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第1章・狼煙
#2
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「唯人……」
ふいに名前を呼ばれて、唯人は身を起こした。
廊下の向こうから静かに近づいてきたのは、父の正人だった。
まだ40そこそこだが、頭髪はほとんど白に近く、顔なども下手したら老人のように老けて見える。酷く疲れた様に見えるのは、決して見た目だけではない。
人目をはばかる様な低く陰気なしゃべり方といい、物音を立てぬような所作といい。
唯人はこの父を見るといつも、ものに怯える猫を想像した。
今も、唯人の傍に音もなく近づくと、庭の方をじっと見つめて言った。
「あぁ……もう金木犀がすっかり散ってしまったね」
父が言うと、まるでこの世の全てが終わってしまったような、絶望的な響きに聞こえるのは何故だろうか――
唯人はそう思いながら、そうだね……頷いた。
「あの花が咲く頃になると、雨がよく降るんだよ。だから、せっかく咲いてもすぐに散っちゃう」
唯人はそう言って父を見上げた。
父は祖父ほど花に関心はない。この庭は全て、今は亡き祖父である清宮宗源が手入れをしていた。
祖父は植物が好きだった。暇さえあればいつも庭に出て、四季折々に咲き誇る花々を愛でていた。
しかし、父はあまり庭に出ることはなかった。花が咲いても別段気にすることもなかった。
だからこの時、父がいやに熱心に金木犀を見ていることに、唯人は少し違和感を覚えた。
「お父さん。僕に何か用があったんじゃないの?」
唯人がそう尋ねると、正人は少し驚いたように体を揺らして唯人を見下ろした。
「いや……別に用事というほどの事ではないよ」
正人はそう言うと、取って付けたような笑みを浮かべた。
「そう」
唯人は呟くと、ふと辺りを見回して言った。
「そういえば……江戸川は?」
江戸川千景は、父の秘書と称して長くこの家にいる。
普段は父の仕事の為に外を走り回っているが、そうでない時は唯人に勉強を教えるなど、秘書というよりもむしろ唯人の教育係と言った方が適切な男だ。
歳は32。あまり感情を表に出さない男だが、見場は悪くない。
背も高く、それに見合った体格をしているので、用心棒という意味合いにもとれそうだ。
どちらにしても、あまり秘書らしくはない。
けれど、ひとつ屋根の下で10年以上一緒に住んでいれば、他人という感情は皆無に等しい。
江戸川は唯人に対して、あくまでも雇い主の息子として接するため、身内のように慣れ合うことはできないが、それでも唯人はこの男を家族同様に信頼している。
「少し所用があるとかで……今は出掛けているよ。だが、じき戻ってくるだろう」
正人はそう答えてから、しばらくじっと一点を見つめていたが、やがてボソッと呟くように言った。
「なぁ唯人」
「なに?」
正人はやや躊躇った後、再び口を開いた。
「この間、お父さんがした話を覚えているかな?」
「話?」
唯人は一瞬なんの事だろうと眉をひそめたが、すぐに「あぁ」と頷いて言った。
「うん。覚えてるよ。バラのことでしょう?」
ふいに名前を呼ばれて、唯人は身を起こした。
廊下の向こうから静かに近づいてきたのは、父の正人だった。
まだ40そこそこだが、頭髪はほとんど白に近く、顔なども下手したら老人のように老けて見える。酷く疲れた様に見えるのは、決して見た目だけではない。
人目をはばかる様な低く陰気なしゃべり方といい、物音を立てぬような所作といい。
唯人はこの父を見るといつも、ものに怯える猫を想像した。
今も、唯人の傍に音もなく近づくと、庭の方をじっと見つめて言った。
「あぁ……もう金木犀がすっかり散ってしまったね」
父が言うと、まるでこの世の全てが終わってしまったような、絶望的な響きに聞こえるのは何故だろうか――
唯人はそう思いながら、そうだね……頷いた。
「あの花が咲く頃になると、雨がよく降るんだよ。だから、せっかく咲いてもすぐに散っちゃう」
唯人はそう言って父を見上げた。
父は祖父ほど花に関心はない。この庭は全て、今は亡き祖父である清宮宗源が手入れをしていた。
祖父は植物が好きだった。暇さえあればいつも庭に出て、四季折々に咲き誇る花々を愛でていた。
しかし、父はあまり庭に出ることはなかった。花が咲いても別段気にすることもなかった。
だからこの時、父がいやに熱心に金木犀を見ていることに、唯人は少し違和感を覚えた。
「お父さん。僕に何か用があったんじゃないの?」
唯人がそう尋ねると、正人は少し驚いたように体を揺らして唯人を見下ろした。
「いや……別に用事というほどの事ではないよ」
正人はそう言うと、取って付けたような笑みを浮かべた。
「そう」
唯人は呟くと、ふと辺りを見回して言った。
「そういえば……江戸川は?」
江戸川千景は、父の秘書と称して長くこの家にいる。
普段は父の仕事の為に外を走り回っているが、そうでない時は唯人に勉強を教えるなど、秘書というよりもむしろ唯人の教育係と言った方が適切な男だ。
歳は32。あまり感情を表に出さない男だが、見場は悪くない。
背も高く、それに見合った体格をしているので、用心棒という意味合いにもとれそうだ。
どちらにしても、あまり秘書らしくはない。
けれど、ひとつ屋根の下で10年以上一緒に住んでいれば、他人という感情は皆無に等しい。
江戸川は唯人に対して、あくまでも雇い主の息子として接するため、身内のように慣れ合うことはできないが、それでも唯人はこの男を家族同様に信頼している。
「少し所用があるとかで……今は出掛けているよ。だが、じき戻ってくるだろう」
正人はそう答えてから、しばらくじっと一点を見つめていたが、やがてボソッと呟くように言った。
「なぁ唯人」
「なに?」
正人はやや躊躇った後、再び口を開いた。
「この間、お父さんがした話を覚えているかな?」
「話?」
唯人は一瞬なんの事だろうと眉をひそめたが、すぐに「あぁ」と頷いて言った。
「うん。覚えてるよ。バラのことでしょう?」
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