永遠のクロッカス

須藤慎弥

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 何が悪かったのか、何がいけなくてこんな結末を生んでしまったのか。
 若かったあの頃よりも、心を抉られた傷口は深く深く、限りなく切ない。
 きちんと睡眠を取って毎日仕事に出掛けているので、何も手に付かない、とまではいききれない自らの生真面目さが余計に虚しかった。

 あれから一ヶ月半、月光からの連絡は一度もない。
 突然で謎ばかりで、説明くらいはしてくれないかなとぼんやり思っていられたのはあの日から一週間だけだった。

 一週間を超えると、あぁもう本当に終わったんだなと諦めが付いた。
 乃蒼は物分りの良い大人で、実際に早紀の姿と様変わりした月光の部屋を見ているだけに、しつこく期待を持ち続ける事など出来なかった。

 乃蒼はあと二週間ばかりでこの町を去る。
 ほとんど毎日のように連絡をくれ、週に二日は何もせず泊まって行く海翔には当初の予定通り何も話していない。
 まるで昔からの友人のように接してくれる海翔には、乃蒼はこの一ヶ月でいくらか心を開いた。
 月光と離れる決断に背中を押してくれた、あの初体験の相手だった事もそうだし、あれより前から乃蒼に気が合ったと聞かされれば正直悪い気はしなかった。

 ただし、気持ちには応えられないと海翔本人には伝えている。
 恋人などもう要らない。
 二度と、傷付きたくない。
 他人同士が付き合うのは難し過ぎると、乃蒼は月光だけを指標にそう結論付けてしまっている。

 海翔はそれでもいいと言った。
 恋人じゃなくても一緒に居られる形はあるでしょ、と穏やかに微笑み、乃蒼の頭を撫でた。

 まだどこかで月光の影を追う乃蒼と同じく、海翔も未だ乃蒼を恋愛対象として見ている気がしなくもないけれど、海翔はそれを隠すのが非常にうまい。
 ボーッとテレビを観ている笑えない乃蒼の隣にやって来て、海翔は「寒い」と言いながら本を読む。
 乃蒼の部屋は暖房を付けていてもたまに僅かな隙間風が入るため、寒がりらしい海翔が本気で人肌を求めてきていると知ってからは、乃蒼は大人しく寄り添われている。

 この部屋での思い出が、いつの間にか海翔で埋まり始めていた。
 マグカップや歯ブラシが増え、こじんまりとしたバスルーム内の棚には、海翔が買ってきた様々な色をしたまん丸の入浴剤が綺麗に並んでいる。
 彼は中性的で美しい容姿を持ち、何を着ても似合うすらりと背の高い美丈夫なのに、寛ぎたい時はジャージしか着ないと知って意外だった。
 そういえば酔い潰れて海翔の部屋に行った際、ベッドに入った彼は寝間着にジャージを着ていたっけと乃蒼は口角を上げずに笑う。


「あ、もうこんな時間!」


 乃蒼は時計を見て慌ててコートを羽織った。
 今日は仕事が休みのため、海翔が勤める総合病院にて腱鞘炎の湿布を貰いに行く予約日である。
 三ヶ月に一度ほどで様子を診てもらっていて、お守り代わりの湿布と痛み止めを処方してもらうのだ。
 九時の予約でもいつも三十分は待たされるので、早めに出ようと思っていたのに少し遅くなってしまった。

 案の定、病院に到着すると九時前にも関わらず一階の総合待合室は患者でごった返している。


「海翔いんのかな」


 スーパーローテーション中の海翔は数ヶ月単位で配属の科が変わり、約二年は研修期間……いわゆる修行を積んで、自身の希望の科を決定してゆく。
 小児科医を目指していると言っていたものの、それは制度として決まっている事らしいので、粗方の科は経験しなければならない。
 今月頭からは整形外科に配属だと聞いた。
 もしかしたら夜勤明けの海翔がふらりと立ち寄ってくれるかもしれない。

 友人だと思うのも海翔に失礼だからと分かっていても、彼の優しさは乃蒼の心に染みていて自然と姿を探してしまう。
 整形外科の待合室で名前を呼ばれるのを待ちながら、乃蒼はキョロキョロと辺りを見回していた。

 独身であるが故なのか、海翔は夜勤ばかりを任されているようなのでそうそう会えはしないのかもしれない。
 何気なく見回した周囲には脳外科、口腔外科、産婦人科があった。


「……あ、……!」


 最後に目に留まった産婦人科の入り口から、予期せぬ人物が出て来た。
 ドクン、と心臓が鳴り、瞳を見開く。


 ───早紀ちゃんだ。


 見つかりたくない乃蒼はそそくさと死角になる場所へと移動し、二人はここに通っていたのかと眉を顰めた。
 乃蒼が今最も会いたくない人物がもう一人現れた事で、さらに眉間の皺が濃くなる。
 喜びに満ちた早紀のお腹は、彼女が細身のためかまだほとんど目立たない。

 二人は並んで会計の方へと歩いて行った。
 乃蒼に気付かないまま、見えない場所へ移ってくれた事に詰めていた息を吐く。


「……なんでこの病院なんだよ……」


 この町にも産婦人科ならたくさんあるじゃないかと誰にともなく苛立ちを覚えたが、心とは裏腹に気になってしょうがない乃蒼はこっそり二人の様子を見に行った。


 ───月光、変わってない。 激痩せしてたりしろよ、ムカつくな……。


 あの時の彼の様子から、月光も不本意ながらの結婚なのではないかと乃蒼は思っている。
 説明も無ければ乃蒼へのフォローも無く、ただただ狼狽してひたすらに無謀な想いを伝えてきていた。

 しかし早紀のお腹には新たな命が宿っている。
 身を引かなければならない立場の乃蒼があの時必死に笑顔を繕ったのは、不本意でも受け入れてやれよと発破をかけたつもりもあった。
 頭の中が真っ白になった乃蒼に出来る事と言えば、祝福の言葉を送り、乃蒼だけでなく月光の未練をも断ち切る事しかなかった。


「あれ……海翔だ」


 壁から顔だけを出して覗いていた乃蒼の視線の先に、ドクターコートを着た海翔の姿が目に入った。
 イケメン医師の登場に、患者らがにこやかに話し掛けようとする中、海翔はそれを丁重に断って何故かあの二人の元へ真っ直ぐに歩いている。


「………………?」


 乃蒼は考える間もなく、すぐさま三人のあとを尾けた。





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