T.M.C ~TwoManCell 【帰結】編

sorarion914

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第5章・揺心

#8

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 足元にボールが転がってきた。
 アニメのキャラクターが書かれた小さなゴムボールだ。
 野崎はそれを拾い上げた。
「すみません」
 若い母親が、子供の手を引いて近づいてきた。照れくさそうにはにかむ少年がボールを指差す。
 野崎は笑うと、「はい、どうぞ」とボールを手渡した。
 親子は礼を言うと、そのまま去っていった。その姿を、優しい眼差しで見つめる野崎に、宇佐美は微笑んだ。
「野崎さん……子供欲しいんですか?」
「……」
 野崎はしばらく黙っていた。そして小さく頷く。
「まぁな……でも、こればっかりは授かりものだから」
「……」
「一度――結婚して5年目の時に出来たけど……ダメになって――それっきり」
「そうなんだ……変なこと聞いてごめんなさい」
 謝る宇佐美に野崎は笑うと、黙って首を振った。
 この重たい空気を引きずったままでは少し躊躇われたが、野崎は思い切って聞いた。
「お母さんが亡くなった時、宇佐美はその場にいたの?」
「……」
 今度は宇佐美が黙り込んだ。
 相手の言葉尻に、微かな迷いが感じられる。
 信じたいけど、信じたくない――野崎の中に見え隠れする疑念が……宇佐美には手に取るように分かった。
「いたよ」
 宇佐美は答えた。
「飛び降りたところを……見た?」
「何が言いたいの?俺が突き落としたとでも?」
「――」
「あぁ……」
 宇佐美は、分かった……と言うように笑って頷くと、「幽霊の正体は俺だと思ってる?」と聞き返した。
 野崎は黙っていた。否定とも肯定ともとれる長い沈黙が続く。
 互いに相手の目を見たまま。
 どちらかが沈黙に耐えられなくなるまで、見つめ続けるつもりでいたが――宇佐美の方が堪えきれずに目を反らした。
「なんだか尋問されてるみたいだ」
「お前なのか?」
 宇佐美は顔をしかめると、少し怒ったように言った。
「違うよ」
「本当に?」
「なんでそう思うの?」
「川を遡って調べていたら、偶然お前の母親の事を見つけた。本当に偶然なのかな……と思って」
「……」
「気づいていたのなら、どうして何も言わなかった?」
 宇佐美は苦笑した。
「昔、川の近くに住んでて、母親は自殺してますって?」
「……」
「わざわざ言う必要もないでしょう?それに悪いけど、幽霊は俺じゃないよ」
 宇佐美はそう言うと、顔の前で両手を組んで頬杖をついた。
「何も言わなかったのは――半分は忘れていたから。でも……3人であの河川敷に行った時、久しぶりにあの日の事を思い出した」
 子供たちが数人、自転車で目の前を横切っていく。楽しそうな声を上げていた。それを見送りながら、宇佐美は続けた。
「母がベランダから飛び降りた時、ヤツはそこにいた」
 そう言って、あの日の事をポツリポツリと話した。
 野崎はそれを終始黙って聞いていた。
「顔は見えなかったけど、男の後ろ姿だったのは覚えている」
 黒く揺れる陽炎のようなその影。宇佐美は見覚えがあるような気がするのに、どうしても思い出すことが出来ない。
「母にもヤツが見えていたんだ。俺にも見えるって知って、悲しそうな顔をしてたけど」
「――」
「見ちゃいけないモノだったのかもしれないな」
「そいつが、お母さんを突き落としたのか?」
「さぁ分からない……俺はその瞬間を見てないから。薬を取りに行くように頼まれて、一瞬その場を離れた」
 宇佐美はそう言うと、泣きそうな顔をして笑った。
「凄く後悔してるよ。どうしてあの時、傍を離れたんだろうって。嫌な胸騒ぎはしたのに。母から目を離しちゃいけないって――」
「宇佐美……」
「薬を取って戻ってきたら、母の姿はなかった」
「……」
「ヤツはベランダの下を覗いていた。何も言わずに……そのまま消えたよ」
 野崎は黙ったまま、じっと宇佐美の顔を見ていた。
 今の話に、恐らく嘘はないだろう。
 そんな気がした。
 あまりにも辛い記憶は、時として忘れてしまうことがあるという。心を守るために。脳が防御するのだ。
 今回の事がきっかけで、忘れていた記憶が戻りつつあるなら、無理に思い出すことは宇佐美の心を壊すことになりはしないか――
 頬と首の絆創膏を見て、野崎は不安に駆られた。
 それに。
 もし今の話が本当なら、宇佐美の母親も幽霊に殺された――つまり被害者の1人だと感じる。
 でも、それだけではない気がする。何故だか分からないが、幽霊と宇佐美はどこかで繋がっているのではないか……そんな気がしてならないのだ。
 だが、もしそうだとしたら。

 (幽霊の目的は一体なんだ?それに、過去に接触しておきながら、なぜ今頃になって?)

 その疑問が頭をもたげる。
 野崎は、俯いたまま黙り込む宇佐美に、「分かった」と言った。
「辛い事を聞いたな……それに、疑って悪かった」
 宇佐美は小さく首を振った。
「いいですよ別に。疑うのがあなたの仕事だ」
 そう言われて野崎は苦笑する。
 何となく消化不良な気もするが、今はこれ以上突っ込むのはやめておこう。
 そう思い、野崎は言った。
「そろそろ行こう。アパートまで送るよ」
 宇佐美は歩いて帰れると言ったが、野崎は「送るから乗って」と聞く耳持たず、強引に宇佐美を助手席に座らせた。
 泣いていたのかと問うこともなく、そこには一切触れてこない。道中、野崎はずっと無言だったが、その気遣いが逆に嬉しかった。

 アパートの前に着き、宇佐美は礼を言って降りようとした。
 すると――
「宇佐美」
 ふいに呼び止められて、宇佐美は振り向いた。
 野崎はハンドルに手を置いて、前を見つめたまま言った。
「何か俺に、出来ることある?」
「え?」
「まぁ……力になれるかどうかは別にしてだけど」
 そう言うと、少し照れたように笑い宇佐美を見た。
「なんか、悩んでるみたいだからさ」
「……」
「お前、なんでも1人で抱え込みそうだから心配だよ」
「——」
 宇佐美は黙ったまま俯く。
 その仕草から、頑なに閉じた心が見えるようだった――
 自分にこの男が救えるかどうかなど分からない。その自信もない。
 ただ今は、1人の友人として本気で身を案じているだけだ。
 野崎は言った。
「自分で自分の命にケリつけるようなことだけはするなよ。な?」
「――」
 その言葉に、宇佐美は思わず顔を背けた。込み上げてくる涙を必死に堪えて飲み込む。
 今、野崎の顔を見たら泣いてしまいそうだった。
 言葉を発することもできずに顔を背けたまま。ただ頷くことしかできない。
 そんな宇佐美の様子に野崎は微笑むと、頬の絆創膏を指で弾いて言った。
「お前も髭剃るんだな」
 そう言われて宇佐美は「当たり前だろう……」と泣きそうな声で言い返す。

 言葉にしない優しさと、言葉にする優しさ。
 詮索するわけでもなく、かといって無関心でもない。
 野崎の優しさが宇佐美には痛いほどだった。

 俺はこの人を傷つけたくない――
 失いたくない。



 初めて本気で、宇佐美はそう思った。
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