものことと思いながら、勝俊の臆病さが、思わずその問いを口にした。幽斉は笑みを口元に残したまま、答えた。
「辞世の和歌こそまだできませぬが、おそらくこの戦で私は死ぬでしょう。身の裡にある和歌の炎とともに」
 勝俊は、それに倣うように強く頷いた。
 
 幽斉を送って外に出ると、矢あられのような雪風が勝俊の横頬を打った。
(キリシタンは自決を禁じられている……)
 討ち死に以外に死ぬ方法はない。
 けれども戦場で刀槍をとって戦う自分も、辞世の和歌もまるで思い浮かばなかった。やっかいなことだと勝俊は雪の中で目を瞑った。
 
 
 
 その年の四月、若狭で事件が起きた。
 この時、勝俊は家康の命を受け、城の守り役として、兵を連れて伏見城に入っており、後瀬山城にはほとんど女しか残されていない。
「泰(たい)、泰や」
 子の名を呼ぶ梅の悲鳴が、浜辺に彷徨い響いた。その髪は乱れ、顔は蝋のように蒼い。
 梅と勝俊の嫡男、泰平(たいへい)がいなくなったのである。
 この年の正月に生まれたばかりのまだほんの乳のみ児であった。それが乳母の床から神隠しにあったように消えた。この泰平は、梅が嫁いで一六年、やっと授かった男児であった。
 城の者総出で三日三晩、手を尽くして探し、遂に四日目
「もうよい。泰のことは諦めましょう」
と梅はきっぱりと言った。
 豊臣姓を下賜されながら東軍についた勝俊は、西軍側、特に豊臣に縁の深い諸大名、長束正家や宇喜多秀家らにひどく恨まれていた。
 梅にしても、本来なら大名の妻子として大阪城下の屋敷に住まなければならないところを、勝俊に頼まれた高台院(おね)が手を回し、若狭の後瀬山城にいることを許されている。
 彼らがどんな報復に出てもおかしくない時勢である。
 女手ばかりの城から赤子が消えたのだから、手引きした者はきっと内部にいる。けれど、夫が不在の今、城中を騒がせたくはなかった。
「におう御前様、本当にそれでよろしいのですか?」
 皆の総意を込めて、唯一、城に残っていた新屋(しんや)という家老が尋ねた。
「よいのです。皆の者もよく聞きなさい。もう二度と赤子を探してはなりません。泰平のことは金輪際忘れるのです」
 梅は母心よりも、城を守る統治者としてなすべきことを優先した。
「妻を大阪屋敷に入れず、どうか若狭におられるように」と高台院(おね)に嘆願した勝俊とはまるで違う。
 梅は勝俊よりもずっと心の仕組みが武人として出来ていた。いや、そもそも勝俊はどこをどう押しても武人ではなかったのだろう。 
 
 
 
 
 
 
 
 
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