永遠のクロッカス

須藤慎弥

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 自分が何と言ったのか、キスをやめた海翔の微笑みを数秒見詰めてようやく理解する。
 「行こうか」と海翔に連れられて車に乗り、思いがけず二つ目の思い出が出来た海を離れた。

 毎日の日課だった海翔からのメッセージを待っていた乃蒼は、次第に無償の愛を信じられるようになっていた。
 だがパタリとそれがなくなって、思い悩んだ末に震える指先でスマホを操作し、諦めにも似た胸中で海翔との思い出の場所へやって来たのだ。

 来てくれるかも、という期待はほとんど無かった。
 愛された事がないせいか、どうせみんな離れていくんだと乃蒼は投げやりだった。

 夜の闇の中、どこまでも続く水平線を見ていると、本当にこの世にひとりぼっちになったような気がして……さざ波の中に身を投げてしまおうかという暗い気持ちさえ抱いた。


「乃蒼、本当にごめんね。 不安だったんだよね」
「……いや、もういいよ。 ……大丈夫」
「俺は一途だからね。 乃蒼への気持ちは変わらない。 でもちょっとだけ、乃蒼を抱く前に、……格好悪いこと話してもいい?」


 海翔の口調はとても穏やかで、彼自身も外へ滲み出るほどの包容力がある。
 歳の離れた妹達の面倒を見てきた長男なだけあって義理堅く、強い責任感を持ち合わせている事も知っている。
 
 けれど……乃蒼に連絡してこなかった理由を語り始めた海翔は、ハンドルをギリッと音を立てて握るほど当惑していた。
 乃蒼への気持ちがまったく薄れていない事には安堵したが、その理由は格好悪いどころか、苦悩し何もかも手に付かなくなってもおかしくない。
 黙って聞いていた乃蒼に、海翔が前を見据えたまま苦笑する。


「……ごめんね。 意図的に乃蒼を放っておいたわけじゃないんだ。 そういう事があって、……自信喪失してて……」
「……そうなんだ……」
「医師に向いてないんだよ、俺は。 直接それを目にしたわけでもないのに、関わった事があるってだけでこうまでなるなんて。 ……目の当たりした時が、……恐ろしくて……」
「………………」


 海翔は運転中だったが、乃蒼は少しだけ勇気を出して、肘置きに置かれた海翔の左手をそっと握った。
 こんな事で慰めになどならないと分かっていたけれど、海翔が乃蒼に毎日送ってくれていたメッセージが励みになっていたように、乃蒼が海翔の傍に居る事で彼の当惑が薄れるといいと、そう思った。
 一瞬驚いていた海翔も、乃蒼の手を力強く握り返してくれる。
 思いが伝わった証拠だった。

 何も言ってやれない。
 命と向き合う職種である海翔に、乃蒼には掛ける言葉が一つとして見つからなかった。
 連絡がない間に海翔の身にそんな事があったとは知らず、勝手に傷付いて落ち込んだ。
 いつも毅然としていた海翔が、命の重さに耐え兼ねて心を打ち砕かれている。

 同じ男として掛けるべく言葉は「仕事をナメるな」だが、こと海翔の職にはそれは当てはまらない。
 当てはまらないというより、掛ける言葉が皆薄っぺらく浅いものに聞こえそうなので、気の利いた台詞など思い付きもしなかったのだ。
 身内が亡くなった事も、新しい命が生まれる瞬間も当然見た事がない乃蒼には、海翔の深い苦しみと困惑を理解してやれない。
 一つハッキリしているのは、乃蒼は一歩を踏み出すのが遅かった。
 そのせいで、海翔は一人悩み苦しんでいた。
 乃蒼がツラい時はいつも海翔が傍に居てくれたのに、海翔は一人で生命の重圧に押し潰され、孤独と闘いながら崩れる間際だった。


「海翔……」
「……こんな事、誰にも言えない。 乃蒼にも本当は言いたくない。   弱いところなんか見せたくなかった」
「……弱くない…よ…。 海翔は弱くない」
「ふふ、……。 乃蒼の前では特に、格好良い男で居たいんだけどな。  ……乃蒼からのメッセージ見たら、何だか……悩んでた事も忘れて乃蒼に会いたくてたまらなくなったよ。  乃蒼、俺の話聞いて……ってね」


 微笑む海翔の横顔は、格好悪くなどなかった。
 むしろ、ミステリアスだった海翔の脆い部分を知った事で、乃蒼の中にあった「愛されたい」願望が「愛してあげたい」という恵みの感情に変化している。
 絶望の淵に居た乃蒼の隣で、何も言わずに寄り添ってくれていた海翔の存在は計り知れないほど大きかった。
 乃蒼は今、あの時の海翔の気持ちを思い知った。

 言葉など要らない。

 ただ話を聞いて隣に居るだけで、心は少しずつ快復していく。
 愛とはそういうものなのかもしれない。
 愛されたい乃蒼はそれをひたすら追い求めていたけれど、自らも与えなければ「愛」にならない。
 乃蒼は、運転中の海翔に邪魔にならない程度に寄り添った。
 彼の肩に頭を乗せ、妙な態勢にはなったが……海翔の微笑んだ気配に気分が高揚したのは間違いなかった。




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