さよならマユミちゃん

あつあげ

文字の大きさ
23 / 24

二十三、

しおりを挟む
 陰鬱な冬が終わって暖かくなってきた頃、僕の娘は生まれてはじめての遠出をした。行き先は慈と僕の育ったあの町、僕の父は相変わらずそこに住んでいた。父は、マユミちゃんが住んでいた実家は祐樹に任せ、自分は独り者用のマンションを借りていて住んでいた。今は少し商売も上手くいって、自分ひとりならそれなりの暮らしができているようであった。
 ベビーシートの上で軟体動物みたいに動く娘の様子にヒヤヒヤしながら車の運転をしていたら、スマホにメッセージが来た。「祐樹へ、ひろおかファームできゅうりを買ってきて、だってよ」。代わりに読んでくれた慈が吹き出した。「私たちはもうすぐ着きます、って返信しておくね。」僕、祐樹、父、慈の四人で臨時に作った「焼き肉会」というグループチャットのお陰で、父と祐樹のやり取りが横から見えた。ひろおかファームというのは、父が最近話していた、近所にできた減農薬野菜の店だそうだ。僕の脳裏に一瞬、父はいつからそんなに健康志向になったのだろう、という疑問が浮かんだが、それより娘の命を預かる身として運転に集中することにした。
 僕たちがアパートの横に車を止めると、ちょうど祐樹もやってきたところだった。祐樹は野菜の入ったエコバッグを持ち、僕の娘をまるで珍しい生き物のように数秒間観察すると、「へぇ、はじめまして」と言った。玄関で出迎えた父は初孫の顔を見てにんまりし、室内から出てきたクリーム色の猫を抱きとって一緒に挨拶した。そして祐樹が横から入ってきたのに気づくと「ご苦労様、猫は体が小さいから、農薬が蓄積しやすいって聞いてな」と言った。きゅうりは猫の餌だったのだ。父が飼っている今の猫は雌で、「プリちゃん」という名前だった。それが「プリンセス」の略であることからもわかるように、父は愛護団体からもらってきたこの猫を溺愛して暮らしているようだ。父は何かを「猫可愛がり」していないと心が落ち着かない人なのだが、一方のプリちゃんはクリーム色の可愛らしい外見とは裏腹に、マグロの刺身からゴキブリまで好奇心のままに食べようとする「ゲテモノ趣味」で、しかしなぜか父が育てた猫用の草ではなく、人間用の野菜しかお気に召さないそうだ。
 僕がタレに肉を漬け込んでいる間、佑樹がホットプレートを組み立て、父は野菜を切っていた。慈は娘を隣の部屋に連れて行ってオシメを交換していた。そして寝転ぶプリちゃんの隣には、桜色の布に包まれた、マユミちゃんのお骨が置かれていた。この間まで古い家の布団に閉じ込められていたマユミちゃんは、今はすっかり身軽になって、僕らのすべてを見守っているようだった。
 焼肉会が始まると、佑樹は一時間でビール瓶を一本開けた。一方の父は時々無理に笑って、肉を口の中に少しずつ入れていた。かつてのように酒を飲んだりしない。あまり食欲がわかないようだ。プリちゃんは席についた父の足下で、床に腹をつけて寝ていた。父が唇を突き出し、ため息とともに「マユミは特別な子だ、誰に何と言われようと俺はそう思っていた」と言うと、プリちゃんは立ち上がって、父の足に顔をこすりつけた。父は足の裏でプリちゃんを撫でてやり、台所から猫用かまぼこを持ってきて食べさせた。その時寝ていた娘が泣き出した。慈が立ち上がった隙にふと佑樹が「俺も次は猫飼おうかな」と、僕に向かって呟いた。
「嫁さんとコーギー犬飼ってたんだよね。俺も餌やったり、散歩に連れて行ったりしたのに、嫁さんが家を出ていく時には尻尾を振ってついていきやがって。あの後ろ姿を見た時思ったね、次は猫にしようって。猫は人じゃなくて家につくものだから」。
 佑樹から離婚時の具体的な話を聞かされたのは、後にも先にもこの時だけだった。僕は気の利いた返事を二秒間考えたが、すぐに「おしり拭きを持ってきて」という慈の声がしたので何も言えないままだった。
 娘が風邪を引くといけないので、僕たちは空が暗くなる前に家路についた。佑樹はその時にはすっかり出来上がっていて、「辰起くーん、また来てね」と僕たち三人に向かってヘラヘラ笑い、あまり元気のない父の肩を抱いた。今日は父の部屋に泊まるらしい。ともに嫁に逃げられた男二人は仲良くしているようだ。僕はふと、子供の頃佑樹の天真爛漫なところが羨ましかったことを思い出した。正確には、それが許される環境がとてつもなく羨ましかった。
 だが今の僕は昔の思い出に浸っているどころではなかった。娘がぐずらないうちに急いで荷物をまとめ、車に積み込むのを父に手伝ってもらった。佑樹もドアを開けるのを手伝ってくれたが、ぽつりと寂しそうに「とは言え、これからお前はなかなか遊びに来られないよな。でも、時々マユミちゃんのことは思い出してくれよ」と言った。
 僕はまた、返事ができないままだった。 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

フローライト

藤谷 郁
恋愛
彩子(さいこ)は恋愛経験のない24歳。 ある日、友人の婚約話をきっかけに自分の未来を考えるようになる。 結婚するのか、それとも独身で過ごすのか? 「……そもそも私に、恋愛なんてできるのかな」 そんな時、伯母が見合い話を持ってきた。 写真を見れば、スーツを着た青年が、穏やかに微笑んでいる。 「趣味はこうぶつ?」 釣書を見ながら迷う彩子だが、不思議と、その青年には会いたいと思うのだった… ※他サイトにも掲載

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...