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第二章 移住しましょう

1.市役所にて

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*天孫降臨の地*

神さまの名は猿田彦神さるたひこのかみといい、瓊瓊杵命ににぎのみことが高天原から天降られることを聞き、お迎えにあがったのだと答えました。

そこで瓊瓊杵命ににぎのみことは猿田彦神を先導に、いくえにも重なった雲を押し分け押し分け、日向の高千穂の地に天降られました。

そしてそこに立派な宮殿をお建てになられました。ーー神社本庁より




「・・・意味が分からない」

翼は、椅子の上で仰け反る。蛍光灯の光が眩しい。

「すみません・・・もう一度、説明いたします」

市役所職員の若い女性が申し訳なさそうに翼を見た。女性がかけている眼鏡が少しズレた。
翼は、手に持っていた日向市のパンフレットを閉じ、慌てて否定する。

「いやいや、こっちのパンフレットの話しです。家の説明とかは、ちゃんと分かりましたので」

「そうか。我には少し難しいようだ。もう一度頼む」

「は、はい!」

女性は、もう一度資料の始めから説明をする。
クルスの海から駐車場に移動した翼とグラウスディル。そこには、1台のタクシーが停まっていた。お金もないのに市役所まで乗せて行ってくれたタクシーの運転手は、請求書を切り、役場の窓口に渡せと言った。
なんでも、日向市へ移住する際に必要なタクシー料金は、市がそのお金を補償してくれるらしい。素晴らしいサービスだ。
てっきり、タクシーの運転手も神の使いか何かかと思ったが。請求先が神にならないのが、いささか残念だ。

「つまり、お試し滞在ですと、1日1000 円でガス光熱費含めた額で2週間お住まいになれます。完全に移住となれば、単身者で60万円の支援金を出させていただきます」

身振り手振りをつけながら、一生懸命に話す女性。細い縁の眼鏡に当たるほど長いまつ毛が緊張からか、多く瞬きする。

「どう、グラウス?」

「分からん。これが適切な額なのか、価格相場が分からん。市場価格の一覧はないのか?」

「いやまあ、グラウスには異世界だから分からないかもしれないね。・・・なんか、ズレてる気もするけど」

「えっと、あの、運転免許証はお持ちですか?」

免許証!なんてことだ。
日本に住むのなら必ず必要になってくる身分証明書。身分証明書の人気ナンバーワンともいえる、運転免許証。翼は、ズボンのポケットを触ってみた。
・・・ない。
全身をペタペタと触る。
・・・どこにも、ない。
神は、免許証をつけてくれなかった。

「ふむ、これのことか?」

グラウスディルがやたら分厚いコートの中から、グラウスディル本人の運転免許証と翼の戸籍を取り出した。

「翼が“アァップゥーールウォッチィイイ!!”と叫んでいるときに受け取った」

「声真似やめろ!でもって、俺の免許証はないんだ」

「我の与えられたスキルだ。移動、生活、仕事に不便がないように、と。生活に不便がないように言葉を、移動に不便がないように運転免許証を、だそうだ」

現代的なスキル付与は、翼だけではなかったらしい。

「免許証と戸籍、お預かりいたしますね。コピーをいただきます」

女性が椅子から立ち上がり、コピー機の方へと移動した。
グラウスディルが、翼の方を見る。

「して、運転免許証とはなんだ?」

当たり前だと思っているものを説明することほど、難しい事はない。翼は、そう思った。




神は異世界転生者に金銭的な援助をしてくれはしないらしい。まあ、異世界じゃないけど。
がっつりと行政の力を借りて、当面の住まいとレンタカーをゲットした。レンタカー代は、後払いで一部助成金が降りるらしい。
とにかく、早く仕事を探さねばならない。
銀行で通帳を作成するのにも千円は必要なわけだし。手渡しで給料をもらえる単発アルバイトの案内まで市役所からいただいた。

グラウスディルは、たくさんの資料を紙袋に入れている。
学ぶべきことが、多い。
異世界転生だったら、こうなっていたのかな?とグラウスディルの姿を見て思う。出会った頃は、グラウスディルを頼もしく感じていたが、市役所での話を聞いていると、自分がしっかりしなければと思い直した。

市役所の出入り口。自動ドアが開くと、目の前にはレンタカーが準備されていた。

「これが、話していたレンタカーというものか」

「そう。俺、免許証がないからグラウスが運転しないと駄目なんだ」

「まずは、機能の説明を頼む」

「・・・不安だ!!」

運転したことのない人の車に乗るのって、めちゃくちゃ怖いじゃん!自動車学校の先生って凄いな。
荷物を2人分後部座席に乗せると、助手席に翼が、運転席にグラウスディルが座った。
シートベルトを教えながら装着する。キーを捻って、エンジンを入れた。

「えっと、足元にあるのがアクセルとブレーキで、アクセルを踏むと車が動く、ブレーキで止まるって、イメージかな。手に持っているのが」

「こうか?」

ブゥウウウーン!!!とエンジンが音を立てた。

「説明の途中で勝手にアクセル踏むなぁあ!」

パーキングにしていなかったら、目の前の歩道に乗り上げていたぞ。

「いいか、グラウス!車っていうのは、人の命を預かり、人の命を乗せて運ぶものだ。人にぶつかれば相手を殺めてしまうことにもなる。安易に運転しちゃ駄目なんだよ」

翼は、息を切らす。興奮しすぎて、息継ぎをせずに話してしまった。
ゼーゼーと呼吸を整えている翼に、グラウスディルは変わらぬ表情でゆっくりと話しかける。

「そうか、すまない」

「謝罪が軽いぃい!」

翼は、助手席で海老のように飛び跳ねた。

それから一通り運転の説明、道路標識の説明をした。市役所から車を発進させたのは、説明を始めてから3時間経過した時だった。
夕暮れは、転生したばかりのときより、少し肌寒かった。




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