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第17章 クリスマスの夜、二人
第303話 嘘
しおりを挟む――今日も撮影は休みか……。
将は窓に向かってため息をついた。その息が窓ガラスを白く曇らせるのも見えないほどの白に今、北の大地も空気も染まっている。
天と地の境が見えないほどの猛吹雪に、いつも見える大雪山系も隠れてしまったようだ。
12月も今日で20日。
ドラマ『あした雪の丘で』のロケで北海道入りしている将だが、一昨日からの大雪で撮影が中断してしまっている。
順調に行けば、明日には東京に帰れる予定だったのに……と、将は窓の外の雪を恨んだ。
案の定、直後にADから撮影中止の電話が入った。
将はため息をつきながら、朝食会場へ向かった。
このホテルはスキー場から離れているため、閑散期の今は、ほとんどドラマ撮影関係者の貸切状態となっている。
朝食会場も、ほとんど共演の俳優や、ドラマ制作関係者ばかりだった。
その中で、唯一ドラマとは関係ない一家が窓がわに席を取っていた。中年夫婦と娘、の三人家族である。
その夫のほうが将に気付くと手をあげた。
将はそれに頭を下げて会釈をすると、その席のほうに向かった。
途中、将の相手役(といってもケンカばかりしている役だが)の若手女優が
「将くん、一緒に食べません?」
と誘った。そこには若手女優のほかにも、共演者たちがテーブルについていた。
もう6回を撮りだめしている中で、共演者やスタッフたちは家族のような雰囲気を醸し出していたのだ。
しかし将は
「すいません。親戚が来てるんで」
と断った。
「親戚?」
「はい。東京から僕の勉強を見がてらスキーに……」
「あ、もしかして、あの人、政治学で有名な東大の岸田助教授?」
スタッフの一人がそう指摘したとたん、一座は一家の方を振り返った。
背を向けていた助教授はその視線に気付かず、代わりに夫人が会釈を返す。
「何、将くん、裏口入学を手配してもらうの?」
もちろんそれはスタッフの冗談である。
将はそれをほどほどにいなして、助教授一家の席へと移動した。
「やあ、まいったな。スキーをやりにきたのに、この大雪じゃ」
岸田助教授は将が席につくなり笑った。
「仕方がないわ。温泉に入りにきたと思いましょう」
夫人がそれをとりなす。このホテルには展望温泉があるのだ。
「それより今日、帰れるのかなあ。明日クリスマス会の練習があるんだよね」
11歳になる助教授の娘の香奈は、心配そうに窓の外を見つめた。
岸田助教授の一家は、金曜からの2泊3日でスキーにやってきている。……というのは名目で、本当は将の勉強を見に来ているのだ。
将の義母・純代の次兄にあたる岸田助教授に将は先々週から論述問題の特訓を受けている。
最初、純代がその話を持ってきたとき、将は反発した。
これ以上、純代に借りを作りたくなかったからである。
だが、純代はそんな将をわざと挑発した。
『正直に言うわ。あなたの今の成績と撮影を抱えている状況じゃ、前期試験での東大合格は難しくてよ』
10月、11月、12月初めと模試を繰り返すにつれて将の成績はぐんぐんあがっていった。
だが、依然東大の合格圏内には、まだほど遠い現実……それは将が一番よく知っていた。
センターの足切りはなんとか乗り切るにしても、4教科にわたる前期試験は膨大な知識を再構築していく能力が求められる。
その膨大な知識の部分をまだやっている自分を考えると将は途方に暮れそうになった。純代の言っていることは事実なのだ。
義母である純代は、将の成績をもとに東大の助教授を務める兄に相談したらしい。
兄の岸田助教授によれば、国語力と論理的な説明力が際立っている将には、今年度(2008年3月実施)から試験方法が変わる後期※のほうが可能性が期待できるのでは、ということだった。
純代は、さらに兄に、予想される出題で将を特訓してほしいと頼み込んだのだ。
『自分でなんとかするから、ほっといてくれ。お義母さんには頼りたくない』
プライドの高い将はそれでも、反抗した。なんとかするあてなど、本当はない。
聡のためのことは……自分ひとりで解決したかった。ただそれだけだ。
そんな将に純代は一喝した。
『私に頼りなくないなんて甘えたことを言うんじゃありません!……望みというのは、大嫌いな相手だろうと利用してこそ、叶えるものですよ。私を利用しなさい』
その翌日から、将は純代に引っ張られるように無理やり岸田助教授のもとに連れて行かれた。
祖父、そして曽祖父の巌の葬儀でしか顔を見たことがない岸田助教授はほとんど初対面も同様だった。
丸顔にたれ目、と親しみやすい容貌は涼しい面差しの義母とはまったく似ていないながら、指導は容赦がなかった。例題で書いた将の論理の穴を次々と指摘する。
しかし、身内らしからぬその厳しさに、将は逆に助教授を信頼するようになり……週に2回、通うことにしたのである。
この金曜から日曜日にかけては、昼間は将は撮影、助教授一家はスキー、夜に3時間ほど論述問題の特訓をすることになっていたのだが、あいにくの天気で昼間からずっと特訓になっているのは不幸中の幸いというべきか。
いや。この時期は本当は論述問題をやるよりは、センター試験に向けた詰め込みをやらなくてはならない。
だから本当は、早く撮影を終わらせて東京に舞い戻り、睡眠時間を削って詰め込み勉強にまい進すべきなのだが
……撮影で北海道にいる限り、顔のコンディションを崩さないために睡眠を充分とらなくてはならない。
それが撮休が重なるにつれて将には焦りにつながってきた。
しかし、天気には逆らえない。
「雪、早く止んだらいいのにね」
岸田の娘の香奈がココアが入ったカップを両手で包むように持ちながら将に話し掛けた。
そのカップの持ち方は聡がよくやるものだった。聡もココアが好きだった……。
「そうだね」
将は白く吹雪く外に、聡を思った。
もうすぐ来るクリスマスは、二人で過ごせると信じて……。
>今日も雪で、撮影が休み。明日には帰れなさそう。
将からのメールがいい目覚ましになった。
聡はベッドから体を起こすと、下腹に手をやった。
5ヶ月を迎えた下腹は、このところぽこんと膨らんできた。
――おはよう。北海道は大雪なんだって。
小さく、お腹の子に語りかけると聡は立ち上がって青いカーテンを勢いよく開いた。
北海道は大雪だというけれど、東京はいい天気だ。
放射冷却か窓からの冷気にぞくっときた聡は、着替えることにする。
お腹が膨らんできた聡だが、まだそれは少し太った程度だ。
ふだん細身の聡だから、いまのところ普通の服で大丈夫だが、もうあと一月もすればマタニティを買わないといけないだろう。
昨日の土曜日、聡は検診に行ってきた。
医師は『とっても順調ですよ』と太鼓判を押してくれた。
つわりこそ入院するほど酷かったが、それを乗り越えると極めて穏やかな日々が聡に訪れたのだ。
純代が紹介してくれた穏やかなお婆ちゃん産科医は、子供が生まれることをとても楽しいことのように口にする。それで聡はとても楽になった。
早い人だと性別もわかるらしいが、
「赤ちゃん、どうやら恥かしがってるみたいですね。また次の機会にとっておきましょう」
と超音波を見ながらおっとりと産科医は笑ったので聡はつられて笑顔になった。
産科医はそろそろ動く頃ですから楽しみにしてくださいね、とも言ったが、いまのところその気配はない。
聡は好きな音楽を掛けながらブランチをゆったりと味わった。
テレビよりは音楽の方が赤ちゃんにいいのだろうと思ったからである。
『赤ちゃんはね、思ったよりずっと外の音を聞いているんですよ。そしてね、お母さんの気持ちに反応して笑ったりするの……すごいでしょ。だから聡さんも気持ちをゆったりと持ってね』
という産科医のアドバイスに従ったのだ。
ブランチを食べ終わって掃除と洗濯をしてしまうと、もう午後になっていた。
聡はカフェインのないハーブティを淹れると、紙袋を取り出した。
中からは……毛糸と編みかけのマフラー。
「イブには仕上げなくちゃね」
このところ独り言が多くなった、と聡は自分で思う……本当は独り言というより赤ちゃんに話し掛けているのだが。
お腹がぽこんと出てきてから、また、産科医のアドバイスを聞いてから、聡は急にお腹の赤ちゃんに人格を感じるようになった。
思い返せば、あの、つわりで苦しかった日々も、聡の苦悩がお腹の赤ちゃんを苦しめていたためではないかとも思う。
――赤ちゃんは赤ちゃんなんだから。
将との将来の不安を感じさせてはいけない。
聡は努力して、楽観的になるようにした。
その楽観に、毛利から月々振り込まれる50万は役に立った。
当初聡はいらない、と固辞しようとしたのだが、
「教師をお辞めになるのでしょうから、引越し代と生活費に」
と言われ、断れなかったのだ。
しかし、聡は今のところ学校を辞めていない。
海外赴任中の婚約者と入籍した嘘をつきながら、勤め続けているのは、学校でなら将の顔を見ることができるというのもある。
しかしそれよりも、初めての教え子たちが卒業するところを見たいという願いのほうが大きかった……。
だから、お金は病院代以外はすべて貯金されることになった。
それは、もし将が受験に失敗し、引き裂かれたとしても、独りで赤ちゃんを育てるのに大きな助けになるだろう。
……そんなことを思いながら、これが母になるしたたかさなのか、と自分に目を見張りながらも、聡は一心に編み棒を動かす。
去年、萩の海岸で将とわけあったマフラー。長身の将はあれよりもっと長いものが似合うはずだ。
お金はあるから、クリスマスにはもっと高いものをプレゼントすることもできる。
だが、そのお金は元を正せば将の家から出たものだ。それでプレゼントを簡単に買ってしまうのは、心がこもっていない気がした。
だから、聡は将の好きな色の毛糸を買って、長いマフラーを自分で編むことにしたのだ。
ふいに、携帯が鳴った。
将の着信音ではない。
『実家』という表示を見て、聡はどきり、とした。
「もしもし」
「あ、聡?」
電話は母だった。聡は固唾を、臓腑深くまで飲み下す。
「あんた、今年はいつから帰ってくるんね?」
そんな聡の様子を知らずか、母は極めて能天気に、いつもこの時期にしてくる質問を投げかけてきた。
聡はお腹を一撫ですると、意を決して言葉を発した。
「今年は帰れん」
「えー?なんでぇ?」
とたんに高い声で抗議する母。……当然である。
大学以来上京している聡だが、留学している時以外は毎年正月に帰郷していたから。
「今年は……友達と……美智子たちとスキーに行くことにしたんよ」
本当は妊娠しているから帰れない、とは言えない。
聡は、両親にだけは、『海外赴任中の婚約者との間に子供が出来た』という嘘をつけないでいた。
今年の正月に、博史と結婚できないと告白してしまったことも、理由の1つではある。
博史とよりを戻して妊娠し籍を入れた、などと説明したら、親は呆れつつも、博史の親に挨拶しなければ、とか簡単でいいから式をあげなくては、と事が大きくなるだろう。
それを聡は恐れたのだ。毛利によるマニュアルには、何かと忙しいからと言い含める、とあったが、聡の両親がそれで納得するとは思えなかった。
かといって、妊娠していない振りをして実家に帰るのは危険だった。
まだお腹はそれほど目立たないとはいえ、四六時中親といれば、聡の体の異変に気付くことは確実だった。
だから聡は……この年末年始は実家に帰るのを自粛したのだった。
嘘が自然に聞こえますように、と祈る気持ちと、嘘をつく後ろめたさ。
……無意識のうちに下腹をさすっていた。
「えー、なんね。正月に帰らんなんて」
母は聡を非難し始めた。
「ごめん……代わりに春休みには帰るけぇ」
春休みには、将と二人で……。
将が合格すれば、きっと二人で結婚の報告をしに、実家に帰ることができる。
ふるさとの、桜の咲く川ぞいの土手を、将と二人で歩く姿を想像しようと聡は努力した。
※東京大学の後期試験は2016年から廃止になりました。
この物語はこの回の段階では2007年が舞台となっています。
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