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しおりを挟む個人授業で教わった内容は頭にちゃんと入ってくれた。
綺麗に切り揃えられた橘の指先の爪にまで見惚れて中断してしまい、時折軽めのデコピンをお見舞いされたが、何とか理解できたと思う。
日が短くなってきたため、十八時でも辺りが暗い。
あまり長居するのも嫌がられるかもしれないので、若干急ぎめに教科書とノート、ペンケースを鞄にしまった。
そそくさと立ち上がってお礼を言おうとすると、橘が思い出したように「あ」と声を上げた。
「忘れてた。 お前の個人面談」
「個人面談……、あぁ、やるって言ってたね。 みんなのはもう終わったの?」
「先週のうちにな。 お前のはこの時間にやろーと思ってたんで後回しにした」
「うん、それはいいんだけど。 先生は俺の進路知ってるよね」
「まぁな。 変わりはないんだろ?」
問われて動きを止めた由宇は、橘から視線を落として床を睨んだ。
あの暴露会以降、由宇の希望進路が少しだけ変わってきている。
父親の背中を見ていて、幼い頃から医者になるべく勉強漬けの日々を強いられていたが、去年事故に遭ってからは気持ちが揺らいでいた。
両親は医師なのに、看護師なのに、由宇の傷はまったく癒やされなかった。
それでも、医者を目指すべきだと信じて疑わなかったから、これまで別の進路など考えた事も無い。
ただ少し前にやつれた母親から言われた「由宇は好きな道に進んでいい」という言葉と、悪い見本が家に居る現状では、医者になる事が果たして由宇の目標で、その選択をして本当に後悔しないのか分からなくなっている。
ほとんど愛情を掛けてくれない親に強いられて、誰かを救いたいと高らかな志も抱けていない由宇が医者になったところで、父親の二の舞いになる気がした。
その疑念があの暴露会で形になってしまったのである。
……橘のように信念があれば、別なのだが。
「んー、……実はちょっと悩んでて」
「何を」
「進路。 養護教諭目指そうかな……」
「はっ!? 養護教諭ってお前……医大関係ねーじゃん」
「調べたんだけど、この辺だと北峰大学の大学院まで行くか、看護学校から行くか……らしいね。 手っ取り早いのは北峰だよね。 看護学校からだと順序たくさんこなさなきゃみたいだし」
珍しく由宇を見詰めてくれている橘の鋭い視線が痛い。
医大合格を目指して橘に数学を教えてもらっている手前、この心変わりを打ち明けるのはかなり渋られた。
橘と接したこの数ヶ月、教師というものの尊さを知った事が決意のキッカケだ。
教師にというより、目の前の橘に憧れた、と言った方が正しい。
「おい、どういう事だよ。 なんで医者志望やめた」
「希望が持てないから。 それに俺は不器用だから医者に向いてないと思うし、熱意のないまま患者さんを診る事なんて失礼過ぎて出来ない」
「………………」
「あとね、俺、学校って場所が好きなんだよ。 養護教諭なら、頑張れる気がする」
橘に憧れたから、なんて本音は当然伏せておく。 想いを隠しているからには、そうそう思わせぶりな事は言えない。
たとえ橘が由宇と同じ気持ちを抱いてくれていたとしても、諦めて片思いに乗じている今は余計な事は口走っては駄目だ。
ほろ苦く甘い想いを知ってから、由宇は度々入学式の日の事を思い出す。
散り散り舞う桜の花びらをバックに立つ橘は、顔面は強面でも、出で立ちに凄まじいまでの色気と気品を漂わせていた。
まるで何かを締め上げているかのように眉を顰めた副総長顔で、由宇のネクタイを結んでくれたあの優しさと光景は一生忘れられない。
生徒手帳にソッと忍ばせているアレも、こうなった以上は一生の宝物だ。
「……それでいいのか」
橘は立ち上がって、噛んでいたガムを紙に包みゴミ箱へ放った。
無表情を装っていてとても分かりにくいが、由宇の心変わりに少なからず驚いている様子だ。
「うん! 春になったら職場が桜で埋め尽くされるなんて、最高じゃない?」
「いつからそんな桜フリークになったんだよ」
「今年から。 ……桜好き。 勇気貰えるもん」
「……?」
鞄を抱えた由宇は、無表情の橘に満面の笑みを見せた。
辺りが闇に包まれてしまう前に、急いで帰らなくては。
「そういう事なんで、俺さらに勉強頑張るよ! 二学期の間は数学教えてくれるんでしょ、先生?」
「嫌だって言いてぇけど北峰は理系推薦枠あっからな。 親元離れたいなら推薦決めてさっさと家から出る事だ」
「うん、そうする!」
「お前が決めた事ならいんじゃない。 理系クラス志望は変わらねーんだろ?」
「よろしくお願いします」
「了解」
生徒指導室の鍵を手にした橘に、ペコっと頭を下げた由宇は一足先に踵を返した。
引き止められる事も、追ってくる気配もない。
先月までは軽口を叩いてはキスを仕掛けてきていた橘が、今や遠い遠い存在だ。
視線を向けられる度に心臓が跳ねる片思いの味を知ってしまうと、あのいやらしい行為をもっとたっぷり堪能しておけば良かったとさえ思う。
由宇の心はもはや、橘一色だった。
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