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5:激流の向こう側(7)
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「七海ちゃんが……いなくなりました!」
若林先生が里玖のところへ血相を変えて駆けこんできた。里玖は胸が一瞬どきりと動いたが、また七海の“抜け出し癖”が出たのだとすぐに思い直した。
「またあの子……。若林先生、本当に申し訳ありません」
小さな子どもだ。そう遠くへ行けるはずがない――そう、甘く考えていた。
ティータイムを楽しんでいた同僚たちも顔を見合わせ、
「じゃあ、私たちもまわりを探してみましょうか」
と立ち上がった。まだ緊迫感はなく、日常の延長上のような雰囲気だった。
一方その頃、海斗とアキトは、増水した川の岸辺近くの浅瀬に流れ着いた異物と格闘していた。
「なんでこんな所に自転車が埋まっとうとよ……」
「今日の雨で流されてきたんやろ。いくぞアキト、せーの!」
埋まっているのか、それとも流木に絡まっているのか、なかなか動かない。
「おーい、気をつけろよ!」
向こうから教師が声をかける。このあたりは本流から離れていて流れは緩いが、それでも油断はできない。
「うおおおおっ!」「おりゃあああっ!」
二人が声を合わせて力を込めると、泥の中からざばりと、ひどくひん曲がったマウンテンバイクが姿を現した。
タイヤは曲がり、フレームも歪んでいて、もう乗れる状態ではない。それでも二人はひと仕事した達成感に浸っていた――そんなとき。
杏奈が、血相を変えて二人の前に飛び込んできた。
「どうしよう……ショウ、どうしよう……七海くんがいなくなっちゃった!」
「どうしたん!」
詰め寄る海斗に、杏奈は涙声で事情を話し始めた。
クラスの女子から浮きがちだった杏奈は、バーベキューのあとも清掃活動に参加せず、離れた場所でひとりでスマホをいじっていた。
ふと目を上げた杏奈の視界に、草むらで何かを探している七海の小さな背中が映った。
気晴らしに声をかけてみた。
『お姉ちゃんとお散歩しない?』
『うん!』
七海は嬉しそうに立ち上がると杏奈の手を取った。
「で、七海と一緒に散歩していたのに、なんでいなくなったと?」
「野いちごを探してたら……」
二人で林の散歩道を歩いていると、道端の草むらに赤い実が光っていた。
『ななみくん、野いちごだよ。ほら』
『いちご?』
『野いちご。ラズベリーの仲間だよ』
杏奈はしゃがみ込み、熟した実を摘んで七海の前で食べて見せた。
『おいし~。まんまラズベリーじゃん。ななみくんも食べてみ?』
七海は目を輝かせて頬張り、
『おいちい!』
と目を輝かせた。
見ると、その周辺には、誰にも摘まれず熟した野いちごが群生しているようだった。
『七海くん、これ、集めようか』
『うん! ままにもあげたい!』
二人は夢中で実を摘み続け――杏奈が気づいた時には、七海の姿が消えていた。
「ごめん……ショウ……。ほんとに、気づいたらいなくて……」
「いなくなったの、どのへん?」
「こっち!」
海斗、アキト、杏奈が、駆け出そうとしたその時――
「いたぞー!!」
遠くから叫び声が響いた。
里玖、教師たち、そして海斗たちは一斉に声の方へ走った。
里玖は、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
七海がいた。
増水した川の中ほど――岩にしがみつき、必死で耐えていた。
小さな腕は震え、指が白くなるまでに、岩を掴んでいた。
濁流は下腹部まで達し、激しい水圧が今にも彼を剥ぎ取ろうとしていた。
「七海! 七海ぃー!!」
半狂乱になった里玖が川へ飛び込もうとするのを、周囲の教師たちが必死に押さえつけた。
「危険です! 先生、下がって!」
そこは川幅が広がり、流れがやや緩む砂地の浅瀬だった。だが雨上がりの濁流は不規則で、足をすくわれれば一瞬で流される。
七海は目をぎゅっと閉じ、ただ岩にしがみついていた。
「誰かロープを! 急いで!」
若林先生が救助に向かう準備をする。
腰にロープを巻き、周囲の大人たちに支えられながら救助に向かう。
水深は大人の股下ほど、慎重に進めば救助は可能――そのはずだった。
しかし足元をすくう水流の力は凄まじい。一歩、また一歩と距離を詰めようとするが、七海まであと数メートルが遠い。
キャンプ場の客たちも集まり、緊張が走る。
海斗は、七海の少し下流側の最前列で、息を呑んで見守っていた。
「七海くん、がんばれよ!」
若林先生が声をかけながら近づく。
その瞬間――
突如、川の轟音が一段と高まり、壁のような水量が押し寄せた。
「うわっ――!」
足を取られた若林先生が濁流に倒れ込んだ。
次の瞬間、七海の小さな体が、岩から剥がされるように流れへさらわれた。
「あっ!!!」
誰かの叫びが響いた時には、海斗の体はすでに泥水の中にあった。
考えるより先に、体が動いて――濁流の中に飛び込んでいた。無我夢中だった。
「ショウ!!」
「朝倉くん!」
絶叫を背に、海斗は濁流の最も速い「筋」に乗った。流される七海の小さな頭。
海斗は驚異的なストロークでその距離を詰め、流されていく七海に追いついた。
だが、その先には岩が迫る狭窄部――急流の落ち込みが待っている。二人の姿は、濁流とともに水飛沫の中に消えた。
「119番! 早く!」
里玖は、そして人々は、絶望に駆られながらも下流へと走った。
狭窄部の先は、川幅が広がり流れが停滞する淵(ふち)になっていた。急流が落ち込んだあと、深く静かなプールのような水域が広がっている。
その本流から少し外れた水面に――ぽかり、と二つの頭が浮かんだ。
「出たぞ!!」
ざわめきが歓声に変わる。二つの頭はそのまま岸に向かっている。
やがて朝倉祥生が七海を抱え、底を蹴って立ち上がった。二人とも泥水にまみれている。
祥生は肩で息をしながら水の中を歩いてくる。
「もう……大丈夫や。七海」
七海を岸辺にいる教師らに渡すなり、祥生は砂地に座り込んだ。服はあちこち綻んでボロボロ、半袖の腕には血がにじんだ擦り傷が痛々しい。
七海は咳き込みながらも、意識ははっきりしていた。ケガもしていないようだ。
七海の無事を確認した瞬間、里玖は安堵からその場に崩れ落ちた。何か言おうとしても言葉にならず、ただ溢れる涙が止まらなかった。
若林先生が里玖のところへ血相を変えて駆けこんできた。里玖は胸が一瞬どきりと動いたが、また七海の“抜け出し癖”が出たのだとすぐに思い直した。
「またあの子……。若林先生、本当に申し訳ありません」
小さな子どもだ。そう遠くへ行けるはずがない――そう、甘く考えていた。
ティータイムを楽しんでいた同僚たちも顔を見合わせ、
「じゃあ、私たちもまわりを探してみましょうか」
と立ち上がった。まだ緊迫感はなく、日常の延長上のような雰囲気だった。
一方その頃、海斗とアキトは、増水した川の岸辺近くの浅瀬に流れ着いた異物と格闘していた。
「なんでこんな所に自転車が埋まっとうとよ……」
「今日の雨で流されてきたんやろ。いくぞアキト、せーの!」
埋まっているのか、それとも流木に絡まっているのか、なかなか動かない。
「おーい、気をつけろよ!」
向こうから教師が声をかける。このあたりは本流から離れていて流れは緩いが、それでも油断はできない。
「うおおおおっ!」「おりゃあああっ!」
二人が声を合わせて力を込めると、泥の中からざばりと、ひどくひん曲がったマウンテンバイクが姿を現した。
タイヤは曲がり、フレームも歪んでいて、もう乗れる状態ではない。それでも二人はひと仕事した達成感に浸っていた――そんなとき。
杏奈が、血相を変えて二人の前に飛び込んできた。
「どうしよう……ショウ、どうしよう……七海くんがいなくなっちゃった!」
「どうしたん!」
詰め寄る海斗に、杏奈は涙声で事情を話し始めた。
クラスの女子から浮きがちだった杏奈は、バーベキューのあとも清掃活動に参加せず、離れた場所でひとりでスマホをいじっていた。
ふと目を上げた杏奈の視界に、草むらで何かを探している七海の小さな背中が映った。
気晴らしに声をかけてみた。
『お姉ちゃんとお散歩しない?』
『うん!』
七海は嬉しそうに立ち上がると杏奈の手を取った。
「で、七海と一緒に散歩していたのに、なんでいなくなったと?」
「野いちごを探してたら……」
二人で林の散歩道を歩いていると、道端の草むらに赤い実が光っていた。
『ななみくん、野いちごだよ。ほら』
『いちご?』
『野いちご。ラズベリーの仲間だよ』
杏奈はしゃがみ込み、熟した実を摘んで七海の前で食べて見せた。
『おいし~。まんまラズベリーじゃん。ななみくんも食べてみ?』
七海は目を輝かせて頬張り、
『おいちい!』
と目を輝かせた。
見ると、その周辺には、誰にも摘まれず熟した野いちごが群生しているようだった。
『七海くん、これ、集めようか』
『うん! ままにもあげたい!』
二人は夢中で実を摘み続け――杏奈が気づいた時には、七海の姿が消えていた。
「ごめん……ショウ……。ほんとに、気づいたらいなくて……」
「いなくなったの、どのへん?」
「こっち!」
海斗、アキト、杏奈が、駆け出そうとしたその時――
「いたぞー!!」
遠くから叫び声が響いた。
里玖、教師たち、そして海斗たちは一斉に声の方へ走った。
里玖は、視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
七海がいた。
増水した川の中ほど――岩にしがみつき、必死で耐えていた。
小さな腕は震え、指が白くなるまでに、岩を掴んでいた。
濁流は下腹部まで達し、激しい水圧が今にも彼を剥ぎ取ろうとしていた。
「七海! 七海ぃー!!」
半狂乱になった里玖が川へ飛び込もうとするのを、周囲の教師たちが必死に押さえつけた。
「危険です! 先生、下がって!」
そこは川幅が広がり、流れがやや緩む砂地の浅瀬だった。だが雨上がりの濁流は不規則で、足をすくわれれば一瞬で流される。
七海は目をぎゅっと閉じ、ただ岩にしがみついていた。
「誰かロープを! 急いで!」
若林先生が救助に向かう準備をする。
腰にロープを巻き、周囲の大人たちに支えられながら救助に向かう。
水深は大人の股下ほど、慎重に進めば救助は可能――そのはずだった。
しかし足元をすくう水流の力は凄まじい。一歩、また一歩と距離を詰めようとするが、七海まであと数メートルが遠い。
キャンプ場の客たちも集まり、緊張が走る。
海斗は、七海の少し下流側の最前列で、息を呑んで見守っていた。
「七海くん、がんばれよ!」
若林先生が声をかけながら近づく。
その瞬間――
突如、川の轟音が一段と高まり、壁のような水量が押し寄せた。
「うわっ――!」
足を取られた若林先生が濁流に倒れ込んだ。
次の瞬間、七海の小さな体が、岩から剥がされるように流れへさらわれた。
「あっ!!!」
誰かの叫びが響いた時には、海斗の体はすでに泥水の中にあった。
考えるより先に、体が動いて――濁流の中に飛び込んでいた。無我夢中だった。
「ショウ!!」
「朝倉くん!」
絶叫を背に、海斗は濁流の最も速い「筋」に乗った。流される七海の小さな頭。
海斗は驚異的なストロークでその距離を詰め、流されていく七海に追いついた。
だが、その先には岩が迫る狭窄部――急流の落ち込みが待っている。二人の姿は、濁流とともに水飛沫の中に消えた。
「119番! 早く!」
里玖は、そして人々は、絶望に駆られながらも下流へと走った。
狭窄部の先は、川幅が広がり流れが停滞する淵(ふち)になっていた。急流が落ち込んだあと、深く静かなプールのような水域が広がっている。
その本流から少し外れた水面に――ぽかり、と二つの頭が浮かんだ。
「出たぞ!!」
ざわめきが歓声に変わる。二つの頭はそのまま岸に向かっている。
やがて朝倉祥生が七海を抱え、底を蹴って立ち上がった。二人とも泥水にまみれている。
祥生は肩で息をしながら水の中を歩いてくる。
「もう……大丈夫や。七海」
七海を岸辺にいる教師らに渡すなり、祥生は砂地に座り込んだ。服はあちこち綻んでボロボロ、半袖の腕には血がにじんだ擦り傷が痛々しい。
七海は咳き込みながらも、意識ははっきりしていた。ケガもしていないようだ。
七海の無事を確認した瞬間、里玖は安堵からその場に崩れ落ちた。何か言おうとしても言葉にならず、ただ溢れる涙が止まらなかった。
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