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第10章 靱
靱
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一方、若狭で勝俊の退去の報を知った梅は、目を見張った。
「家康様の怒り凄まじく候」
先年、家康の五男、松平信吉に嫁いでいた長女の糸が書状で知らせてくれたのである。その勝俊は、伏見城を出たあと若狭には帰ってこない。どうやら京のどこかに匿われているらしいと、書状には書かれている。
我が家は終わった――
梅は、若狭の海を見つめてそう思った。
東軍が勝つか西軍が勝つかはわからない。だが、いつかは勝俊も見つかり、家康の前に引き出される。そうなれば夫の身はただでは済まないだろう。
梅は城内の女達に指図して、城内を清め、茶器や調度品をまとめた。
家康に捧げるためである。
勝俊の所有する茶器、骨董、それぞれの品に梅はただし書きをつけ、海を臨む一部屋に並べた。
茶器の中に、例の靱肩衝があった。
濃紺に輝くぼってりとした靭を見た時、梅は悟った。
夫には、初めから伏見城で戦をするつもりはなかったのだと。
武功の守り神、靱肩衝を置いていったことこそ、その証であった。
茶器や骨董の始末が終わると、梅は再び筆をとり、勝俊の筆跡をまね、家康に対して、自ら若狭国の所領を全て返領する内容の書状をしたためた。
書き終わると新屋を呼び、長女の糸の元に届ける使者とした。娘婿の松平信吉から、勝俊の助命を家康にとりなしてもらうのである。
女達の手によって綺麗に清められた城で、最後に梅は声を張って言った。
「こののち殿にどんな罰が下されるかはわかりませぬ。けれど所領召し上げは避けられぬことでしょう。徳川家に輿入れした糸、それに山崎家に輿入れした綸に、それぞれそなた達を世話してくれるように、私から書状を送ってあります。どちらも徳川の大名家、こしかたを案ずることはない。みな、荷物をまとめ、早々に落ち延びなさい。よいな、これは私からの厳命です」
三十名ほどの侍女達はみな顔を上げ、この仁王のようにりりとして美しい女主人を見た。
突然、侍女の一人が声をあげた。
「恐れながら、私はにおう御前様に従いてまいりとうございます。どうかお許しくださいませ」
「私も」
「どうぞ私も」
別の侍女らの声がかぶさったのにも、
「それはならぬ」
と梅は冷ややかだった。
「私は一人で行かねばならぬところがあるのです」
「一体、御台様はどちらへゆかれるのですか」
「案ぜずともよい。そこには私を待っている者がいる――」
梅の言う待つ者とは、夫の勝俊、あるいはさらわれた赤ん坊の泰平のことだとみな思った。
(自害されるおつもりなのだ――)
とこの女主(おんなあるじ)の先行きを思い、みな泣いた。
梅は侍女達を下がらせると、八歳になった三女の結姫だけを連れ、茶室に向かった。
姫が小さな手で、花入に片栗の花を挿した。壁には例の長可の遺言がかけられている。
「案ぜずともよい。痛くはありませんよ」
そばで震える結姫に優しく声をかけ、辞世の和歌を詠む。
一瞬、もう二度と叶わぬけれど、父母や兄達と楽しく過ごした岐阜の兼山に帰りたいと梅は考えた。
懐から短刀を取出す。さらりと鞘がはらわれ、刀身が輝く。
「ひっ」
姫が声を上げた。
「いや。いや。母様。いや。いや。」
泣きながら、梅にしがみつく。
「父様。父様。母様を止めて。母様を止めて」
梅は、結姫ともども自害して果てる気だった。先に殺されるわが身に気づかない結姫にふと、哀れがわいた。結姫を落ち着かせようと、いったん刀を鞘に納めた。
「姫、そなたはどこに行きたいか、選びなさい。母が行く所に冥途の旅路にともに参りますか? それとも寺にゆき尼になりますか? 尼が嫌ならば、津山の城に行ってもよいのですよ」
「冥途など嫌でございます。私は寺に入るのも、見知らぬ津山などに行くのも嫌。それより私は父上から聞かされていた京の町にゆきたい。そこで大好きな和歌をたくさんたくさん作るのです」
結姫は無邪気に言った。
なんだか、夫の勝俊が言っているような口調だった。梅がじっと姫の目を見つめると
「母様。私は死んでも冥途は嫌ですよ」
とぷいっとそっぽを向いた。
死んでも嫌――、その言い草がおかしく、梅は無性に愛おしくなって、幼い姫の頭を撫でた。
「わかりました。では、姫が京にゆけるよう書状を書いてあげましょう」
梅は、短刀を懐に仕舞い、文机と筆硯を出した。
言葉通り、夫の勝俊と親しい京の公家の何人かに宛てて、書状をしたためると、何人かの侍女を選び出し、使者にして書状を持たせ、送った。
最後の一通の書状を持った侍女が下がると、部屋には再び母子二人だけになった。
「母様。これからどうするのです?」
どうする――。
公家からの返事の書状を待つ間、しばらくある。
「とにかく茶でも点てましょうか」
梅は部屋にずらりと並んだ茶器を振り返り、靭にそっと手を伸ばした。
そのはるか向こうに若狭の蒼い海が静かに広がっている。
「家康様の怒り凄まじく候」
先年、家康の五男、松平信吉に嫁いでいた長女の糸が書状で知らせてくれたのである。その勝俊は、伏見城を出たあと若狭には帰ってこない。どうやら京のどこかに匿われているらしいと、書状には書かれている。
我が家は終わった――
梅は、若狭の海を見つめてそう思った。
東軍が勝つか西軍が勝つかはわからない。だが、いつかは勝俊も見つかり、家康の前に引き出される。そうなれば夫の身はただでは済まないだろう。
梅は城内の女達に指図して、城内を清め、茶器や調度品をまとめた。
家康に捧げるためである。
勝俊の所有する茶器、骨董、それぞれの品に梅はただし書きをつけ、海を臨む一部屋に並べた。
茶器の中に、例の靱肩衝があった。
濃紺に輝くぼってりとした靭を見た時、梅は悟った。
夫には、初めから伏見城で戦をするつもりはなかったのだと。
武功の守り神、靱肩衝を置いていったことこそ、その証であった。
茶器や骨董の始末が終わると、梅は再び筆をとり、勝俊の筆跡をまね、家康に対して、自ら若狭国の所領を全て返領する内容の書状をしたためた。
書き終わると新屋を呼び、長女の糸の元に届ける使者とした。娘婿の松平信吉から、勝俊の助命を家康にとりなしてもらうのである。
女達の手によって綺麗に清められた城で、最後に梅は声を張って言った。
「こののち殿にどんな罰が下されるかはわかりませぬ。けれど所領召し上げは避けられぬことでしょう。徳川家に輿入れした糸、それに山崎家に輿入れした綸に、それぞれそなた達を世話してくれるように、私から書状を送ってあります。どちらも徳川の大名家、こしかたを案ずることはない。みな、荷物をまとめ、早々に落ち延びなさい。よいな、これは私からの厳命です」
三十名ほどの侍女達はみな顔を上げ、この仁王のようにりりとして美しい女主人を見た。
突然、侍女の一人が声をあげた。
「恐れながら、私はにおう御前様に従いてまいりとうございます。どうかお許しくださいませ」
「私も」
「どうぞ私も」
別の侍女らの声がかぶさったのにも、
「それはならぬ」
と梅は冷ややかだった。
「私は一人で行かねばならぬところがあるのです」
「一体、御台様はどちらへゆかれるのですか」
「案ぜずともよい。そこには私を待っている者がいる――」
梅の言う待つ者とは、夫の勝俊、あるいはさらわれた赤ん坊の泰平のことだとみな思った。
(自害されるおつもりなのだ――)
とこの女主(おんなあるじ)の先行きを思い、みな泣いた。
梅は侍女達を下がらせると、八歳になった三女の結姫だけを連れ、茶室に向かった。
姫が小さな手で、花入に片栗の花を挿した。壁には例の長可の遺言がかけられている。
「案ぜずともよい。痛くはありませんよ」
そばで震える結姫に優しく声をかけ、辞世の和歌を詠む。
一瞬、もう二度と叶わぬけれど、父母や兄達と楽しく過ごした岐阜の兼山に帰りたいと梅は考えた。
懐から短刀を取出す。さらりと鞘がはらわれ、刀身が輝く。
「ひっ」
姫が声を上げた。
「いや。いや。母様。いや。いや。」
泣きながら、梅にしがみつく。
「父様。父様。母様を止めて。母様を止めて」
梅は、結姫ともども自害して果てる気だった。先に殺されるわが身に気づかない結姫にふと、哀れがわいた。結姫を落ち着かせようと、いったん刀を鞘に納めた。
「姫、そなたはどこに行きたいか、選びなさい。母が行く所に冥途の旅路にともに参りますか? それとも寺にゆき尼になりますか? 尼が嫌ならば、津山の城に行ってもよいのですよ」
「冥途など嫌でございます。私は寺に入るのも、見知らぬ津山などに行くのも嫌。それより私は父上から聞かされていた京の町にゆきたい。そこで大好きな和歌をたくさんたくさん作るのです」
結姫は無邪気に言った。
なんだか、夫の勝俊が言っているような口調だった。梅がじっと姫の目を見つめると
「母様。私は死んでも冥途は嫌ですよ」
とぷいっとそっぽを向いた。
死んでも嫌――、その言い草がおかしく、梅は無性に愛おしくなって、幼い姫の頭を撫でた。
「わかりました。では、姫が京にゆけるよう書状を書いてあげましょう」
梅は、短刀を懐に仕舞い、文机と筆硯を出した。
言葉通り、夫の勝俊と親しい京の公家の何人かに宛てて、書状をしたためると、何人かの侍女を選び出し、使者にして書状を持たせ、送った。
最後の一通の書状を持った侍女が下がると、部屋には再び母子二人だけになった。
「母様。これからどうするのです?」
どうする――。
公家からの返事の書状を待つ間、しばらくある。
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そのはるか向こうに若狭の蒼い海が静かに広がっている。
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