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二十二、

二十二、

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 それは初霜の下りた朝にやって来た。「うーん、さっき。十分ぐらい前。」出勤の準備をしていた僕のところへ、佑樹が電話をかけてきた。「昨日まで、牛乳飲んだりしてたんだけどな」、大きなあくびが一つ聞こえた。
 僕は佑樹に「お疲れ様」と言った。すると「マユミちゃんはな……、だが俺はまだ山ほど手続きがね……」と返された。「……で、お前は……時期的に来られないんだろ?」
 僕はすまないと言って、慈の方を見やった。臨月で大きな腹をした慈は、テレビの音量を下げて僕の方を見た。「……やっぱりさ、ほら、うん。」
 僕は普段は迷信深い方ではなかった。縁起うんぬんも、さほど気にしていなかった。だが自分の子供が生まれる時に万一のことがあったらと思うと、背中を冷たい空気がすうっと通り抜けるような不安に襲われた。どうしても、通夜や葬式というものに行く気がしなかった。
 佑樹は僕の考えを理解してくれた。そして「……あ、医者来たわ……死亡診断書もらわないと葬式できないからな……」と続け、「でも、忙しいのは生きてる人間の特権だからな、じゃね」と電話を切った。佑樹は実に清々しかった。僕は佑樹みたいにいることはとてもできなかった。
 僕はその日、普通に出勤して、一週間がかりで行っている実験の続きをし、昼休みには同僚の愚痴を聞いて、時々臨月の慈を気遣ってメッセージを入れた。慈は出産予定日が近付いていたが、子供はまだ一向に生まれる気配がない。僕の子供は、マユミちゃんが―不謹慎な言い方だとはわかっているが―「片付く」のを待って生まれてくるつもりなのかもしれなかった。
 仕事帰りの電車の中で、僕は何とか涙を堪えていた。今頃家には葬儀社の人が到着しているだろう。父やカスミ叔母さんも来て、通夜の支度をしていることだろう。僕は親の離婚で一族から抜けた人間だし、今は子供のことの方が大事だからそこに加わることはしないと、自分で決めたのに、いざそうなってみると寂しかった。
 次の日は、僕は職場に言って忌引を一日だけとった。そして、慈の入院準備に必要なものを揃えたり、産院から車で迎えに行くためのベビーシートを取り付けたりしていたら、佑樹からメッセージが入った。
「通夜が終わった」「ところで、そのうち伯父ちゃんところで焼肉会をやる話になっている。そっちが落ち着いたらでいいから」。
 僕は少し迷って「わかった。ありがとう」と返事した。いつになるかはまだわからない。だが僕は慈に相談して、三人で一緒に行こうと決めた。
 それからふと、「トオルはマユミちゃんが亡くなったと知ったらどう思うだろう」と聞こうとしてやめた。佑樹も僕も、トオルのことは忘れられるはずもなかったが、努めて忘れようとしていた。僕はふと、一番寂しいのはトオルじゃないのかなと思った。そして今何をしているのだろうと想像を巡らせようとしたが、慈が入院用のパジャマをどこに置いたか聞いてきたのですぐに思考は遮られた。
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