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第35話 幕間6 香坂大介
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そうだ。
――俺は……。
曖昧に続くだけの世界、時間の経過すら無意味でしかない場所。見渡す限りの草原と奇妙な扉。そんなところに放り出された俺は、ただぼんやりと立ち尽くすだけだった。
俺は死んだのか、それともこれは単なる夢なのか。
死んだ記憶はない。それに、自分が誰だったのかも解らない。
それに重要なのは、思い出したくもない、ということだ。
妙に疲れを感じていて、何も考えたくないというか――ずっとこのまま、平穏な空間の中にいてもいいんじゃないかと頭のどこかが告げていた。
しかし、ある変化に出会った。
それが静香という幼女だ。外国人にしか見えない整った風貌と、頭に生えた二本の角。さすが夢の世界だ、と最初は思った。
それでも、彼女との僅かな会話の時間は俺にとって楽しいものだった。
そんな中、唐突に思い出したのは前世の記憶の断片。何気ない生活の一部。俺の名前、俺の仕事。
そしてふと我に返ると、さっきまで小さな家の中にいたはずの静香ちゃんは、すでに姿を消していた。
彼女はいつもこうやって、唐突にきて唐突に消える。
「自分の名前、伝えられなかったな」
俺は思わず、台所に立ち尽くしたままそう呟いていた。
そう、香坂大介。やっと思い出した自分の名前だ。
――あれはいつのことだっただろうか。
俺がタイムカードを押して、荷物をまとめてバックヤードから出た時のことだ。俺を待っていたらしい人影が小声で声をかけてくる。
「香坂さん! 早番ですよね?」
その声の主は同じ職場の後輩である榎本祐樹だった。まだ入社して一年。女性が多いこの職場での、貴重とも言える男の新人。
「ああ、そうだけど。今日は榎本、休みだったよな?」
俺が困惑してそう言葉を返すと、彼は頭を掻きながら視線を辺りに彷徨わせた。そして、思い切ったように俺に間合いを詰めてこう言った。
「すいません、ちょっと今日、社長に退職届を出してきたんで。その報告と言うか、まずはご挨拶というか。ほら、少ないながらも有休消化に入るんで、香坂さんとちゃんと話せないなって思ったし」
「……ああ、そうか」
――やっぱり、こうなったか。
俺はそっと苦笑すると、納得したという意味で頷いた。
俺の職場は書店である。
社長がこだわって作ったちょっと高級感のある内装。ずらりと並んだ本棚に並ぶのは、どちらかというと大人が読むようなものが多い。ビジネス書や専門書がかなりのスペースを取っている。
駅の構内にある書店ということもあってそれなりに広さはあったが、並んでいる本の量の多さに対して狭さを感じさせるのは、通路が細いのが原因かもしれない。
「ちょっとお茶でも飲んでくか」
さすがにこんな場所で立ち話もなんだからとそう言うと、榎本も頷いて見せる。
「すいません。仕事終わったばかりなのに」
「いいよ。俺はいつも暇だし」
「彼女とかいないんすか」
「いないから誰か紹介してくれと言いたい」
「俺も募集中っす」
「残念」
そんな冗談めかした会話を交わすのは、お互いの間に流れる空気を軽くするためだ。
俺は午後七時までの早番勤務を終えて、他のスタッフに任せて帰宅するところだった。アパートで一人暮らしだから、帰宅がどんなに遅れても気にする相手もいない。
だから、俺は駅の構内にあるコーヒーショップに立ち寄り、そこで榎本と話をすることにした。騒々しい場所であったけれど、逆にそれが周りを気にせず話せるのがありがたい。
「社長、ちゃんと聞いてくれたか?」
席についてコーヒーを啜りながらそう訊くと、榎本は困ったように笑う。それが答えだろう。
「……引き留められましたけどね。どこも不景気だから、やめても次を探すのは難しいだろうって。だからこのまま頑張れって。でも俺、やっぱり……」
「だよな」
俺はただの平社員の一人で、店長は別にいる。
でも、俺は新人教育として榎本を任されていたから、仕事を教えるついでに彼と色々と話をしていたし、仲良くなっていた。
だから榎本も悩みを話しやすかったのだろう。今の会社に対する不満を吐き出すには、同じように不満を持つ俺に話すのが一番気楽だったはずだ。
辞める理由はブラックだから、と言ってしまえば簡単に説明は終わる。
正直なところ、書店の給料は驚くほど安い。残業があれば少しは手取りが増えるが、できるだけ残業はするなと言われている。
ボーナスなんて減る一方で、少額でも出るだけ感謝しろと言われるくらいのもの。こんな様子では、毎月の給料の手取りが増えることも全く予想できない。
書店業界はこんなものだ、と随分前に上司から言われた。
それでも俺がここで働いてきたのはただ本が好きだったからだ。一か月に読む本は十冊以上あったし、面白い作品に出会ったら誰かに薦めるのも好きだった。
だから天職だと思ったのだ。自分が書いたPOPで興味を惹かれて本を手に取ってくれるお客さんがいれば、それだけで嬉しかった。
それにいつか、店長とか役職についたら給料も上がると思ってたし。
まあ、その店長クラスの人間が「これじゃ生活できない」と言って次々に転職していくのを見たら、自分の考えが甘かったということに気づいたが。
「香坂さんはどうなんです? 辞めないんですか?」
榎本が気遣うような口調でそう訊いてくるから、俺はできるだけ明るく笑う。
「最終的には辞めると思うよ。書店から事務機部へ移動しないかって言われてるし」
「あー、俺も言われたっす。でも、そっちでもボーナスなしなんですよね」
「だよな」
最近、俺は書店から事務機部へ移動してくれないかと声をかけられている。
そちらも人員を削りすぎたせいで営業の人間が足りなくなったようで、コピー機のリースだったり机や椅子、キャビネットなどをどこかの会社に納品したりする、男性の手が必要なんだという。
経費削減のため業者を頼むのではなく、どんなに大きな荷物であってもうちの人員でトラックに積み込んで納品するんだとか。
まあ、ハードだけど大した給料は出せない、と正直に言った社長を褒めるべきだろうか。
不景気だからボーナスも我慢してくれ、と続けて言われたが、嘘をつかれるよりはずっとマシだ。
書店勤務だったら安月給でも我慢できたと思う。
でも、肉体労働が主になるのであれば、もう少し給料のいいところに転職したくなるのは当然のこと。
「俺も潮時かな」
俺がそう言いながら笑うと、榎本も頷いた。
「そうっすよー。今のままじゃ、結婚なんて夢のまた夢じゃないですか」
「だよな」
結婚そのものに夢を抱いたことはないが、いつかは俺も家庭を持つこともあるだろう、と何となく思っている。
しかし、今の給料では家を買うどころか子供を作ることすら無理だ。
俺たちはどちらからともなくため息をつき、また明日、と言ってそこで別れた。
俺はコーヒーショップを出て、ただ何となく駅の構内を歩いた。まだ夜の早い時間だから色々な店が開いているし、それを見ながら歩くのは……普通なら楽しいと感じたはずだ。
どうも気分が落ち込んでいるのか、退屈に感じただけだった。
最近、俺の精神状況も危ういのかもしれないと思い始めている。何を見ても楽しくないし、あれほど好きだった読書もする気になれない。
給料が安くても楽しい職場、なんて思っていたから余計に、ここ最近の社長のやり方があまりにもワンマンすぎてついていけず、落胆している。
諦めてしまえばいい。
でも諦めきれない。
今の職場を辞めるには、あと少しの勇気が足りなかった。
「あれ、先生?」
そんな声がすぐ近くで聞こえて、思わず自分のことではないと解っていながらも振り返ったのは、声が若い女の子だったからだろうか。
「先生じゃないってば。受付のおねーさん」
そう他の声が返すのも聞こえてきて、ほらやっぱり、と思う。
可愛らしい雑貨屋の店の前で、制服を着た中学生らしき女の子と、事務員といった感じの服装の若い女性が話をしているところが視界に入る。
「先生の方が呼び方が簡単だし」
そう言いながら笑う女子中学生は、とても可愛らしい顔立ちをしていたが……どこか、元気なさそうにも見えた。きっと、事務員の女性も同じように感じたのだろう、首を傾げる。
「どうしたの、ケイちゃん。学校で何かあった?」
「んー、学校では何もない」
「じゃあ、家?」
「うー……」
曖昧に濁す口調から、事務員は察したようだ。
「なあに? またお母さんが練習のことで何か言ってるの?」
二人はどんな関係なのだろうか、と少しだけ興味がわいた。
元々、俺は推理小説を好んで読むせいか、人間観察も好きなのだ。言葉の端々から彼女たちがどんな関係なのか探ってみるのも面白い。
「うーん……。まあ、コンクールが近いしね。練習しろってうるさいのは確かだよ」
女の子が事務員から目をそらし、店先に並んでいた小さなバッグを手に取った。これ可愛い、と口にしているものの、あまりその声に熱がこもっていないのも解る。
「ケイちゃん、去年は銅賞だったよね。お母さんはもっと上を狙って欲しいんじゃない?」
気遣うような事務員の声はとても優しいし、親しみを感じさせる。だからその女の子も、気軽に返すのだろう。
「まあ、わたしも上を狙えるなら狙いたいよ? でも……さ? 最近、お母さんがわたしのためにピアノを買うんだってパートを始めてさ。お父さんとケンカしたんだ」
「え?」
「お父さんに相談しないで、勝手に始めたからさ。それに、どうせ買うならグランドピアノ、とか言い出しちゃって、パートっていっても凄く長い勤務らしいの。お父さん、お母さんが家の外に出るのは嫌うタイプだし」
「ありゃあ」
事務員が困ったように眉根を寄せ、ぶつぶつと何事か呟く。
コンクールで上位を狙うなら、グランドピアノは確かに必須になるけど、とか。でも相談なしか、なんて言葉も聞こえてくる。
なるほど。
ピアノのコンクールで上位を目指させようとする母親、その娘、怒る父親、という構図。そして事務員は――学校かピアノ教室の受付スタッフ、という感じだろうか。受付のお姉さん、と自分で言っていたと思う。
「最近、二人のケンカが多すぎて、あまり家に帰りたくないんだよね」
少女が手に取ったバッグをそっと陳列台に戻し、所在なげに辺りを見回すと、事務員も困ったように笑う。そんな彼女の手が優しく少女の頭を撫でると、女子中学生の表情が和らいだ気がした。
そして俺は何故か、その事務員の表情に視線を奪われたままじっとそこに立っていたのだ。
――俺は……。
曖昧に続くだけの世界、時間の経過すら無意味でしかない場所。見渡す限りの草原と奇妙な扉。そんなところに放り出された俺は、ただぼんやりと立ち尽くすだけだった。
俺は死んだのか、それともこれは単なる夢なのか。
死んだ記憶はない。それに、自分が誰だったのかも解らない。
それに重要なのは、思い出したくもない、ということだ。
妙に疲れを感じていて、何も考えたくないというか――ずっとこのまま、平穏な空間の中にいてもいいんじゃないかと頭のどこかが告げていた。
しかし、ある変化に出会った。
それが静香という幼女だ。外国人にしか見えない整った風貌と、頭に生えた二本の角。さすが夢の世界だ、と最初は思った。
それでも、彼女との僅かな会話の時間は俺にとって楽しいものだった。
そんな中、唐突に思い出したのは前世の記憶の断片。何気ない生活の一部。俺の名前、俺の仕事。
そしてふと我に返ると、さっきまで小さな家の中にいたはずの静香ちゃんは、すでに姿を消していた。
彼女はいつもこうやって、唐突にきて唐突に消える。
「自分の名前、伝えられなかったな」
俺は思わず、台所に立ち尽くしたままそう呟いていた。
そう、香坂大介。やっと思い出した自分の名前だ。
――あれはいつのことだっただろうか。
俺がタイムカードを押して、荷物をまとめてバックヤードから出た時のことだ。俺を待っていたらしい人影が小声で声をかけてくる。
「香坂さん! 早番ですよね?」
その声の主は同じ職場の後輩である榎本祐樹だった。まだ入社して一年。女性が多いこの職場での、貴重とも言える男の新人。
「ああ、そうだけど。今日は榎本、休みだったよな?」
俺が困惑してそう言葉を返すと、彼は頭を掻きながら視線を辺りに彷徨わせた。そして、思い切ったように俺に間合いを詰めてこう言った。
「すいません、ちょっと今日、社長に退職届を出してきたんで。その報告と言うか、まずはご挨拶というか。ほら、少ないながらも有休消化に入るんで、香坂さんとちゃんと話せないなって思ったし」
「……ああ、そうか」
――やっぱり、こうなったか。
俺はそっと苦笑すると、納得したという意味で頷いた。
俺の職場は書店である。
社長がこだわって作ったちょっと高級感のある内装。ずらりと並んだ本棚に並ぶのは、どちらかというと大人が読むようなものが多い。ビジネス書や専門書がかなりのスペースを取っている。
駅の構内にある書店ということもあってそれなりに広さはあったが、並んでいる本の量の多さに対して狭さを感じさせるのは、通路が細いのが原因かもしれない。
「ちょっとお茶でも飲んでくか」
さすがにこんな場所で立ち話もなんだからとそう言うと、榎本も頷いて見せる。
「すいません。仕事終わったばかりなのに」
「いいよ。俺はいつも暇だし」
「彼女とかいないんすか」
「いないから誰か紹介してくれと言いたい」
「俺も募集中っす」
「残念」
そんな冗談めかした会話を交わすのは、お互いの間に流れる空気を軽くするためだ。
俺は午後七時までの早番勤務を終えて、他のスタッフに任せて帰宅するところだった。アパートで一人暮らしだから、帰宅がどんなに遅れても気にする相手もいない。
だから、俺は駅の構内にあるコーヒーショップに立ち寄り、そこで榎本と話をすることにした。騒々しい場所であったけれど、逆にそれが周りを気にせず話せるのがありがたい。
「社長、ちゃんと聞いてくれたか?」
席についてコーヒーを啜りながらそう訊くと、榎本は困ったように笑う。それが答えだろう。
「……引き留められましたけどね。どこも不景気だから、やめても次を探すのは難しいだろうって。だからこのまま頑張れって。でも俺、やっぱり……」
「だよな」
俺はただの平社員の一人で、店長は別にいる。
でも、俺は新人教育として榎本を任されていたから、仕事を教えるついでに彼と色々と話をしていたし、仲良くなっていた。
だから榎本も悩みを話しやすかったのだろう。今の会社に対する不満を吐き出すには、同じように不満を持つ俺に話すのが一番気楽だったはずだ。
辞める理由はブラックだから、と言ってしまえば簡単に説明は終わる。
正直なところ、書店の給料は驚くほど安い。残業があれば少しは手取りが増えるが、できるだけ残業はするなと言われている。
ボーナスなんて減る一方で、少額でも出るだけ感謝しろと言われるくらいのもの。こんな様子では、毎月の給料の手取りが増えることも全く予想できない。
書店業界はこんなものだ、と随分前に上司から言われた。
それでも俺がここで働いてきたのはただ本が好きだったからだ。一か月に読む本は十冊以上あったし、面白い作品に出会ったら誰かに薦めるのも好きだった。
だから天職だと思ったのだ。自分が書いたPOPで興味を惹かれて本を手に取ってくれるお客さんがいれば、それだけで嬉しかった。
それにいつか、店長とか役職についたら給料も上がると思ってたし。
まあ、その店長クラスの人間が「これじゃ生活できない」と言って次々に転職していくのを見たら、自分の考えが甘かったということに気づいたが。
「香坂さんはどうなんです? 辞めないんですか?」
榎本が気遣うような口調でそう訊いてくるから、俺はできるだけ明るく笑う。
「最終的には辞めると思うよ。書店から事務機部へ移動しないかって言われてるし」
「あー、俺も言われたっす。でも、そっちでもボーナスなしなんですよね」
「だよな」
最近、俺は書店から事務機部へ移動してくれないかと声をかけられている。
そちらも人員を削りすぎたせいで営業の人間が足りなくなったようで、コピー機のリースだったり机や椅子、キャビネットなどをどこかの会社に納品したりする、男性の手が必要なんだという。
経費削減のため業者を頼むのではなく、どんなに大きな荷物であってもうちの人員でトラックに積み込んで納品するんだとか。
まあ、ハードだけど大した給料は出せない、と正直に言った社長を褒めるべきだろうか。
不景気だからボーナスも我慢してくれ、と続けて言われたが、嘘をつかれるよりはずっとマシだ。
書店勤務だったら安月給でも我慢できたと思う。
でも、肉体労働が主になるのであれば、もう少し給料のいいところに転職したくなるのは当然のこと。
「俺も潮時かな」
俺がそう言いながら笑うと、榎本も頷いた。
「そうっすよー。今のままじゃ、結婚なんて夢のまた夢じゃないですか」
「だよな」
結婚そのものに夢を抱いたことはないが、いつかは俺も家庭を持つこともあるだろう、と何となく思っている。
しかし、今の給料では家を買うどころか子供を作ることすら無理だ。
俺たちはどちらからともなくため息をつき、また明日、と言ってそこで別れた。
俺はコーヒーショップを出て、ただ何となく駅の構内を歩いた。まだ夜の早い時間だから色々な店が開いているし、それを見ながら歩くのは……普通なら楽しいと感じたはずだ。
どうも気分が落ち込んでいるのか、退屈に感じただけだった。
最近、俺の精神状況も危ういのかもしれないと思い始めている。何を見ても楽しくないし、あれほど好きだった読書もする気になれない。
給料が安くても楽しい職場、なんて思っていたから余計に、ここ最近の社長のやり方があまりにもワンマンすぎてついていけず、落胆している。
諦めてしまえばいい。
でも諦めきれない。
今の職場を辞めるには、あと少しの勇気が足りなかった。
「あれ、先生?」
そんな声がすぐ近くで聞こえて、思わず自分のことではないと解っていながらも振り返ったのは、声が若い女の子だったからだろうか。
「先生じゃないってば。受付のおねーさん」
そう他の声が返すのも聞こえてきて、ほらやっぱり、と思う。
可愛らしい雑貨屋の店の前で、制服を着た中学生らしき女の子と、事務員といった感じの服装の若い女性が話をしているところが視界に入る。
「先生の方が呼び方が簡単だし」
そう言いながら笑う女子中学生は、とても可愛らしい顔立ちをしていたが……どこか、元気なさそうにも見えた。きっと、事務員の女性も同じように感じたのだろう、首を傾げる。
「どうしたの、ケイちゃん。学校で何かあった?」
「んー、学校では何もない」
「じゃあ、家?」
「うー……」
曖昧に濁す口調から、事務員は察したようだ。
「なあに? またお母さんが練習のことで何か言ってるの?」
二人はどんな関係なのだろうか、と少しだけ興味がわいた。
元々、俺は推理小説を好んで読むせいか、人間観察も好きなのだ。言葉の端々から彼女たちがどんな関係なのか探ってみるのも面白い。
「うーん……。まあ、コンクールが近いしね。練習しろってうるさいのは確かだよ」
女の子が事務員から目をそらし、店先に並んでいた小さなバッグを手に取った。これ可愛い、と口にしているものの、あまりその声に熱がこもっていないのも解る。
「ケイちゃん、去年は銅賞だったよね。お母さんはもっと上を狙って欲しいんじゃない?」
気遣うような事務員の声はとても優しいし、親しみを感じさせる。だからその女の子も、気軽に返すのだろう。
「まあ、わたしも上を狙えるなら狙いたいよ? でも……さ? 最近、お母さんがわたしのためにピアノを買うんだってパートを始めてさ。お父さんとケンカしたんだ」
「え?」
「お父さんに相談しないで、勝手に始めたからさ。それに、どうせ買うならグランドピアノ、とか言い出しちゃって、パートっていっても凄く長い勤務らしいの。お父さん、お母さんが家の外に出るのは嫌うタイプだし」
「ありゃあ」
事務員が困ったように眉根を寄せ、ぶつぶつと何事か呟く。
コンクールで上位を狙うなら、グランドピアノは確かに必須になるけど、とか。でも相談なしか、なんて言葉も聞こえてくる。
なるほど。
ピアノのコンクールで上位を目指させようとする母親、その娘、怒る父親、という構図。そして事務員は――学校かピアノ教室の受付スタッフ、という感じだろうか。受付のお姉さん、と自分で言っていたと思う。
「最近、二人のケンカが多すぎて、あまり家に帰りたくないんだよね」
少女が手に取ったバッグをそっと陳列台に戻し、所在なげに辺りを見回すと、事務員も困ったように笑う。そんな彼女の手が優しく少女の頭を撫でると、女子中学生の表情が和らいだ気がした。
そして俺は何故か、その事務員の表情に視線を奪われたままじっとそこに立っていたのだ。
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