永遠のクロッカス

須藤慎弥

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✦ 後悔の果て ✦

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 ハッとした時にはもう、遅かった。
 履き慣れたスリッパで廊下を歩む音がどんどん近付いてきて、そこに現れた人物に乃蒼の顔が青ざめる。


「まだ居たの」


 四人掛けダイニングテーブルにゆったりと腰掛けた月光を見付けて、海翔は無表情でキッチンに佇む乃蒼を見た。
 乃蒼が嫌いな冷たい顔に、湯呑みを持つ手が微かに震えた。

 海翔からの電話を切って、まだ二十分ほどしか経っていない。
 通話を切ってすぐに海翔が動いたのは明白で、乃蒼は嬉しいやら悲しいやら複雑だった。
 明らかに怒っている海翔と見詰め合っていると、空気の読めない男がグラスを傾けて右手を上げた。


「よっ。 海翔~久しぶり~」
「……乃蒼、どういう事? なんでまだ居るの? すぐに追い出してって言ったよね?」
「……あ……それは……」
「まぁまぁそんな怒んなって~。 話してただけなんだからさぁ」
「相手があなただと分かってて冷静になれるはずないでしょう」


 ───そうだよ、その通りだよな。


 海翔が怒るのも、不安になるのも、当然だ。
 現にこうして、月光とダラダラと話をしていただけにしても、乃蒼は海翔の言い付けを守れていなかった。
 恐る恐る海翔に近寄ると、もはや好きになり始めた病院特有の薬品の匂いが漂ってくる。


「乃蒼、こういう事が何度もあるの? 月光の事、本当は忘れられないの?」
「ち、違う! そんな事あるはずないだろ!  俺は海翔の事が好きだって言ってるのに……っ、なんで信用してくれないんだよ……」


 ここに居るのが月光だったからこそ、海翔も慌てて飛んで帰ってくるほど不安だったのは分かるが、そんなにも信じてもらえていないのかと悔しくなってきた。

 乃蒼は海翔の事が好きなのに。
 冷たい顔をして乃蒼を射抜いたとしても、明日まで会えないと思っていた海翔の姿を見ただけで、飛び付いてしまいそうになるほど嬉しくて……それくらい、大好きなのに。

 月光の前にも関わらず、乃蒼は潤んだ瞳を海翔に向けた。
 すると冷たかった表情が次第に崩れて、いつもの海翔でそっと抱き締めてくれる。


「……泣かないで、ごめんね。 でも俺が不安になるのはしょうがないよ? 乃蒼と月光なんだよ? 同じ空間に二人が居たら、もしもがあるかもしれないって俺は思っちゃうよ?」
「あるわけない! もう月光となんて無理! 絶対無理! 襲われそうになったら金蹴りする!」
「乃蒼~俺ちょいちょい傷付いてるぞ~。 てか金蹴りは二度とやるなよ~あれめちゃくちゃ痛かったんだからな~。 てかてか俺の前で抱き合うなよ~離れろよ~」
「っるさい! そもそも月光が隣に引っ越してきたとか訳分かんない事言うからだろ! 話引っ張ったのは俺かもしれないけど!」
「え、乃蒼が引き止めたの?」
「……あっ……! なんで隣に引っ越してきたんだって、気になって……」


 乃蒼は再度、うっ…と言葉を詰まらせる。
 引き止めたつもりはないけれど、結果そうなってしまったのは乃蒼が話を膨らませたからだ。
 月光が何故引っ越して来たのか、それについて妻である早紀は納得しているのか、ついついお茶と水まで出して月光を居座らせてしまった。
 しかも、悩んでいると言い出した月光の相談まで受けようとしていたのである。
 それが深夜にまで及べば、月光はほぼ100%「泊まっていい?」と言ってきただろう。

 少し考えれば読めた展開を、海翔が察しないはずがない。
 今の状況では、「冷たい顔するな」と乃蒼は怒れなかった。


「俺たち普通に話してただけだよ~? なぁ、乃蒼?」
「とにかく今日はお引き取りください。 事情は乃蒼から聞きます。 俺あと四十分しか時間ないんで」
「えぇ~? 俺まだ話終わって……」
「月光! ……ごめん、話はまた今度聞くから。 今日は……」


 乃蒼が月光に目線で訴えると、伝わるか不安だったが彼はゆっくり立ち上がった。
 バカだバカだと言い続けて、空気の読めない男め!とキツい言葉を散々浴びせてきた乃蒼だが、今だけはとても感謝した。
 チラと乃蒼と海翔を見て無言で出て行ったところも、花丸をやりたいくらい感謝した。
 あの月光が、空気を読んだ。


「乃蒼……」


 邪魔者が居なくなるや、すぐさま海翔は乃蒼を腕の中に引き込む。
 温かくて優しい海翔の体温に、乃蒼はうっとりと目を閉じて陶酔した。
 背中に腕を回しながら、海翔を見上げる。


「海翔……仕事は……?」
「嘘ついて一時間抜けてきた。 どうしても不安で……仕事手に付かないなって分かってたから……」
「ごめん、海翔。 ……ごめん……」
「謝らないで。 乃蒼が月光の前で俺に「好き」って言ってくれたの、すごく嬉しかった。 帰ってきた甲斐があった。 ……俺もごめんね。「冷たい顔」、してたでしょ」
「うん……」


 手のひらが乃蒼の頬に添えられると、その手に乃蒼も自身の手を重ねて首を傾ける。
 海翔は、乃蒼への愛情で溢れている。
 それを感じられる幸福を知って、今さら月光を前に心が揺れ動くはずがない。


 好き。  好き。


 不安だからと飛んで帰ってくる、向こう見ずで重たい海翔の一途な愛が、たまらなく愛おしい。

 

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