薔薇を抱いて眠れ

sorarion914

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第1章・狼煙

#2

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「唯人……」

 ふいに名前を呼ばれて、唯人は身を起こした。
 廊下の向こうから静かに近づいてきたのは、父の正人まさとだった。
 まだ40そこそこだが、頭髪はほとんど白に近く、顔なども下手したら老人のように老けて見える。酷く疲れた様に見えるのは、決して見た目だけではない。
 人目をはばかる様な低く陰気なしゃべり方といい、物音を立てぬような所作といい。

 唯人はこの父を見るといつも、ものに怯える猫を想像した。
 今も、唯人の傍に音もなく近づくと、庭の方をじっと見つめて言った。

「あぁ……もう金木犀がすっかり散ってしまったね」

 父が言うと、まるでこの世の全てが終わってしまったような、絶望的な響きに聞こえるのは何故だろうか――
 唯人はそう思いながら、そうだね……頷いた。

「あの花が咲く頃になると、雨がよく降るんだよ。だから、せっかく咲いてもすぐに散っちゃう」

 唯人はそう言って父を見上げた。
 父は祖父ほど花に関心はない。この庭は全て、今は亡き祖父である清宮宗源きよみやそうげんが手入れをしていた。
 祖父は植物が好きだった。暇さえあればいつも庭に出て、四季折々に咲き誇る花々を愛でていた。
 しかし、父はあまり庭に出ることはなかった。花が咲いても別段気にすることもなかった。
 だからこの時、父がいやに熱心に金木犀を見ていることに、唯人は少し違和感を覚えた。

「お父さん。僕に何か用があったんじゃないの?」

 唯人がそう尋ねると、正人は少し驚いたように体を揺らして唯人を見下ろした。

「いや……別に用事というほどの事ではないよ」

 正人はそう言うと、取って付けたような笑みを浮かべた。

「そう」

 唯人は呟くと、ふと辺りを見回して言った。

「そういえば……江戸川は?」

 江戸川千景えどがわちかげは、父の秘書と称して長くこの家にいる。
 普段は父の仕事の為に外を走り回っているが、そうでない時は唯人に勉強を教えるなど、秘書というよりもむしろ唯人の教育係と言った方が適切な男だ。
 歳は32。あまり感情を表に出さない男だが、見場は悪くない。
 背も高く、それに見合った体格をしているので、用心棒という意味合いにもとれそうだ。

 どちらにしても、あまり秘書らしくはない。
 けれど、ひとつ屋根の下で10年以上一緒に住んでいれば、他人という感情は皆無に等しい。

 江戸川は唯人に対して、あくまでも雇い主の息子として接するため、身内のように慣れ合うことはできないが、それでも唯人はこの男を家族同様に信頼している。

「少し所用があるとかで……今は出掛けているよ。だが、じき戻ってくるだろう」

 正人はそう答えてから、しばらくじっと一点を見つめていたが、やがてボソッと呟くように言った。

「なぁ唯人」
「なに?」

 正人はやや躊躇った後、再び口を開いた。

「この間、お父さんがした話を覚えているかな?」
「話?」

 唯人は一瞬なんの事だろうと眉をひそめたが、すぐに「あぁ」と頷いて言った。

「うん。覚えてるよ。でしょう?」
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