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二十一、

二十一、

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 僕の子供は慈の腹の中で日に日に大きくなっていった。超音波で見てもらったところ、女の子であるらしい。僕は生まれるまでの月数を数え、それまでマユミちゃんがいてくれるかどうか考えた。それから時々、車に乗って佑樹とマユミちゃんに会いに行くようになった。佑樹が世話をしてくれていたお陰もあったのだけれど、僕はマユミちゃんの家に行くと、子供に戻ったような気楽さを覚えた。僕はあと数ヶ月で父親になる。楽しみだけど、重圧もあった。しかし、マユミちゃんと一緒にいると、たとえそれが病床の姿であっても、僕はその間だけ自分の心が軽くなるのを感じた。
 マユミちゃんの部屋と一続きになっている、トオルが使っていた部屋に佑樹は寝泊まりしていた。今まで殺風景だったその空間に、猫耳や胸元の開いた女の子のイラストが描かれたクリアファイル、それにミニスカートの女の子のぬいぐるみが置かれるようになった。僕が行ってみると、佑樹はスピーカーでゲームのBGMを流し、時折踊ったり歌ったりしながらうとうとしているマユミちゃんの食事や排泄の世話、掃除や洗濯をしていた。
「……お前、大丈夫?」
「数年間我慢していた趣味をもう隠さなくていいんだ、つい嬉しくなってね。」
「いや、むしろ大変そうに見えるけど。」
 佑樹は僕の言葉には答えず、ゲームの歌に合わせて掛け声を上げた。美少女グッズに囲まれながらマユミちゃんの世話をする佑樹の姿は可笑しくて、でも同時に哀しくもあった。能天気で体力もある佑樹にとっても、病人を介護し続けるのはかなりの負担なのだろう。一度居合わせたヘルパーさんに相談したら、「介護者の方が一時的に休むための、レスパイト入院っていうのもできますからね」という返事が返ってきた。「滑稽と悲惨は紙一重っていうでしょう。あっ、でも佑樹さん、なかなかいい介護をしていますよ。」
 寒くなってきた頃、佑樹が「みんなで海鮮鍋が食べたい」と言った。そして「もちろん調理担当は辰起、酒は俺に任せろ」と付け加えた。僕は酒が飲めないので、何もしてもらえないに等しかった。
 当日、僕は昼過ぎからマユミちゃんの家へ行って、料理の下ごしらえをすることになった。十数年ぶりのこの家の台所だった。イカの中華風炒めを予定していたが、レンジフードが油まみれになっているのを見て断念し(火が燃え移る恐れがある)、仕方なくイカつみれに転用して鍋に入れることにした。
 ふとマユミちゃんのいる方を見やると、露出度が高い、緑の髪の毛の女の子が描かれたタオルがベッドのすぐ隣にあった。僕はよその人も来るのにさすがにこれはまずいだろうと思い、ひょいとめくろうとしたところで、マユミちゃんの僅かな視線を感じた。その下にあったのは、消臭剤だった。一緒に長くいたので慣れてしまったが、マユミちゃんの体からは死の臭いが確実に漂うようになってきた。
 その日僕たち以外に来たのは、飲み屋の客だった看護師が二人、もう一人は僕たちの小学校の同級生のお母さん(僕はその同級生の存在すらも忘れていた)で、介護士として何かと相談に乗ってくれた人だった。佑樹はいつの間にかこんな人脈を作っていたのだろうと思った。
 僕たちはテーブルコンロで鍋を食べ、おばさんたちと楽しく酒を飲んだ。そして、マユミちゃんには鍋のスープとアイスクリームを食べさせてあげた。もう固形物は食べられなくなって久しかった。年配の女性たちはみな元気で、佑樹に「これからも頑張ってね」といって何度も酒を注いでいた。佑樹は僕の父方の血統で酒飲みだが、僕は母方の血統でほとんど飲めない。
 佑樹は飲むと、疲れていたのかうとうとし始めた。そしてうーんと唸りながら立ち上がり、「酔い醒ましだ、冷蔵庫に麦茶がある」とおぼつかない足取りで台所へ向かったので僕がついていくと、ふと「辰起、俺、伯父ちゃんと相談したんだが」とマユミちゃんの方をちらりと見て言った。「俺が一人になったら、この家をシェアハウスにしようと思うんだ。」
 僕はなんと返事をしていいのか困ってしまった。今から、マユミちゃんのいなくなった後のことを考えているなんて。
「ああ、大丈夫だ、金なら慰謝料やら貯金やらで何とかなる、物入り続きのお前に協力してもらう必要はないよ。」
 いや、そうではなくて……と僕は言葉を続けようとしたが、佑樹は酔いもあって上機嫌になり、「日本の古民家って今外国人に大人気なんだ」とひとりごちながら、麦茶のボトルを持ってマユミちゃんたちのいる居間に戻っていった。僕は座椅子の上に座らされているマユミちゃんの方を再び見やった。僕たちの会話を知っているのかいないのか、相変わらず穏やかな顔で、これが僕の見た最後の姿になった。
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