優しい狼に初めてを奪われました

須藤慎弥

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前進 ─和彦─

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 舌で小さな突起をちろちろと舐めて楽しんでいると、僕のスラックスのポケットが振動した。

 無視しようとしても、ずっとずっと震えている。出るまで切らないぞ、という意思がその振動から嫌というほど伝わってきた。


「……はぁ、……」


 すごくいい雰囲気の時に限って、邪魔が入るのはよくある事。

 諦めた僕は、溜め息を吐いて七海さんの頬にキスを落とす。

 ポケットからスマホを取り出して画面を確認すると、思っていた通りの名前が表示されて未だ震えていた。

 講義の前に着信を残しておいたから、かけ直してくるのは当然なんだろうけど……もう少し七海さんとの疑似体験を楽しみたかったな。


「……電話……?」
「はい。出ても構いませんか?」
「いいよ! ほら、早く出ろっ」


 追及から逃れられると知った七海さんは、乱れたシャツや髪をササッと直してキラキラと僕を見た。

 ……ホッとしてるのバレバレだよ、七海さん。……可愛いんだから。


「お久しぶりです、お父さん」


 スマホを耳にあてがい、ざっと直された七海さんのふわふわした髪を触る。

 僕の電話の相手に驚いた様子で、触れた髪が緊張し、咄嗟に息を殺したのが分かった。


『あぁ、最近そちらに帰っていなかったからな。元気にしているか? 電話がきていたようだが?』


 ……気のせいかな。繕った父の声が何だか……弾んでいる。


「元気ですよ。お父さんに折り入ってお話がありまして」
『なんだ、改まって。もしや本宅に住まわせているという恋人の話か?』
「違いますよ。……まったくもう……後藤さんが話したの?」


 だから声が明るかったのか。

 僕が七海さんと知り合ってから、後藤さんは完全にお節介な第二の父親となっていて驚く事が多い。

 なんと言ってもこの両親が多大に甘やかした結果、節制なんて言葉を知らなかった幼い僕は「ぷっくり和彦」なんて呼ばれていたんだ。

 大人はまだいい。オブラートに包んでくれていたから。

 けれど子どもはもっとひどい言葉を使って罵ってきた。僕の家柄を理解していたのか、身体的に痛め付けられる事はなかったものの、やわな心にグサグサと刺さった言葉の刃の傷は、この歳になるまで尾を引いた。

 思い出したくなくて今まで元凶には触れなかったが、七海さんには伝えておかなきゃと思ったから勇気を出してアルバムまで見せて包み隠さず話した。

 話す事で本当の意味で視界が拓けた気がするし、肩の荷が下りたような気持ちだから、昨日の告白は僕にとってはとてもとても良い事だったのだけど。

 電話口で陽気に笑う父の事を、会う度憎らしく思うのは僕の心が成長していないから……?


『はっはっはっ、お父さんには筒抜けだよ! いつ話してくれるだろうかと待っていた!』
「残念ながらその件ではありません。紹介するのは問題が片付いてからにしたいんです」
『おぅ、分かった。込み入った話ならば今夜本宅に戻るが』
「……七海さんの事、見たいだけでしょ」
『バレたか! いいじゃないか、紹介してくれよ。何もかも知っているんだから! 何たってお父さんだし?』


 いいじゃ~んって……大企業の社長ともあろう人が。

 僕はこの父と、似たような性格の母とは根本的なところが合わない。

 刃を突き付けられた元凶を作り、「もう幼稚園には行きたくない、嫌だ」とわんわん泣いた僕に向かって、「そんな事で泣いてたらこの先何にも乗り越えられないよ~!」と笑い飛ばした底抜けに明るい両親。

 この人達は僕を理解してくれない。

 泣きながら放った悲痛な叫びをいとも簡単に一蹴された未熟だった僕は、幼くして両親をも遠ざけた。

 会いたくない。理解してくれないならば僕の事は放っておいて。幼稚園に行くのは我慢する。いっぱい傷付いても我慢する。僕のお世話をしてくれる人の手は煩わせないと約束する。だから……僕から離れていて。これ以上傷付きたくない──。

 このお願いは、わりとあっさり聞いてくれた。

 会社ビルとは距離のある本宅よりも、そこから程近い場所に建つマンションの方が働き盛りだった両親の利便も良かったから、当時のお互いの利害が一致したという事だ。

 何だか掴みどころのない明るい父、そしてそれを支える母の前向き過ぎる性格は大人になった今も僕には馴染まない。

 せめて僕の前ではそのテンションは控えめに(傷付いた事を思い出すからだ)、あとを継げと言うなら父としてよりも社長としての姿を見せてほしいと懇願し、父は「分かった!」と頑張って繕っていたのに。

 どこまで七海さんとの事を知っているのか知らないけど、電話の向こうには底抜けに明るい父が我慢出来ずに戻ってきている。


「あの……お父さん、以前から言ってるでしょう。厳格な父で居てください。ここ数年うまく出来ていたじゃないですか」
『和彦に恋人が出来たんだぞ!? あのぷっくり和彦に!お父さんは嬉しくてしょうがな……』
「では今夜」


 嫌で嫌でしょうがないあだ名を、まだ覚えていたらしい。

 その単語が聞こえた瞬間、僕の指先は通話終了の赤い丸をポチッと押していた。

 「大企業の社長憮然とした厳格な父」を、七海さんには紹介したかったんだけどな……この様子ではきっと同じく大興奮の母と共にやって来る。

 社の闇を解決するには父の耳に入れておかなければならない一件なのに、「早急」な解決が遠退きそうで僕はもう一度重たい溜め息を吐いた。




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