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第1章・狼煙
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「そう……バラのことだ」
正人はそう言うと、小さく苦笑して両腕を組んだ。
奥の部屋では家政婦の喜代が何かしているのか、コトコトと歩き回る音がする。
唯人はその気配を背後に感じながら、次に来る父の言葉を待った。
が――
意外なことに、正人はクスクス笑いだすと、突然こんなことを言いだした。
「あれは嘘だ。あの話は冗談だよ」
「え?」
普段あまり笑う事のない父が、この時はまるで悪戯が見つかった子供のように照れた笑顔を見せるので、唯人は呆気にとられたように父を見つめた。が、正人はそんな唯人をからかう様に、なおも繰り返し言った。
「あの話は嘘だよ。全部冗談なんだ」
「でも……」
「まさか、唯人は本当だと思っていたのか?それならお父さんの演技も満更じゃないな」
そう言って、正人は一方的に笑い続ける。
だが気のせいか、その声は妙に乾いていて、唯人は微かな不安を感じた。
――どうしたんだろう。今日の父はいつも違う。
言葉といい態度といい、いつも見せる父のそれとはどこか違っていた。
祖父が死んで半年。
寂しさを紛らわせるためか、日ごろ口数の少ない正人の方から唯人に話しかけることが多くなったが、それでも冗談を言い合うほどではなかった。
そんな父が、神妙な顔で自分を書斎に呼んだのはつい最近のことだ。
そこで、一聞しただけでは到底信じられないような話をした。
バラの話――
唯人はそれを、些か小説めいた話だと思い、本気にはしなかった。
でもその時の父の様子が、とても冗談を言っているようには見えなかったことだけは確かだ。なのに――
あの時からすでにひと月以上経とうとする今になって、いきなり「あれは嘘だ。冗談だ」なんて……
「あのぉ」
その時、奥の部屋から喜代がおずおずと姿を見せた。
「旦那様、ちょっとスーパーまで行ってまいります」
「買い物ですか?」
卵を切らして……と呟く喜代の声に、唯人は思わず、「僕が買ってこようか?」と言った。
勢いで言ってみたが、どうせダメに決まっている。生まれてこの方、1人での外出を許されたことなど一度もないのだ。ほんの僅かな距離でさえも。
だから唯人は学校に行っていない。
他人の目を避けるというよりも、まるで唯人の存在を誰にも知られたくないような――そんな暗黙の配慮がなされているようで、時々恐ろしくなる。
ここに自分が存在しているということを、近所の人間の果たして何割が知っているだろう?
恐らく、誰も知るまい―――
「僕が買ってきてあげるよ」
唯人は再びそう言った。
すると――いつもなら「いや、喜代に頼もう」という父が、この日は「そうか?」と言って眉を上げると、「じゃあお前に頼もうかな」と、まるで初めから用意していたようにポケットから折りたたまれた千円札を取り出すと、それを唯人に差し出した。
唯人は驚いて、本当にいいの?と聞き返そうとしたが、ダメならすぐに止めるだろうと思い、正人から受け取った紙幣を持ってそのまま玄関に向かった。
「あ、唯人」
(ほら……やっぱりダメだ)
唯人は軽く舌打ちして足を止めた。
だが、正人は唯人を止めたわけではなかった。
正人はそう言うと、小さく苦笑して両腕を組んだ。
奥の部屋では家政婦の喜代が何かしているのか、コトコトと歩き回る音がする。
唯人はその気配を背後に感じながら、次に来る父の言葉を待った。
が――
意外なことに、正人はクスクス笑いだすと、突然こんなことを言いだした。
「あれは嘘だ。あの話は冗談だよ」
「え?」
普段あまり笑う事のない父が、この時はまるで悪戯が見つかった子供のように照れた笑顔を見せるので、唯人は呆気にとられたように父を見つめた。が、正人はそんな唯人をからかう様に、なおも繰り返し言った。
「あの話は嘘だよ。全部冗談なんだ」
「でも……」
「まさか、唯人は本当だと思っていたのか?それならお父さんの演技も満更じゃないな」
そう言って、正人は一方的に笑い続ける。
だが気のせいか、その声は妙に乾いていて、唯人は微かな不安を感じた。
――どうしたんだろう。今日の父はいつも違う。
言葉といい態度といい、いつも見せる父のそれとはどこか違っていた。
祖父が死んで半年。
寂しさを紛らわせるためか、日ごろ口数の少ない正人の方から唯人に話しかけることが多くなったが、それでも冗談を言い合うほどではなかった。
そんな父が、神妙な顔で自分を書斎に呼んだのはつい最近のことだ。
そこで、一聞しただけでは到底信じられないような話をした。
バラの話――
唯人はそれを、些か小説めいた話だと思い、本気にはしなかった。
でもその時の父の様子が、とても冗談を言っているようには見えなかったことだけは確かだ。なのに――
あの時からすでにひと月以上経とうとする今になって、いきなり「あれは嘘だ。冗談だ」なんて……
「あのぉ」
その時、奥の部屋から喜代がおずおずと姿を見せた。
「旦那様、ちょっとスーパーまで行ってまいります」
「買い物ですか?」
卵を切らして……と呟く喜代の声に、唯人は思わず、「僕が買ってこようか?」と言った。
勢いで言ってみたが、どうせダメに決まっている。生まれてこの方、1人での外出を許されたことなど一度もないのだ。ほんの僅かな距離でさえも。
だから唯人は学校に行っていない。
他人の目を避けるというよりも、まるで唯人の存在を誰にも知られたくないような――そんな暗黙の配慮がなされているようで、時々恐ろしくなる。
ここに自分が存在しているということを、近所の人間の果たして何割が知っているだろう?
恐らく、誰も知るまい―――
「僕が買ってきてあげるよ」
唯人は再びそう言った。
すると――いつもなら「いや、喜代に頼もう」という父が、この日は「そうか?」と言って眉を上げると、「じゃあお前に頼もうかな」と、まるで初めから用意していたようにポケットから折りたたまれた千円札を取り出すと、それを唯人に差し出した。
唯人は驚いて、本当にいいの?と聞き返そうとしたが、ダメならすぐに止めるだろうと思い、正人から受け取った紙幣を持ってそのまま玄関に向かった。
「あ、唯人」
(ほら……やっぱりダメだ)
唯人は軽く舌打ちして足を止めた。
だが、正人は唯人を止めたわけではなかった。
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