56 / 206
初めてを奪われました ─和彦─
1
しおりを挟むポロポロと涙を流す七海さんは、充血した大きな瞳で僕の事を捉えていた。
何も分からない、どういう事なんだ、と
自身がたった今口走った台詞なのにその意味が分からないでいるみたいだ。
言葉を選ばず、感情に任せて勢いだけで言っちゃったらしい七海さんの本心に、胸が張り裂けそうだった。
「分かんない……俺いま何て言ってた……?」
視線がウロウロし始めた。
流れる涙を指先で拭ってあげても、七海さんは嫌がらない。
まさかそういう意味だったなんて……知らなかった…。
僕の行動は、七海さんにとって最善だと信じて疑わなかったのに、こんなにも悩ませてしまっていたとは夢にも思わなかった。
七海さんはまだ、「分かんない」と何回も呟いている。
歳上にこんな事を言うのは失礼かもしれないけれど、言わずにはいられなかった。
「……可愛い……可愛い……っ。あ、あの……もう一回抱き締めてもいいですか」
「…………俺に聞くな!」
「では遠慮なく……」
七海さんを抱き締めたいんだから、七海さんに許可貰わないとでしょう?
ここへ来た時の僕より狼狽えてしまった七海さんに笑顔を見せて、それからギュッと抱き締める。
何の抵抗もしてこない、「嫌い」という言葉が飛んでこない……もう「ごめんなさい」と思わなくていい……それがこんなに嬉しいなんて……。
小さくて華奢な七海さんは、僕の両腕の中にすっぽりとおさまって静かに立っている。
「分かんない」から、まだ僕を抱き締め返してはくれないんだ。
それでもいい。
許せないの意味が分かった今なら、僕は七海さんが気付いてくれるまでいくらでも待てる。
後悔の日々が一気に吹っ飛んだ。
暗く湿った心も、一瞬で晴れた。
……僕は七海さんに恋してるんだよ。
最悪な出会いをしてしまったけれど、僕の事を七海さんが見付けてくれて、僕も七海さんを見付けたんだよ。
……願ってやまない恋を、七海さんはもう、しているんだよ。
率直にそう言っても、今の七海さんには伝わらない。
そっと表情を伺ってみれば、とても難しい問題を解いている時のように険しくて、分からないの言葉を如実に示すそれが可愛くてたまらなかった。
「僕の事、許せないんですよね。七海さんのために離れたのに、それを捨てられたと思ったんですよね。僕が責任取るって言ったのに、取らなかったから……怒ってるんですよね」
「…………知らない!」
抱き上げて間近に顔を寄せると、七海さんはほっぺたをピンクに染めてプイっとした。
涙は止まったみたいで、良かった。
七海さんは照れて顔を背けたはずが、僕の首にしっかりと回された腕が強がりで…愛おしい。
「七海さんが言ったんですよ。「嫌いだ」って。「顔も見たくない」って。七海さんの真っ白な心と体を、僕が汚してしまったなんて知ったら……離れるしかないじゃないですか。僕は七海さんの事を好きになってしまったから、だからこそ離れなきゃダメだったんですよ」
少しずつ七海さんの誤解を解こうと、僕は穏やかに語り掛けた。
好きになってしまった人を汚したと知った、僕の後悔は底無しだった。
一生この後悔と悔恨の念を抱いて、今まで通り生かされて生きていこうとしていた。
愛想笑いに満ちた、居場所があるようで無い、とても侘しい世界で生きていかなければと思っていた。
毎日七海さんを想う度に、意志とは逆に膨れ上がる恋心に苦しんだ。
これから何年経っても、七海さんへの後悔も、恋心も、消える事はないだろうと、自分の犯した罪に絶望した。
それが今、嫌がられもせず七海さんを抱っこしている。
数時間前の僕はこんな事……想像もしていなかった。
ちょっとでも油断すると、みっともなく舞い上がってしまいそうだ。
「……好き? ……好きなのに離れるって何? それって普通の事なのか?」
僕の方を向いた七海さんは、さっきからずっと難問を解いている顔だ。
「普通じゃないと思いますよ。……七海さんにとって、僕との出会いは最悪だったはずです。僕はあのストーカーと同じになりたくなかった。初恋を夢見ていた七海さんが本気で嫌がってると知って、あれ以上踏み込んだらもっと心を汚してしまうと思ったんです。……捨てたりなんかしませんよ」
「そん、そんな事言って、俺が嫌がってても平気そうだったじゃん! 熱出した俺の前でもずっと、てか初っぱなから強引だったんだから今さらだろ!」
「あの時は七海さんが男遊び真っ最中だと勘違いしていたからです。少しの隙も与えたくなかった。不特定多数のうちの一人は嫌だ、僕の事しか見えなくなればいいのに、と思いながら七海さんの看病をしていました。空回りばかりでしたけど……」
僕が弁解する度に、目の前で七海さんの表情がくるくるとよく変わる。
ムッと怒ったり、ポッと照れたり、意味が分からない、と視線をウロウロさせたり。
──こんなに可愛かったっけ……七海さん。
己の理性の無さと軽はずみな行為によって、僕の心は黒く陰っていた。
汚い僕が、眩しいほどに純粋な七海さんを直視するなんて出来なくて、目を背けてしまっていたけれど……改めて抱っこしていて思う。
この顔も体もそうだけど、声や仕草、怒った時の膨れっ面までこんなにも可愛いって事を、僕は忘れ掛けていたんだ。
3
あなたにおすすめの小説
あなたと過ごせた日々は幸せでした
蒸しケーキ
BL
結婚から五年後、幸せな日々を過ごしていたシューン・トアは、突然義父に「息子と別れてやってくれ」と冷酷に告げられる。そんな言葉にシューンは、何一つ言い返せず、飲み込むしかなかった。そして、夫であるアインス・キールに離婚を切り出すが、アインスがそう簡単にシューンを手離す訳もなく......。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
昔「結婚しよう」と言ってくれた幼馴染は今日、僕以外の人と結婚する
子犬一 はぁて
BL
幼馴染の君は、7歳のとき
「大人になったら結婚してね」と僕に言って笑った。
そして──今日、君は僕じゃない別の人と結婚する。
背の低い、寝る時は親指しゃぶりが癖だった君は、いつの間にか皆に好かれて、彼女もできた。
結婚式で花束を渡す時に胸が痛いんだ。
「こいつ、幼馴染なんだ。センスいいだろ?」
誇らしげに笑う君と、その隣で微笑む綺麗な奥さん。
叶わない恋だってわかってる。
それでも、氷砂糖みたいに君との甘い思い出を、僕だけの宝箱にしまって生きていく。
君の幸せを願うことだけが、僕にできる最後の恋だから。
【完結・BL】俺をフッた初恋相手が、転勤して上司になったんだが?【先輩×後輩】
彩華
BL
『俺、そんな目でお前のこと見れない』
高校一年の冬。俺の初恋は、見事に玉砕した。
その後、俺は見事にDTのまま。あっという間に25になり。何の変化もないまま、ごくごくありふれたサラリーマンになった俺。
そんな俺の前に、運命の悪戯か。再び初恋相手は現れて────!?
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
家を追い出されたのでツバメをやろうとしたら強面の乳兄弟に反対されて困っている
香歌奈
BL
ある日、突然、セレンは生まれ育った伯爵家を追い出された。
異母兄の婚約者に乱暴を働こうとした罪らしいが、全く身に覚えがない。なのに伯爵家当主となっている異母兄は家から締め出したばかりか、ヴァーレン伯爵家の籍まで抹消したと言う。
途方に暮れたセレンは、年の離れた乳兄弟ギーズを頼ることにした。ギーズは顔に大きな傷跡が残る強面の騎士。悪人からは恐れられ、女子供からは怯えられているという。でもセレンにとっては子守をしてくれた優しいお兄さん。ギーズの家に置いてもらう日々は昔のようで居心地がいい。とはいえ、いつまでも養ってもらうわけにはいかない。しかしお坊ちゃん育ちで手に職があるわけでもなく……。
「僕は女性ウケがいい。この顔を生かしてツバメをしようかな」「おい、待て。ツバメの意味がわかっているのか!」美貌の天然青年に振り回される強面騎士は、ついに実力行使に出る?!
「オレの番は、いちばん近くて、いちばん遠いアルファだった」
星井 悠里
BL
大好きだった幼なじみのアルファは、皆の憧れだった。
ベータのオレは、王都に誘ってくれたその手を取れなかった。
番にはなれない未来が、ただ怖かった。隣に立ち続ける自信がなかった。
あれから二年。幼馴染の婚約の噂を聞いて胸が痛むことはあるけれど、
平凡だけどちゃんと働いて、それなりに楽しく生きていた。
そんなオレの体に、ふとした異変が起きはじめた。
――何でいまさら。オメガだった、なんて。
オメガだったら、これからますます頑張ろうとしていた仕事も出来なくなる。
2年前のあの時だったら。あの手を取れたかもしれないのに。
どうして、いまさら。
すれ違った運命に、急展開で振り回される、Ωのお話。
ハピエン確定です。(全10話)
2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。
【完結】伯爵家当主になりますので、お飾りの婚約者の僕は早く捨てて下さいね?
MEIKO
BL
【完結】伯爵家次男のマリンは、公爵家嫡男のミシェルの婚約者として一緒に過ごしているが実際はお飾りの存在だ。そんなマリンは池に落ちたショックで前世は日本人の男子で今この世界が小説の中なんだと気付いた。マズい!このままだとミシェルから婚約破棄されて路頭に迷う未来しか見えない!
僕はそこから前世の特技を活かしてお金を貯め、ミシェルに愛する人が現れるその日に備えだす。2年後、万全の備えと新たな朗報を得た僕は、もう婚約破棄してもらっていいんですけど?ってミシェルに告げる。なのに対象外のはずの僕に未練たらたらなのどうして?
※R対象話には『*』マーク付けます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる