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9:悪夢(2)
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その夜、海斗はなんとかシャワーだけ浴びると、布団に倒れ込むようにして眠りについた。
体の芯がじんじんと熱を帯び、呼吸が浅くなる。
額に触れてみると、淹れたてのコーヒーポットのように熱い。
(……やば……これ、完全に風邪やん……)
意識の境界が、熱に溶かされていく。
海斗は、底なしの暗闇の中で自分を見失っていた。
* * *
暗闇の中、誰かの足音が響く。
ふと顔を上げると、目の前に「自分」が立っている。
――いや、それは黄色い髪を揺らした、朝倉翔生だった。
薄く笑っている。その笑みは、ぞっとするほど冷たい。
『……そろそろ、俺の体を返してもらうけん』
低い声が、闇の中で反響する。自分が自分に話しかけている。
翔生は海斗の目の前に立つと、そのまま前に進んでくる――海斗は翔生にのっとられた。
海斗は自分がどこにいるのかわからない。いや……周囲の暗闇そのものになったように手も足も感じられないまま、うっすら笑う翔生を眺めている。
翔生は、いつのまにか横に立っていた里玖の手首を掴んだ。
「やめろ!」
叫ぼうにも声が出ない。里玖は振り返るが、無表情だった。心ここにあらずというような顔で、翔生に連れられて行く。
「待てってば! 里玖、行ったらいかん!」
声にならない叫びは、届かない。翔生は里玖を引きずるようにして闇の奥へと遠ざかっていく。
「里玖——!!」
声にならない絶叫がようやく形を成したとき、海斗は自分の体を実感した。自衛官だった頃の――元の体。
里玖を追いかけようと地を蹴ったその瞬間。
「喝——ッ!!」
どこからか雷鳴のような鋭い声が響き渡った。
瞬間、海斗の視界が暗闇から白く弾ける。
(……え……?)
衝撃波を浴びたように、体が砂のように崩れ、四散していく。輪郭がなくなる。自分という存在が、音もなく消えていく感覚。
(や……だ……里玖……)
最後に思い浮かんだのは、泣きそうな顔で自分を呼ぶ里玖の姿だった。
* * *
「――翔生さん! 翔生ぼっちゃん、大丈夫ですか!」
家政婦の志乃さんが青ざめた顔で肩を揺さぶって、視界が揺れながら戻ってきた。
海斗の全身は嫌な汗でびっしょりと濡れ、頭が割れそうに痛い。
「顔が真っ赤ですよ。すぐ先生を呼びますからね!」
(先生……? 呼ぶ……?)
意識がぼんやりしている。志乃さんがいう「先生」を里玖としばらく勘違いしていた。
「いいよ、迷惑だよ……大丈夫だから」
声にならなかったらしい。まもなく白衣を着た医師が自室に現れた。
(はは……そっちの先生か……。日曜なのに、医者が呼べば来るって……どういう家なんや、ここは)
***
往診に来た医師は、かなり若そうに見えた。
さっそく、カバンから細長いプラスチックの判定器を取り出し、海斗の鼻に綿棒を突っ込んで検体を採取した。
やがて検査キットの結果が出た。
「感染症も陰性、つまり、夏風邪の可能性が高いですね」
医師は診断を下した。
「ただの風邪ですが――」
「ですが?」志乃さんが繰り返す。
「このあと熱が下がっても、あと三日は学校を休ませて、しっかり栄養を摂って養生させてください」
さらに念を押すように海斗に向き直って言う。
「若いから、熱下がったら治ったー、って勘違いすると思いますが、免疫がスカスカの状態ですからね。外に出たら別の病気をもらってくるだけなので、大人しく安静にしてくださいよ。いいですね」
注射を打ってもらって少し楽になった頭で(そんな大げさな……)と海斗は思う。
でも、ベッドに押し付けられるように沈み込んでいく体感は、たしかに無理ができない状況だった。
* * *
日曜・月曜と寝込んでいる間に、スマホにはアキトからは LINE、里玖からはショートメッセージが届いていた。
いずれも欠席を心配する内容だった。
それぞれに「風邪ひいちゃった」と軽く返しておく。
杏奈からは――何もない。
(……まあ、いいけど)
火曜日の朝早く。体温計の数字が「36.5」を示した瞬間、海斗の胃袋が雄叫びを上げた。
「……腹減った……!」
志乃さんが作ってくれたまま、食欲がなくて冷蔵庫にしまってあった卵がゆを温めてかき込む。
優しい出汁の味が喉を通るたび、体がほぐれていく。
(……うまいけど……これじゃ全然足りん)
体が回復した途端、“がつんとした味”を求める本能が目を覚ました。
「肉肉肉。がつんとしたもの……食いたい……」
海斗は立ち上がり、キッチンへ向かう。
「そーだ。どうせ学校休まないかんし、暇やし……バクテー※とか作っちゃお」
胡椒とガーリックを効かせて柔らかく煮込んだスペアリブにかぶりつくところを想像しただけで、体中の細胞が歓声をあげているのがわかった。
そのとき、スマホが震えた。
心配する里玖からのショートメッセージ。
そうだ、とさらに名案を思いつく。ついでに里玖が好きな「ラクサ※」も作って招待しちゃおう。
今夜は夏らしく二人でエスニックパーティだ。
-『もうぜんぜん元気。里玖が好きなラクサ作るけん、こっちに食べにおいでよ』
※注釈※
※バクテー:スペアリブをスパイスと共にほろほろになるまで煮込んだエスニック料理。胡椒とガーリックを効かせるのはシンガポール風。
※ラクサ:海老の出汁とココナッツミルクを合わせたスパイシーなスープが特徴の麺料理。麺は太めのビーフン、具に厚揚げが入る。
体の芯がじんじんと熱を帯び、呼吸が浅くなる。
額に触れてみると、淹れたてのコーヒーポットのように熱い。
(……やば……これ、完全に風邪やん……)
意識の境界が、熱に溶かされていく。
海斗は、底なしの暗闇の中で自分を見失っていた。
* * *
暗闇の中、誰かの足音が響く。
ふと顔を上げると、目の前に「自分」が立っている。
――いや、それは黄色い髪を揺らした、朝倉翔生だった。
薄く笑っている。その笑みは、ぞっとするほど冷たい。
『……そろそろ、俺の体を返してもらうけん』
低い声が、闇の中で反響する。自分が自分に話しかけている。
翔生は海斗の目の前に立つと、そのまま前に進んでくる――海斗は翔生にのっとられた。
海斗は自分がどこにいるのかわからない。いや……周囲の暗闇そのものになったように手も足も感じられないまま、うっすら笑う翔生を眺めている。
翔生は、いつのまにか横に立っていた里玖の手首を掴んだ。
「やめろ!」
叫ぼうにも声が出ない。里玖は振り返るが、無表情だった。心ここにあらずというような顔で、翔生に連れられて行く。
「待てってば! 里玖、行ったらいかん!」
声にならない叫びは、届かない。翔生は里玖を引きずるようにして闇の奥へと遠ざかっていく。
「里玖——!!」
声にならない絶叫がようやく形を成したとき、海斗は自分の体を実感した。自衛官だった頃の――元の体。
里玖を追いかけようと地を蹴ったその瞬間。
「喝——ッ!!」
どこからか雷鳴のような鋭い声が響き渡った。
瞬間、海斗の視界が暗闇から白く弾ける。
(……え……?)
衝撃波を浴びたように、体が砂のように崩れ、四散していく。輪郭がなくなる。自分という存在が、音もなく消えていく感覚。
(や……だ……里玖……)
最後に思い浮かんだのは、泣きそうな顔で自分を呼ぶ里玖の姿だった。
* * *
「――翔生さん! 翔生ぼっちゃん、大丈夫ですか!」
家政婦の志乃さんが青ざめた顔で肩を揺さぶって、視界が揺れながら戻ってきた。
海斗の全身は嫌な汗でびっしょりと濡れ、頭が割れそうに痛い。
「顔が真っ赤ですよ。すぐ先生を呼びますからね!」
(先生……? 呼ぶ……?)
意識がぼんやりしている。志乃さんがいう「先生」を里玖としばらく勘違いしていた。
「いいよ、迷惑だよ……大丈夫だから」
声にならなかったらしい。まもなく白衣を着た医師が自室に現れた。
(はは……そっちの先生か……。日曜なのに、医者が呼べば来るって……どういう家なんや、ここは)
***
往診に来た医師は、かなり若そうに見えた。
さっそく、カバンから細長いプラスチックの判定器を取り出し、海斗の鼻に綿棒を突っ込んで検体を採取した。
やがて検査キットの結果が出た。
「感染症も陰性、つまり、夏風邪の可能性が高いですね」
医師は診断を下した。
「ただの風邪ですが――」
「ですが?」志乃さんが繰り返す。
「このあと熱が下がっても、あと三日は学校を休ませて、しっかり栄養を摂って養生させてください」
さらに念を押すように海斗に向き直って言う。
「若いから、熱下がったら治ったー、って勘違いすると思いますが、免疫がスカスカの状態ですからね。外に出たら別の病気をもらってくるだけなので、大人しく安静にしてくださいよ。いいですね」
注射を打ってもらって少し楽になった頭で(そんな大げさな……)と海斗は思う。
でも、ベッドに押し付けられるように沈み込んでいく体感は、たしかに無理ができない状況だった。
* * *
日曜・月曜と寝込んでいる間に、スマホにはアキトからは LINE、里玖からはショートメッセージが届いていた。
いずれも欠席を心配する内容だった。
それぞれに「風邪ひいちゃった」と軽く返しておく。
杏奈からは――何もない。
(……まあ、いいけど)
火曜日の朝早く。体温計の数字が「36.5」を示した瞬間、海斗の胃袋が雄叫びを上げた。
「……腹減った……!」
志乃さんが作ってくれたまま、食欲がなくて冷蔵庫にしまってあった卵がゆを温めてかき込む。
優しい出汁の味が喉を通るたび、体がほぐれていく。
(……うまいけど……これじゃ全然足りん)
体が回復した途端、“がつんとした味”を求める本能が目を覚ました。
「肉肉肉。がつんとしたもの……食いたい……」
海斗は立ち上がり、キッチンへ向かう。
「そーだ。どうせ学校休まないかんし、暇やし……バクテー※とか作っちゃお」
胡椒とガーリックを効かせて柔らかく煮込んだスペアリブにかぶりつくところを想像しただけで、体中の細胞が歓声をあげているのがわかった。
そのとき、スマホが震えた。
心配する里玖からのショートメッセージ。
そうだ、とさらに名案を思いつく。ついでに里玖が好きな「ラクサ※」も作って招待しちゃおう。
今夜は夏らしく二人でエスニックパーティだ。
-『もうぜんぜん元気。里玖が好きなラクサ作るけん、こっちに食べにおいでよ』
※注釈※
※バクテー:スペアリブをスパイスと共にほろほろになるまで煮込んだエスニック料理。胡椒とガーリックを効かせるのはシンガポール風。
※ラクサ:海老の出汁とココナッツミルクを合わせたスパイシーなスープが特徴の麺料理。麺は太めのビーフン、具に厚揚げが入る。
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