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三話 犬
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この状況を打破する手がかりを、と思えば思うほど、限られた思考のリソースを無駄な感情に奪われる。そうして焦っている間にもどんどん意識が薄まっていく。このまま完全に自意識が消失したらどうなるのだろう? にわかに肥大する空恐ろしい空想。身体を操る手綱を奪った何者かに、己の指揮系統すべてを乗っ取られてしまったら。そのまま二度と元に戻れなくなったなら。それは、死にも等しいではないか。
極度に冷たい絶望の影が、すぐそこまでひたひたと迫ってくるのを感じる。
――嫌だ、サツキさん助けて……!
内心で絶叫しつつ、もう一人の自分はどこか冷静に己を俯瞰しながら、滑稽さも感じていた。
一度は人生をまるごと棄てようとしていたのに、いざとなったらこんなに怖くて、嫌だと思うなんて。これが皮肉でなくて何だというのだろう。
いよいよ、黒々とした死の恐怖に飲まれようかという瞬間。
そろりと寝室のドアが開き、ひょこっとサツキさんの顔が覗いた。
彼の気配が抜き足差し足、足音を殺しながら無言でこちらに近づいてくる。そっと首を伸ばして様子をうかがうサツキさんと、ばっちり目が合った。
「あ、起こしちゃった? 具合はどうかな、哲くん」
名を呼ばれると、自意識の輪郭が少しだけ明瞭になった気がするものの、体の自由が効かないのは変わらない。声も出せず、言葉の代わりに喉から絞り出されたのは「ううー……」という獣じみた唸り声だけだった。
「哲くん?」サツキさんが訝りながら手を伸ばす。
ややひんやりした掌が額に触れると、心の内に嬉しいという感情が爆発的に湧き上がった。決して温かい気持ちではない、暴力的なほどの強すぎる嬉しさ。
「熱は下がったみたいだけど、まだつらそうだね」
そう呟いてサツキさんが手を引こうとする。我知らず、自分の右手が伸びて彼の手首をがっしりと掴んでいた。
この展開はまずい、と焦るがどうにもならない。体を支配した何者かが、サツキさんの腕を強引に引き寄せる。軽い衝撃、視点の反転、胸を衝く大きな喜び。
はっとしたときには既に、俺は雇い主の上にのしかかっていた。サツキさんをベッドの上に押し倒している格好だ。やばい、なんとか止めなきゃ、と焦っているうちに、自分の体が勝手に動き、目の前にある派手な柄シャツを無造作にはだけさせる。
「わっ!? ど、どうしたの、哲くん?」
目を白黒させるサツキさんの、ジム通いで鍛えられた上半身が灯りのもとに曝された。刺激が強すぎて、別の意味でどうにかなってしまいそう。突然の助手の暴挙に、さすがのサツキさんも焦燥をあらわにしている。
やめろと声にならない叫びを上げ続けながら、俺は諦念にも近い受容を抱き始めてもいた。俺が本当にしたかったことが、これなのだと。
体は暴走をやめない。サツキさんの首元の匂いをふんふんと嗅いだかと思うと、ずっと待ち望んでいた機会を噛み締めるように――ぞろりと首筋に舌を這わせた。
哲くん、と狼狽混じりのサツキさんに呼ばわれるのが嬉しい。彼の思考はいま、乾哲成というひとりの人物に占められているはずだ。俺がいつもサツキさんのことばかり考えているように、彼もそうなってくれたなら。想像するだけで幸福感が胸に満ちてくる。
歓喜の熱に浮かされ、俺は好きな相手の肌を味わう。まさしく犬になったみたいだ。力ずくで制止できるだろうに、サツキさんはなぜかそうしない。俺の体の下でしなやかな体躯が捩られると、脳が茹だったようになり、何も考えられぬままに無我夢中で舌先を動かし続ける。首筋、肩、鎖骨、胸元、そして。
ついに届いたそこは、サツキさんの胸の尖端で。
「ふあっ! 哲くん、そんなとこ駄目ぇ……ッ」
身悶えする体から発せられた声はやや高く、その余裕のない声音に脳が沸騰する。
サツキさん。好き。サツキさん。好き、好き好き好き。サツキさんサツキさんサツキさんサツキさん。
何か、自分だけの印が、二人だけの証が欲しい。サツキさんに自分を刻みつけたい。
この人■、■■たい。
制止しようと俺の顔の前にかざされたサツキさんの指に、俺はがぶりと噛みついていた。
「……ッ」サツキさんの肩が跳ね、表情が歪む。しかし、こちらを見つめる双眸には、強い意志の光が宿っていた。間近で視線がかち合うと、その強さに一瞬気圧される。
力が抜けた俺の顎からサツキさんの手が離れる。自由の身となった両手で、彼はこちらの頬を包んだ。やや痛いくらいの力で引き寄せられ、真正面から目線がぶつかる。
「哲くん……ぼくの声、聞こえる?」
ぐるる、と俺の喉から唸り声が絞り出される。それはもはや人間ではなく、獣の鳴き声そのものだった。当然だ。自分は犬なのだから。
サツキさんの掌が優しく髪を撫でてくる。いたわるようなスピードが心地よく、うっとりしそうになる。サツキさん、好き。言うことを聞くから、捨てないで。あなたの犬でいさせて。
ご主人様はこちらの耳元に唇を近づけ、囁いた。
「哲くん、ほら。右側を見てごらん」
とろんとしたまま、素直に右を向く。壁際に大きな姿見が設えてあって、サツキさんに覆い被さる俺の姿が映っていた。
黒髪の、見慣れた容姿の青年とばちりと目が合う。目だけが野生動物みたいに炯々と輝いているが、それ以外はなんということのない、いつもの自分だった。立ち耳があるわけでも、全身が毛に覆われているわけでも、くるんと巻いた尾が生えているわけでもない。全身から熱狂的な興奮がさあっと引いていく。赤熱していた思考が急速に醒めていく。
どう見たって、ここにいるのは犬ではなく、ただの――。
「哲くんは人間だよ。哲くんはぼくの……好きな人だよ」
サツキさんが低くゆっくりと、噛んで含めるように言う。
人間。人。好きな人。好き。誰が? サツキさんが、誰を。
「……えっ!?」
「あ、人の声出たあ」
驚きすぎてばっと身を起こした俺の下で、サツキさんがほっとしたように笑った。
ものすごいスピードで回復する、自意識の存在。
「哲くん、喋れる? もう体、動かせる?」
「あー……はい。大丈夫、みたいです……」
混乱の極みにありながらもなんとか返事をし、両の手を不規則に動かしてみる。うん、なんともない。完全に、自分の体のコントロールが戻ってきた。
そんなことより、己がしでかした奇行への羞恥心が今になって大波として押し寄せ、もうどうにかなりそうだった。むしろ、どうにかされてしまいたかった。
「あのっ、本当にごめんなさい! 俺、サツキさんになんてことを……」
「やー、気にしないで。哲くんの意志じゃなかったんでしょう? 指はちょっと痛いけど平気平気。それよりも……乳首を舐められたのが恥ずかしかったしびっくりしたかなあ」
「ひいっ! すみませんすみません!」
「んー、嫌なわけではないんだけどねえ……」
ほんのり頬を朱に染めながら身を起こし、シャツを直すサツキさん。ベッドから降りた俺はまさしく平謝りで、ぺこぺこと頭を何度も下げた。
まともに相手の顔も見られぬまま、弁解めいた釈明をする。
「自分が犬になる夢を見てたんです。それで目覚めたら、体のコントロールが利かなくなってて……。サツキさんが来てくれなかったら完全に乗っ取られて、手遅れになってたと思います。あれは一体なんだったのか……」
サツキさんの表情が引き締まる。真面目な顔をして、彼は思案げに顎を撫でた。
「犬の夢ね。それで合点がいったよ。哲くん、前にも犬の鳴き声が聞こえるって言ってたでしょう? さっき目線を合わせたとき、哲くんの背後に犬のイメージが浮かんできたんだ。それも一頭じゃなくてたくさん。たぶんだけど、この近くで亡くなった犬たちの霊が取り憑いてたんじゃないかなあ。長年に渡って累積されてた地縛霊がね」
「人間以外も地縛霊になるんですね」サツキさんの分析にほうと息を吐く。
「よほど心残りがあればそうなるね。ぼくが渡したお守りは人間霊専用だったから、犬の霊には効果がなかったんだと思う。いやあ、迂闊だったなあ。でもなんで哲くんにだけ……」
サツキさんが苦渋に眉を曇らせ、がりがりとこめかみを掻く。責任を感じているらしい雇い主の前で俺は内心慌てた。サツキさんに非はまったくなく、すべての原因は自分にあるのに。俺はおそらく……彼らにシンクロしすぎたのだ。
「あの……サツキさんには何の責任もないです。完全に俺のせいです。俺がいつも、自分は犬、自分は犬だって言い聞かせてたのが原因だと思います。それで犬の残留思念みたいなものに、同調しちゃったんじゃないかと……」
サツキさんが目をまばたいた。
「哲くんが犬? どうして?」
極度に冷たい絶望の影が、すぐそこまでひたひたと迫ってくるのを感じる。
――嫌だ、サツキさん助けて……!
内心で絶叫しつつ、もう一人の自分はどこか冷静に己を俯瞰しながら、滑稽さも感じていた。
一度は人生をまるごと棄てようとしていたのに、いざとなったらこんなに怖くて、嫌だと思うなんて。これが皮肉でなくて何だというのだろう。
いよいよ、黒々とした死の恐怖に飲まれようかという瞬間。
そろりと寝室のドアが開き、ひょこっとサツキさんの顔が覗いた。
彼の気配が抜き足差し足、足音を殺しながら無言でこちらに近づいてくる。そっと首を伸ばして様子をうかがうサツキさんと、ばっちり目が合った。
「あ、起こしちゃった? 具合はどうかな、哲くん」
名を呼ばれると、自意識の輪郭が少しだけ明瞭になった気がするものの、体の自由が効かないのは変わらない。声も出せず、言葉の代わりに喉から絞り出されたのは「ううー……」という獣じみた唸り声だけだった。
「哲くん?」サツキさんが訝りながら手を伸ばす。
ややひんやりした掌が額に触れると、心の内に嬉しいという感情が爆発的に湧き上がった。決して温かい気持ちではない、暴力的なほどの強すぎる嬉しさ。
「熱は下がったみたいだけど、まだつらそうだね」
そう呟いてサツキさんが手を引こうとする。我知らず、自分の右手が伸びて彼の手首をがっしりと掴んでいた。
この展開はまずい、と焦るがどうにもならない。体を支配した何者かが、サツキさんの腕を強引に引き寄せる。軽い衝撃、視点の反転、胸を衝く大きな喜び。
はっとしたときには既に、俺は雇い主の上にのしかかっていた。サツキさんをベッドの上に押し倒している格好だ。やばい、なんとか止めなきゃ、と焦っているうちに、自分の体が勝手に動き、目の前にある派手な柄シャツを無造作にはだけさせる。
「わっ!? ど、どうしたの、哲くん?」
目を白黒させるサツキさんの、ジム通いで鍛えられた上半身が灯りのもとに曝された。刺激が強すぎて、別の意味でどうにかなってしまいそう。突然の助手の暴挙に、さすがのサツキさんも焦燥をあらわにしている。
やめろと声にならない叫びを上げ続けながら、俺は諦念にも近い受容を抱き始めてもいた。俺が本当にしたかったことが、これなのだと。
体は暴走をやめない。サツキさんの首元の匂いをふんふんと嗅いだかと思うと、ずっと待ち望んでいた機会を噛み締めるように――ぞろりと首筋に舌を這わせた。
哲くん、と狼狽混じりのサツキさんに呼ばわれるのが嬉しい。彼の思考はいま、乾哲成というひとりの人物に占められているはずだ。俺がいつもサツキさんのことばかり考えているように、彼もそうなってくれたなら。想像するだけで幸福感が胸に満ちてくる。
歓喜の熱に浮かされ、俺は好きな相手の肌を味わう。まさしく犬になったみたいだ。力ずくで制止できるだろうに、サツキさんはなぜかそうしない。俺の体の下でしなやかな体躯が捩られると、脳が茹だったようになり、何も考えられぬままに無我夢中で舌先を動かし続ける。首筋、肩、鎖骨、胸元、そして。
ついに届いたそこは、サツキさんの胸の尖端で。
「ふあっ! 哲くん、そんなとこ駄目ぇ……ッ」
身悶えする体から発せられた声はやや高く、その余裕のない声音に脳が沸騰する。
サツキさん。好き。サツキさん。好き、好き好き好き。サツキさんサツキさんサツキさんサツキさん。
何か、自分だけの印が、二人だけの証が欲しい。サツキさんに自分を刻みつけたい。
この人■、■■たい。
制止しようと俺の顔の前にかざされたサツキさんの指に、俺はがぶりと噛みついていた。
「……ッ」サツキさんの肩が跳ね、表情が歪む。しかし、こちらを見つめる双眸には、強い意志の光が宿っていた。間近で視線がかち合うと、その強さに一瞬気圧される。
力が抜けた俺の顎からサツキさんの手が離れる。自由の身となった両手で、彼はこちらの頬を包んだ。やや痛いくらいの力で引き寄せられ、真正面から目線がぶつかる。
「哲くん……ぼくの声、聞こえる?」
ぐるる、と俺の喉から唸り声が絞り出される。それはもはや人間ではなく、獣の鳴き声そのものだった。当然だ。自分は犬なのだから。
サツキさんの掌が優しく髪を撫でてくる。いたわるようなスピードが心地よく、うっとりしそうになる。サツキさん、好き。言うことを聞くから、捨てないで。あなたの犬でいさせて。
ご主人様はこちらの耳元に唇を近づけ、囁いた。
「哲くん、ほら。右側を見てごらん」
とろんとしたまま、素直に右を向く。壁際に大きな姿見が設えてあって、サツキさんに覆い被さる俺の姿が映っていた。
黒髪の、見慣れた容姿の青年とばちりと目が合う。目だけが野生動物みたいに炯々と輝いているが、それ以外はなんということのない、いつもの自分だった。立ち耳があるわけでも、全身が毛に覆われているわけでも、くるんと巻いた尾が生えているわけでもない。全身から熱狂的な興奮がさあっと引いていく。赤熱していた思考が急速に醒めていく。
どう見たって、ここにいるのは犬ではなく、ただの――。
「哲くんは人間だよ。哲くんはぼくの……好きな人だよ」
サツキさんが低くゆっくりと、噛んで含めるように言う。
人間。人。好きな人。好き。誰が? サツキさんが、誰を。
「……えっ!?」
「あ、人の声出たあ」
驚きすぎてばっと身を起こした俺の下で、サツキさんがほっとしたように笑った。
ものすごいスピードで回復する、自意識の存在。
「哲くん、喋れる? もう体、動かせる?」
「あー……はい。大丈夫、みたいです……」
混乱の極みにありながらもなんとか返事をし、両の手を不規則に動かしてみる。うん、なんともない。完全に、自分の体のコントロールが戻ってきた。
そんなことより、己がしでかした奇行への羞恥心が今になって大波として押し寄せ、もうどうにかなりそうだった。むしろ、どうにかされてしまいたかった。
「あのっ、本当にごめんなさい! 俺、サツキさんになんてことを……」
「やー、気にしないで。哲くんの意志じゃなかったんでしょう? 指はちょっと痛いけど平気平気。それよりも……乳首を舐められたのが恥ずかしかったしびっくりしたかなあ」
「ひいっ! すみませんすみません!」
「んー、嫌なわけではないんだけどねえ……」
ほんのり頬を朱に染めながら身を起こし、シャツを直すサツキさん。ベッドから降りた俺はまさしく平謝りで、ぺこぺこと頭を何度も下げた。
まともに相手の顔も見られぬまま、弁解めいた釈明をする。
「自分が犬になる夢を見てたんです。それで目覚めたら、体のコントロールが利かなくなってて……。サツキさんが来てくれなかったら完全に乗っ取られて、手遅れになってたと思います。あれは一体なんだったのか……」
サツキさんの表情が引き締まる。真面目な顔をして、彼は思案げに顎を撫でた。
「犬の夢ね。それで合点がいったよ。哲くん、前にも犬の鳴き声が聞こえるって言ってたでしょう? さっき目線を合わせたとき、哲くんの背後に犬のイメージが浮かんできたんだ。それも一頭じゃなくてたくさん。たぶんだけど、この近くで亡くなった犬たちの霊が取り憑いてたんじゃないかなあ。長年に渡って累積されてた地縛霊がね」
「人間以外も地縛霊になるんですね」サツキさんの分析にほうと息を吐く。
「よほど心残りがあればそうなるね。ぼくが渡したお守りは人間霊専用だったから、犬の霊には効果がなかったんだと思う。いやあ、迂闊だったなあ。でもなんで哲くんにだけ……」
サツキさんが苦渋に眉を曇らせ、がりがりとこめかみを掻く。責任を感じているらしい雇い主の前で俺は内心慌てた。サツキさんに非はまったくなく、すべての原因は自分にあるのに。俺はおそらく……彼らにシンクロしすぎたのだ。
「あの……サツキさんには何の責任もないです。完全に俺のせいです。俺がいつも、自分は犬、自分は犬だって言い聞かせてたのが原因だと思います。それで犬の残留思念みたいなものに、同調しちゃったんじゃないかと……」
サツキさんが目をまばたいた。
「哲くんが犬? どうして?」
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