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第36話 初めての吸血行為

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 二人部屋でよかった!

 と思ったのは、その日の夕方である。
 ミカエルたちが宿を探してくれて、ナグルでも評判のいいところに案内されたわけだが。ここでも、宿泊代はミカエルが払うと言って押し切られることになった。
 このままだとずっと奢られることになりそうなので、早く呪いを解いて逃げるべきだな、とも思いながら、下着類をベッドの上に放り出した辺りからヤバいことになったわけだ。

 主に、空腹で。

「大丈夫かにゃ? 顔色悪いけど」
 と、カオルが俺の顔を覗き込んできて、ちょっとだけ泣きそうになりつつ首を横に振る。
「無理。ヤバい。吸血鬼ってこんなに苦労するのか……」
 貧血で頭がぐらぐらし始め、俺の視線がカオルの喉へと向かう。
 運よく、サクラも一人部屋の方を見に行っていて、この部屋には俺とカオルだけである。正直、俺の身体がどうなるのか解らないのに、サクラに見られたくなかった。絶対、後でからかわれるだろうし、うるさいだろう。
「ごめん、俺……」
 どんどん荒くなる呼吸を必死にこらえつつも、何とか部屋の鍵をかける。とりあえず、鍵さえかかっていればサクラも空気を読んで入ってこないはずだ。多分。
「何か俺、猫獣人でよかったと思う」
 さすがのカオルも、俺の様子を見て困惑気味だった。頭を掻きつつ、彼は俺の腕を取ってベッドまで引っ張っていく。

 相手がカオルじゃなければ、すげえ萌えるシチュエーションなのかもしれない。でも実際にこうなってみると、罪悪感が凄い。しかし、絶対に妹であるサクラにはやりたくない。これも複雑だ。
 もう本当、泣きたい。
「俺、痛みの耐性あるし、大丈夫だから」
 カオルが何とも微妙なことを言って、俺の罪悪感を弱めるためなのか、強気に笑う。
 すみません。本当、すみません。
 そんなことを頭のどこかで呟きながら、俺はカオルの首に牙を突き立てたのだった。

「やっべー……」
「マジヤバい……」
 結論として、初めての吸血行為というのは新しい扉を開けてしまったような気がした。
 喉の奥に流れ込んできた血は、今まで飲んできたどんなものよりも甘く、まるで酒に酔うかのごとく、酩酊感を与えてくれた。それでいて、意識が急にはっきりして、辺りの空気の流れすら読み取れるほど、感覚が明敏になる。神経そのものが、幸せを感じているというのはこういうことだ、と思わせてくれた。
 カオルもまた、俺に血を吸われている間は――マタタビに酔っぱらった猫のように喉がごろごろ鳴っていたし、とんでもないことを口走っていた。彼の名誉のために、その言葉は忘れておくことにするけれども、もしかしたら俺よりもずっとこの行為に溺れているようだった。

 そういうわけで。
 語彙力が低下した状況で、ベッドに倒れこんでいる現状である。

「ちょっとー」
 ドアの向こう側で、サクラがドアをどんどん叩いている気配がするが、どうでもいいや、と放置する。
 ベッドの上で寝転がった状態で、何か俺、今だったら空まで飛べそうとか考える。そのくらい、とんでもない経験だった。
 横に転がっているカオルは、もうすでに首筋にできた傷は塞がっていたし、白くなっていた顔色も元通りだ。治癒能力が高いのはありがたいな、と思いながら、「大丈夫か?」と訊くと「大丈夫」と返ってくる。
「むしろ、もう一回お願いしたいくらい、ヤバい」
 カオルはここ最近の作った笑顔ではなく、素の表情だ。男っぽい仕草で身体を起こし、ベッドの上で胡坐をかいて俺を見下ろした。
「それより、昼間の……アキラはどう思ってんの?」
「昼間?」
 俺もそこで起き上がり、頭を掻いた。カオルが言っているのは、セシリアのことだと解っている。向こうはある程度、事情を教えてくれた。でも俺たちは、こちらの手の内を見せたわけじゃない。セシリアは俺たちがただの人間ではないということを理解しているし、だからこそ完全に信用したわけじゃないだろう。ただ、息子であるミカエルが俺に興味を持っているから、少し様子見、といった感じだ。
「深入りしたくなければ、呪いを解くのは無理でしたーって逃げてもいいんじゃない?」
 カオルはそう言って笑う。「だって、アキラのアバターって俺から見ても可愛いもん。付き合いが長くなれば、あの王子様だってもっと執着してくるかもしんないじゃん」
「怖いこと言うなあ」
 俺はそう苦笑してから、カオルと同じように胡坐をかいた。こうしていると、アバターは女だけど中身は男だ、と主張している気分になれる。俺の場合はパンツが丸見えだろうけど、ここには二人しかいないから気にする必要もない。

 と、思っていたら魔人が窓の外から覗いてました。外はまだ明るいからいいけど、これが夜だったらちょっとしたホラーだぞ、我が妹よ。それとも、イケメンなら許される行為なのか、覗きというものは。

「ちょっと! 無視しないでよ!」
 騒々しいから仕方なく窓を開けると、サクラがじっとりとした目つきで俺を睨みながら部屋の中に入ってきた。ちなみに俺たちの部屋は三階にある。まあ、三段ジャンプができる魔人アバターにとっては何の意味もないのだろうが、誰かに見られたらどうするつもりなんだ。
「何で鍵を閉めてんの? 何してたの?」
「エッチなことだよ」
 俺がそう言うと、サクラがぽかんと口を開けたまま固まった。

「スクショ機能がないのに!?」

 どういう理屈だよ。

 俺はサクラを呆れたように見つめたものの、とりあえず合法的かどうか解らない献血のことを説明しておく。
 そうしたら、余計にキレられた。
「スクショ機能が実装されてないって言ってんじゃん!」
 いいからお前は黙っていた方がいい。見たかったとか言わなくていいから、とりあえず静かにしておいてくれ、と切実に願う俺である。

「でもまあ、これでカオルと別行動するとヤバいんじゃないかって思えた」
 サクラが精神的に落ち着くのを待ち、下着の散らばったベッドに腰を下ろして俺は口を開く。「空腹が我慢できなくなって、その時に他の人間が傍にいたら、間違いなく襲う気がする。そうしたら、俺が人間ではないことがバレるだろうし、魔物扱いされて追われる身になるかもしれない」
「確かにそうだね」
 サクラはいつの間にか、カオルを自分の膝の上に乗せて抱きしめる格好でベッドに腰を下ろしている。カオルも困惑した様子でサクラを見上げるが、諦めてため息をつき、俺に視線を戻して訊いてくる。
「でさ、さっきの話の続きだけど。王子様はどうすんの?」
「んー」
 俺は少しだけ考えこんだ後、恐る恐る言ってみる。「ちょっとさ、今夜あたり大天使と話をしてみようと思ってるんだよ。手の内を全部見せるつもりはないけど、セシリアさんにあれだけ見抜かれていれば、どのみち説明しなきゃならないと思うし。俺たちが普通の人間じゃないってことと、魔物を倒す旅をしなきゃいけないってことを、上手く説明してみる」
「黒フードの男のことはどうすんの?」
 カオルがサクラの膝の上で、足をぶらぶらさせつつ唇を尖らせる。「そいつも俺たちの『お仲間』であるらしいってことは言うつもり?」
「……それは悩んでる。会話の流れ次第かな。それと、上手く今後は別行動に持っていきたい。セシリアさんの精霊魔法ってのは便利だけど、それに頼らなくても俺たちはどこにでもいける。自由な方が便利だし、それに、死に戻りできない普通の人間が俺たちの魔物討伐に関わるのは危険すぎる。蘇生薬を使いまくるのも怖いし」
「それはそうだけど、あの王子様が諦めるとは思えないな」
 サクラがそう言いながら鼻を鳴らした後、ふと楽しそうに笑った。「お兄ちゃんが人間じゃないって解っても、我が女神! とか叫びながら後を付けてきそう」
「おいやめろ、そういうのフラグって言うんだぞ?」
「まあ、お手並み拝見といくけどね」
 サクラのその意味深な笑みにげんなりしつつも、やっぱりフラグだったんじゃないかと叫びそうになるのはその夜のこと。

 宿での夕食の場で、俺はミカエルに話があるから時間が欲しい、と告げた。
「デート? ナグルの街の中央広場、噴水が綺麗らしいわよ。恋人同士がそこで逢引きするのが流行ってるんですって」
 そんなセシリアの言葉に、ミカエルが輝くような笑顔と共に頷くのを見て、どうしたものかと俺は頭を抱える。
 アルトは護衛が必要かとミカエルに訊いたが、ミカエルが返事をする前にセシリアに「邪魔しないであげて」と頬を引っ張られている。
 まあ俺も、ちょっと真面目な内容になるだろうし、話すならミカエルと二人きりの方がいいだろうとは思う。
 それに、サクラにも「カオル君とゆっくりしたいから、できるだけ長話してきて」とか言われて、さらに複雑だった。何をするつもりなんだろう、この妹は。

 しかし。
 こんなにも気の乗らない散歩は初めてだ。そう、これは散歩である。デートではない。そうだ、絶対にデートではないのだ。
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