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第20章 遠い春
第349話 遠い春(4)
しおりを挟む銀色に光る針を透明な液体に浸す。
無色透明……水道水よりも無垢に見えるこの液体は、ごくスムーズに注射器の中に吸い上げられる。
大悟は器用に目盛りピッタリにあわせて吸い上げると、躊躇もせずに自分の皮膚にその針を突き刺す。
そこまで……一切のよどみもなく、顔色ひとつ変えずに進んでいく。
三度の食事よりもスムーズにみえるほどだ。
「大悟さぁ、いつも思うけど~、注射超うめーよな」
薬と酒に半分ラリッたような前原がケケケと笑いながら話し掛けるのを大悟は……まるで聞こえていないように受け流す。
前原がうらやましがるのも無理はない。
器用な大悟は、注射のコツをすっかりつかんでしまっている。
だから、痛みも少なければ、人に怪しまれるような内出血もごくごく少なく済んでいるのだ。1日3~4回打っているにもかかわらず、だ。
ここに連れ戻されて……今まで以上に薬を使うようになるまで、あっという間だった。
ここ、とは。
大悟は前原らと一緒に、とあるマンションに住んでいた。
3LDKの部屋は、食料や衣類などのほかに、パソコンや、雑然と積まれたハガキなどで一見、片付かない事務所のような様相を呈している。
ある意味、そこはオフィス(事務所)だった。
振り込め詐欺から、ワンクリ詐欺。フィッシング。
……人の弱みや隙に付け込んだ、あらゆる犯罪を行うための事務所といえる。
被害者からまきあげたマンションの何箇所かを、脚がつかないように大悟たちグループは点々とまわり、拠点にしていた。
「今はねえ。何でもやんないとね。生き残れないのよ」
いわば事務所長的存在の……尖った靴の男は甘い香りの葉巻を吹かしながらそんなことをたびたびつぶやく。
その男の背中には見事な彫物がほどこされていた。
弁財天をモチーフにしたという背中に彫られた女を、大悟は夏前からあわせて3度ほど目撃している。
目撃したときのことは、思い出したくもない。
ただ『組』関係だというその男は、いろいろな意味で大悟を可愛がった。
幸いなことに、最近は大悟の器用さや能力に惚れこんでくれたらしく、おかげで両刀使いのこの男の相手はしないで済んでいる。
器用で飲み込みのよい大悟は、少し教えられただけで概ねの『作業』をマスターしてしまっていた。
だから大悟は最近はもっぱら、詐欺行為の準備や、フィッシング用のサイトの構築などに重宝されているのだ。
そう、皮肉なことに、まっとうな保護者である西嶋夫妻と同じ理由で、この尖った靴の男は大悟を手元に置いておきたいらしいのだ。
大悟は、薬を打ってしまうと、前原を無視してパソコンに向かった。
別に急ぐ仕事があるわけではないが、大悟は薬によって手に入れた正気を手放さないために目の前に何かの作業を置くことを好んでいる。
「ケッケッケ……」
今日の前原は、何がおかしいのか、ひとりで笑っている。
覚醒剤だけでなく、酒と脱法ドラッグを一気にやってトランス状態に陥る……前原は気持ちがいいから、とよくこれをやる。
しかし今日はいささか過ぎたようだ。
「だ~いご~~~」
呼ばれて大悟は前原を振り返った。同じ中学のせいか、前原は大悟に対して親しげだった。
大悟のほうは、あまり学校に行かなかったせいもあり、同級生との付き合いに線引きをしているようなところがあったのだが。
「だいご~。ひゃっひゃっひゃっ……」
ヨレヨレの前原の左右の視点はあっておらず、歯が欠けた口元からはヨダレが一筋流れている。
それを見た大悟は思わず眉根を寄せてしまったらしい。
前原は大悟の目付きに珍しく敏感に反応した。
「……んだよぉ。大悟。文句、あんのかよぉ」
凄みながらも、視線は虚ろだ。
「ああ~?」
前原は近寄ってきて、大悟の襟を掴もうとした。
しかしそれを避けるべく大悟が少し上体をのけぞらせただけで、手元が狂ったのか、前原はバランスを崩して顔面から転んだ。
「……チキショウ」
なおも、ヨロヨロと大悟にからもうとする前原に、ようやく兄貴分が止めに入る。
だが、興奮した前原は、恐竜のような咆哮をあげて、なおも大悟に掴みかかろうとする。
「お前、調子に乗って、やりすぎなんだよ! しばらく頭冷やせ」
暴れる前原に兄貴分も手を焼いたのか、前原の両腕と両足をガムテープでぐるぐると固定してしまった。
眉を剃りあげ、髪を赤く染めた兄貴分は、年齢は大悟たちといくつも違わないのにこういう残酷なことを平然と行えるらしい。
もちろん大悟は要領がいいから、そんな風にされることは、まずない。
前原は自分の状態がよくわかっていないのか、しばらく自由のきかなくなった手足のまま芋虫のようにうねっていたが、しまいには
「ごめんなさい、ごめんなさい」
誰ともなしに懇願を始める。
一部始終を見ていた大悟は、ガムテープで両手両足を縛られた前原を見て、自分の近未来の姿を見た気がして、ぞくっとする。
だけど、やめられないのだ。
覚醒剤。シャブ。……廃人になるかも、とわかっているのに、大悟はそれに再び依存してしまっていた。
薬がもたらす昂揚感が、すでに大悟にとっての正気になってしまっている。
その薬が少しでも不足すると……大悟はいろいろなことを思い出してしまうのだ。
赤い霧になってしまった瑞樹。
自分のせいで……一家心中を図った前の保護者一家。
中学の頃、自分を弄んだ男たち。
そして、将への……恨み。
忘れてしまいたい、覆い被せてしまいたい一切は……薬が切れると一斉に大悟を攻撃し始めるのだ。
このグループに戻ってきたばかりの頃、テレビに映った将に、ラリッた前原がグラスを投げつけたことがあった。
まだドラマが始まったばかりで、将がさまざまな番宣バラエティに出ていた頃だ。
ラリっていた前原が投げたグラスは、テレビの画面をはずれて背後の壁に当たって砕けた。
グラスが割れる音は、前原をよけいに興奮させたらしい。前原は叫んだ。
「大悟ォ。瑞樹がミンチになったのは俺のせいじゃないぜ。コイツのせいなんだぜ!」
少年院を出所してすぐに前原は瑞樹の悲惨な死に様を聞いたらしい。
瑞樹が深刻な覚醒剤中毒だったらしいことも。
瑞樹に覚醒剤を教えた良心の呵責から……必死で逃れようとしているのだろうか。
前原は唾を飛ばしながら、瑞樹の死を将に押し付けようとしていた。
大悟は、荒れ始める心の波を抑えながら、そんなことをいまさら言っても仕方がないと
「やめろよ」
とたしなめる。しかし前原の罵声は止まない。
「将のやつ、ムカつくぜ」
大型の液晶画面の中では、将が照れたような笑顔を浮かべていた。
「殺人者のくせによォ……。何が俳優だ」
無視してチャンネルを変えようとした大悟は、それを聞いて思わず目をあげる。
あのヤクザ殺しの犯人が……本当は将だというのは、大悟と将、将の父親と弁護士しか知らないはずなのに。
前原は顔色が変わった大悟に勝ち誇ったような表情になる。
「俺、全部知ってるんだぜ」
そういってのけると、ひゃっひゃっひゃっと笑う。
狂人のような笑いに、大悟はどう対処していいかわからない。
「何で知ってるか教えてやろうか。俺、あんときお前の部屋のすぐ外にいたんだぜえ~。怖くてすぐ逃げたけど」
前原の口調は、ひゃらひゃらしているものの、あの現場にいたというのは本当らしいと大悟は直感した。
「大悟、お前、悔しくないのかよぉー。やってもない殺人罪着せられてヨォ。年少入りさせられてよぉ……んとに可哀想なやつだぜ」
動きが止まった大悟に、前原はいざるようにして近寄ってきた。そして顔を覗き込むと
「おまけに、瑞樹は将のお古だしさあ」
とニヤリと笑った。……どうやら、前原は大悟と瑞樹が付き合っていたことも知っているらしい。
大悟は勢いよく立ち上がると、鋭い目で前原を見下ろした。
へらへらしている前原でもさすがに……その殺気さえ含む視線に気付いたらしい。
「うわ、殴る?マジ殴る?殴らないでよ。……冗談だからさ」
首をすくめて助けを求める前原に対し……大悟は、手を振り上げもせず、そのまま握り締めた。爪が掌に食い込む。
その脳裏には瑞樹の最期が自動的に再生されている……死の間際まで……自分を将と間違えてまで、将の名前を呼んでいた瑞樹が。
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