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第8章 引き離されて
第137話 罪と罰(2)
しおりを挟む危篤。
聡の人生に初めてじかに登場した思いがけない単語。
その重すぎる意味を噛み砕く前に、博史は畳み掛けてくる。
「お前……、おふくろに、何を言ったんだ!」
博史が、聡のことを『お前』なんて呼ぶのも初めてだ。
「何を言ったんだ……えぇっ?」
博史は、倒れてかろうじて上半身を起こした聡の目線まで腰を落とすと、聡の肩をがしっと掴んで詰め寄った。
そのままガクガクと激しく揺さぶりながら
「何を言ったんだ……何を言ったんだ」
だけを繰り返す。聡をゆさぶりながら、博史自身の乱れた髪もゆさゆさと揺れてますます乱れていく。
細い目は、狂人さながらに限界まで見開いて、聡を見据えている。
聡は、博史のそんな異様な顔から目もそらすこともできず、血走った白目のあたりを見ながら揺さぶられるままになっていた。
「やめろよ!」
そこへ割って入った将が、聡の体を奪うように、博史の手を遮った。
博史は無言で将のスウェットの襟元を掴んで、引っ張り挙げるように立ち上がると、猶予もなく将を殴りつけた。
大きな音をたてて、フローリングの床に将の体が倒れこむ。
「将!」
と叫びながらも、聡の脳裏に『下の部屋に響いてしまう』という常識がちらりとよぎる。
……それで聡は自分の心には冷静さが残っていることを自覚した。しかし、それはすぐにふっとんでいった。
「お前のせいだ!」
博史は靴のまま、部屋に倒れた将に馬乗りになると、さらにその顔を殴りつけようとした。
「やめて!」
聡は殴りつけようとする博史を止めようとその腕にしがみついた。
しかし博史はすごい力で聡を振り払うと、将の顔を再び殴った。
振り払われた勢いでまた倒れた聡は、少しひるんだが、殴られる将を見て無意識に再び博史の横腹にタックルした。
「やめてー!」
聡の渾身の体当たりに、博史の体は将から離れて倒れた。倒れた博史の上に、聡の体が重なっていた。
「やめて……博史さん。将は悪くない……」
聡の双眸からまた涙がほとばしりはじめた。
「悪いのは……私だから……。私が……いけないの」
聡の頬を流れ落ちた涙は、博史の頚のあたりを濡らした。
博史は、自分の上の聡を払うようにして跳ね起きると、
「母が……このまま死んだら、おまえらのせいだからな!」
と一吼えして走り去った。
建物中が振動するような大きな音をたててドアが乱暴に閉まって、階段を下りる音が響いた。
将は仰向けのまま、聡は座り込んだまま、言葉もなく呆然として音が消えるのを待っていた。
『死』というもっとも重い単語が、二人を沈黙させていた。
そんな中、先に言葉を発したのは将だった。
「大丈夫か、アキラ。いてて……」
聡を気遣いながら体を起こす。聡はそれでハッと気付き、
「将、足は?」
と起き上がった将に駆け寄る。
「大丈夫。足もたぶん大丈夫」
将は気丈にも答えたが、口の端から紅い血が流れている。
ティッシュで拭こうとする聡だったが、将は立ち上がると洗面所へ行き、血混じりの唾液をブッと吐いた。
口の中も切れているのだ。
そのまま将は水道を出して口の周りを洗うと自分の顔を見た。
殴られた頬がアザになっている。
「……あいつ、こんなこともできんだな。もっと上品なやつだと思ってたけど」
洗面所から出た将は、聡から差し出された保冷剤を受け取りながら、心配させるまい、と笑顔を見せた。
「将……、ごめんね」
「……ほら、また泣く。本当にアキラは泣き虫だな」
また涙を浮かべる聡の頭を、将は笑いながらくしゃくしゃと混ぜた。
そのとき、聞きなれたユーモラスな鈍い音。将の腹からだった。
「ほら、腹の虫も泣くなってよ」
「将ってば……」
ようやく聡も涙の下から笑顔を見せた。
「ごめんね。素うどんだけど」
「でも稲庭うどんじゃん。いただきまーす」
1週間家をあけて、聡の部屋にはほとんど食料が残っていなかった。
その中からどうにか見つけた乾麺を茹でて朝食代わりにした。
食パンもあったけど、口の中が傷だらけの将に、トーストは厳しいだろうと思ったのだ。
だけど、将はそんなことは気にしないようで
「口の中を切るたびに絶食してたら飢え死にするぜ」
と笑い「うめえ。稲庭うめえよ」と赤や青に内出血した痛々しい顔ながら豪快にうどんを啜りこんだ。
「……でさ、アキラ、博史のおふくろさんに何いったの?」
聡がうどんを食べ終わるのを見計らって将は訊いた。
聡の倍量だったにもかかわらず、随分早く食べ終わった将は、昨日セットしたまま置きっぱなしになっていたコーヒー豆に湯を注いでいる。
「うん……」
うつむいた聡は、だし汁が残るどんぶりの中をのぞいているようにさえ見えた。
「言いたくなかったら、いいけどさ」
将は淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ分けながら、フォローする。
聡は無言で、テーブルの上のどんぶりを将の分まで重ねてキッチンに持って来た。
一人部屋の狭いキッチンではコーヒーを淹れる将と、どんぶりを流しに置く聡は触れ合うほどになる。
ほのかな体温が磁力のように互いの体を吸い寄せる。
腕が互いの体にのびて、そっと抱きしめあう。二人はしばらく抱き合ったまま流しの前で佇んだ。
聡は、将に昨日のことを打ち明けた。
博史に別れを告げたものの、母のために冷却期間ということにしてほしい、と頼まれたこと。
別れを隠したまま、昨日見舞いに行ったこと。
その博史の母から、姑の形見のエメラルドの指輪を託されてしまい、婚約破棄を隠せなくなった聡は、思わず本当のことを打ち明けてしまったこと。
「……でね。博史さんのお母さんね。……それでもまだ、博史さんのほうが、何かあたしにいけないことをしたんじゃないか、って心配していたの」
二人ベッドに寄りかかって、床に足を投げ出すように座っていた。
将の肩に体重をかけるように、聡は寄りかかって、ぽつりぽつりと打ち明ける。
将はそんな聡の肩を抱き、ときおり相槌を打ちながら、肘を曲げて髪を優しく撫でる。
その、博史の母・薫が、急に危篤になった。
きっかけは……やはり聡の告白なのだろう。
昨日まで元気そうに見えた薫。
それは、おそらく博史の結婚、という喜びが彼女の生命力にとって大きな支えだったのだろう。
聡は、彼女の生きる支えを奪ったことになる。
聡は別れ際の薫の声を思い出す。
『さようなら聡さん。いろいろと……ごめんなさいね』
最後まで気丈な態度だった薫だが、生きる支えを失って、聡以上にボロボロだったのだ……。
あのとき、彼女はどんな顔だっただろうか。聡は自分がつらすぎて覚えていない。
身勝手な自分。聡は改めて、己の罪深さにおののいた。
「いつか……天罰を受けるね。きっと……」
天罰。
そのあまりに重い響きが聡の唇からこぼれるのを聞いた将は、聡の肩を少し強く抱き寄せる。
聡にのしかかる重みを、少しでも分け合おうと無意識に感じての行動。
「……アキラ、そんなことないよ。俺だって……もしも俺がアキラでもウソはつき続けられないよ」
告白を終わった聡の頬に、また涙が筋をつくっていた。
将は、聡を抱き寄せた。そして頬に流れる涙を舐めてみた。
それは温かくて、優しいしょっぱさだった。生きている聡。
17歳の将は、26歳の聡よりもたぶん、『死』を多く、かつ生々しく体験している。
母の死。そして自分が殺したヤクザの死。
どちらも相応に重く、質は違えど辛い思い出だった。
そして、いま。もしかすると博史の母の死にかかわろうとしている……。
将は子犬のように聡の頬に流れる涙を舐め続けた。
聡に圧し掛かる辛さを、ソフトクリームのように、少しでも舐め取って減じることができれば。
将自身も気付いていないけど、具体的に例えるなら、そんな気持ちで将は聡の頬を流れる涙を舐めていた。
……その将の唇に、頬より柔らかで滑らかで温かいものが重なる。聡が唇を重ねてきたのだ。
将は聡の唇の中に、今まで涙を舐めていた舌を優しくしのびこませる。
涙に比べると、唾液はさらに温かく、そして甘かった。
聡は、将の唾液に混じる鉄の味を……将は慣れてしまって、もはや感じなかったが……感じた。
こんなふうに、血の混じったキスを、前にもしたことがある。
聡はぼんやりと思い出した。
あのとき……拉致された聡を助け出そうとして、殴られた将。
聡は将と舌をからませたまま、軽く閉じていた目を思わず開けた。
焦点をあわすのも難しいほどの至近距離にある将の顔。彼は口づけを続けながら目を閉じている。
聡は目を開けたまま、惰性で将と唇をあわせながら、今生まれた考えにおびえた。
それは……
聡と出会ってしまったことで、将はつらい目にばかりあっているのではないだろうか……
という恐れだった。
恐れは思い出の数々とつながることによって
『聡が将を辛い目にあわせている』
という確信に変わりそうになっていき、それは聡の心を次第に侵食していった。
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