個人授業は放課後に

須藤慎弥

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 橘は常々正義だと思っていたけれど、由宇だけの正義になりつつある事に盛大に頬が緩む。

 手のひらに痛々しくも生々しい傷跡があっても、それが正義のため、由宇のためであるならば気にしようがない。

 むしろ勲章だ。

 由宇に冷たくあたってしまっていた事を、橘はさり気なくだが気に病んでいるのも、もうやめてほしかった。

 今となっては、美化された思い出として振り返る事が出来ているのだから。

 肩に置かれた大きな手のひらと、ぴたりと密着していても「暑い、離れろ」と言われないだけで、由宇は嬉しくてたまらない。

 見詰められると怖いけれど、よくよく見るとやはり橘は顔の造作が整い過ぎていて余計に凄みが増すだけだと分かった。

 このかっこよくて男らしい橘は由宇の恋人なんだと、本当は誰にともなく言って回りたいくらいだ。


「俺に大丈夫って言うなっつったろ。  もうお前に悲しい思いはさせえねぇから。  俺に遠慮なんかすんなよ」


 顔を覗き込んできた橘が、不服そうに瞳を据わらせている。


(あ……前にもそんな事言われた気がする……)


 由宇は、大人に甘える事を知らないままここまで成長した。

 自分が元となる面倒事を避けたいあまり、いじらしいほどの遠慮を見せる由宇へ、橘は言ってくれた。

 大丈夫って言うな、俺にもっと甘えろ、そう言って強く抱き締めてくれたあのペンションでの一夜。

 橘の考えている事がさっぱり分からなくて、当然、由宇の気持ちも定まるはずがなく訳の分からない二泊三日だったが、それもまた良い思い出。

 あれからすぐに橘は人が変わってしまって、……遠慮するなと言われても、今はまだ甘えきれない部分があるのは確かだ。

 相手の機嫌を見る、特に橘の顔色を見てしまう癖は、そう簡単には治らない。


「うん、……分かってるけど……」
「けど、なんだよ」
「……それこそ時間ちょうだい。  先生が完全に禁煙出来る日くらいまで」
「そんなにかよ。  俺がこんなに愛情持って接してるっつーのに」


 橘の視線の熱さはしっかり感じているし、由宇を構いたくてたまらないらしい事も態度を見れば分かる。

 嬉しくて浮き足立つ一方で、まさにこの家で突き放された事も意図せず蘇ってきてしまうだけに、由宇は橘の機嫌を見ながら擦り寄るので精一杯だった。

 そこにはもちろん照れもある。

 照れくさくて、自分から媚びるように甘える事は出来ても、先程も無意識に橘の顔色を伺っていた。


(先生気にしなくていいよ、って言おうとしてたけど……ずっと心ん中でモヤモヤしとくよりはいいかな)


 冷たくされても由宇は何も感じていなかった……など、橘は思っていないだろうが、あの時の気持ちはまだ伝えていないのでこの際ぶちまけてしまおう。

 遠慮するな、と橘が言った事だし。


「じ、じゃあ言っちゃうけど、あの時……っ寂しかったんだからな!  片思いはツラくなかったけど、冷たくされたのはすごい嫌だった!  ……寂しかった……!  ほんとに……毎日泣いてた……!」
「…………」


 橘の腿に乗り上げ、彼のバスローブの胸元を握って揺さぶらんばかりに由宇は取り乱した。

 言っているうちに思いが込み上げてきて、橘の俳優面が滲んでゆく。

 うっ……と嗚咽を漏らしたと同時に、ぽたりと眦から零れ落ちた涙が自身のバスローブを濡らした。

 すると、橘の右手が俯いた由宇の顎を取り、優しく口付けてくる。

 「ほんと泣き虫だな、お前」と意地悪く微笑みながら、控え目に舌を絡ませてきた。


「んっ、……っ、せんせ……っ?」
「それ言わせるように持っていった俺、マジ凄くね?  刑事になれそ」
「はぁぁっっ?」


 意地悪な悪魔は、何が楽しいのかいつもより笑みが濃い。

 本音を打ち明けた由宇の心が、当時を思い出して切ない苦しみを伴い始めていたというのに、遠慮するなと言った肝心の張本人は「泣き虫」と揶揄ってくる。


(さっきまで茶化す雰囲気じゃなかったのに……!  信じられない!  この悪魔教師!)


「お前すげぇ可愛い事言うじゃん。  煽ってんの?」
「ね、ねぇ、先生……!  今のわざと?  どっから冗談なんだよっ?」
「全部ほんと。  俺は嘘吐かねー」
「嘘だ!  先生揶揄ってる!  俺は本気で寂しかっ……」
「分かったって。  これ以上俺を喜ばせるな」
「喜ばせてない!  先生が遠慮するなって言ったから……!」
「お前の気持ちは分かった。  ごめんな」
「えっっ……!」


 橘が、謝った。

 素面で、悪魔の微笑を封印して、謝った。

 そしてギュッと抱き締めてきた。

 少々力が強過ぎて「うぐっ……」と呻く羽目にはなったが、由宇もつられて橘の背中に腕を回す。


「俺が悪かった」


(……ふ、ふーすけ先生……)



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