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二十三、
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陰鬱な冬が終わって暖かくなってきた頃、僕の娘は生まれてはじめての遠出をした。行き先は慈と僕の育ったあの町、僕の父は相変わらずそこに住んでいた。父は、マユミちゃんが住んでいた実家は祐樹に任せ、自分は独り者用のマンションを借りていて住んでいた。今は少し商売も上手くいって、自分ひとりならそれなりの暮らしができているようであった。
ベビーシートの上で軟体動物みたいに動く娘の様子にヒヤヒヤしながら車の運転をしていたら、スマホにメッセージが来た。「祐樹へ、ひろおかファームできゅうりを買ってきて、だってよ」。代わりに読んでくれた慈が吹き出した。「私たちはもうすぐ着きます、って返信しておくね。」僕、祐樹、父、慈の四人で臨時に作った「焼き肉会」というグループチャットのお陰で、父と祐樹のやり取りが横から見えた。ひろおかファームというのは、父が最近話していた、近所にできた減農薬野菜の店だそうだ。僕の脳裏に一瞬、父はいつからそんなに健康志向になったのだろう、という疑問が浮かんだが、それより娘の命を預かる身として運転に集中することにした。
僕たちがアパートの横に車を止めると、ちょうど祐樹もやってきたところだった。祐樹は野菜の入ったエコバッグを持ち、僕の娘をまるで珍しい生き物のように数秒間観察すると、「へぇ、はじめまして」と言った。玄関で出迎えた父は初孫の顔を見てにんまりし、室内から出てきたクリーム色の猫を抱きとって一緒に挨拶した。そして祐樹が横から入ってきたのに気づくと「ご苦労様、猫は体が小さいから、農薬が蓄積しやすいって聞いてな」と言った。きゅうりは猫の餌だったのだ。父が飼っている今の猫は雌で、「プリちゃん」という名前だった。それが「プリンセス」の略であることからもわかるように、父は愛護団体からもらってきたこの猫を溺愛して暮らしているようだ。父は何かを「猫可愛がり」していないと心が落ち着かない人なのだが、一方のプリちゃんはクリーム色の可愛らしい外見とは裏腹に、マグロの刺身からゴキブリまで好奇心のままに食べようとする「ゲテモノ趣味」で、しかしなぜか父が育てた猫用の草ではなく、人間用の野菜しかお気に召さないそうだ。
僕がタレに肉を漬け込んでいる間、佑樹がホットプレートを組み立て、父は野菜を切っていた。慈は娘を隣の部屋に連れて行ってオシメを交換していた。そして寝転ぶプリちゃんの隣には、桜色の布に包まれた、マユミちゃんのお骨が置かれていた。この間まで古い家の布団に閉じ込められていたマユミちゃんは、今はすっかり身軽になって、僕らのすべてを見守っているようだった。
焼肉会が始まると、佑樹は一時間でビール瓶を一本開けた。一方の父は時々無理に笑って、肉を口の中に少しずつ入れていた。かつてのように酒を飲んだりしない。あまり食欲がわかないようだ。プリちゃんは席についた父の足下で、床に腹をつけて寝ていた。父が唇を突き出し、ため息とともに「マユミは特別な子だ、誰に何と言われようと俺はそう思っていた」と言うと、プリちゃんは立ち上がって、父の足に顔をこすりつけた。父は足の裏でプリちゃんを撫でてやり、台所から猫用かまぼこを持ってきて食べさせた。その時寝ていた娘が泣き出した。慈が立ち上がった隙にふと佑樹が「俺も次は猫飼おうかな」と、僕に向かって呟いた。
「嫁さんとコーギー犬飼ってたんだよね。俺も餌やったり、散歩に連れて行ったりしたのに、嫁さんが家を出ていく時には尻尾を振ってついていきやがって。あの後ろ姿を見た時思ったね、次は猫にしようって。猫は人じゃなくて家につくものだから」。
佑樹から離婚時の具体的な話を聞かされたのは、後にも先にもこの時だけだった。僕は気の利いた返事を二秒間考えたが、すぐに「おしり拭きを持ってきて」という慈の声がしたので何も言えないままだった。
娘が風邪を引くといけないので、僕たちは空が暗くなる前に家路についた。佑樹はその時にはすっかり出来上がっていて、「辰起くーん、また来てね」と僕たち三人に向かってヘラヘラ笑い、あまり元気のない父の肩を抱いた。今日は父の部屋に泊まるらしい。ともに嫁に逃げられた男二人は仲良くしているようだ。僕はふと、子供の頃佑樹の天真爛漫なところが羨ましかったことを思い出した。正確には、それが許される環境がとてつもなく羨ましかった。
だが今の僕は昔の思い出に浸っているどころではなかった。娘がぐずらないうちに急いで荷物をまとめ、車に積み込むのを父に手伝ってもらった。佑樹もドアを開けるのを手伝ってくれたが、ぽつりと寂しそうに「とは言え、これからお前はなかなか遊びに来られないよな。でも、時々マユミちゃんのことは思い出してくれよ」と言った。
僕はまた、返事ができないままだった。
ベビーシートの上で軟体動物みたいに動く娘の様子にヒヤヒヤしながら車の運転をしていたら、スマホにメッセージが来た。「祐樹へ、ひろおかファームできゅうりを買ってきて、だってよ」。代わりに読んでくれた慈が吹き出した。「私たちはもうすぐ着きます、って返信しておくね。」僕、祐樹、父、慈の四人で臨時に作った「焼き肉会」というグループチャットのお陰で、父と祐樹のやり取りが横から見えた。ひろおかファームというのは、父が最近話していた、近所にできた減農薬野菜の店だそうだ。僕の脳裏に一瞬、父はいつからそんなに健康志向になったのだろう、という疑問が浮かんだが、それより娘の命を預かる身として運転に集中することにした。
僕たちがアパートの横に車を止めると、ちょうど祐樹もやってきたところだった。祐樹は野菜の入ったエコバッグを持ち、僕の娘をまるで珍しい生き物のように数秒間観察すると、「へぇ、はじめまして」と言った。玄関で出迎えた父は初孫の顔を見てにんまりし、室内から出てきたクリーム色の猫を抱きとって一緒に挨拶した。そして祐樹が横から入ってきたのに気づくと「ご苦労様、猫は体が小さいから、農薬が蓄積しやすいって聞いてな」と言った。きゅうりは猫の餌だったのだ。父が飼っている今の猫は雌で、「プリちゃん」という名前だった。それが「プリンセス」の略であることからもわかるように、父は愛護団体からもらってきたこの猫を溺愛して暮らしているようだ。父は何かを「猫可愛がり」していないと心が落ち着かない人なのだが、一方のプリちゃんはクリーム色の可愛らしい外見とは裏腹に、マグロの刺身からゴキブリまで好奇心のままに食べようとする「ゲテモノ趣味」で、しかしなぜか父が育てた猫用の草ではなく、人間用の野菜しかお気に召さないそうだ。
僕がタレに肉を漬け込んでいる間、佑樹がホットプレートを組み立て、父は野菜を切っていた。慈は娘を隣の部屋に連れて行ってオシメを交換していた。そして寝転ぶプリちゃんの隣には、桜色の布に包まれた、マユミちゃんのお骨が置かれていた。この間まで古い家の布団に閉じ込められていたマユミちゃんは、今はすっかり身軽になって、僕らのすべてを見守っているようだった。
焼肉会が始まると、佑樹は一時間でビール瓶を一本開けた。一方の父は時々無理に笑って、肉を口の中に少しずつ入れていた。かつてのように酒を飲んだりしない。あまり食欲がわかないようだ。プリちゃんは席についた父の足下で、床に腹をつけて寝ていた。父が唇を突き出し、ため息とともに「マユミは特別な子だ、誰に何と言われようと俺はそう思っていた」と言うと、プリちゃんは立ち上がって、父の足に顔をこすりつけた。父は足の裏でプリちゃんを撫でてやり、台所から猫用かまぼこを持ってきて食べさせた。その時寝ていた娘が泣き出した。慈が立ち上がった隙にふと佑樹が「俺も次は猫飼おうかな」と、僕に向かって呟いた。
「嫁さんとコーギー犬飼ってたんだよね。俺も餌やったり、散歩に連れて行ったりしたのに、嫁さんが家を出ていく時には尻尾を振ってついていきやがって。あの後ろ姿を見た時思ったね、次は猫にしようって。猫は人じゃなくて家につくものだから」。
佑樹から離婚時の具体的な話を聞かされたのは、後にも先にもこの時だけだった。僕は気の利いた返事を二秒間考えたが、すぐに「おしり拭きを持ってきて」という慈の声がしたので何も言えないままだった。
娘が風邪を引くといけないので、僕たちは空が暗くなる前に家路についた。佑樹はその時にはすっかり出来上がっていて、「辰起くーん、また来てね」と僕たち三人に向かってヘラヘラ笑い、あまり元気のない父の肩を抱いた。今日は父の部屋に泊まるらしい。ともに嫁に逃げられた男二人は仲良くしているようだ。僕はふと、子供の頃佑樹の天真爛漫なところが羨ましかったことを思い出した。正確には、それが許される環境がとてつもなく羨ましかった。
だが今の僕は昔の思い出に浸っているどころではなかった。娘がぐずらないうちに急いで荷物をまとめ、車に積み込むのを父に手伝ってもらった。佑樹もドアを開けるのを手伝ってくれたが、ぽつりと寂しそうに「とは言え、これからお前はなかなか遊びに来られないよな。でも、時々マユミちゃんのことは思い出してくれよ」と言った。
僕はまた、返事ができないままだった。
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