【完結】真心スイーツとは、あなたの『痛み』が代金です

櫛田こころ

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第25話 腱鞘炎にガトーショコラ①

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 好物を目の前にすると、ほかのことがどうでもよくなるという言葉は正しいのかもしれない。

 小枝子は手首の痛みを忘れたくなるくらい、目の前の美味しそうなガトーショコラを食べたくて仕方がなかった。

 カチカチに焼いたものではなく、少しタルティーヌエショコラのような触感にも見える出来栄え。添えてあるふわふわのホイップクリーム。砕いた胡桃すらも食欲をそそる材料にしかなり得ない。利き手が痛くて仕方がない今も、フォークを手にするのを止められなかった。

 注文したかどうかもあやふやなのに、にこにこのパティシエからは『代金はいただきましたので』と言われたから……このケーキは、小枝子が食べていいのだとはしゃぎそうになってしまう。

 主婦二年目なのに、まだまだ若い娘から性格が変えられないのは仕方がない。小枝子はまだ、二十代も半ばの若い女子でしかないのだから。でも、年上の男性の前でお行儀の悪い姿は見せなくないので、痛みをこらえながらもゆっくりとフォークに手を添えた。



 *・*・*




 深山小枝子。二十五歳。二年前に寿退社して、主婦になって二年目の若い女だ。子どもはまだ身ごもっていないが、旦那とはそれなりに楽しく生活している。

 せっかく内定も頑張っての就職先だったが、早く結婚して子どもを授かる方が身のためだと自分なりに決意しての退社。旦那も似た考えを持っていたからか特に反対せず、結婚式こそはしなかったが国内でのハネムーンでは大盤振る舞いをしてくれるほどの良夫。

 お互い、貯金はしていても子どもや老後のためを思うとあまり散財したくない考えの持ち主だったからだ。

 ただひとつ、食事だけは少しの贅沢をしようと旦那の給料日には外食をする楽しみは設けてくれた。その楽しみを糧に、出来るだけ家事も頑張ろうと意気込んだが……二年目にして、少しやり過ぎたと自覚することが起きた。


「あ~……いたたた」


 無理のし過ぎだと医者に診断されたが、整形外科に行くくらい手首を痛めてしまった。診断名は『腱鞘炎』。しかも、手首だけでなく肘から生じた慢性手前だと言われるほどのものだ。

 それなりに家の掃除などに打ち込むのはよかったものの、同じやり方で二年近くもやり過ぎになれば体の筋を痛めるのも当然。しばらくは安静にと言われ、テーピングの方法を教わるくらいの悪化に落胆するしかなかった。


(こういう時どうしよう。料理も掃除もあんまり出来ないし、旦那からも『無理しなくていい』と言われたら……しばらく、レンチンご飯? 出費がかさむけど……)


 ふらふら歩きながら、そんなことを考えていたら耳に届いたのは夏の名残かと思うくらいの……きれいな、ドアベルの音だった。


 チリン……リン。


 適当に歩いていたので、どの角を曲がったか覚えていないが。可愛らしいドアベルの横には『ル・フェーヴ』というフランス語かイタリア語かわからない看板が掛けられていた。大きな窓ガラス以外、白をベースにすっきりしつつも可愛らしいフォルムを残した建物。

 そっと、窓ガラスから覗いてみれば洋菓子店らしいガラスのショーケースに会計カウンター。窓際には待合かイートイン用テーブルセットがひと組。いわゆる、隠れ家風の洋菓子店だろうか。甘いものには目がない小枝子には、気分を切り替えるのにとてもいい出会いだと思えた。


(手は痛いけど……持ち帰るくらいなら、軽いわよね?)


 ひとりで食べるよりも、旦那といっしょがいい。そんな気持ちで、痛みのない反対の手でドアをゆっくり開ければ、ドアベルはさっき以上に大きな音を立ててくれたような気がした。


「いらっしゃいませ」


 店員がもう居たのか、中に入れば奥に背の低い女性の店員がちょこんと待機していた。小枝子も背は高い方ではないが、それよりも低い女性に出会うのはいつ以来だろう。

 さておき、ショーケースを覗き込めば……想像以上に美しい洋菓子と少しの和菓子の並びに、思わず『わぁ』と声を上げてしまった。


「綺麗! 可愛いのもいっぱい!!」


 見本用にしても種類が多い。

 ひとつひとつ、細やかな細工が乙女心とやらを引き寄せてしまうような……美しくも美味しそうなお菓子たちだ。これはそれ相応の値段を覚悟しなければならないだろうが、値札がないし壁にメニュー表もない。口頭で教わるシステムなのかと店員の方を向くと、こちらの様子をうかがっていたはずの人数が増えていた。

 白いコックコートを着た、旦那より年上の男性らしいパティシエがにこやかな笑顔で立っていたからだ。それだけ、夢中になってショーケースを見ていたのが少し恥ずかしく思う。


「いらっしゃい。ご注文ありがとうございます」


 ただ、小枝子が聞こうとしていたとは別の言葉に変な声が出そうになった。

 注文をしようとしていたのは本当だが、小枝子はまだ何もふたりに質問すらしていない。それなのに、どうぞとパティシエはテーブルセットの椅子に座るように言い、店員には準備を頼むような指示を出していた。

 訳が分からないが、ここで食べて行けというにしては丁寧な対応だ。詐欺商法にしても、少しおかしい。言われるままに座るも、手の角度を気にしつつ荷物をパティシエが寄せてくれた収納バックに入れた。ゆっくり動かしてもまだ痛いが、こればかりは仕方がないと言えよう。

 とりあえず、座り直してから質問してみることにした。


「あの。まだ何も注文してないんですけど……」
「いえいえ。お姉さんは、この店に来た時点で注文をされたんですよ」
「……あの。詐欺ですか?」
「そんなつもりは全然。うちのショーケースの中をめちゃくちゃ褒めてくれたじゃないですか? それなら、あのケーキが一等好きなんじゃないかなって」
「え?」


 詐欺でもない。けど、こちらの言いたいことがわかるなんて、昔で言うメンタリストかなにかなのだろうか。それなら、まだこちらが驚くのも納得のいく理由だが。ほけっとしていると、店員がケーキセットとして用意してくれた注文の品を持って来てくれた。


「お待たせいたしました。神経痛予防のガトーショコラです」
「え?」


 さすがにネーミングセンスには呆けた声を出してしまったが、出されたケーキセットのすばらしさを見ると、写メに撮りたいくらいの美しい出来栄えに別の声を上げたくなった。


「代金は既に頂戴しているので、遠慮なくどうぞ」
「……お支払い済み?」
「あとで請求なんてしないので、食べていいですよ?」
「……うーん」


 しかし、チョコ系のケーキは小枝子の大好物なのでこれを機に逃すのは非常にもったいない。

 なので、利き手を注意しつつも……フォークにそっと手を添えて気を付けながら切り込みを入れるのだった。
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