優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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前進 ─和彦─

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 僕が会社を継ぐのは、まだまだ何年も先の事。

 傷付いた過去は、遠い遠い昔の事。

 現在をぼんやりと成り行き任せで生きていた僕には、過去の自分と対峙するなんて考えてもみなかった事だ。

 七海さんと出会ったのは大きな転機だった。

 それが今なら、よく分かる。

 恋をした相手に優しくしたい、大切にしたい、どうすれば笑っていてくれるか、……その事ばかり考えていたけれど分からなくて。

 当たり前に他人と接触して、学ぶべき人間関係構築を学ばなかった事を、初めて後悔した。

 分かるはずがないんだから。

 学生時代でも、僅かながら見てきた社会でも、他人を避けて様々受け取るべき情を遮断してきた僕に、いざ七海さんを愛そうとする事など出来るわけがない。

 見た目の変化で周囲も変化し、戸惑いと不審感を抱いた当時の僕は今より頑なで偏屈だった。

 けれど七海さんはそれを咎めなかった。

 逆に、七海さん自身にも内容は違えど悩んだ経験があると語らせてしまった。

 心ない言葉の刃に傷付いた僕以上に、大変な悩みを抱えてる人が居る。

 今まさにセクハラで悩んでいる松田さんのように、声を上げたくても上げられずに悩んでいる人が大勢居る。

 僕だけじゃない。

 こんなに簡単明瞭な事が、僕だけだと思い込んでいた頃には分からなかったんだ。


「──なぁ、これ見て」
「…………?」


 大学のカフェでひと息ついていた僕らは、対面に配置された固い椅子に腰掛けている。

 中央の小さな丸テーブルには、七海さんのノートパソコンと、ブラックコーヒーの入ったカップが二つ。

 涼しい構内でも、カップの中の氷はたちまち溶けてコーヒーが薄まる。

 それでも余計な甘味を足さない七海さんが、ノートパソコンの画面をくるりと僕の方に向けて見せてきた。


「会社のホームページに掲示板設けてるだろ。めちゃくちゃ分かりにくいとこにリンクあって、社内の人間もそうそう見付けられないやつ。ここに松田さんっぽい匿名の書き込みがあったんだ。えーっと、……日付は今年の二月」
「七海さん……昨日一晩中パソコンとにらめっこしてたのはこれだったんですか?」
「そうだよ、悪いかっ。早く決着付けたいから糸口探してたんだよっ」
「僕との行為を拒んでまで……」
「こっ、行為って……っ、いいから見ろって!」


 怒り出した七海さんは可愛い。

 けれど昨日は真顔で「今日は駄目」と断られてしまい、その気にさせようと体を撫でても軽く手を叩かれて払い除けられた。

 内に眠っていた弱虫の僕と、ほんの少しでも決別出来た素敵な時間を七海さんが作ってくれたんだから、感極まっても致し方ないというのに。

 小悪魔な七海さんに視線をやると、頬をピンクに染めていたからまぁ良しとしよう。

 足を組んで画面に視線を落とし、文章を黙読してみる。

 そこにはこう書いてあった。


『早急にハラスメント対策を』


 何の、とは明確には書いていないけれど、匿名で書き込みをしたこの人物は「早急に」と促している辺り、鬼気迫っている。


「……なるほど。でもこれだけでは松田さんが書き込みしたかどうかは分からないですよ。この人物を特定するにはあらゆる手順を踏まなくてはならなくて、最低でも一ヶ月は待つ羽目になります」
「なんで手順を踏むんだよ。直接聞けば早いじゃん」
「えっ? そんな、……無謀な……」
「俺だって急に「これ松田さんですよね?  セクハラされてるからこんな事書いたんですよね?」なんて聞くわけないだろ」
「えぇ、それは分かっていますけど、七海さん怖いものなしなとこありますから、もしかしてと思って……」
「そこまで俺も阿呆じゃない!」


 だとしたらどんな方法で直接聞き出すの?

 二の句を告げようとした僕の肩に、ずしっと重たい男の手のひらが乗る。

 この馴れ馴れしさと声で、すぐに男が誰だか分かった。


「お、なになに? 喧嘩勃発? 七海、俺んとこくるか?」


 二脚用のテーブル席に、隣から一脚拝借して我が物顔で僕と七海さんの間に座ったのは、追及がすこぶる上手い弁護士志望の九条さんだ。


「九条くん…!」
「こんにちは、可笑しな事を言う九条さん。僕達は昨日も濃密な時間を過ごした間柄ですから、ご心配なく」
「和彦っ、誤解を招くような事言うなよっ」
「本当の事じゃないですか。昨日は心まで繋がったと感じられました。行為そのものよりも濃密な時間でしたよ」
「へー。興味無ぇな」


 はいはい、そうですか。

 僕の渾身の惚気を鼻であしらうなんて、本当にいい性格しているよ。

 これだけ図太い神経の持ち主であれば、昨日七海さんが言っていたごくわずかな特異な人物に入りそうだ。

 九条さんはいつもの如く僕のコーヒーを自分のものにした。

 どうしていつも僕のを取るの、とは思うけれど、七海さんのストローには一切口を付けないから、一応は僕に気を使ってくれているのかもしれない。

 今まで出会った事のないタイプの人だから、九条さんの本音は知らないけれど。


「で、何の話?」
「毎度毎度、僕のコーヒーを奪わないで頂けますか。喉がカラカラなんですけど」
「俺も喉カラカラ」
「……まったく。七海さん、少し待っていてください」
「コーヒー買ってくんの? 一人で行ける?」
「はい。今まで以上に世界が明るいですから、平気です」


 立ち上がった僕を「どこ行くの」って視線で追ってくるの、たまらない。

 人間不信な僕を心配してくれている台詞にも、グッときた。

 コーヒーなんていくらでも九条さんにあげちゃうよ。

 僕は今こんなにも幸せなんだから。




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