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優しい狼

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 高級ホテルの独特な呼び出しベルが、二回空振った。

 居留守を使う気かよ、居るのは分かってんだからな! と、どこぞの刑事ドラマみたいな事を思いながら、従業員になりきった俺はあとには引けずにコンコンとノックをしてみる。


「……誰だ?」


 すると中から不機嫌丸出しの声で応答があった。この声は占部のお父さんだ。

 俺はすかさず、小さく咳払いをして生まれて始めて裏声を出した。


「支配人の桐山より、全お客様へコーヒーのサービスをとの事で参りました」


 こんな声だと男だとバレるんじゃないかって不安よりも、自分から出てる声の気持ち悪さが勝って鳥肌が立った。

 この潜入が、うまくいくかどうかなんて分かんない。

 こんな事までして、椛島常務との密会が取り越し苦労だったというならそれでもいい。

 ただし、潜入自体は意味のある事だ。  「種を蒔いた」と自ら語った悪人には、誰に何を咎める事も出来ない。


「結構だ」


 やっぱそうきたか。

 和彦と九条君が予想していた通りきっぱり断られたけど、ここまできて(こんな格好して)俺も引き下がれない。


「申し訳ありません、伝言もございまして」 
「……伝言?」
「はい。伝言をお伝えして、コーヒーをご準備させて頂きましたら、すぐに退室いたします」


 ほんとはそんなの無いけど、こう言えば確実に潜入出来ると九条君が自信を持ってたから、その通りの台詞をドアに向かって言ってみる。

 数秒無言の時があって、カチャ、と解錠音がした。俺はチラと九条君を見て小さく頷く。


「……入れ」


 ……ほんとだ。入る事を許された。

 途端に鼓動が早くなる。

 俺がここで下手を打つと、何もかもバレて和彦と友彦お父さんの立場どころか会社自体も危うくなるかもしれない。

 俺のために変わろうとしている和彦の力になりたいのに、こんな即席の潜入じゃ失敗するんじゃないかって今さらながら心臓が嫌な具合にバクバクしてきた。

 サービスワゴンを持つ手が震えてくる。

 ──いやいや……この期に及んで、不安だとか、緊張するとか、バレたらどうしようとか、考えてる暇なんかない。

 踵の低いパンプスで良かった。あんまり大きくない俺の足に、もう馴染んできた。

 やるしかないだろ、俺。

 ──そうだ。

 この一週間、ひたすらパソコンに向かってデータ処理していた和彦の横顔を見ながら、俺は思ってたんだ。

 俺は、芝浦七海は、和彦にこの悪事と立ち向かわせるために出会ったのかもしれないって。

 長年心が折れていた和彦の弱さに漬け込んで、地道に悪の種を蒔き続けた親子など許せるはずない。

 世襲など御免だと言っていた和彦の根本を覆らせるために、俺に起こったすべてが、出会ったあの時からすでに真っ直ぐな道筋となっていた。

 現在進行系でドラマみたいな事が立て続けに起こっている、リアルだとちょっとハードめな経験を味わわせてくれた、佐倉和彦と出会うためのすべて。

 変わり始めた和彦は、まるで優しいのに優しく出来ないと言い張る、脆い孤高の狼だ。

 強引でマイペースなくせに優しく微笑む甘い顔立ちの裏には、傷付きやすい愛しいほどの脆弱な心がある。

 そんな和彦を愛せるのは、俺だけ。

 愛してもらえるのも、俺だけ。


「……失礼いたします」


 意を決した俺は、扉を開けてワゴンを押しながら部屋の中へと入った。

 するとすぐそこにスーツ姿の占部のお父さんがいて、バチッと目が合う。……っバ、バレた──?


「ほう、いい女だな」
「…………」


 ジッと見詰めてくるからヤバイかもと焦ってたのに、占部のお父さんは拍子抜けなほど変態オヤジだった。

 不躾に上から下まで舐めるようにジロジロと見られて、今すぐにでもぶん殴ってやりたい衝動をググッとこらえる。

 俺が着替えた部屋と室内はそれほど変わらない様子で、シングルベッドが一つと一人がけソファが一つ、窓際にある小さな丸テーブルの上にはノートパソコンが置いてあった。

 ──あれ……? あいつは?

 気持ち悪い視線から逃れるように奥まで進むが、ついさっきこの部屋に入ったはずの椛島常務の姿がない。

 狭いシングルルームだから見回さなくてもすぐに気付く。……トイレかバスルームに隠れてんだ。


「コーヒーのお好みはございますか」
「あぁ、ミルクも砂糖もいらない」
「承知いたしました」


 どうして椛島常務が隠れる必要があるんだよ。絶対に何かヤバイ談合が行われていたに違いないじゃん。

 俺はコーヒーを淹れながら、何となしにポケットを気にする。

 それは、九条君から持たされたもう一つの潜入グッズ。


「それで、伝言とは何かね。桐山からか?」
「いえ違います、フロントからでございます。こちらのお部屋にご宿泊の予定でしたら、不都合をお掛けする可能性があるのでお部屋を移動して頂けないか、と」
「泊まる気ではないが……不都合とは?」
「シャワーの調子が良くないそうです。シャワーヘッド交換業務前にお客様にお部屋を提供してしまいました。こちらの不手際です、大変申し訳ございません。移動の際はグレードアップしたお部屋を提供させて頂きます」
「それはいい話を聞いたな。この後少し外出するが、宿泊させてもらおうかな」


 えぇ、ぜひ、と作り笑いする。……って、知らなかった。  俺って土壇場になるとこんなに嘘がポロポロと言えんのか。

 和彦や九条君には嘘が吐けないと思われてるけど、占部のお父さんは俺のでっち上げの話に乗り気だ。

 嘘つきな俺はコーヒーを一つだけカップに注ぎ、丸テーブルに置く。

 ちょうどその時、絶妙のタイミングで九条君が外からこの部屋の扉をノックをした。

 占部のお父さんの意識がそちらに逸れたのを見計らい、俺はあるものをテレビのリモコンとすり替えて何食わぬ顔でサービスワゴンを引いた。



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