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◆ 恋というものは ◆
第百七話
しおりを挟む名残り惜しく潤の部屋をあとにした天は、一晩かけて退職願を書いた。
性別を偽って入社し、そのまま隠し通そうとした事まで正直に書き連ね、詫びの言葉で締め括って封筒にしまった。
翌日、出社早々それを持って部長のもとへ向かう最中、付き添うと言って聞かなかった豊に頭を下げた天はすでにその時点で涙ぐんでいた。
偏見や差別を恐れて性別を受け入れられず、嫌気が差すとまで頑なだった自身の考え諸とも、無表情の部長に向かって鼻を啜りながら詫びた。
天は、必死だった。
叱られるのは自分の招いた種なので耐えられるが、蔑まれるのではないかと怖くてたまらなかった。
だがしかし、───天が沈痛な面持ちで書き上げた退職願は現在、部長ではなく豊が手にしている。
「───吉武、よく頑張ったな」
「………………」
これは必要ないとばかりに、折り曲げた退職願を内ポケットにしまう豊は、天の髪をくしゃくしゃに乱してニコッと精悍な笑みを向けた。
社員等が各オフィス内で個々の仕事を全うする中、天は泣き腫らした目を冷やすために豊と共にトイレの大きな鏡の前で心を落ち着けている。
「これから先、性別でふるいにかけられる事も減ってくだろうな。 吉武はその先駆者だ」
「そんな大層なものじゃ……。 それより、俺の性別のこと知ってて黙ってたから……時任さん、あとで怒られたりしませんか?」
「あの様子じゃ大丈夫だろ。 俺に面倒な仕事押し付けて煙草休憩の多い上司だが、社員のことはちゃんと見てたんだなって事が分かって何より」
「時任さんっ、ここ居酒屋じゃないですよっ」
「あぁ、悪い悪い。 最近吉武が飲みに行ってくんねぇから溜まってんだ」
「……え、ちょっ……時任さん……」
クイと顎を取られて上向かされた天は、豊に相変わらずの尊敬の眼差しを向けた。
するとちょうどその時、前触れもなくトイレの出入り口の戸が開き、ひどく不機嫌な潤が姿を現す。
「───兄さん、天くんから離れて。 キレるよ」
「潤くん……!!」
「潤? お前学校は?」
「満員電車に酔って気持ち悪いから遅刻して行くって連絡した。 朝一で退職願出すって言ってたから天くんの事が心配で……」
「潤くん……っ」
「天くん、来て来て」
よく見ると、潤のコートの下は濃紺のブレザーとチェック柄のスラックス姿だ。
高校生にはとても見えないが、明るい日の下でこうして制服姿を拝んでしまうと、彼は本当に学生なのだと思う以前に見惚れてしまった。
薄茶色の紙袋と学生鞄片手に、どう見ても元気そうなナリで嘘を吐いてまで天を心配してくれたとあれば、緩んだ涙腺がまたも壊れそうになる。
うるうると瞳を濡らして潤を見上げた天を、トイレの外へ連れ出して陽のあたる場所へ連れて行く大好きな人の後ろ姿に、心を弾ませた。
「Briseに寄ってダークチョコソース入りのカフェラテ買って来ちゃった。 少しだけ抜けられない?」
「えっ……」
「兄さん、いいでしょ? ちょっとだけ」
「…………三十分な」
「そんなにいいんですかっ?」
「多いなら……」
「いえいえそんな! 三十分もありがとうございます!」
「きっちり三十分後に返すよ」
「……あぁ、頼む」
思わぬ時に、ささやかなデートを持ち掛けられた。
潤と共に普段は立ち入り禁止の屋上へと上がった天は、彼のバイト先であるBriseで初めて飲んだあの甘いコーヒーを恥ずかしげに受け取る。
一口啜ってみると、やや温くなったそれが天の適温で、先程までの緊張感が解れていくようだった。
「兄さんと居たって事は……性別のこと、上司に話したの?」
「……うん」
「…………どうだった?」
潤は天と同じものを飲み、一見ここの社員のように大人びた姿勢で心配そうに頭を撫でる。
性別を偽っていた事を白状すれば、叱られるどころか一発でクビかもしれないと、潤も気が気ではなかった。
天がどんな処遇を与えられるか分からないので、のんびりと授業を受けている場合ではないと当然のように思ってくれたに違いない。
「退職願受け取ってもらえなくて、……「君はどうしたい?」って聞かれたよ」
「……うん。 それで、天くんは何て答えたの?」
「働きたいって言った。 入社した時は正直、就職一択だったから無理してるなって自分でも思ってたんだけど、今はそうじゃないって事も伝えた」
「天くんは今の仕事が好きで、楽しいと思えてるんだ?」
「……だと思う。 昨日辞表書いてて涙出てきちゃってさ。 ΩはΩに見合った仕事しなきゃなって、転職も考えようとしたのに出来なかったんだ。 採用通知がきた時、母さんめちゃめちゃ喜んでたなぁとか、初めて契約取れた日の事とか、ミスして先輩に怒られた時の事とか、色々思い出してね……」
「………………」
天の素直な気持ちが通じたのか、一切の顔色を変えなかった部長の真意が気にかかる。
豊に辞表を託したという事は、お咎め無しなのだろうか。 それさえ尋ねるのが怖かった天なので、本心を曝け出したもののこれからどうすれば良いのか実は何も聞いていない。
普段通りに職務に就いていいのか、豊に指示を仰がねばならない立場だ。
天の本音と状況を聞いた潤は、「そっか」と安堵の表情で柔らかく微笑んで華奢な肩を抱く。
ふいに抱き寄せられた天は、両手にカフェラテの入ったカップを持って乙女のようにドキドキした。
「天くんの働きたい意思は尊重したいんだけどなぁ……」
「…………ん?」
「すごく今さらな事言っていい?」
「ん、な、何?」
「あの時のお礼、くれない?」
「…………何の事?」
「ほら一緒に眼鏡探した時のお礼。 奢りたがってた天くんにお礼させなかったでしょ、僕」
天はじわりと潤を見上げ、「えっと…」と首を傾げる。
「あぁ……! 思い出した! そういえばそうじゃん!」
それほど昔とは言えない出来事が、もはや懐かしい。
アルバイトで稼いでいるからと、高校生である潤にすべて奢られて立場が無かった。
一連の騒動で、天は母からの教訓を忘れるところであった。
「お礼、くれる?」
「やっと欲しいもの決まったんだ? なになに? そんなに高価なもんじゃなければすぐにでも……んっ」
懐かしい話題に笑顔を浮かべた天の唇が、同じカフェラテ味の唇で塞がれた。
左頬を取られ、ちゅっと音を立てて離れていった、潤の真剣な眼差しに緊張する。
何かとんでもないものを要求されるのではないかと、違う緊張も走ったその時……持っていたコーヒーを奪われ、それを紙袋の中に素早くしまった潤からガバッと勢い良く抱き締められた。
「天くんのこれからの人生、ちょうだい」
「へっ?」
「僕α性だしお買い得だって言ったよね。 ちなみに、僕と結婚したら天くんにはお家に居てもらいたいと思ってる。 ほんとに、働きたい気持ちは尊重してあげたいんだけど、将来的には赤ちゃんのお世話もあるし……」
「ちょちょちょちょっ、待って! 話が飛躍し過ぎてる!」
「…………天くんの人生ちょうだい。 僕の欲しいものはこれしかない」
「────ッ!」
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