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第9章 退去
退去
しおりを挟む慶長五年(一六〇〇年)七月十七日 京都伏見城――
鳥居元忠と佐野綱正に押し切られ、天守閣で車座に座り、勝俊が、いざ辞世の和歌を指南となった時、思い出したように佐野が口を開いた。
「そういえば、若狭殿は細川幽斎殿と浅からぬご縁でしたな」
「ええ。そうですが」
佐野の口元が痛ましそうに歪んでいる。
この伏見城にほど近い、丹後田辺城にいる幽斎の身に何かあったのかと勝俊の腰が浮きかけた。
「石田方が田辺城に攻めかけたのですか?」
「そうではない。襲われたのは大坂玉造の細川越中守(忠興)の屋敷の方じゃ」
忠興――幽斎の嫡子であり、今は妻子を大阪屋敷に残し、今は家康とともに会津討伐の途次、江戸城にいる。
「玉造屋敷には確かガラシャ様がおられたはず」
おお、と佐野は頷き、
「あの艶麗比いなしと名高いガラシャ様だが、果たして無事でいられるか……」
「それほどまでに事態は危ういのですか」
「昨日から、屋敷は、ぐるりと石田方の兵に囲まれておる」
「では、そこから天下分け目の戦になるやもしれませんな」
「まさか。非力な女手しかない屋敷よ。連れ去られるか、あるいは自害となるであろう」
「そうでしょうか? 私、万が一、戦が始まるときのことを考え、大坂玉造に見に行ってまいります」
これにはその場にいた鳥居も驚いた。
「何もそこまでせずとも」
「そうよ。奥方を人質に取られる細川越中守はまことに気の毒だが、我らにできることはないわ」
そう佐野も続ける。この伏見城とて、いつ本格的な開戦となるかわからないのである。
しかし、勝俊は首を振って、立ち上がった。
「某には伏見城守役としての責務がございまする。念のため見に行ってまいりましょう。何、すぐに戻りまする」
こうして、勝俊は伏見城から出た。
もっとも勝俊は最初から戦をするつもりはなく、近いうちに伏見城を捨て、退去するつもりであったが。
勝俊は、一人、京の町を歩いている。
(さて、どこに行くか)
高台院様のいる京都内野(うちの)の太閤御所、あるいは細川様を頼って丹後の田辺城か――。
伏見城を出るには出た。けれど、東軍と西軍がいよいよ開戦しようという今、行く当てなどどこにもない。
(梅のいる若狭が恋しい。梅の元が一等佳い……)
胸の中、梅の香りがむせるほどに溢れ、わき上がる。
勝俊は、京を出た。
数刻後、勝俊は、京都玉造の細川屋敷からわずかに離れた商屋の軒先に立ち、屋敷から上がる黒煙をぼうと見つめていた。
業火のような焔に包まれ、細川屋敷が燃えている。その有様に驚き、ばたばたと慌てたような足取りで石田方の兵が引き上げていくのも見える。
まさか、こうなるとは思っていなかったのだろう。
(キリシタンは自害を禁じられているが、ガラシャ様はその教義を破られたか……)
延焼に怯える近隣の者たちが家々から出てきて、あたりに満ち満ちている。彼らの口から洩れるさまざな囁きが、聞くともなく勝俊の耳に流れ込んでくる。
「ついに越中守の女房衆がみなみな自害なされたわ」
「まあ、ほんに物騒やな。屋敷内にいたお子らはどうなりはった?」
「十二の男君と六歳の姫を、母のガラシャ様が自ら御手で殺しはったそうや」
「ああ、こわこわ。奉行方(石田方)はこの京の都をなんやと思うてるんや」
勝俊は幽斎とは親しいが、ガラシャについては忠興に嫁ぐ前の幼い童女の頃しか知らない。
屋敷内の礼拝堂でデウスに祈りを捧げながら自害するガラシャを思う。その顔が梅に重なった。
もし、梅が大阪屋敷にいて、そこで人質になれと石田方に詰め寄られたら――。
最後まで抗して戦おうと、薙刀をふるう梅の姿がまざまざと浮かんだ。
もしかしたら、女ながら兵の二、三人も斬り倒すかもしれない。
そして最期には屋敷に火を放ち、赤子の泰平を短刀で刺し、結姫を刀で斬り殺し、自分の喉を突いて、どうと倒れ伏すだろう。
(そうなっては、とてもたまらぬ……)
梅を若狭に残してきたことは、これでよかったのだと勝俊は一人、頷いた。
その勝俊の着物の袖を、ぐいと引く者があった。
「お主! こんなところで何をしておる!」
石田方の兵かとびくりと怯えたが、連歌師で幽斎ともどもなじみの深い、里村昌叱がそこにいた。六十一歳の老翁である
「さあ、いったい何をしているのでしょうな、私は」
(石田方も家康方も)
と胸の中でそっと付け加える。
「こんなところで供も連れず、刀も甲冑もなく、どうするつもりだ」
ぶすぶすと屋敷と人が焼けこげる匂いの中で、昌叱が真剣な顔で勝俊を睨んでいる。
「さきほど儂の元に細川幽斎殿より密書が届いた。ガラシャ様の自害を受けて、自分は田辺城で戦い、自害して果てるとのことであった」
――では田辺城には行けぬな、とぼんやりと勝俊は思う。
その腕を、ぐいっと昌叱が引き寄せた。
「幽斎殿にくわえて、お主まで死なせるわけにはいかぬ。さあ、ただちに儂の屋敷へ行くぞ」
勝俊は伏見の路上をずるずると引きずられるように歩いていく。
「お主は希代の歌詠みであろう。もっと、己(おの)が値を知れ」
師匠筋の昌叱が顔を歪め、ぼろぼろと泣きながら、勝俊の手を引き、京の町をずんずん歩く。
(「己が値を知れ」か。どうやらそれが生きるということらしい)
目に染みる煙に、勝俊はようやく気付いたような気がして歩いた。
伏見城を出た勝俊が戻らないことに、鳥居はじめ城内の兵は、一瞬ざわついたが、佐野の
「豊臣と名がついていてもしょせんは歌師、役に立たんわ」
の一言で仕舞いになった。みな、開戦の準備に忙しい。翌々日の十九日、ついに伏見城の戦いが本格的に開戦した。
ボウン、ボウン。ボウン……。
石田方と徳川方の間を行き交う大砲の音が京の町に響いた。
佐野元綱は、念願通り、自ら大砲を放って二の丸を守備して戦い、伏見城入りから十一日後の七月二十九日に討死した。
鳥居元忠は、「出来うる限り城を死守せよ」との家康の命に従い、石田光成の降伏勧告にも屈服せず四万の西軍と戦い、激闘の末、八月一日に討死した。
なお、佐野については戦後、側室の守護を放棄し、功を挙げようと伏見城に入城したことを咎められ、改易扱いとなった。
家康にしてみれば、おめおめと愛妾たちを敵の手に渡して殺されては面目が立たぬと恐れたのであろう。その意を汲まなかった佐野は、どうあっても許しがたかった。
もし和歌や茶に優れ、側室の女達の機嫌を取るにも巧緻であった勝俊が、大阪城二の丸の留守居役であったならば、佐野家は滅せず、勝俊にも武人として生きる道があったのかもしれない……。
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