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1巻
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振り向けば、公爵によく似た青年が書庫の扉に寄りかかるようにして立っていた。今の言葉やその外見から考えて、彼が公爵の弟のダレン様なのだろう。
彼は公爵と同じ、金色がかった茶色の髪に、青い瞳をしている。そして少し長めの前髪を流していた。
私はドレスの裾を持ち上げ、頭を下げる。この国では、身分の低い者が身分の高い者より先に名乗ったり、挨拶の言葉を口にしたりすることは無礼とされているのだ。
私が黙って待っていると、ダレン様は苛立ったように声を荒らげた。
「返事もできないのか、無礼な女だな。あんたが兄さんを襲ったんだろ!?」
彼こそ名乗りもしないうちに突っかかってくるなんて、貴族としての礼儀がなっていない。
そう思ったがなんとか呑みこみ、代わりに彼の言葉の意味を聞き返した。
「あの……襲ったというのはどういう意味でしょうか?」
「兄さんは、どんなに誘われても女性の色香に惑うことはない。そんな兄さんが一夜を過ごした相手だというから、どれほどの美人かと思ったが、どこにでもいる平凡な女じゃないか。だから、お前が無理やり襲ったのだと考えたんだよ。よほど強引なんだな。俺も気をつけないと、押し倒されてしまう」
ダレン様は吐き捨てるように言うと、冷たい視線を向けてくる。
公爵は私と一夜を過ごしたことを、弟に話したらしい。気恥ずかしくて、私はダレン様から目を逸らした。
態度を見る限り、ダレン様は私のことを快く思っていないようだ。それにしても、初対面の相手に失礼が過ぎるのではないか。
私がそんなことを考えていると、ダレン様は語気を強めて話を続ける。
「どうせ、お前は公爵家の財産が目当てで、兄さんに媚薬でも盛って既成事実を作ったんだろう。卑しい庶民の女が考えそうなことだ。そうでなければ兄さんが、お前みたいな女と寝るわけがない」
その言い草に、カチンときた。地位も名誉も財産も、私はちっとも興味がない。むしろ、冷血で有名なメイスフィールド公爵の奥様になるなんて、大金を払ってでも回避したいくらいだ。
でも私がそう言ったところで、ダレン様は信じてくれないだろう。
私は彼との会話を諦めて、本選びに戻った。勝手に話を切り上げるなんて無礼だけれど、彼だって挨拶をしなかったのだから、お互い様だ。
どの本にしようか迷っていると、背後からダレン様の怒声が聞こえてきた。
「おい、無視するな! 誰と話をしていると思っているんだ!」
私は大きく息を吸った後、ゆっくりと振り返る。そしてわざとらしく目を丸くした。
「あら、申し訳ありません。私は礼儀作法にのっとった挨拶をしようとお待ちしておりましたのに、そちらから名乗っていただけなかったもので。一度はお返事してしまいましたが、存在を認めていただけない私が話をするのは失礼かと思いまして、お答えいたしませんでしたの」
この国において、身分の低い者は身分の高い者より先に挨拶できない。そしてもし身分の高い者が挨拶しなかった場合、それは相手の存在すら認めないという意思表示になるのだ。
ダレン様はカッと顔を赤くし、悔しそうに顔を歪める。そして、吐き捨てるように言い放った。
「ダレン・ド・メイスフィールドだ!」
「ダレン様。私はアリシア・バートリッジです。お目にかかれて光栄ですわ」
私はとっておきの淑女の笑みを浮かべると、ダレン様に挨拶を返した。
ダレン様はそれが気に障ったのか、何も言わずに踵を返した。そして大きな足音を立てて部屋から出ていく。
その後ろ姿を呆れながら見送っていると、扉の向こうにいた侍女と目が合った。なぜか慌てて立ち去ろうとする彼女に、私は声をかけた。
「あっ、行かないで、ローラ! 貴方、ローラでしょう? 今朝は着替えを手伝ってくれてありがとう」
私がそう声をかけると、侍女――ローラは振り返り、目をまん丸にして驚く。
「アリシア様、私の名前を覚えてくださったのですか!?」
そんなに驚くことだろうかと私は首を傾げる。着替えの際、ローラはとても丁寧に仕事をして、些細なことにもよく気がついてくれた。朝食の席でも挨拶してくれたし、すぐに覚えられた。
「今日会った使用人の名前は、もうみんな覚えたわよ。ベティにエリスにシェリル。紅茶を注いでくれた子がリリアンよね。それに執事のチャールズに、庭師長のビジュー」
「庭師まで!? 彼とはいつお会いになったのですか?」
「ついさっき、ここに来る途中よ。渡り廊下を歩いていた時に偶然会ったの。素敵なお庭だから、どうしてもお話を聞いてみたくて。それに我が家の薔薇についた虫について、教えてほしいこともあったから。貴方ともお話ができて本当に嬉しいわ、ローラ」
「そ……そんな風に言ってくださって、ありがとうございます!」
ローラは大きな瞳を潤ませて微笑む。しかし、すぐにハッとして顔を歪め、慌てて周囲を見回した。
「どうしたの?」
問いかけると、ローラはこっそり教えてくれた。
なんでも公爵家では、使用人が笑顔を見せたり仕事以外の話をしたりすると、給金から罰金が引かれるのだという。使用人同士の交流も許されておらず、ひたすら仕事をするだけの毎日らしい。
それもこれもあの『冷血公爵』が決めたルールなんだとか。
信じられない話に、怒りが湧いてくる。
「そんなの全然楽しくないじゃないの! 公爵様ったら、本当に噂の通りの冷血人間なのね!」
「でも……公爵様は、アリシア様にだけはお優しい気がします。こんなに長く誰かと一緒に過ごしていらっしゃる公爵様は、初めて見ました」
こんなに長くとはいっても、屋敷に来てからまだ少ししか経っていない。どれほど人付き合いがないのだろうかと私は目を丸くした。
それに公爵が私から離れないのは、私のお腹に自分の子がいるかもしれないからだ。月のモノが来れば、喜んで私を屋敷から追い出すに違いない。
そう思った瞬間、なぜだか胸が痛んだ。心臓をえぐるような激しい痛みを感じ、思わず胸に手を当てる。こんな痛みは初めてだ。
(どうしたのかしら……)
「あの、どうかなさいましたか? アリシア様」
気遣ってくれるローラの優しさに、胸がじーんと温かくなった。
「私は大丈夫よ、ローラ。心配してくれてありがとう。でも、もうそろそろ公爵様のところに戻らないと、怒られそうだわ。また今度、私とお話ししてちょうだいね」
私は急いで本を五冊ほど選ぶと、急いで執務室に向かう。戻るのが遅れて妙な疑いをかけられてはたまらない。
厚表紙の重たい本を抱えたまま、執務室の扉をノックすると、すぐに返事がある。内開きの扉を勢いよく押したら――扉のすぐ向こうに公爵が立っていた。
「きゃっ! 申し訳ありません! お怪我はありませんか?」
すぐに謝ったのに返事はなく、公爵は微動だにしない。
私はどうしたのだろうと首を傾げる。
「あのぅ……公爵様? あ、もしかしてどこかに行かれるところでしたか?」
そう尋ねると公爵は、険しい表情でギンッと睨んできた。
私は体をすくめてうつむき――公爵が羽根ペンを持っていることに気がつく。彼はペンを握りしめたまま、憤ったように話し始めた。
「二十三分と五十二秒だ。そんなに時間がかかるなんて何をしていたのだ? こんなことなら私も一緒に行けばよかった。気になって仕事に集中できなかったぞ。君のせいで貴重な時間を無駄にしたではないか」
(そんなことを言われても……)
私は呆れながらも、愛想笑いを浮かべた。そして、おそるおそる公爵を見上げる。
(もしかして公爵様は私が心配だったのかしら? ペンを置くことすら忘れるほど……?)
私と目が合った瞬間、公爵はまるで凍りついたかのように動きを止めた。そのあと私が抱えていた本を、奪うようにして取り上げる。
「まったく。わざわざこんなに重い本を五冊も持ってきて。次から、君が本を選ぶ時には私もついていく。わかったな」
(え、どういう意味? もしかして……もしかしてだけれど、重たい本を運んできた私の体を気遣ってくれているの?)
戸惑う私をよそに、公爵は本を抱えて執務室の奥まで歩いていった。そして机の上に本を置くと、さっき私が座っていた椅子の前に立って、何かを言いたそうにこちらを見る。『この椅子に座れ』という意味だろうか。
私は執務室の中に入り、机の上から本を一冊手に取って、ゆっくりと椅子に座った。
すると公爵は、すかさず上着を私のお腹の上にかける。
――いるかどうかわからない赤ちゃんが、それほど心配なのだろうか?
そうっと公爵の様子をうかがっていると、彼は無表情で自分の席について仕事を始めた。
(わ……わからない。彼の気持ちがわからないわ。怒っていないのなら、いいのだけれど……)
その日は公爵が仕事をしている間じゅう、彼の隣で本を読んで過ごした。
夜、寝る支度を終えた私は、シルクのネグリジェの肌触りを堪能していた。こんなに高級なシルクの生地を身につけたのは、初めてだ。
まるで全身を羽毛で撫でられているようで、心が穏やかになる。
ふかふかのベッドの上に座り、布団を腰までかけた。そして、積み重ねたクッションにもたれかかり、本を読みはじめる。
半分ほど読んだところで眠くなってきたので、本を枕元に置いてランプの灯りを消す。
月の光はカーテンで遮られ、部屋は薄ぼんやりした暗闇に包まれた。
私は最高の手触りの布団にくるまり、長い息を吐き出す。
「ふうぅー……」
『冷血公爵』と暮らすなんてどうなることかと思ったが、意外と快適な生活になりそうだ。
あれから公爵はほとんど無言で仕事をしていた。そして夕方に仕事を終えると、無言のまま私を連れて庭を散歩。その後、二人で夕食をいただいた。この部屋の前で公爵と別れた時に、「おやすみなさいませ」と挨拶をしたのが最後だ。
今日一緒に過ごしてみて、公爵は無駄を嫌う性格でルールには厳しいが、それほど攻撃的な人ではないとわかった。不器用だがいろいろと気遣ってもくれる。
彼の意に沿わないことをすると、絶対零度の冷たい目で文句を言うけれど、聞き流せばすぐに収まる。
何を考えているのかはさっぱり理解できないものの、そのことさえ気にしなかったら、彼のそばにいるのはむしろ心地いい。
(ふふ。きっと、みんなが言うほど気難しい人じゃないのだわ。きっとあの冷たい目と無表情が誤解を生んでしまうのね)
そんなことを考えながら布団にくるまっていると、まるで繭の中にいるような安らぎを感じる。そして瞼を閉じた瞬間――ガチャリと部屋の扉が開く音が聞こえ、私は再び目を開けた。
「えっ……?」
慌てて体を起こし、扉のほうを振り向く。すると薄闇の中に、寝間着姿の公爵がいた。前髪を下ろしているので、昼間よりも若く見える。
彼はなぜか、責めるような低い声でこう言った。
「アリシア、どうして私の寝室に来ない? ずっとそばにいろと言っただろう。まさかもう忘れたのか?」
「もちろん覚えていますわ。でも、まさか寝る時まで一緒だなんて……」
「そうでもしないと、君が寝床に男を連れこむかもしれないからね。監視をつけてもいいが、その者が嘘をつく可能性を考慮しなくてはならない。そんなまどろっこしいことをするよりは、私が一緒に眠るほうが確実だろう。――仕方がない、今晩は君のベッドで寝ることにしよう」
そう言うと、公爵は私の意向も聞かずに、ベッドに入ってきた。
急接近した公爵の匂いが、ふわりと漂ってくる。なぜか、その香りを懐かしく感じた。出会って間もない相手なのに、心が落ち着く。
私は不思議に思いながらも、しぶしぶ公爵の隣で仰向けになった。反抗しても、彼は聞き入れないだろう。
しかしそんな状況で眠れるわけもなく、私はベッドの天蓋を見つめる。
それからどのくらい経ったのか――ふと、公爵の手が私の手に触れた。
「「あっ……!」」
私たちは同じタイミングで声を上げて、お互いに顔を向ける。その瞬間、偶然唇が重なった。
あまりのことに驚いて、私は固まってしまう。
公爵もなぜか、唇を合わせたままピクリとも動かない。
互いに目を丸くしたまま数秒経ち――私は、ゆっくりと唇を離した。公爵の青い瞳が、これ以上ないほど近くに見える。
「……また誘っているのか?」
公爵が小さな声で尋ねてくる。
「ち、違いますわ。これはただのアクシデントで……」
「そうだな――ならこれもアクシデントだ」
公爵はそう言うと、布団を撥ね上げて私に覆いかぶさった。
そしてゆっくりと顔を近づけてきて――熱い唇を重ねる。
公爵の柔らかな髪が私の額を撫でた。
初めは唇を重ねたままで……しばらくすると、公爵は私の上唇をそっと唇で挟んだ。
彼の荒い息が頬を駆け上がって耳をくすぐる。その瞬間、背中にゾクリと甘い快感が走った。
「んっ……」
思わず体を反らして声を漏らす。するとその声が合図になったかのように、公爵が舌を差し入れてきた。
「ふっ……んんんっ……!!」
ゆっくりと差しこまれた彼の熱い舌が、口内でゆるやかに動いて私の舌を搦め捕る。くちゅりという水音が聞こえ、体中がぞわぞわと痺れてしまう。
(あぁ、なんて気持ちいいのかしら……)
公爵の求めに応じて、私もおずおずと舌を絡ませる。すると彼はさらに深く舌を差し入れてきた。互いの唾液が舌の上で絡み合い、唇の粘膜が離れるたびに淫らな音を奏でる。
くちゅ……くちゅ……くちゅ。
はしたないと思っても、あまりに気持ちよくてやめられない。
無表情で冷たい公爵の体は、それとは裏腹にとても温かかった。その熱が心地いい。
公爵は私の舌を挟むと、優しく吸い上げた。じゅるっという音と共に、唾液を吸い取られる。
私は無意識に公爵の背中に手を回していた。すると彼は一度唇を離して、熱情に浮かされた顔で私を見る。
急に我に返った私は、公爵から視線を逸らし、急いで手を引っこめた。
(私ったら何をしているのかしら……! 恥ずかしい!)
絡まった二人の唾液が、私の唇の端から流れ出る。公爵はそれを、もったいないとでも言わんばかりに唇と舌で舐め取った。
「あ……ん」
首筋から頬をぬるりとした感触が這い上がって、思わず声が出た。私は涙目で公爵を見る。
彼はそんな私を見下ろしながら目を細め、親指で自分の唇を拭った。
「君は本当におねだりが上手だな……」
「ち……ちがっ……んっ……!」
公爵は私の反論の声を唇でふさぐと、さらに深いキスをする。熱い舌が、口内を余すところなく暴いていく。
私はそのたびに背中がゾクリとする感触を味わっていた。瞳が潤んで公爵の輪郭がぼやけてくる。
何度も繰り返し甘やかされて溶かされる。
普段の冷たい公爵からは、想像もできないような口づけに、胸がきゅぅぅんとした。
(こんな優しいキスをされたら……公爵様に大事にされていると勘違いしそうになるわ)
しかし私と公爵は恋人同士ではない。
(そうよ、私と公爵様はただ一時的に一緒にいるだけなのよ。月のモノが来ればもう二度と会うことのない人だわ。こんなの……だめよっ!)
私は両手で公爵の胸を押し、なんとか数センチだけ唇を離すことに成功した。
「アリシア……」
切ない公爵の声が、私の脳の奥を揺さぶる。
(なんて憂いを帯びた声なの……公爵様は本気で私が欲しいの……?)
私の疑問に答えるように、激しい鼓動がはっきりと両手に伝わってきた。公爵の瞳には、明らかな熱がこもっている。
二人の視線が絡み合う。私の胸がドキリと大きく高鳴った。
「アリシア、これはアクシデントで――不可抗力なのだ」
公爵は熱に浮かされた目で、再び深く口づけてくる。私の口唇をすみずみまで味わおうと、緩慢に舌を這わせて吸いつく。
ちゅるっ……ぴちゃ……ぴちゃ……
その音は公爵の温かい吐息と重なって、淫猥な音楽へと変わっていく。
(あぁ、気持ちがいい。まるで時間をかけてゆっくりと食べられているみたい……もう、何も考えられない。どうなってもいいわ)
快感で頭がぼんやりしてきたころ、公爵がネグリジェの隙間から手を差しこんできた。胸の膨らみに手を添え、優しく揉みはじめる。
「ん……ぁ……」
触れられたところから体が火照り、思考が奪われてしまう。声を出さないよう我慢するけれど、どうしても唇から淫らな声が漏れる。
「……ん……! はぁ……っ、やぁ……あ……っ」
しばらくして名残惜しそうに唇を離したかと思ったら、公爵は私の両手を掴み、ベッドに縫いとめる。そして私の顔を覗きこみ、低い声で言う。
「気持ちいいかい?」
公爵はゆっくりと身を屈め、私の首筋に顔を埋めた。彼の熱い吐息を感じて腰がむずむずし、思わず両足を擦り合わせる。
公爵は私の首筋に、何度も口づけを落とした。
「あぁ、アリシア……」
その声はどこか切なげで、私は気がついたら自ら彼に顔を寄せ、口づけをねだっていた。すると、彼はすぐに唇を重ねてくれる。
何度も互いを味わったあと、どちらからともなく唇を離した。
公爵がそのままの体勢で私を見つめ、小さな唸り声を漏らす。
「うぅ……」
「公爵……様?」
どうしたのかと心配になって声をかけると、公爵は情欲に満ちた目を私に向けてくる。しかし次の瞬間、彼はいつもの冷たい目に戻り、素っ気なく言った。
「――アリシア、もう夜も遅い。私を誘惑するのはやめて、さっさと眠りなさい」
「え……」
私は思わず残念がるような声を漏らし、彼の服をぎゅっと握ってしまう。
すると公爵が、突然強く抱きしめてきた。
がっしりとした大きな体に包みこまれる。その時、何か硬くて熱いものが私のお腹に触れた。
それが昂った男性自身だと気づき、私はビクリと震える。
しかも公爵がネグリジェを脱がそうとするので、ハッとして声を上げた。
「こ、こんなのだめですわ。これ以上間違いを重ねるわけには……!」
私がそう言うと、彼は腕の力を緩めた。
「間違い……。君はやはり、あの夜のことを間違いだと思っているのだな……」
公爵は憤った表情でつぶやく。その目があまりに冷たくて、私は寒気を覚えた。
彼はゆっくりと私の上から退くと、こちらに背中を向けてベッドに横たわる。
「早く寝なさい。迷惑だ」
抑揚のない声でそう言ったのを最後に、公爵は黙りこんだ。
(な、何!? 優しくキスをしたかと思ったら、急に突き放して……。誘惑するのはやめろと言いながら、ネグリジェを脱がそうとするだなんて……。それで最後は迷惑ですって? 何を考えているのかさっぱりわからないわ)
しばらく公爵の背中を見ながら考えていたけれど、やはりわからない。どうしようもないので、とにかく眠ろうと反対側を向いて目をつぶる。
しかし、隣で公爵が寝ているせいでドキドキしてしまい、眠れそうにない。
触れてもいないのに、公爵の肌の温もりが伝わってくるかのようだ。
そっと公爵のほうを見ると、すぐ目の前に柔らかそうな髪がある。その下には骨ばったうなじと、私の倍はありそうな大きな背中。
男性らしい背中を見ていると、昨日見た彼の裸を思い出してしまった。
(や、やだぁ……! こ、こんなの眠れるわけないじゃないっ――!!)
その晩、私はなかなか寝付けなかった。
◇ ◇ ◇
アリシアは気まぐれに誘惑しては拒み、私の感情を弄ぶ。まるで猫のようだ。
誘うような瞳で見つめ、私を受け入れてくれたかと思えば、次の瞬間には拒絶するのだから。
わずかな間だけ触れた彼女の肌は柔らかく、胸は弾むように豊かだった。その誘惑に抗えず、私は稚拙な言い訳を繰り返しながら、その肌と口内を堪能した。
しかし、彼女の愛らしい顔を見て、思いとどまる。欲望のまま抱いてしまいたいが、まだ純潔を失ったばかりの彼女に、無理をさせるわけにはいかない。
そう思い、獣のような欲情をなんとか押し殺したが――彼女はまた誘うようなことをし、そのくせ私との一夜を『間違い』だと否定した。
アリシアが出会った日のことを忘れ、否定することが悲しくて、腹立たしい。
私は憤りを抱えながら、彼女に背を向けた。
しばらくして、アリシアは隣で眠りについたらしい。甘い吐息を背中で感じ、再び理性が揺さぶられる。
これで眠れというのは、無理な話だ……
結局一睡もできず、私は明け方になっても、彼女の寝顔を眺めていた。そして眠ることを諦めて、彼女を起こさないよう慎重にベッドから抜け出す。
すると彼女は、「うぅん」と小さな声を漏らしながら寝返りを打った。ネグリジェに透けた白い肌が、目の前にさらされる。仰向けになった彼女の唇は、私を誘うようにうっすらと開いていた。
ああ、彼女は私の理性を破壊する天才だ。
我慢できなくなり、私はそっと彼女に口づけた。でもこれ以上は、抑えがきかなくなってしまう。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ると、一度自分の部屋に戻って着替えた。みっともない寝起きの姿を、アリシアに見られたくない。
昨日とその前の日は、不覚にも先を越されてしまったが、もう二度と同じ失敗をするつもりはなかった。
私はアリシアより随分年上なのだ。寝起きの気が抜けた姿を見られ、だらしないおじさんだと幻滅されるのは、死ぬよりも辛い。
アリシアの部屋に戻ると、彼女は横向きの姿勢で寝息を立てていた。
ベッドの近くにある椅子に腰かけ、その可愛らしい顔を見つめる。
このままずっと彼女のそばにいたい。時が止まればいいのに……そう何度も願う。
アリシア……目を開けて、その物怖じしない瞳で私を見てほしい。だがこのまま可愛らしい寝顔を見続けるのもいい。
あぁ、もう、私はどうしようもなく君に囚われてしまったようだ。アリシア――
どのくらいそんなことを考えていただろうか、だいぶ陽が高くなってきた。
アリシアはもしや体調が悪くて、起きられないのでは……と心配になってきたころ、彼女がようやく目を開けた。栗色の瞳に、ゆっくりと光が宿る。
その瞳に見つめられて、ドキリと心臓が跳ねた。
「大丈夫か? アリシア……」
アリシアはベッドに横になった状態のまま、私を不思議そうに見る。そして、鈴を転がすような声で言った。
「おはようございます。公爵様。……あの、今何時ですか?」
「八時三十分だ。なかなか目を覚まさないから死んでしまったのかと思ったよ。そろそろ医者を呼ぼうかと思っていた頃だ。さあ、目が覚めたのなら早く着替えなさい。今日はどうしても出かけなければいけない用事がある」
ジョークを交ぜたつもりだったが、彼女は怪訝な顔をして体を起こした。私の言葉が不快だったのだろうか。
優しい言葉をかけたいのに、いつもうまくいかない。
「君のために最高級のドレスを用意させた。私の隣を歩いても恥ずかしく思うことはない」
そう言うと、アリシアはますます怪訝な顔をする。
昨日執事に命じて、有名な服飾ブランドの店で、ありったけのドレスを買わせた。夜会の日にアリシアが着ていたドレスを渡しておいたから、サイズは問題ないはずだ。
彼女はもぞもぞとベッドから出ると、両足を揃えて床につけた。そして私の顔を、つぶらな瞳でまっすぐ見つめてくる。
あまりの可愛らしさに声を失い、思わず見とれてしまった。
ほうっとため息が出そうになった時、慌てて顔を背ける。だらしない顔を彼女に見せてしまっただろうか。
私は手で顔を覆うようにしながら、部屋の外で待たせておいた侍女を呼んだ。
彼は公爵と同じ、金色がかった茶色の髪に、青い瞳をしている。そして少し長めの前髪を流していた。
私はドレスの裾を持ち上げ、頭を下げる。この国では、身分の低い者が身分の高い者より先に名乗ったり、挨拶の言葉を口にしたりすることは無礼とされているのだ。
私が黙って待っていると、ダレン様は苛立ったように声を荒らげた。
「返事もできないのか、無礼な女だな。あんたが兄さんを襲ったんだろ!?」
彼こそ名乗りもしないうちに突っかかってくるなんて、貴族としての礼儀がなっていない。
そう思ったがなんとか呑みこみ、代わりに彼の言葉の意味を聞き返した。
「あの……襲ったというのはどういう意味でしょうか?」
「兄さんは、どんなに誘われても女性の色香に惑うことはない。そんな兄さんが一夜を過ごした相手だというから、どれほどの美人かと思ったが、どこにでもいる平凡な女じゃないか。だから、お前が無理やり襲ったのだと考えたんだよ。よほど強引なんだな。俺も気をつけないと、押し倒されてしまう」
ダレン様は吐き捨てるように言うと、冷たい視線を向けてくる。
公爵は私と一夜を過ごしたことを、弟に話したらしい。気恥ずかしくて、私はダレン様から目を逸らした。
態度を見る限り、ダレン様は私のことを快く思っていないようだ。それにしても、初対面の相手に失礼が過ぎるのではないか。
私がそんなことを考えていると、ダレン様は語気を強めて話を続ける。
「どうせ、お前は公爵家の財産が目当てで、兄さんに媚薬でも盛って既成事実を作ったんだろう。卑しい庶民の女が考えそうなことだ。そうでなければ兄さんが、お前みたいな女と寝るわけがない」
その言い草に、カチンときた。地位も名誉も財産も、私はちっとも興味がない。むしろ、冷血で有名なメイスフィールド公爵の奥様になるなんて、大金を払ってでも回避したいくらいだ。
でも私がそう言ったところで、ダレン様は信じてくれないだろう。
私は彼との会話を諦めて、本選びに戻った。勝手に話を切り上げるなんて無礼だけれど、彼だって挨拶をしなかったのだから、お互い様だ。
どの本にしようか迷っていると、背後からダレン様の怒声が聞こえてきた。
「おい、無視するな! 誰と話をしていると思っているんだ!」
私は大きく息を吸った後、ゆっくりと振り返る。そしてわざとらしく目を丸くした。
「あら、申し訳ありません。私は礼儀作法にのっとった挨拶をしようとお待ちしておりましたのに、そちらから名乗っていただけなかったもので。一度はお返事してしまいましたが、存在を認めていただけない私が話をするのは失礼かと思いまして、お答えいたしませんでしたの」
この国において、身分の低い者は身分の高い者より先に挨拶できない。そしてもし身分の高い者が挨拶しなかった場合、それは相手の存在すら認めないという意思表示になるのだ。
ダレン様はカッと顔を赤くし、悔しそうに顔を歪める。そして、吐き捨てるように言い放った。
「ダレン・ド・メイスフィールドだ!」
「ダレン様。私はアリシア・バートリッジです。お目にかかれて光栄ですわ」
私はとっておきの淑女の笑みを浮かべると、ダレン様に挨拶を返した。
ダレン様はそれが気に障ったのか、何も言わずに踵を返した。そして大きな足音を立てて部屋から出ていく。
その後ろ姿を呆れながら見送っていると、扉の向こうにいた侍女と目が合った。なぜか慌てて立ち去ろうとする彼女に、私は声をかけた。
「あっ、行かないで、ローラ! 貴方、ローラでしょう? 今朝は着替えを手伝ってくれてありがとう」
私がそう声をかけると、侍女――ローラは振り返り、目をまん丸にして驚く。
「アリシア様、私の名前を覚えてくださったのですか!?」
そんなに驚くことだろうかと私は首を傾げる。着替えの際、ローラはとても丁寧に仕事をして、些細なことにもよく気がついてくれた。朝食の席でも挨拶してくれたし、すぐに覚えられた。
「今日会った使用人の名前は、もうみんな覚えたわよ。ベティにエリスにシェリル。紅茶を注いでくれた子がリリアンよね。それに執事のチャールズに、庭師長のビジュー」
「庭師まで!? 彼とはいつお会いになったのですか?」
「ついさっき、ここに来る途中よ。渡り廊下を歩いていた時に偶然会ったの。素敵なお庭だから、どうしてもお話を聞いてみたくて。それに我が家の薔薇についた虫について、教えてほしいこともあったから。貴方ともお話ができて本当に嬉しいわ、ローラ」
「そ……そんな風に言ってくださって、ありがとうございます!」
ローラは大きな瞳を潤ませて微笑む。しかし、すぐにハッとして顔を歪め、慌てて周囲を見回した。
「どうしたの?」
問いかけると、ローラはこっそり教えてくれた。
なんでも公爵家では、使用人が笑顔を見せたり仕事以外の話をしたりすると、給金から罰金が引かれるのだという。使用人同士の交流も許されておらず、ひたすら仕事をするだけの毎日らしい。
それもこれもあの『冷血公爵』が決めたルールなんだとか。
信じられない話に、怒りが湧いてくる。
「そんなの全然楽しくないじゃないの! 公爵様ったら、本当に噂の通りの冷血人間なのね!」
「でも……公爵様は、アリシア様にだけはお優しい気がします。こんなに長く誰かと一緒に過ごしていらっしゃる公爵様は、初めて見ました」
こんなに長くとはいっても、屋敷に来てからまだ少ししか経っていない。どれほど人付き合いがないのだろうかと私は目を丸くした。
それに公爵が私から離れないのは、私のお腹に自分の子がいるかもしれないからだ。月のモノが来れば、喜んで私を屋敷から追い出すに違いない。
そう思った瞬間、なぜだか胸が痛んだ。心臓をえぐるような激しい痛みを感じ、思わず胸に手を当てる。こんな痛みは初めてだ。
(どうしたのかしら……)
「あの、どうかなさいましたか? アリシア様」
気遣ってくれるローラの優しさに、胸がじーんと温かくなった。
「私は大丈夫よ、ローラ。心配してくれてありがとう。でも、もうそろそろ公爵様のところに戻らないと、怒られそうだわ。また今度、私とお話ししてちょうだいね」
私は急いで本を五冊ほど選ぶと、急いで執務室に向かう。戻るのが遅れて妙な疑いをかけられてはたまらない。
厚表紙の重たい本を抱えたまま、執務室の扉をノックすると、すぐに返事がある。内開きの扉を勢いよく押したら――扉のすぐ向こうに公爵が立っていた。
「きゃっ! 申し訳ありません! お怪我はありませんか?」
すぐに謝ったのに返事はなく、公爵は微動だにしない。
私はどうしたのだろうと首を傾げる。
「あのぅ……公爵様? あ、もしかしてどこかに行かれるところでしたか?」
そう尋ねると公爵は、険しい表情でギンッと睨んできた。
私は体をすくめてうつむき――公爵が羽根ペンを持っていることに気がつく。彼はペンを握りしめたまま、憤ったように話し始めた。
「二十三分と五十二秒だ。そんなに時間がかかるなんて何をしていたのだ? こんなことなら私も一緒に行けばよかった。気になって仕事に集中できなかったぞ。君のせいで貴重な時間を無駄にしたではないか」
(そんなことを言われても……)
私は呆れながらも、愛想笑いを浮かべた。そして、おそるおそる公爵を見上げる。
(もしかして公爵様は私が心配だったのかしら? ペンを置くことすら忘れるほど……?)
私と目が合った瞬間、公爵はまるで凍りついたかのように動きを止めた。そのあと私が抱えていた本を、奪うようにして取り上げる。
「まったく。わざわざこんなに重い本を五冊も持ってきて。次から、君が本を選ぶ時には私もついていく。わかったな」
(え、どういう意味? もしかして……もしかしてだけれど、重たい本を運んできた私の体を気遣ってくれているの?)
戸惑う私をよそに、公爵は本を抱えて執務室の奥まで歩いていった。そして机の上に本を置くと、さっき私が座っていた椅子の前に立って、何かを言いたそうにこちらを見る。『この椅子に座れ』という意味だろうか。
私は執務室の中に入り、机の上から本を一冊手に取って、ゆっくりと椅子に座った。
すると公爵は、すかさず上着を私のお腹の上にかける。
――いるかどうかわからない赤ちゃんが、それほど心配なのだろうか?
そうっと公爵の様子をうかがっていると、彼は無表情で自分の席について仕事を始めた。
(わ……わからない。彼の気持ちがわからないわ。怒っていないのなら、いいのだけれど……)
その日は公爵が仕事をしている間じゅう、彼の隣で本を読んで過ごした。
夜、寝る支度を終えた私は、シルクのネグリジェの肌触りを堪能していた。こんなに高級なシルクの生地を身につけたのは、初めてだ。
まるで全身を羽毛で撫でられているようで、心が穏やかになる。
ふかふかのベッドの上に座り、布団を腰までかけた。そして、積み重ねたクッションにもたれかかり、本を読みはじめる。
半分ほど読んだところで眠くなってきたので、本を枕元に置いてランプの灯りを消す。
月の光はカーテンで遮られ、部屋は薄ぼんやりした暗闇に包まれた。
私は最高の手触りの布団にくるまり、長い息を吐き出す。
「ふうぅー……」
『冷血公爵』と暮らすなんてどうなることかと思ったが、意外と快適な生活になりそうだ。
あれから公爵はほとんど無言で仕事をしていた。そして夕方に仕事を終えると、無言のまま私を連れて庭を散歩。その後、二人で夕食をいただいた。この部屋の前で公爵と別れた時に、「おやすみなさいませ」と挨拶をしたのが最後だ。
今日一緒に過ごしてみて、公爵は無駄を嫌う性格でルールには厳しいが、それほど攻撃的な人ではないとわかった。不器用だがいろいろと気遣ってもくれる。
彼の意に沿わないことをすると、絶対零度の冷たい目で文句を言うけれど、聞き流せばすぐに収まる。
何を考えているのかはさっぱり理解できないものの、そのことさえ気にしなかったら、彼のそばにいるのはむしろ心地いい。
(ふふ。きっと、みんなが言うほど気難しい人じゃないのだわ。きっとあの冷たい目と無表情が誤解を生んでしまうのね)
そんなことを考えながら布団にくるまっていると、まるで繭の中にいるような安らぎを感じる。そして瞼を閉じた瞬間――ガチャリと部屋の扉が開く音が聞こえ、私は再び目を開けた。
「えっ……?」
慌てて体を起こし、扉のほうを振り向く。すると薄闇の中に、寝間着姿の公爵がいた。前髪を下ろしているので、昼間よりも若く見える。
彼はなぜか、責めるような低い声でこう言った。
「アリシア、どうして私の寝室に来ない? ずっとそばにいろと言っただろう。まさかもう忘れたのか?」
「もちろん覚えていますわ。でも、まさか寝る時まで一緒だなんて……」
「そうでもしないと、君が寝床に男を連れこむかもしれないからね。監視をつけてもいいが、その者が嘘をつく可能性を考慮しなくてはならない。そんなまどろっこしいことをするよりは、私が一緒に眠るほうが確実だろう。――仕方がない、今晩は君のベッドで寝ることにしよう」
そう言うと、公爵は私の意向も聞かずに、ベッドに入ってきた。
急接近した公爵の匂いが、ふわりと漂ってくる。なぜか、その香りを懐かしく感じた。出会って間もない相手なのに、心が落ち着く。
私は不思議に思いながらも、しぶしぶ公爵の隣で仰向けになった。反抗しても、彼は聞き入れないだろう。
しかしそんな状況で眠れるわけもなく、私はベッドの天蓋を見つめる。
それからどのくらい経ったのか――ふと、公爵の手が私の手に触れた。
「「あっ……!」」
私たちは同じタイミングで声を上げて、お互いに顔を向ける。その瞬間、偶然唇が重なった。
あまりのことに驚いて、私は固まってしまう。
公爵もなぜか、唇を合わせたままピクリとも動かない。
互いに目を丸くしたまま数秒経ち――私は、ゆっくりと唇を離した。公爵の青い瞳が、これ以上ないほど近くに見える。
「……また誘っているのか?」
公爵が小さな声で尋ねてくる。
「ち、違いますわ。これはただのアクシデントで……」
「そうだな――ならこれもアクシデントだ」
公爵はそう言うと、布団を撥ね上げて私に覆いかぶさった。
そしてゆっくりと顔を近づけてきて――熱い唇を重ねる。
公爵の柔らかな髪が私の額を撫でた。
初めは唇を重ねたままで……しばらくすると、公爵は私の上唇をそっと唇で挟んだ。
彼の荒い息が頬を駆け上がって耳をくすぐる。その瞬間、背中にゾクリと甘い快感が走った。
「んっ……」
思わず体を反らして声を漏らす。するとその声が合図になったかのように、公爵が舌を差し入れてきた。
「ふっ……んんんっ……!!」
ゆっくりと差しこまれた彼の熱い舌が、口内でゆるやかに動いて私の舌を搦め捕る。くちゅりという水音が聞こえ、体中がぞわぞわと痺れてしまう。
(あぁ、なんて気持ちいいのかしら……)
公爵の求めに応じて、私もおずおずと舌を絡ませる。すると彼はさらに深く舌を差し入れてきた。互いの唾液が舌の上で絡み合い、唇の粘膜が離れるたびに淫らな音を奏でる。
くちゅ……くちゅ……くちゅ。
はしたないと思っても、あまりに気持ちよくてやめられない。
無表情で冷たい公爵の体は、それとは裏腹にとても温かかった。その熱が心地いい。
公爵は私の舌を挟むと、優しく吸い上げた。じゅるっという音と共に、唾液を吸い取られる。
私は無意識に公爵の背中に手を回していた。すると彼は一度唇を離して、熱情に浮かされた顔で私を見る。
急に我に返った私は、公爵から視線を逸らし、急いで手を引っこめた。
(私ったら何をしているのかしら……! 恥ずかしい!)
絡まった二人の唾液が、私の唇の端から流れ出る。公爵はそれを、もったいないとでも言わんばかりに唇と舌で舐め取った。
「あ……ん」
首筋から頬をぬるりとした感触が這い上がって、思わず声が出た。私は涙目で公爵を見る。
彼はそんな私を見下ろしながら目を細め、親指で自分の唇を拭った。
「君は本当におねだりが上手だな……」
「ち……ちがっ……んっ……!」
公爵は私の反論の声を唇でふさぐと、さらに深いキスをする。熱い舌が、口内を余すところなく暴いていく。
私はそのたびに背中がゾクリとする感触を味わっていた。瞳が潤んで公爵の輪郭がぼやけてくる。
何度も繰り返し甘やかされて溶かされる。
普段の冷たい公爵からは、想像もできないような口づけに、胸がきゅぅぅんとした。
(こんな優しいキスをされたら……公爵様に大事にされていると勘違いしそうになるわ)
しかし私と公爵は恋人同士ではない。
(そうよ、私と公爵様はただ一時的に一緒にいるだけなのよ。月のモノが来ればもう二度と会うことのない人だわ。こんなの……だめよっ!)
私は両手で公爵の胸を押し、なんとか数センチだけ唇を離すことに成功した。
「アリシア……」
切ない公爵の声が、私の脳の奥を揺さぶる。
(なんて憂いを帯びた声なの……公爵様は本気で私が欲しいの……?)
私の疑問に答えるように、激しい鼓動がはっきりと両手に伝わってきた。公爵の瞳には、明らかな熱がこもっている。
二人の視線が絡み合う。私の胸がドキリと大きく高鳴った。
「アリシア、これはアクシデントで――不可抗力なのだ」
公爵は熱に浮かされた目で、再び深く口づけてくる。私の口唇をすみずみまで味わおうと、緩慢に舌を這わせて吸いつく。
ちゅるっ……ぴちゃ……ぴちゃ……
その音は公爵の温かい吐息と重なって、淫猥な音楽へと変わっていく。
(あぁ、気持ちがいい。まるで時間をかけてゆっくりと食べられているみたい……もう、何も考えられない。どうなってもいいわ)
快感で頭がぼんやりしてきたころ、公爵がネグリジェの隙間から手を差しこんできた。胸の膨らみに手を添え、優しく揉みはじめる。
「ん……ぁ……」
触れられたところから体が火照り、思考が奪われてしまう。声を出さないよう我慢するけれど、どうしても唇から淫らな声が漏れる。
「……ん……! はぁ……っ、やぁ……あ……っ」
しばらくして名残惜しそうに唇を離したかと思ったら、公爵は私の両手を掴み、ベッドに縫いとめる。そして私の顔を覗きこみ、低い声で言う。
「気持ちいいかい?」
公爵はゆっくりと身を屈め、私の首筋に顔を埋めた。彼の熱い吐息を感じて腰がむずむずし、思わず両足を擦り合わせる。
公爵は私の首筋に、何度も口づけを落とした。
「あぁ、アリシア……」
その声はどこか切なげで、私は気がついたら自ら彼に顔を寄せ、口づけをねだっていた。すると、彼はすぐに唇を重ねてくれる。
何度も互いを味わったあと、どちらからともなく唇を離した。
公爵がそのままの体勢で私を見つめ、小さな唸り声を漏らす。
「うぅ……」
「公爵……様?」
どうしたのかと心配になって声をかけると、公爵は情欲に満ちた目を私に向けてくる。しかし次の瞬間、彼はいつもの冷たい目に戻り、素っ気なく言った。
「――アリシア、もう夜も遅い。私を誘惑するのはやめて、さっさと眠りなさい」
「え……」
私は思わず残念がるような声を漏らし、彼の服をぎゅっと握ってしまう。
すると公爵が、突然強く抱きしめてきた。
がっしりとした大きな体に包みこまれる。その時、何か硬くて熱いものが私のお腹に触れた。
それが昂った男性自身だと気づき、私はビクリと震える。
しかも公爵がネグリジェを脱がそうとするので、ハッとして声を上げた。
「こ、こんなのだめですわ。これ以上間違いを重ねるわけには……!」
私がそう言うと、彼は腕の力を緩めた。
「間違い……。君はやはり、あの夜のことを間違いだと思っているのだな……」
公爵は憤った表情でつぶやく。その目があまりに冷たくて、私は寒気を覚えた。
彼はゆっくりと私の上から退くと、こちらに背中を向けてベッドに横たわる。
「早く寝なさい。迷惑だ」
抑揚のない声でそう言ったのを最後に、公爵は黙りこんだ。
(な、何!? 優しくキスをしたかと思ったら、急に突き放して……。誘惑するのはやめろと言いながら、ネグリジェを脱がそうとするだなんて……。それで最後は迷惑ですって? 何を考えているのかさっぱりわからないわ)
しばらく公爵の背中を見ながら考えていたけれど、やはりわからない。どうしようもないので、とにかく眠ろうと反対側を向いて目をつぶる。
しかし、隣で公爵が寝ているせいでドキドキしてしまい、眠れそうにない。
触れてもいないのに、公爵の肌の温もりが伝わってくるかのようだ。
そっと公爵のほうを見ると、すぐ目の前に柔らかそうな髪がある。その下には骨ばったうなじと、私の倍はありそうな大きな背中。
男性らしい背中を見ていると、昨日見た彼の裸を思い出してしまった。
(や、やだぁ……! こ、こんなの眠れるわけないじゃないっ――!!)
その晩、私はなかなか寝付けなかった。
◇ ◇ ◇
アリシアは気まぐれに誘惑しては拒み、私の感情を弄ぶ。まるで猫のようだ。
誘うような瞳で見つめ、私を受け入れてくれたかと思えば、次の瞬間には拒絶するのだから。
わずかな間だけ触れた彼女の肌は柔らかく、胸は弾むように豊かだった。その誘惑に抗えず、私は稚拙な言い訳を繰り返しながら、その肌と口内を堪能した。
しかし、彼女の愛らしい顔を見て、思いとどまる。欲望のまま抱いてしまいたいが、まだ純潔を失ったばかりの彼女に、無理をさせるわけにはいかない。
そう思い、獣のような欲情をなんとか押し殺したが――彼女はまた誘うようなことをし、そのくせ私との一夜を『間違い』だと否定した。
アリシアが出会った日のことを忘れ、否定することが悲しくて、腹立たしい。
私は憤りを抱えながら、彼女に背を向けた。
しばらくして、アリシアは隣で眠りについたらしい。甘い吐息を背中で感じ、再び理性が揺さぶられる。
これで眠れというのは、無理な話だ……
結局一睡もできず、私は明け方になっても、彼女の寝顔を眺めていた。そして眠ることを諦めて、彼女を起こさないよう慎重にベッドから抜け出す。
すると彼女は、「うぅん」と小さな声を漏らしながら寝返りを打った。ネグリジェに透けた白い肌が、目の前にさらされる。仰向けになった彼女の唇は、私を誘うようにうっすらと開いていた。
ああ、彼女は私の理性を破壊する天才だ。
我慢できなくなり、私はそっと彼女に口づけた。でもこれ以上は、抑えがきかなくなってしまう。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ると、一度自分の部屋に戻って着替えた。みっともない寝起きの姿を、アリシアに見られたくない。
昨日とその前の日は、不覚にも先を越されてしまったが、もう二度と同じ失敗をするつもりはなかった。
私はアリシアより随分年上なのだ。寝起きの気が抜けた姿を見られ、だらしないおじさんだと幻滅されるのは、死ぬよりも辛い。
アリシアの部屋に戻ると、彼女は横向きの姿勢で寝息を立てていた。
ベッドの近くにある椅子に腰かけ、その可愛らしい顔を見つめる。
このままずっと彼女のそばにいたい。時が止まればいいのに……そう何度も願う。
アリシア……目を開けて、その物怖じしない瞳で私を見てほしい。だがこのまま可愛らしい寝顔を見続けるのもいい。
あぁ、もう、私はどうしようもなく君に囚われてしまったようだ。アリシア――
どのくらいそんなことを考えていただろうか、だいぶ陽が高くなってきた。
アリシアはもしや体調が悪くて、起きられないのでは……と心配になってきたころ、彼女がようやく目を開けた。栗色の瞳に、ゆっくりと光が宿る。
その瞳に見つめられて、ドキリと心臓が跳ねた。
「大丈夫か? アリシア……」
アリシアはベッドに横になった状態のまま、私を不思議そうに見る。そして、鈴を転がすような声で言った。
「おはようございます。公爵様。……あの、今何時ですか?」
「八時三十分だ。なかなか目を覚まさないから死んでしまったのかと思ったよ。そろそろ医者を呼ぼうかと思っていた頃だ。さあ、目が覚めたのなら早く着替えなさい。今日はどうしても出かけなければいけない用事がある」
ジョークを交ぜたつもりだったが、彼女は怪訝な顔をして体を起こした。私の言葉が不快だったのだろうか。
優しい言葉をかけたいのに、いつもうまくいかない。
「君のために最高級のドレスを用意させた。私の隣を歩いても恥ずかしく思うことはない」
そう言うと、アリシアはますます怪訝な顔をする。
昨日執事に命じて、有名な服飾ブランドの店で、ありったけのドレスを買わせた。夜会の日にアリシアが着ていたドレスを渡しておいたから、サイズは問題ないはずだ。
彼女はもぞもぞとベッドから出ると、両足を揃えて床につけた。そして私の顔を、つぶらな瞳でまっすぐ見つめてくる。
あまりの可愛らしさに声を失い、思わず見とれてしまった。
ほうっとため息が出そうになった時、慌てて顔を背ける。だらしない顔を彼女に見せてしまっただろうか。
私は手で顔を覆うようにしながら、部屋の外で待たせておいた侍女を呼んだ。
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