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1.二月のポートレート

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第一段階:否定と孤立
事実であると分かっているが、あえて死の運命の事実を拒否し否定する段階。
事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。


2月1日。
二月の昼。
海斗(かいと)がお台場のパレットタウンに来るようになって回数を重ねる。
「うーん・・・」
目に映る景色をどのように四角で切り取ればいいかを考えていた。
彼の悩みはただ2つ。
一つ目は、卒業の作文のこと。
二つ目は、一向に進めない最後の写真コンテストのこと。
どのどちらもあともう一歩のはずなのだが、その一歩が問題だった。
上げた足の着地点が決まることなく、こうして腕を組み続けている。
「寒っ・・・」
コンクリートを抜ける、冷たい風。
縮むように足を揃えた。
ダウンジャケットが乾いた音を立てる。
イベントのない広場には、わずかな風音と周囲の観光客の声が漂っていた。
自分は入場ゲートに向かう広い道の横の草の茂った広場に横になり、眩いだけで温かみのない日光を浴びている。
曖昧らしく曖昧に、ただ座り、ただ景色を眺め、浮かぶ思考をただ泳がせることにしている。
次は何を撮ろうか。
頭に浮かぶのは前回落選した、学校の近くの夜景写真。
コンテストには、彼とたいした差のない写真が大賞を飾っていた。
どこが違うのか。
何が違うのか。
その差異はいまだに識別できず、アマチュアらしい手探りを続けている。
写真は小さい頃からの好きな一つだ。
何気ない今の景色すら、撮り方しだいで幾多の表情を見せ、違う色彩を放つことが出来る。
自分はそんな世界が好きだった。
・・・とはいえ、プロになろうとは考えていない。
ただ学校でたまたま面白そうな部活を見つけた。
最初はそれだけだったのだ。
あのオブジェならどう撮れば良いだろうか。
ヴィーナスフォートの前の広場に立つ数本の柱のようなオブジェ。
バス停近くの離れたところから、想像上で視点を動かす。
至近距離でフォーカスを一本にあわせ、後ろをぼかすべきか。
想像は膨らむ。
もっとも、今カメラは自宅の机の上だ。
人目には、ただ寒さに震える男子高校生にしか見えないのだろう。
そのとき、想像上の視界に人影が映りこんだ。
意識を戻して確認する。
同い年くらいの女の子だ。
うれしいことでもあったのか、一人で歩く表情に微笑が浮んでいた。
歩くたびにロングヘアが僅かに風になびいていた。
女の子はそのオブジェの柱と柱の間で足を止める。
視線は、柱で囲まれた中心を見つめている。
そこには平坦なコンクリートが敷き詰められ、徐々に噴水用の穴が空いていた。
いい被写体だ。
海斗はその子を含めてどのように写真を撮るべきかを考え始めた。
女の子はそこで何かを待つようにたっている。
その後姿と、白のモニュメントを含めた四角の絵を考察する。
写真に人が入ると感情や状況が映しやすい。
背景に、表情に、意味が存在し始める。
なぜ、女の子はそこにたつのか、見た人は想像を膨らませざるを得ないのだ。
フォーカスを女の子に合わせる。
被写界深度を上げて、彼女と柱、さらにその先の背景を明暸に映す絵を想像する。
うん、これだ。
これがベストショットだ。
一人納得する。
レイアウトの決定は、難解なパズルを解いたような知的な快感があった。
ぽーん。
柱が鳴った。
ぽーん、ぽーん、と連続して鳴り響く。
次に鳴ったのは水音。
女の子の前に噴水が上がった。
噴出した数十本の白線は大体二メートルの高さへと踊り、落下しては跳ねる音を響かせる。
これを待っていたのだろう。
女の子は慌てることなく、見上げるようにして眺めていた。
あ。
瞬間、理解した。
先ほどのレイアウトはベストではない。
地面スレスレの俯瞰で撮影し、柱がそれへと伸びていくような絵を撮るべきだ。
幾多の縦線が走る写真になる。
噴き上げる水をもって、空へ祈りを捧ぐ巫女のような・・・そんな絵が撮れたと思えた。
想像は体を震わせ、思わずつぶやく。
「次はポートレート(人物写真)を撮ろうか」
海斗は胸が躍った。
人物撮影の経験は少ない。
だからこそすべきだと思えた。
噴水の音も遠く、巡っていく。
目の前の壁を僅かに削れた感触に、頬を緩ませた。
名も知らぬ女の子には感謝すべきだろう。
海斗がそう思ったとき、女の子は半回転してこちらに振り向いていた。
視線はまっすぐに自分を見ていた。
間違いはないだろう。
広場からバス停前までの間には、海斗と彼女しかいないのだから。
お互いの目が合う。
海斗は思わず目を逸らし、周りを眺めたが、それでも彼女は視線を外すことはなかった。
さらに微笑を浮べ、ゆっくりと近づいてくる。
明らかに、向かってくる。
「・・・え?うそ」
海斗は彼女の姿を再度確認するも、記憶の釣り針には何一つとして引っかからなかった。
その間にも、女の子と海斗の距離は縮まって来、ついに海斗の目の前に立った。
見下ろすように微笑む。
背景に二月の青空。
冬の陽光は笑顔を照らし、乾いた風は厚手のワンピースと髪を揺らしている。
噴水が止まった。
女の子は鈴が鳴るような声で、一言。
「ねぇ、さっきの、いい写真が撮れたと思う?」

2月2日。
「店長、自分ってカメラもってなくても、カメラ小僧に見えますか?何かこう・・・自分、オタクっぽいですか?」
海斗が言う。
「僕は逆に、不良少年と思ってたけどね。ほら、夜に公園で大はしゃぎしたり職員室に花火を投げ込んだりするような」
「それはそれで複雑な気分です」
次の日の昼過ぎ。
アルバイト先のケーキ屋『シャノアール』には、カスタードクリームの甘い匂いが漂っていた。
客はいない。
店にはレジに立つ海斗と、調理場でクリームを握る店長だった。
オフィス街に小さくたつ洋菓子店は、夏休み中にだけ騒がしく、夕方は静かになる。
ガラスケースではチーズケーキが綺麗に並び、帰り際のお父さんたちの手土産になるときを静かに待っていた。
「しかし珍しい質問だね、海斗くん。どうしたんだい?」
四十過ぎの店長はスポーツマンのような爽やかな表情で、続きを促す。
手は一切とまることはない。
「昨日、見知らぬ女の子に、自分の写真を撮ってくれって頼まれたんですよ」
「ほぉー、それは珍しい。で、そのときはカメラを持っていなかった・・・と?」
「そうです。何でって聞いても、その子は答えてくれなくて・・・。時間と場所を決めてさっさと帰っちゃったんですよ」
「超能力か名推理かどっちかだね、海斗くん。君はどっちを信じるかね?」
「どっちも信じてませんよ。だから、なおさら不思議なんですけど・・・」
「不思議だねぇ」
適当な相槌を入れて、店長はオーブンにシュークリームを入れた。
ボタン操作で電子音が響く。
「で、その子に頼まれて撮るのかい?」
「ええ撮ります。いきなり写真を撮ってくれ、なんていう不思議な子ですけど、知り合い以外の人を撮れる機会なんてなかなかないですよ」
「へぇー、勉強熱心だねぇ。同級生の子は?撮ったことあるのかい?」
「一回だけ。・・・でもみんなすごく嫌がるんですよ」
鳩時計がなり、十四時を伝える。
「そんじゃ上がります。早速、今日から撮影なんですよ」
「お、早速か。撮影会、楽しんできてくれ・・・あ、海斗くん!重要な質問を忘れていた!」
「何ですか?」
店長は手を止め、真剣な瞳で自分を見つめる。
年季の入った低い声で、一つの質問を放つ。
「えっちな写真は撮るのかね?」
海斗が大人を小突いたのは、そのときが初めてだった。

待ち合わせ5分前。
再び来た平日の東京テレポート前のバス停広場で女の子は一つの木の傍に腰掛けて待っていた。
こちらに気づくと、立ち上がって手を振る。
リズムよく、小走りで近づいてきた。
その姿に失礼しながら、子犬を連想する。
「お、やっと来たー。待ってたよー」
寒空の下で長く待ってたのか、僅かに頬が赤い。
「えーっと、今日はよろしくお願いします」
自分はカメラマンで相手はモデル。
場に適した挨拶だったはずなのになぜか寒々しかった。
「あははっ。そんなかしこまらなくてもー。あ、それがカメラ?すごっ」
女の子は肩に下げたデジタル一眼レフカメラを指して、興味深く眺める。
手渡すと新鮮な驚き方を見せた。
「うぁ、重っ。本当にカメラマンって感じだね」
「いやまぁ、アマですけどね・・・」
背負った鞄の中には、レンズとアルミ製の三脚に、替えのバッテリーとメモリが入っている。
高校生にしては、それなりの装備だと思う。
「それではどこで撮りますか?なにか希望はあります?」
「んー、まずは・・・」
そう言って、女の子は突然近づき、海斗の頬をつまんだ。
「その丁寧語を何とかして欲しいなー。気を使わなくていいって。フランクに、友達感覚で。ね?」
「うーん、そうは言っても・・・」
「大体年もそんな変わらないんじゃない?私が今年の1月で18歳になったの」
「え、じゃぁ俺は去年の11月で18になったから・・・」
「なんだぁ、ガッツリタメじゃん!」
女の子の声が響いた。
「それどころか私も1月で18になったから、むしろ私が妹みたいな感じね。だったら尚更、気を使う事ないから、分かった?」
「は、はい。わかりま・・・わかった」
「分かればよろし」
頬が開放される。
プロのカメラマンは、こうした要求に答えながら撮影するのだろうかと思う。
必死に気持ちを切り替えようとする。
まぁ、これも練習の内だ。
「えーっと、・・・それじゃ、どこで撮る?あ、その前に・・・撮るのは何のための写真なの?それによって撮り方も変わるし・・・」
「それは秘密なの」
心の中で小さくため息。
自分をアマチュアカメラマンと知ってたりと、秘密の多い女の子だ。
「うーん、でも目的が分からんと、どんなふうに撮ればいいのか分からないし。たとえば・・・オーディション応募用の写真とか?アイドルとかの」
わざわざ自分を撮ってもらいたいなんて言うのは、それくらいしか思い浮かばなかった。
ただ、目の前の女の子はそんな雰囲気とはそぐわない、いたって普通の女の子なのだが。
「んー・・・。まぁ、そんな感じでいいかな。・・・あ!今、似合わないとか思ったでしょ!?無理だろって思ったなー!?」
「い、いや、そんな事はないよ」
否定するも、自分は嘘がヘタだ。
表情に出る。
目が泳ぐ。
「本当ー?失礼なやっちゃなぁ・・・。まぁ、いっか。別に応募なんてしないし。それっぽく映してもらえればいいの」
女の子は一人納得するので自分も納得することにした。
疑問は残るが、自分としてはポートレートの練習が出来ればよく、写真がどのように使われようと問題はないのだから。
「それじゃ撮ろうか。スタジアム周辺はいい絵に・・・」
「あ、ちょ、ちょっと待って!写真のことよりも、まず始めにすべきことあるでしょ」
「ん?」
「・・・あなた、名も知らぬ子を撮るつもりだったの?私は名前くらい知っておきたいわ」
「ああ、そっか。俺は、海斗。二ノ宮 海斗」
「石川 鈴(いしかわ すず)。鈴でいいよ。よろしくねー」
二月の青空は広く遠く、風のない撮影日和。
その景色の下に、高校生と不思議な女の子の2人。
鈴は笑顔で右手を伸ばす。
その手を握ると、笑顔がさらに咲いた。
このようにして、撮影会が始まった。

ヴィーナスフォート内の噴水前。
鈴は背中から噴水の淵に寄りかかって、こちらに視線を向けている。
「ね、ねぇ・・・」
「なに?」
「・・・撮影って、滅茶苦茶恥ずかしいんだね・・・」
言って赤くなった頬を抑えた。
寒さからではなく、羞恥からの紅潮だったらしい。
「普通のポーズしかさせてないけど・・・」
「わ、分かってるよ!何ていうかな、この・・・自分を可愛く見せようっていう感じかな、無茶苦茶慣れないというか・・・ああぁ・・・!」
言葉の途中でしゃがみ込む。
最初の威勢はどこへ行ったのか、撮影会を始めて、また四枚目だった。
「確かに最初は恥ずかしいかもしれないけれど・・・。結構良く撮れてるよ。見る?」
「う、うん・・・」
カメラの背部ディスプレイに、先ほど撮影した写真が映る。
鈴はわざわざ海斗の後ろに回りこむ。
両腕を掴んで、背中ごしから恐る恐る覗き込んだ。
一枚目。
掴んだ腕の握力が一気に上がった。
「うわぁ・・・。ありえない!誰こいつ、めっちゃ必死な笑顔じゃん!うわ、うわぁ・・・」
じゃあ何で撮るんだと言いたくなる気持ちもあったが、初めての場合はこんなものなのかもしれない。
実際、笑顔はまだまだ固い。
「もっと撮っていけば、その内慣れるんじゃない」
「ほんとかなぁ?んー・・・。そもそも素材が悪いのか・・・いや、そんなん最初から分かってるけど・・・」
つぶやきながらも、視線はディスプレイに向いているようだ。
次々に映した写真を表示するたびに、背中で呻く。
腕が痛む。
「あのさ、海斗。もっと撮れば、ちょっとは良くなるのかな?」
「うん。正直なところ、俺もポートレートは不慣れだから、もっと良くしないと」
「そっか、お互い頑張らないとならないんだね?よし、分かった」
鈴は離れて、ゆったりと歩いていく。
巨大な噴水オブジェの下で、小柄な鈴はいっそう小さく見えた。
「しゃあない、もっと撮ろっかー!実は、少し楽しくなってきたの、こんなことするの初めてだし」
「いい写真が取れると良いね」
「そだね!」
振り向き、髪が柔らかく揺れた。
この自然な笑顔を写すことが、きっと、撮影会の到達点なのだと思えた。

「よし、今日はここまで!」
東京テレポートの広場の前に、2つの影が夕日に照らされて伸びている。
夕暮れが差し込み始めたころには、撮影枚数は五十枚くらいになった。
そのうちには、撮影途中で通行人が通り、鈴の顔が一気に真っ赤になった写真。
自然な笑顔を出したくて、撮る寸前で冗談を言ってみた結果、非常に冷め切った顔が取れた写真なども収められている。
「・・・今日は?」
「そう。今日はここまで。納得できない写真だったらまた撮り直し。・・・いいよね?」
質問部分だけがすごく寂しげだったのは、夕日の演出だけではないと思った。
「撮らせてくれるのなら、ぜひ」
結局、目標の到達点には辿り着けなかった。
むしろ、ポートレートの難しさを知っただけで今日が終わってしまった。
想像で描いた理想のアングルは、ファインダーをのぞきこんだ瞬間、飛沫のように消えていった。
だからこそ、この撮影会は貴重な練習になる。
またの機会があるならば、断る理由なんて一つもなかった。
「それは、よかった・・・」
心から安堵び表情を浮かべる鈴は、どこか大人びて見えていた。
「早速、今日にでも印刷するよ。住所教えてもらえれば送るけど」
「いいって。またここで待ち合わせればいいじゃん。だめな写真はその場でまた撮りなおせるでしょ?」
言われて納得する。
「分かった。それじゃ、次はいつにしようか?」
「私はいつでも。海斗に任せる」
「俺は学校あるから。鈴だって学校があるだろ?」
何気ない質問だったが、鈴は僅かな間だけ表情を暗くした。
「あー・・・、そうだね・・・。えー、海斗はいつ空いてる?」
「受験はもう終わったし。まぁ土日か、平日も午後なら基本空いてるよ」
「へぇー、もう受験終わったの?それで毎日遊んでるの?ずるぅ!」
「いやでも、アルバイトもあるから・・・じゃ土曜日の15時はどう?」
「土曜日ね。分かった。あー・・・。写真代・・・どうする?印刷代もかかるでしょ?」
「いいよいいよ。これは俺にとっちゃ練習だから。むしろ、モデル代払いたいくらいだし」
「そうなん?遠慮しないよ?あははっ。ギブ&テイクね。しっかりしてるわー」
軽く笑って、鈴は帰路へと歩いていく。
「それじゃ、また土曜日ねー」
「鈴は家近くなの?送るよ」
「子供じゃないんだから、一人で帰れるよ。それに駄目でしょ、海斗はおねえさんのお迎えがあるでしょ?」
「え・・・」
一息で言って、鈴は歩み始めた。
長い影が引く波のように石段から消えていく。
「なぁ!なんでそんなことまで知ってるんだよ?」
背中に向けて問いかける。
鈴は二歩だけ歩いて、振り向いた。
「それじゃまたねー!」
答えず去っていく背中を見つめ、広場には自分だけが残された。
夕暮れに冷やされた二月の風が頬を撫でる。
数分後、姉から「物凄く遅れる」とメールが入り、初めての撮影会は静かに終了した。

2月5日
土曜日。
上がり際に撮影した鈴の写真を見せると、店長は腹を抱えて笑った。
間も悪かった。
良助の右手で握られたホイップクリームは、床に十センチの白線を描き、さらに距離を伸ばし続けている。
「・・・そ、そんなに酷いですか、この写真?」
「いやいやいや!可愛いじゃないか!この無理ある感じが実に・・・はははっ!」
「目尻に涙が溜まってますよ。・・・そんなに笑うほどの写真ですか?」
どうやら店長のツボには入ったらしい。
秒針が二週半して息を切らせながら調理場から出てきた。
「ああー笑った笑った。いやぁ、まさかこんな可愛い子だとは思わなくってね」
「本気に聞こえませんよ。まだ自分の技術も未熟なんで、ぎこちなく映ってるんですよ」
「はっはっは、すまんすまん、いや、なかなかいい写真だと思うがね。何かこう・・・中学生カップルが初めて二人で撮った写真みたいな甘酸っぱさが良く出ていると思うよ。実に柑橘系だね。オレンジピールを添えたいね」
「褒めてるんですか、それ・・・?」
「褒めてるさ、海斗くん。可愛いからといって、手を出しちゃ駄目だぞ?ましてやえっちい写真なんか撮ったら」
「撮りませんよ!店長はそんなに見たいんですか?」
「見たい」
「即答しないでください」
「すごく見たい」
「繰り返さないでください。真顔で答えないでください」
「冗談だよ。ただ、君の情熱がそこに向かう可能性もあるじゃないか。もっと綺麗に撮りたい、もっと綺麗な姿を・・・そう思った瞬間、海斗くんはこの娘さんに―」
海斗は店から出る前に振り返る。
「だーかーら、撮りませんってば」
「・・・オーケイ、水着までは許すよ海斗くん。僕は君の純情を信じ―」
そのまま出た。

広場の前。
今日も鈴は先に待っていた。
広い中に、一人だけ座る姿はどうしても寂しげに見える。
こちらに気づいたとたん笑顔になり、立ち上がって手を振った。
「あー、海斗。写真どうだった?」
「バイト先の店長に見せたら、爆笑されたよ」
「え!?ちょ、何見せてんのよ!?しかも爆笑って、失礼なー!・・・そ、そんなに酷い?」
「いや、それなりに映ってると思うんだけどね・・・」
言って、数十枚の写真を手渡す。
「どれどれ?・・・うわぁ・・・」
鈴のリアクションは店長とまったくの逆の、苦笑いだった。
一枚一枚見るたびに「うわぁ」と声が漏れる。
「小さい画面で見たから、大体は想像してたんだけど・・・何なの、このぎこちなさ?初めて男子の手を握った女子中学生みたいな?・・・いや私何だけど」
どこかで聞いたような表現を放ちつつも、枚数は減っていく。
最後の一枚を裏側に重ね、鈴は大きくため息をついた。
「・・・モデルって大事なんだね。もっと誤魔化せると思ってた」
「自分が未熟なのもあるから、モデルだけじゃないよ」
モデルがガッカリされると、撮った自分もガッカリしてしまう。
察したのか、自分の落ちた肩を鈴は音がなるほどに叩いた。
「ほら、落ち込んでもしゃぁないって、撮り直せばいいじゃん!」
声は仕方ないというが、その表情は笑顔だった。
「鈴、楽しそうだね」
「少し面白くなってきたのよ。この際、最高の一枚が撮れるまでやればいいじゃない?」
最高の一枚。
その単語に胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
今まで何千回とシャッターを切ってきた。
それでも、心からのベストショットを取れた実感はあまり味わったことがなかった。
その場所に届くのかと自問する。
目の前には笑う鈴の姿、手には重たい一眼レフ。
「最高の一枚か・・・撮れると良いな」
「撮れるといい、じゃなくて、撮るのよ」
モデルもカメラマンも拙くても、それでもずっと目指して行けば。
いつかは到達点に、指先だけでも届くかもしれない。
生まれた灯火の熱は、心に矢印を与え、肺の空気を決意に変えた。
「まぁそうだな。俺は何回でも付き合うよ」
回答に鈴は微笑んだ。
静かで熱を帯びた笑顔だった。
「よし!それじゃ、今日も撮影会しよっか!」
鈴は跳ねるようにしてビーナスフォートへと向かう。
服と髪がふわふわと踊った。
「ほら、行くよ?時間と機会はまってくれないんだから」
「ちょ、ちょっと待って・・・」
バックからカメラを取り出し、慌ただしくレンズを嵌めた。
ファインダーを覗くと、振り向いた鈴が映る。
カメラ目線で右手を伸ばし、指鉄砲を作っていた。
「ばーん、なんてねー」
ここでも海斗はシャッターチャンスを逃していた。
記録できなかった映像がまた一つ、記憶にだけ残っていく。

「はぁーい!鈴ちゃんでぇーす!いえーい!・・・あーだめだ。勢いで誤魔化しきれない」
「・・・何やってんすか」
「・・・んーもう分からん。勢いがあれば何とかなると思ったけど・・・」
大通りの下層。
日光が遮藪され、上はゆりかもめの高架がカーブしながら伸びている。
頭上を覆うコンクリート。
太い柱が等間隔で聳え立っている。
その間に、駐車場や施設への入り口があった。
「なんだろ。寂しげな、こう・・・男の守りたい欲を掻き立てる感じがいいのかな」
言って、鈴はコンクリートの柱に手を付き、上目遣いをした。
「海斗さん、今夜は帰りたくないの・・・」
おもちゃをねだる子供のようにしか見えなかったがそれは言わなかった。
無言でシャッターを切る。
この写真、店長ならウケるだろう。
きっと、鈴は破り捨てるだろう。
「・・・鈴は、自然のままがいいと思うよ。ヘタに演じようとするから、表情が固くなっちゃうんじゃないか」
「自然ってもな・・・。難しいよ、普通って」
「そうだけど・・・。でも、自然な笑顔のほうがいい写真になると思うんだよ」
「自然ねぇ・・・。笑顔の練習とかしない方がいいんかな?」
「練習・・・してたの?」
「え?あ、し・・・してないって!馬鹿ねー、そんなん、する訳ないじゃん・・・」
僅かながら頬が赤い気がするが、確認する前に鈴は背中を向けた。
「・・・それでもやっぱり、撮るなら笑顔がいいかな。幸せそうな表情を残したいのよ」
「幸せそうな?可愛い系とかじゃなくて?」
鈴はまるで、結婚式の写真を撮るようなことをいう。
オーディションには不適な気がするが、鈴は答えなかった。
そのまま歩いていく鈴に、慌てて隣に並ぶ。
しばらくの間、歩いていたが、不意に鈴の足が止まる。
「・・・ねぇ。私、海斗のこと好きになればいいのかな」
一瞬、思考が停止した。
鈴を見ると、当の本人はぼんやりした視線を前に向けている。
「え、え?お前、え、どういう・・・」
「何怯えてるの。失礼なぁ・・・」
「怯えてるんじゃなくて、ビビったんだよ。いきなり変なこと言うから」
「だって、カメラ向けられて笑顔を作る相手が海斗でしょ?カメラがあるって分かってても、海斗に笑顔作ってるわけやろ?」
「まぁ・・・」
「そこが照れるのよ。なんか媚び売ってる感じが、どうにも寒々しいっていうか・・・。だからいっそ、好きになれば、自然な笑顔になるんじゃないかって。・・・別に変じゃないでしょ?すごく合理的だと思うんやけど」
「・・・まぁー確かにそうかもしれないけど、・・・そんな・・・?」
「・・・ぷっ、あははははははっ!」
鈴は盛大に笑い、振り向いて指を突きつけた。
「おどおどしすぎぃー。案を出しただけでしょ?それとも何、実は私に気がある?」
「え、いや、・・・」
言葉の詰まる海斗を置いて、鈴は先を歩いていく。
「冗談だって、・・・あー、面白いわ。なかなか無いよ、私が男を虐めてるなんて」
「ちょ、は?虐めてたの?」
「それは秘密・・・あ、そうだ。そのカメラってタイマー付いてるでしょ?」
「あー、まぁ・・・?」
「私ばっかり撮るのも飽きない?海斗も一緒に撮られてみようよ」
返答を聞くことなく、鈴は後ろからバックを漁る。
ステンレスの三脚を取り出して、その足を伸ばした。
「ほら、セットするー!海斗も、撮られる側の気持ちを知るといいっ」
「へいへい・・・」
海斗はこうして、押しの強い女に負け続けるのだろう、そんな寂しい思考を浮かべつつ、三脚とカメラを繋ぐ。
タイマーをセットし、ファインダーを鈴のほうへ向ける。
「気が進まないけどな・・・」
「何言ってんの。さっさとするー!」
「分かったって。はい、撮るよ・・・」
ボタンを押すと、セルフタイマーのカウントダウンが始まった。
鈴が手を振って海斗を呼ぶ。
横に並ぶと、鈴は横に並んだ男の腕と顔を交互に見つめた。
「・・・えー、・・・えーっと・・・」
テンカウントの思考の結果。
鈴は半歩だけ近づき、服の裾を小さく掴んだ。
シャッターが下りる。
その写真は、それこそ『中学生カップルが始めて2人で撮った写真』のようだったが、不思議と味のある写真として現像される事となる。
こうして二度目の撮影会はつつがなく終了し、次の日和を決めて別れた。
帰路へと向かう鈴は、夕暮れの柔らかな光を背に、足取りの中で小さく鼻歌を歌っていた。
後で考えたら『命短し恋せよ乙女』そんな言葉が聞こえたような気がしていた。

固い床を叩く音が四方から響く。
ご老人の杖の音、慌ただしく歩く看護師の足音、見舞い帰りの子供がゲーム機を落とした音。
午後六時。
広尾病院のエントランスは音階の無い雑多な音を反響させ続けている。
人は少しずつ減り続け、建物全体が静かな夜への準備を始めている。
あと二時間もすれば、深く冷え込む静寂の空間に変わることだろう。
ノイズに耳を任せること、数分。
一つの音が、まっすぐこちらに近づいてくる。
聞きなれた足音。
「今日も出迎えご苦労、セバスチャン」
「もったいないお言葉です、お嬢様」
「車は用意できて?」
「もちろんでございます。軽ですが」
「よろしくてよ・・・ねぇ、いつまで続ける?私はいつお嬢様になったの?」
「姉ちゃんから振ってきたんだろ。よろしくてよって何語?」
「古代ヘブライ語よ」
「絶対違うだろ」
「それ分からないわ。世の中に絶対は無いのよ?」
そう言って姉、薫(かおる)は不敵に笑う。
すでに看護師として1年が経とうとしている。
近くのアパートで独り暮らしをしているが、海斗が免許を取ってからの事、運転の練習として、こうして仕事を終えた薫を迎えに行くという状況を作っている。
「それじゃ行きましょうか、お嬢様?」
「そうね、セバスチャン。きっと、外で待機してるのはリムジンかロールスロイスよね」
「すいません。スズキのワゴンRで」
「ふふっ、いいわよ。あの座席、嫌いじゃないから」
他愛も無い会話を続け並んで歩く。
そのときだった。
「っと」
女の子が小走りで自動ドアを抜け、すれ違う。
暗がりの中でも、見覚えのある横顔。
数時間前に見たことのある服装を確認する。
「・・・あ、あれぇ・・・?」
女の子はこちらに気づくことなく、脇を抜け、エントランスへと歩いていく。
驚き振り向く海斗に、薫は不思議そうに首をかしげた。
「どうかしたの?」
「いや、知り合いっぽいのがいたから・・・」
今や背中しか見えないが、間違いなく鈴だった。
短い間だろうと、ファインダーで見つめ続けていたのだ、
間違いない。
香は視線の先を見つけるように振り向く。
そして、あっさりと言った。
「鈴ちゃんがどうかしたの?」
「へ?」
思わず間抜けな声が出る。
「姉ちゃんが何で知ってんの?」
聞く自分に、薫は何を今更と、僅かに驚いた様子で答えた。
口を開き始めた一瞬で、聞くべきではないと認識した。
けれども、事実はあまりにも簡単に響く。
「だって、ここで入院してる患者さんだもの。・・・知らなかったの?鈴ちゃん、海斗の同級生の子で、今のバイト先の娘さんよ?」

固い氷を砕く音が台所から響く。
同じテンポで振り下ろされるアイスピックが氷の角を砕く。
半透明の直方体は球体へと近づいていく。
撮影会のことを話し、鈴が入院している理由を聞くと、薫はつぶやくように言った。
「・・・血液の、病気」
テーブルには既にウイスキーグラスが鎮座し、注がれるべきアルコールを待っていた。
つまみはチョコレートとピスタチオ。
あと数十分経てばピザが届く。
香の左手の上。
布巾越しに乗った拳大の氷は、振り下ろされる錐に削られていた。
跳ねた結晶は、空中に細かなきらめきを残して消えていく。
「血液・・・?」
さらに聞く海斗に対し、薫は視線も手の動きも変えることなく答えた。
「これ以上聞かないで。・・・ごめんね。患者さんのプライバシーにかかわることは、言えないの。担当じゃないから詳しく知らないっていうのもあるけど」
大まかな形を整えたところで、薫はピックを変えた。
三つ又の、ずんぐりとしたフォークのようなアイスピックを取り出し、表面を薄く削っていく。
バーテンダーがやってるのを見て憧れ、憧れだけで留まらず、体得したらしい。
自ら削りだした氷で人にウイスキーを飲んでもらうのが薫の楽しみだった。
21歳にしては何とも渋い趣味だが、そこはかとなく似合うのが、薫なのだとも思う。
「・・・はい。出来た」
出来た氷はガラス球のように透き通り、綺麗な球体のフォルムを描いていた。
空のグラスに氷が落ちると、心地よい高音が鳴った。
香は満足そうに口元を綻ばせる。
「ねぇ、海斗。鈴ちゃんとの撮影会って、これからも続けるの?」
「続けるよ」
「そう・・・」
少し薫は思案顔を作る。
「鈴ちゃんが心配なの。病室抜けて、そんなことしてるなんて知らなかったし・・・。いい、海斗。続けるのはいい。でももしも何かあったらすぐ連絡しなさいね。絶対よ?」
「もしも?」
「たとえば・・・階段で転んだとか、いきなり貧血になって倒れたとか」
「・・・重い病気なのか?」
香の回答はなきそうな瞳でこちらを見つめるだけだった。
それは十二分の回答になっていたのだが。
自分は首を横に振った。
「・・・いや、まぁいいや」
「うん・・・」
罪悪感があるが、それ以上の事項が覆っていた。
頭の中が整頓できない。
命にかかわる・・・その意味があまりにも、昼間のファインダーに映る元気な存在と一致しない。
「・・・ねぇ、海斗。何で鈴ちゃんが撮影を依頼したか、分かる?」
「・・・いや」
首を横に振る。
それでも、心のどこかで分かりかけていた。
重い、命にかかわる血液の病気。
写真を撮って欲しいという事。
幸せそうな笑顔を、撮って欲しいという事。
その理由、その意味。
事実から導かれる答えは明白なのに、自分は首を振ることでモザイクをかけた。
数時間前、ファインダーの前でぎこちない笑顔を作った女の子に。
並んだ際に裾をつまむことしか出来なかった女の子に。
その答えを当てはめるのは、今はまだ、辛すぎた。
「そう・・・」
香は短く、相槌だけを打った。
お互いから一回ずつ溜息がでて、しばらくの間、沈黙が流れる。
しばらくしてから澪が言った。
「ナイチンゲールの誓詞って知ってる?」
「・・・さぁ」
「私の好きな言葉。最後はこんな言葉で終わるの。“われは心から医師を助け、わが手に託される人々の幸のために身を捧げん”。・・・幸せのために。逆に言えば、患者さんはみんな、不幸な状態にいるのよね」
何を言いたいのか分からず、海斗は首をかしげることしか出来なかった。
そんな自分の意識の外において、薫はさらに言葉を重ねる。
「・・・こうして無心で氷を削ってるとね、いろんなことを考えるの。私と患者さんと、何が違うのか、とかね。鈴ちゃんは・・・ただ少し不幸なだけだった。運が悪かったの。それだけで、あの場所にいるの。たったそれだけ。それだけで、鈴ちゃんはたくさんのことを我慢しなくてはならないの。食事も運動も制限。学校も行けない。あの場所には、似たような人がたくさんいるわ。だから、少しでも幸せになってもらうために私たちがいるのよ。・・・ずっと、不幸のままにさせたくないじゃない?」
澪はピックと布巾を片付け、テーブルに置かれた写真を手に取った。
表面に映る笑顔に、僅かに目を伏せる。
「ずっと、不幸のままにさせたくないじゃない。・・・幸せであるべきなのよ。ずっと、笑顔でいるべきなのよね。例え・・・」
私たちが助けられないのだとしても。
その言葉が続くことなく、澪は悲しげに笑い、息を吐いた。
「・・・何か、重くなっちゃった。ごめんね。悪い癖だね」
いきなりの話に、何も答えることも出来ぬままの自分。
薫はウイスキーの栓を抜いた。
琥珀の液体が凍りの表面を滑っていく。
溶けた水とウイスキーのおぼろげな流跡がガラスの底で緩やかに踊る。
「・・・さぁ、飲みましょうか。・・・って言ってもあんたは車だしね。でもせっかく高いの買ったんだから。今晩は泊まってきなさいよ」
「いやあの、そもそも俺は未成ね―」
「ストーップ!それ以上は問答無用。お姉ちゃん命令よ。わざわざ高いのを買ったんだし、こんないいものをタダ酒なんて、感謝しなさいよ?」
はぁ、とため息をつくと、やむを得ず、グラスを鳴らす。
40度のアルコールが喉を流れていく。
あるべき風味はどこか自分から遠く、喉に焼け付くような感触だけがただ、残っていた。

目を開ける。
部屋に明かりは無く、空から僅かな月明かりが落ちていた。
どうやら、寝てしまったらしい。
寝転ぶ自分の上には、毛布が掛けられていた。
起き上がれば、僅かな頭痛。
記憶は六杯目まで。
香の担当になった、元落語家のおじさんのはなしあたりから記憶がぼやけている。
部屋にはエアコンの駆動音と、ソファから聞こえる小さな寝息。
「すぅ・・・すぅ・・・」
「・・・姉ちゃん?」
香は身を小さくして寝ている。
「姉ちゃん。明日も仕事じゃないの?」
ぺちぺちと頬を軽く叩くと、緩慢な動きで手を払われた。
「いいって・・・もう・・・」
「せめてベッドで寝なよ。風邪ひくよ」
「すぅ・・・すぅ・・・」
ため息が出る。
香といい、鈴といい、自分はどうにも女性にいいように扱われる星の下にいるのかもしれない。
仕方なく、ソファを離れて窓を開けた。
氷は既に溶けていたが、グラスを持ってベランダへ出る。
半月よりも僅かに満ちた十日夜の月。
差し込む月光に、酔いが薄れていく。
吹き付ける僅かな風が、髪を凍らせんばかりの冷気を運ぶ。
月のようにおぼろげな輪郭で、鈴のことを考えていた。
何かの回答を導くためではなく、映像として浮んでいく姿をただ眺めていた。
重い病を持ち、オーディションのためではなく、撮影を希望する理由。
それは。
浮んだ思考を打ち消すように、グラスを傾けた。
意識は一気に混濁へと落ちていく。
確かに酒は一人で飲むものじゃない。

2月7日
二日後の月曜日。
オフィス街のケーキ屋は昼のラッシュを終え、店内音楽が聞こえる程度の静寂を取り戻した。
最後の客に6個入りのシュークリームを手渡した後で、店長に問い詰める。
「・・・店長。なんで前に写真見せたときに、自分の娘って言ってくれなかったんですか」
「ん?・・・あっはっは!ばれたかー!いやぁ、すまんすまん」
一切悪びれた様子も無く、店長は盛大に後頭部を叩く。
「はっはっは。どうにも、鈴は私に秘密でやってたみたいだからね。海斗くんも気づかないし、楽しく静観させて頂いたよ」
「鈴に自分のことはなしたのも店長なんですね?だからカメラを始めたことも知ってたと」
「名推理だね、海斗くん。ご名答だよ。ちょっと前に、鈴に君の事を話したんだよ。そしたら興味津々って感じでね。履歴書の写真くれって言い出したから、てっきり君みたいなのがタイプなのかと心配・・・いや、まぁ、・・・うん」
最後は咳払いで誤魔化し、続ける。
「何はともあれ、可愛い娘のすることだ。若干・・・そう、若干の跳ね返り娘だが、可愛がってくれ」
「はぁ、まぁ、いいですけど・・・」
会話が終わり、店長は薄力粉をふるいに掛け始める。
聞くべきか否か、三秒の間をおいて質問した。
「・・・病気は、そんなに重いんですか?」
店長の顔から、一気に笑顔が消えた。
店内に流れる明るいBGMが、どこか空しい響きに変わる。
「・・・名調査だね、海斗くん」
「すいません」
「いや、いいんだ。別に責める気はない。・・・ま、世の中、カスタードクリームみたいに甘くないって事だね」
溜息は深い。
細やかな粒子となった薄力粉は、白の小さな山を築いていく。
「・・・詳しく聞きたいかい?話してもいいが、高校生にはハードな話かもしれない」
質問に対し、葛藤は長かった。
それでも、聞きたかった。
写真を撮るべき理由を知りたかった。
しばらくの間をおいて、うなずいた。
店長は手を止め、落とした薄力粉の山を見つめる。
表情を見せたくない、そんな意志が見えた。
音楽が終わる。
曲が切り変わる僅かな無音の間隙の中で、世界が切り替わる言葉が放たれた。
「鈴は、春先の前に死ぬかもしれない」
心臓に太い針を打ち込まれたような、強烈な衝撃があった。
店長は続けた。
「・・・骨髄がうまく働かず、赤血球や白血球とかが酷く少なくなる病気なんだそうだ。体力が少ない、病気の抵抗力がない、怪我したら血が止まらない。・・・100万人に5人の確率の難病ってやつらしいね」
淡々とした言葉の端々に、痛々しい“ささくれ”が見えるような気がした。
「・・入院したのは去年の夏ごろだ。薬とか色々な治療を試みている途中なんだが、経過は良くないらしい。根本治療は骨髄移植しかないんだが・・・適合する相手がまだ見つかってないんだ。」
辛い現実が次々に現れていくたびに、自分の現実感が消失していくのを感じていた。
今たっている場所がいつものケーキ屋なのか、店長は先週と同じ店長なのか・・・。
石川 鈴は先週と同じ笑顔をするのか、自信が無い。
「自分の骨髄は適合しなかった。HLA適合率は兄弟間で25%だが、鈴は一人娘だ。それに・・・奥さんもいないしね」
ケーキ屋が話すには専門的な言葉が並ぶ。
口調に澱みが無いことが逆に、良助自身でも調べ、何度も説明してきたことであった。
「今やっている治療がうまくいかない場合は、適合率の低い骨髄移植になる。そいつがあまり、成功率がいいとは言えないらしくてね・・・。けれども、やらない限りはずっと、鈴は病院で輸血を受け続けなければならないし・・・感染症で命を落とすリスクに怯え続けることになる。・・・まぁ、そんなわけで、重い病気なんだが・・・、それでも、あまり変な目で見ないであげて欲しい。医者の許可があれば出歩くことだってできる。ちょっと血液に根性が足りてないだけで、どこにでもいる普通の女の子なんだ」
「は、はい」
店長は大きく溜息をついて、この話は終わりとばかりに今までどおりの笑顔を作った。
その“いつもの”が、胸に痛む。
「・・・はははっ、いやぁ、すまないね、海斗くん。辛い話だったと思うよ」
「いえ、こちらこそ・・・」
「かまわないさ。海斗くんには娘がお世話になっているんだ。これしきどうって事・・・」
わざとらしい口笛を吹き、店長は小麦粉の重さを量り始めた。
外れた音階が店内音楽に混ざっていくと、先ほどまでの重い空気は薄らぎ、消えていく。
「海斗くん・・・まぁ、つまり、何が言いたいかといえばだな。私の娘のえっちい写真は水着までって事なんだ」
「まだそれを言いますか」
「はっはっは、鈴、中学一年までは一緒に風呂に入ってくれたんだがなぁ、あのころは可愛かった・・・」
「だから、撮りませんってば」
「もっとも、鈴はそのころから胸が無いからなぁ、写真映えしないかもしれないがな!はっはっは!」
「・・・店長、鈴が聞いてたら殴られますよ」
良助は笑顔で、年齢に適合しないウインクを飛ばしながら言う。
「大丈夫。三日ほど口を聞いてくれないだけさ」

何曜日であろうと、イベントさえなければ人の少ないスタジアム前。
いつもの広場、いつもの所に、鈴の人影はなかった。
「あれぇ・・・?」
前回前々回と、寒さで頬を赤くするほどに待っていた鈴にしては珍しい。
・・・と考えていたら。
「どーん!」
「はうっ!?」
木の裏にでも隠れていたらしい。
背中から鈴の強烈な押しだしを食らった。
尻に。
「あははっ。海斗、いいリアクションねー!」
なぜか制服姿の鈴は、腹を抱えて笑う。
そのしぐさがあまりに父親と似ていて、つい反撃を試みる気になった。
「・・・鈴、まさかそうやって女に尻を触られる日が来るとは思わなかったよ」
「はぁ!?あ、アホかー!海斗、いつも鞄背中に背負ってるじゃん、押すのはそこくらいしか無かったのよ!」
「別に照れてることじゃないよ。世の中にはそういうのが好きな女性がいても―」
「・・・今度は本気で殴るよ?」
「ごめん。俺が悪かった」
悪くないと思うのだが、謝る。
これが自分の処世術なのかもしれない・・・そう思うだけで胸に寂しい風が吹いた。
「そんなことよりもな、何か気づくことない?ほらほらー」
言って、鈴は紺のベストの脇を掴む。
プリーツスカートが鈴の動きに遅れて揺れる。
「・・・ふむ・・・。いや、特になにも?」
「・・・何か、今日の海斗、Sっぽい・・・」
「冗談だよ。・・・学校の制服?」
「ん。たまにはこういうのもええかなって。皆はダサいって言ってるけど私はいいと思うんだけどね~、この制服。かわいいくない?」
見慣れた海斗の高校の女子制服。
胸のリボンを指でいじる。
バイトの事を言おうと思ったが、止めた。
「今日は、別の場所で撮ってみない?」
「そうだね。それじゃ公園の方にでもいこうか」
「人多くない?・・・まぁ、いっか。・・・あ、前の写真出来てる?今日こそはいい写真撮らないとー」
2人は並んで、駅から海へとに向かう途中の中央ふ頭公園へと向かう。
横を歩く細い肩。
伸びた手は前に撮った写真を握り、「うわぁ」と情けない声が聞こえた。
胸元のリボンが揺れている。
僅かに、防虫剤のにおいが届いていた。

「・・・ん、ここなら、まぁ、大丈夫ね」
遠くから歓声が聞こえた。
小さな野球場からだ。
「ああー・・・盛り上がってるー・・・」
今日は試合だったらしく、地元の小学生たちと親がたくさん集まっていた。
「恥ずかしくて写真撮れんわ!」と言い切った鈴は海斗の手を引っ張り、遠くへ遠くへと移動することとなる。
大きな道路を渡ると、人は一気に減った。
「うん、それじゃさくさく撮らないと。頑張ってねー、海斗カメラマン」
「鈴もね。はい、スマイルスマイル」
「にこやかー」
・・・。
「あー!何撮ってんのー!?冗談なのにー!」
葉の無い桜の下、順番に枚数は増えていく。
鈴の表情も、最初に比べれば良くなってきた。
自分も少しはうまくなってきたと思う。
「・・・今更だけど、私たち、かなり怪しい2人ね」
「俺は平気。自転車で通りがかるおじいさんの視線には離れた」
「嫌な成長してんなぁー・・・」
写真を撮りながらも、今日聞かされた店長の言葉が頭を巡っていた。
いつかは言わなければ。
この写真の意図を聞かねば・・・と思うのだが、うまくきっかけが見つからない。
その制服はクローゼットにずっと置かれていたものと知りながら、知らぬ振りをしてシャッターを押し込む。
ずっと言わず、このまま平和であり続けるのも・・・その感触が、浮んだ言葉を喉でとめている。
「ねぇ、海斗。私もっと色々ポーズしたほうがいいのかな。立ちんぼなのばっかだけど」
「ん?例えば?」
「例えば、その・・・えっちな感じのポーズとか・・・」
「・・・・・・は?」
思わずの生返事に、鈴は頬を真っ赤にする。
「な、なんなのよその目は!?ざ、雑誌とか見たら、その、そういうポーズもあったから、そういうのがいいのかなぁ、って・・・」
怒りと恥ずかしさの合わせ業で、最後は殆ど消えていた。
「そういう写真が欲しいなら撮るけど?」
「な、何で私がそんな写真欲しがるのよ!?いらんわ、そんなん!・・・だけど、海斗にとってこれは勉強なんでしょ?タダで撮ってもらってるんだから、その・・・それくらいはしないと悪いかなーなんて・・・」
「・・・鈴って案外、いい子なんだね」
「どういう意味?返答次第では殴るよ?」
「いやいや、別に撮りたくないといえば嘘かもしれないけど、撮らないよ」
「んーなんか、複雑・・・。私に色気が無いって言ってるみたい」
「いや、そういう意味じゃなくて。ヌード写真集とかもたくさんあるけど、女性を色っぽく撮るって、すごく難しいことなんだよ。あれはあれで立派な芸術作品だと思ってるし、すごい技術で出来てるものなんだよ。だから、今の俺だと撮りたくても撮れないんだ」
「・・・海斗って、変なところで真面目なのね・・・」
「それに」
この流れなら言えると確信する。
意図しない手が王手だった、そんな感触。
鈴はきっと、隠したままでいたかったのかもしれない。
その努力を、次の言葉は簡単に壊そうとしていた。
「それに、撮るのは水着までと、鈴のお父さんから釘を刺されたからね」
目が大きく開き、鈴の動きが止まった。
僅かな間隙を置いて、瞳だけが動いて、こちらを見つめる。
「・・・え?」

石段に座り込む2人の周囲には、甘いにおいとクッキーを噛み砕く音が漂っていた。
「・・・いる?」
「いらない」
鈴はグミを頬張り、ゆっくりと口を動かして食べている。
撮影会はいったん中止となった。
広場に戻る途中のコンビニでお菓子を買い、今に至っている。
「あーあ・・・。お父さんには口止めしておいたんだけどなぁ・・・」
「薫・・・病院で働いてる二ノ宮 香って看護師から聞いた。病院に働いているからね」
「そこからかぁ・・・さすがにそこまでは口止めできなかったわ。詰めが甘かったのね」
「・・・悪い」
「いいよ。知っちゃったものは仕方ないし、事実は事実なんだし。・・・で、海斗はどこまで知っちゃってるの?」
「入院していること、血の病気だって事・・・かな」
「そっか・・・ごめんね」
「え?なんで?」
「だって、騙して・・・ん?騙してはないか。でも、隠し事したままだったし」
「なぁ、本当なのか?悪いけど、実感が全然無いんだ。今、鈴はこうして普通に・・・」
「事実だよ」
鈴はきっぱりと言い切った。
嘘であればいいという幻想に、冷徹な線を引いた。
「事実だけど、自分も正直信じ切れてないの。死ぬかもって言われてもなぁ・・・。可能性があるってのは理解してるよ。それでも、それでも・・・嘘でしょって今も思ってる。こんな風に腕は動くし、体調もそれなりに良いの。だから、重病人として扱われんのが落ち着かなくて・・・」
指先でつまんだアップルグミをぼんやり見つめ、鈴はさらに続ける。
「・・・出来れば、海斗には知らないままいて欲しかった。知らないまま、いい写真撮ったらそのまま別れておきたかった。だって嫌でしょ?“死ぬかもしれないから、今のうちにいい写真を残しておきたい”なんて、頼まれたくないじゃん。もしものことがあったら、物凄く後味悪いし・・・」
「ごめん、勝手に色々聞いちゃって・・・」
心が罪悪感に黒塗りにされていく感覚。
思わず握る手に力が入った。
「気にしなくていいよ。それに、別に死ぬと決まったわけじゃ無いよ?不治の病ってわけじゃないんだし、どちらかと言えば助かる確率のほうが高いんだし・・・」
沈黙は長く、二月の風は冷たかった。
見上げた空は薄い青を滲ませている。
摘んだ赤いグミを見つめながら、鈴はつぶやく。
「・・・海斗って、歯茎は丈夫?」
「へ?」
「よくあるでしょ、歯磨きしてると、歯茎から血が出るやつ」
「あ、ああ、そうだね」
いきなりの不思議な質問に驚くも、鈴は淡々と次の言葉を続けた。
「去年の夏ね、歯磨きしてたら血がどばどばでたの。しかも、止まらないの、ずっと。夜に歯を磨いて寝ると、朝に口の中が血まみれになってるの。想像できる?歯が血で真っ赤なの。あれはグロかったわぁ・・・。それに、ちょっと前まで首と顔とかに、アザみたいなのが一杯出来てて。内出血がとまらないから出来るんだけど、見た目、悪かったわぁ・・・」
視線をグミに固定しながら鈴は症状を語る。
鈴はグミを食べたいのではなく、それしか食べれないのだ。
口の中に傷をつけるようなものは食べれないのだ。
「海斗」
「ん?」
「撮影会、辞めてもいいよ」
「・・・え?」
「・・・だって引くでしょ、こんな話。・・・でも、今海斗が相手にしようとしている子は、そういう子なの」
言葉に詰まった。
抵抗が無いといえば嘘だった。
「それに私はね、憐れまれるのが大嫌いなの。平和な場所から物を言われるのが、大きなありがた迷惑なの。憐れんでいいのは、お父さんとお医者さんだけだと思う」
「俺も、そういうふうに接してしまうのか?」
「・・・そうかも、ね。海斗って、意外とヘッポコな割に優しいし・・・」
「それって、褒めてる?」
「半分褒めて、半分けなしてる。多分」
軽く笑う鈴。
周囲の空気が幾分か軽くなった気がした。
頭の中では今後、撮影会をすべきかどうかを大急ぎで考え始めた・
何がいいのか。
イエスかノーか、双方にとってベストなのはどちらなのか・・・。
考えがまとまる前に、右耳に鈴の冷たい平手が押し付けられていた。
「・・・なに?」
「聞こえる?ごぉーって、音」
言われるがままに耳を澄ます。
押し当てるように密着した手のひらから、地鳴りのような音が聞こえる気がする。
「この音、血が流れる音」
「へぇー・・・」
「まぁ、嘘だけどね。・・・でも、そう思えば思えてくるでしょ?それで今、その手に流れてる血は、輸血された、知らない誰かの血なんよ」
「誰かの・・・?」
「まったく知らない人。分かるとしたら、AB型って事くらいかな。もしかしたらおじさんかもしれないし、美人のお姉さんかもしれない。血だけがここにある」
耳から手が離れた。
風の抜ける音が聞こえる。
鈴は離した手を見つめながら、つぶやく。
「誰かの血で体が動いてるって感触。何かすごく気持ち悪い感じしない?」
「まぁ・・・」
「でもね・・・。ほかの誰かの血が無いと、生きていけない。吸血鬼と一緒なの」
吐く溜息は深かった。
音を出さないように気をつけていたのは、気づいていた。
「輸血してる限りは普通の人と一緒になれる。けど、ずっとこんな生活を続けるわけにはいかないのよ」
「なんで?」
「私の体調がどんどん悪くなるから。それに・・・お金もない。・・・ドラマと違って、現実は寂しいもんよ。お父さんが言わないから、先生から無理矢理聞いたわ。入院費も薬代も、かなりの値段になっちゃうの。田舎から上京してお店立てた・・・って時に、こんなことになって。お父さんには迷惑掛けっぱなしだし・・・」
シビアな現実を語るには、鈴は若すぎた。
それでも、寂しげに笑うその姿は間違いなく現実の一つだった。
「海斗」
「ん?」
「私が死んだら、悲しい?」
「うーん、そりゃ悲しいけど・・・」
「それじゃ困る」
当然のことを返したはずなのに鈴からの返答はまったく違うものだった。
「それじゃ困るの。私は、死ぬときも誰にも悲しんでもらいたくない。でも、私自身は生きてて良かったって思いたい。・・・私は、静かに、幸せに、死にたい」
それは十代の女の子が話すには、あまりに淡白な死生観だった。
「・・・三ヶ月前、同じ部屋だった子が亡くなってね。・・・その子が亡くなったとき、たまたま近くにいたんだけど・・・親が号泣したの。ドラマでよくあるでしょ?泣き崩れるってやつ。あんなのドラマだけかと思ってたけど・・・。現実はもっと強烈だった」
思い出したのか、鈴は僅かに辛そうな表情を作り、俯く。
「音がね、心臓に直接響くの。・・・今でも、耳に残ってるのよ。・・・海斗には、そうなって欲しくない」
「それは・・・難しいね・・・」
「よくあるでしょ?“例え死んでも、私の心に生き続けてる”みたいなの。あれが嫌で、生きてなくていいわ、って思っちゃうの。死んだらその瞬間に記憶が全部なくなっちゃえばええのに」
「・・・変わった考え方だな」
「そうなんだろね。AB型って変なのが多いらしいし。私は変な血の混ぜこぜだから、すごいことになってるのよ」
鈴の乾いた笑いは僅かに続いたが、しばらくして声のトーンが落ちた。
「ねぇ、海斗。こんな状態なのよ。それでも撮る?」
鈴はまっすぐにこちらを見ていた。
その目が、僅かに震えているのを見た。
ここで逃げたくなかった。
それでも、その先に待つ悲劇に耐えられる自身も、無かった。
思考は波のように揺らぎ、選択が交互に浮上する。
決断しなければならない。
今、ここで決めなければ。
頭が痛くなるほどの苦悩の中で、薫の声が響いた。
―ずっと、不幸のままにさせたくないじゃない?
うなずく。
それが最後の一押しだった。
覚悟は数秒で決めた。
「鈴はこの撮影会、楽しい?」
「・・・楽しいけど・・・?」
「じゃぁ、撮るよ。まだベストショット撮れてないし」
鈴の瞳が大きく開いた。
その瞳には、嬉しさ、困惑、不安、たくさんの感情が映っていた。
「・・・いいの?後悔するかもしれないよ?」
「いいの。・・・ここで逃げたらもっと後悔しそうだし」
目頭に涙を僅かにためながらも、強気な口調をなんとか維持して鈴は続ける。
「ちゃんと、行動の責任は自分で取るんだよ?」
「わかった」
「私が死んでも傷つかず、泣かないって約束できる?」
こんなに酷い約束は、きっと世の中探しても他に無いと思えた。
もしも。
でも・・・。
「もう、そこはちゃんとイエスと言って貰わないと困るよー」
「でも・・・」
「まぁ、無茶言ってることは分かる。でも、“死んだら悲しむんだろうなぁ”って思いながら接していくのはしんどいよ」
「・・・分かった。努力するよ」
「もー、はっきりイエスといえないとこがヘタレだなぁ・・・」
これから自分はその日を耐え抜くための覚悟を積んでいくのだろう。
耐えられる自身がまったく無い、酷く悲しい、寂しい覚悟を。
そんな思いを悟ってか知らぬか分からないが、鈴は軽く息を吐くように笑った。
「・・・まぁ、途中でリタイヤしても構わないし、これから頑張ればいいよ。頑張ってね?」
夕方、再開された撮影会で良い一枚が撮れた。
帰りがけに撮った鈴の後姿の写真だった。
夕焼けを背景に、コンクリートに落ちる影。
色の殆どは赤に染まり、印象的な色彩で世界を彩っていた。
写真の中で、鈴は足を踏み出そうとしている。
この一枚はどこか寂しげであり、印象的な一枚になった。
その日、鈴は帰る直前に、ポツリと言った。
「・・・先に謝っておく。今まで撮った写真のどれかがもしかしたら・・・」
増えていく、二月のポートレート。
このどれから一枚が彼女の遺影になる。


2月1日 鈴の日記
海斗くんと初めて会う。
緊張してまっすぐいけなかった。
びっくりしてたけど、オーケーもらえた。
よかった。
考えたくないけど、もしものために、今を残しておきたい。
別に死ぬと決まってないけど。
アルバムの写真が少ないってぼやいてたお父さんのためにも。
私が死んだときに、写真が残ってないと悲しませないように。
せめて、遺影くらいは。
でもこんな努力、全部無駄になってしまえばいいのに。
私が死んだら、お父さんは独りになってしまう。
それが何より辛い。
想像するだけでも泣きそうになる。
絶対治ってやる。

2月2日 鈴の日記
初めての撮影会。
緊張した。
恥ずかしかった。
海斗はいい人だった。
次の約束も出来た。
すごく楽しみ。
撮れた写真は、すごくひどい笑顔だった。
これは残したくないな・・・。
今度はちゃんとした笑顔で撮って貰おう。
鏡の前でスマイルの練習をして見る。
・・・恥ずかしい。

2月3日 鈴の日記
体調最悪。
雨の日はいつも、検査結果が悪い。
雰囲気も暗くなるし、私の気分も暗くなる。

2月4日 鈴の日記
検査とカウンセリング。
お父さんがチーズケーキを持ってきてくれた。
明日は撮影会。
楽しみ。

2月5日 鈴の日記
撮影会2回目。
恥ずかしいけど、楽しい。
海斗は意外と少しヘタレだってことがわかってきた。
でもそのくせ、大学は受かったから毎日が暇みたい。
でも私はもっと暇。
毎日撮影会でもいいな。
前回の写真を見ながら書いてるけど、見てられない。
自分の笑顔が固すぎて、見てるこっちが恥ずかしい。
あと、海斗が写った写真を撮った。
どう写るのかな?
少しだけ楽しみ。
少しだけ頭がふらふらする。
一時間前から待つなんて、私、馬鹿だ。

2月6日 鈴の日記
朝の検査、血小板がすごく減ってた。
輸血。
嫌だけど、無菌室に閉じ込められるよりまし。
輸血してるときはずっと天井を見ながら音楽を聴く。
私の血が誰かの血と混ざっていくのが分かる。
海斗にとってもらった写真を見ると、時々、自分が違う人に見える。
血の交換が、私の人格を変えているんじゃないかって、ばかばかしいことも考えてしまう。
人の血で、私は生きている。
輸血のたびにそればっかり考える。
悲しい。
明日は三回目の撮影会。
お父さんに制服を持ってきてもらった。
半年振り。
大丈夫。
まだ似合う。
可愛いっていってくれるかな。
・・・言うわけ無いか。

2月7日 鈴の日記
ばれた。
驚いて、ついついへんなことを言っちゃったけど、海斗は静かに聞いてくれた。
もういいよっていったのに、まだ続けるって言ってくれた。
仲良くなるのはいいことだけど、もしものことを考えるときが重い。
どうすればよかったんだろう。

2月8日 鈴の日記
検査の後、薫さんと話した。
すごく真面目な人。
きれいで、ぴしっとしてる。
こんな大人になりたい。
お父さんが先生と何か話しこんでた。
気になるけど、もう聞かないことにした。
そのあと、お父さんが「えっちい写真は撮られてないか」って聞いた。
「そんな度胸があると思えない」って言ったら、納得してた。
でも本当に海斗ってああいう人なのかな。
今日はグラタンを食べた。
お父さんは毎日、夜は一緒にご飯を食べてくれる。
病院の食堂だけど、家族の食事。
すごく忙しいはずなのに、絶対来てくれる。
だから私も、入院しても寂しいと思ったことは無い。
ありがとうお父さん。
大好き。

2月9日 鈴の日記
今日の検査結果、最悪。
また輸血。
私の骨髄はどんどん血液作りをサボっていく。
死にそうになりながら、一週間ずっと点滴をうった意味は無かった。
8割が成功するって言ったのに、点滴のせいで10キロも太って死にたくなったのに。
赤色のチューブも、もう見飽きた。
私の人生って、本当についてない。

2月10日 鈴の日記
香さんがお休みで、海斗と私と一緒に写真を撮りに行った。
香さんと撮った写真、早く見たい。
それにしてもあの2人は本当に仲がいい。
兄妹って言うけど・・・ああもう、なんか、うらやましい。
それはさておき、2人とも天体観測をやってたらしい。
いいなぁって言ったら、薫さんが「みんなで天体観測行く?」って言った。
「いいの?」って聞いたら、「いいよ」って言ってくれた。
先生からオーケーをもらったら、行けるみたい。
天体観測なんて初めてだ。
本当にいけるか分からないけど、いけるならすごく嬉しい。

2月11日 鈴の日記
一日中体調が悪い。
ふらふら。
勉強も進まない。
天体観測、先生からオーケーがでた。
香さんに聞いたら、伊豆の方に行くみたい。
お父さんと私と、海斗と薫さん。
一泊二日。
旅行なんていつ振りだろう。
お父さんにも、いいお休みになればいいな。
なにをしよう、どうしよう。
想像すればするほど、すごく楽しみ。
週末までには絶対に治したい。
がんばろー。

2月12日 鈴の日記
智恵がお見舞いに来た。
日記を見直したら二ヶ月ぶりだった。
無理して来ないでいいよっていったら、泣かれた。
学校のことがすごい昔に感じる。
気づけば、高校にいた時間よりも、入院してる時間の方が長くなっていた。
青春って世界がすごく遠くて、今の私には届かないもので、智恵を見るのが辛い。
見えなければ、忘れていられるのに。
ごめんね、智恵。
でも、治るまではもう、会いたくない。

2月13日 鈴の日記。
明日は天体観測。
一日中落ち着かなかった。
先生に許可もらって、お店に行って、お父さんに教えて貰いながら、チョコレートを作った。
ホワイトチョコレート。
おいしくできたと思う。
渡す相手は海斗くらいしかいないから。
でもあくまでもこれは、感謝の気持ち。
ハート型には作らない。
そういったらお父さんが笑ってた。
・・・可愛くないんだろうなぁ、私。
夜空を見てみたけど、星は見えなかった。
都会はビルとかの光のせいで、星があまり見えないんだって、薫さんに聞いた。
明日の夜には、すごく綺麗な夜空が見れているのかな?
楽しみで、寝れない。
遠足の前の小学生に戻ったみたい。
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