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2:初?登校の波乱(3)
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海斗の視線は、どうしても里玖へと吸い寄せられてしまう。視線の先には、教壇に立つ里玖がいる。
黒板の前に立つ里玖の視線が、ふとこちらへ向けられたように見えたのは――気のせいだろうか。
今日の里玖は、昨日のような硬質なパンツスーツではなかった。
黒の細身のパンツに、紺色の襟付きシャツ。その上に柔らかなグレーのカーディガンを羽織っている。
少しだけ印象は和らいだが、かつての彼女が好んでいた、ゆるいニットやカジュアルなデニム姿とは程遠い。
昨日と同じく眼鏡をかけた彼女の瞳が事務的に出席簿を追う。
(少し……痩せたのかな)
海斗は思わず、その服の中身を思い浮かべてしまいそうになる。さっきの杏奈とは逆に、里玖のそれはとても控えめだったはずだ。
初めて抱いたとき「なさすぎて恥ずかしいから」と腕で隠すようにしていた可憐な里玖……。
しかし、出席を取る凛とした声に、海斗が懐かしんでいたエロティックな記憶は自然に失せた。
逆にあの頃から程遠いこの現実に、胸の奥を締め付けられるようだった。
そして彼女が本当に「先生」になったのだという現実をあらためて噛み締めざるを得ない。
大学時代、里玖が「いざという時のために」と教職課程を履修していたことは覚えている。けれど、海斗の記憶にある直近の里玖は、教壇とは真逆の場所にいた。
海斗の夢を一緒に追いかけたいからと、昼はお弁当屋さんの調理補助、夜は時給の良い塾の講師と、二つのバイトを掛け持ちしていたはずだった。
「……。では一時間目は、視聴覚室へ移動してください」
里玖の声が、静かに教室へ響く。
海斗は彼女を凝視していたが、意識は過去の追憶の中にあった。おかげで里玖がホームルームで何を話し、何に注意したのか、その言葉の断片すら頭に残っていない。
周囲の生徒たちがノートと筆記用具を手に、思い思いに席を立ち始める。
椅子を引く音や話し声が重なる中、海斗だけが呆けたように座っていた。
すると、教壇を降りた里玖が、迷いのない足取りでこちらへ歩いてくるではないか。
「えっ」
思わず声が漏れた。 立ち上がった海斗の目の前に、里玖が立っている。
至近距離。
(まさか、俺の正体に気づいたのか……?)
心臓がうるさいほどに跳ねる。
「朝倉君」
けれど、その唇からこぼれたのは、今の自分の「名前」だった。期待は見事に、そして無慈悲に裏切られる。
「昨日は、いきなり叩いたりして本当にごめんなさい。軽率でした」
この翔生という生徒に対し、里玖は深々と頭を下げた。
海斗はなんと答えていいかわからず「あ、いえ……」とあいまいな言葉を小さく発することしかできない。
「……それで、体は、本当に大丈夫ですか?」
眼鏡の奥の里玖の瞳に浮かぶのは、責任感だ。 そうだ。今の自分は、バイクで事故を起こして十メートルも飛ばされた「朝倉翔生」という教え子なのだ。
海斗の知っている里玖なら――もしも海斗自身がそんな事故に遭ったと知れば、もっと泣きそうな顔、いや泣いちゃっていただろう。
今の彼女が見せているのは、あくまで「担任教師が生徒を気遣う」という仕事上の義務と責任感の上での優しさだ。
自分は恋人の海斗とは別人であり、空白の五年間という歳月が、二人を決定的に隔てている。その事実が、氷の粒が胸の奥に落ちて、ゆっくり溶けていくようだった。
それでも――里玖に気にかけてもらえたことは、染み入るように嬉しかった。
「……大丈夫です」
「そう。無理はしないでくださいね。それと――」
余韻に浸る隙も与えられなかった。
里玖の表情から「心配」という柔らかさが消える。
「朝倉君、進路希望調査フォームへの入力がまだですね。締め切りは先週だったので、できるだけ早く入力してください。もう朝倉君以外はみんな提出済みですよ」
畳み掛けられる注意の言葉。完全に“担任の先生”の口調だった。
さっきまでの心配の色は消え、表情は事務的なものに変わっている。
(里玖、こんな真面目な顔もするんだな)
でもそんな厳しい表情ですら、愛おしくてたまらない。
「ショーウー! 何してんの、行くよー!」
教室の出口で杏奈が手を振っている。海斗は杏奈へ「今いく」と短く返事すると、里玖へは
「提出物の件、了解です!」
と短く返事をした。
その瞬間、里玖の瞳がわずかに見開かれた。
黒板の前に立つ里玖の視線が、ふとこちらへ向けられたように見えたのは――気のせいだろうか。
今日の里玖は、昨日のような硬質なパンツスーツではなかった。
黒の細身のパンツに、紺色の襟付きシャツ。その上に柔らかなグレーのカーディガンを羽織っている。
少しだけ印象は和らいだが、かつての彼女が好んでいた、ゆるいニットやカジュアルなデニム姿とは程遠い。
昨日と同じく眼鏡をかけた彼女の瞳が事務的に出席簿を追う。
(少し……痩せたのかな)
海斗は思わず、その服の中身を思い浮かべてしまいそうになる。さっきの杏奈とは逆に、里玖のそれはとても控えめだったはずだ。
初めて抱いたとき「なさすぎて恥ずかしいから」と腕で隠すようにしていた可憐な里玖……。
しかし、出席を取る凛とした声に、海斗が懐かしんでいたエロティックな記憶は自然に失せた。
逆にあの頃から程遠いこの現実に、胸の奥を締め付けられるようだった。
そして彼女が本当に「先生」になったのだという現実をあらためて噛み締めざるを得ない。
大学時代、里玖が「いざという時のために」と教職課程を履修していたことは覚えている。けれど、海斗の記憶にある直近の里玖は、教壇とは真逆の場所にいた。
海斗の夢を一緒に追いかけたいからと、昼はお弁当屋さんの調理補助、夜は時給の良い塾の講師と、二つのバイトを掛け持ちしていたはずだった。
「……。では一時間目は、視聴覚室へ移動してください」
里玖の声が、静かに教室へ響く。
海斗は彼女を凝視していたが、意識は過去の追憶の中にあった。おかげで里玖がホームルームで何を話し、何に注意したのか、その言葉の断片すら頭に残っていない。
周囲の生徒たちがノートと筆記用具を手に、思い思いに席を立ち始める。
椅子を引く音や話し声が重なる中、海斗だけが呆けたように座っていた。
すると、教壇を降りた里玖が、迷いのない足取りでこちらへ歩いてくるではないか。
「えっ」
思わず声が漏れた。 立ち上がった海斗の目の前に、里玖が立っている。
至近距離。
(まさか、俺の正体に気づいたのか……?)
心臓がうるさいほどに跳ねる。
「朝倉君」
けれど、その唇からこぼれたのは、今の自分の「名前」だった。期待は見事に、そして無慈悲に裏切られる。
「昨日は、いきなり叩いたりして本当にごめんなさい。軽率でした」
この翔生という生徒に対し、里玖は深々と頭を下げた。
海斗はなんと答えていいかわからず「あ、いえ……」とあいまいな言葉を小さく発することしかできない。
「……それで、体は、本当に大丈夫ですか?」
眼鏡の奥の里玖の瞳に浮かぶのは、責任感だ。 そうだ。今の自分は、バイクで事故を起こして十メートルも飛ばされた「朝倉翔生」という教え子なのだ。
海斗の知っている里玖なら――もしも海斗自身がそんな事故に遭ったと知れば、もっと泣きそうな顔、いや泣いちゃっていただろう。
今の彼女が見せているのは、あくまで「担任教師が生徒を気遣う」という仕事上の義務と責任感の上での優しさだ。
自分は恋人の海斗とは別人であり、空白の五年間という歳月が、二人を決定的に隔てている。その事実が、氷の粒が胸の奥に落ちて、ゆっくり溶けていくようだった。
それでも――里玖に気にかけてもらえたことは、染み入るように嬉しかった。
「……大丈夫です」
「そう。無理はしないでくださいね。それと――」
余韻に浸る隙も与えられなかった。
里玖の表情から「心配」という柔らかさが消える。
「朝倉君、進路希望調査フォームへの入力がまだですね。締め切りは先週だったので、できるだけ早く入力してください。もう朝倉君以外はみんな提出済みですよ」
畳み掛けられる注意の言葉。完全に“担任の先生”の口調だった。
さっきまでの心配の色は消え、表情は事務的なものに変わっている。
(里玖、こんな真面目な顔もするんだな)
でもそんな厳しい表情ですら、愛おしくてたまらない。
「ショーウー! 何してんの、行くよー!」
教室の出口で杏奈が手を振っている。海斗は杏奈へ「今いく」と短く返事すると、里玖へは
「提出物の件、了解です!」
と短く返事をした。
その瞬間、里玖の瞳がわずかに見開かれた。
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