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12:君を置いて(1)
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「海斗、海斗ってば」
目の前でひらひらと手を振られ、海斗はようやく現実に引き戻された。
「ああ……悪い、里玖」
箸を持ったまま、海斗はぼんやりしていた。
土曜日の営業を終えた沖島食堂。客席テーブルの一角で遅い夕食を兼ねた反省会が行われていた。
里玖が心配そうにのぞき込んでくる。その横で、波多野が苦笑しながらもう一度繰り返した。
「だからな、団地まつりのメニューのことだよ。焼きそばと、『バル沖島』からフィッシュアンドチップス。これでいいかね」
始めるなり大人気となった、土曜の夜の国際色豊かな特別メニュー群を『バル沖島』と呼ぶようになっていた。
「え、あ。うん。いいんじゃない」
何の話だかほとんど聞いていなかった海斗は、とりあえず生返事をする。
「なんか、疲れとうごたーね」と圭子。
「……ああ、ごめん。ずっと一夜漬けやったけん」
海斗は曖昧に笑って誤魔化した。
「まあ、まだ時間はあるけん。何かいいアイデアを思いついたら連絡しー」
波多野はそれ以上追及せず、麦茶を飲んだ。
海斗は、胸の奥に重い石を抱えたまま、箸を動かした。
* * *
その夜、海斗は里玖の家に泊まった。海斗が泊まるときいて七海は大喜びだった。
「……なあ、里玖。今日は……一緒に寝よう」
唐突に言われて、里玖は一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかく笑った。
「……うん。いいよ。なにもせんけんね?」
「わかってるって」
興奮気味の七海を真ん中にして、三人で川の字になって寝床に横たわる。
はしゃいでいた七海だったが、照明が消えて暗くなると、遅い時間だったせいかすぐに寝息を立てはじめた。
里玖はそっと七海を抱き上げて端に移動させると、自分から海斗の腕の中に潜り込んできた。
完全な闇にはならないうす暗がりは、海斗も里玖もほぼシルエットにさせる。
「さすがに、ちょっと暑いね」
海斗の胸に顔を埋めていた里玖が、首筋の汗を拭うようにして少しだけ離れた。
「……そうかな……」
里玖の髪の匂いに包まれた海斗は、ぼんやりとその肩から背中をなぜる。
「教え子に抱っこされて寝るなんて……ね」
「昔、というか三か月くらい前までこうやって寝てたやん。……服は着てなかったけど」
声になるかならないかくらいの声でささやく。
すると、腕の中の里玖が、無言でアッパーカットのように海斗の顎の下に小さな拳をぐいーっと突き当ててきた。
「いった……」
海斗は頭をのけぞらせながらも、決して里玖を離そうとはしなかった。むしろ、その痛みが愛おしくて、腕に込める力を強める。
「えっちな海斗……」
里玖はそう小さく呟くと、数分もしないうちに規則正しい寝息を立て始めた。採点業務で疲れ切っているのだろう。
海斗も、本来なら連夜の猛勉強で眠いはずなのに、変に目が冴えていて、眠りが訪れる気配はいつまでもやってこない。
腕の中の里玖のぬくもりと重みを感じるだけで胸の奥に、吐き出す場所のない熱い塊が存在を主張して、苦しい。
暗がりの中、救いを求めるように時間を確かめると、ちょうど午前零時を指すところだった。
――日曜日になった。 あと、一週間。
安光和尚が言っていた四十九日の期限は、 5 月 30 日から数えると来週の 7 月 17 日土曜日。その日が来れば――。
それを考え始めると、もう眠れなかった。
海斗は里玖を起こさないよう、慎重に腕を抜き、むくりと起き上がった。
リビングを通り、玄関の鍵をそっと開ける。スペアキーのありかはもう熟知していた。
エアコンの効いた室内から一歩外へ出ると、意外なほどの熱気が体にまつわりついた。
知らないうちに、すっかり夏になっている――海斗は、時がうつろっていく残酷な現実をひしひしと感じた。
夜更けだというのに湿気を帯びた空気がまとわりつき、汗ばんでくる。
それでも歩き出すと、わずかな空気の流れが肌を涼やかに撫でて、少しだけ呼吸が楽になった。
気がつくと、海斗はあの河原に立っていた。
――18歳の時、里玖を誰よりも大切に思っている、と生まれて初めて告白した場所。
あのとき、陽だまりに包まれてきらきら輝いていた川面も、このあたりは街灯がないのか、今は流れる音のみを響かせて、暗闇に沈んでいる。
光は、対岸の家々のまばらな明かりと、離れた橋の上をときどき車のヘッドライトが行きかうのみだ。
海斗は暗い川面から夜空を仰いでみる。
……護衛艦に乗船していた頃も、日本を遠く離れた海の上から、こんなふうに里玖を思って甲板から夜空を見上げた。
あのときは、里玖との未来への希望のように、空いっぱいに満天の星空が広がっていた。
今は――あの満点の夜空に比ぶべきもないが、それでも星はまばらに夜空に瞬いていた。
海斗は、こみ上げてくるものの代償として、夜空に向けて深く息を吐いた。
――この世界に、また里玖をたった一人で置いて旅立たなくてはいけない。
それを思うと、夜空の星が歪んで流れた。
目の前でひらひらと手を振られ、海斗はようやく現実に引き戻された。
「ああ……悪い、里玖」
箸を持ったまま、海斗はぼんやりしていた。
土曜日の営業を終えた沖島食堂。客席テーブルの一角で遅い夕食を兼ねた反省会が行われていた。
里玖が心配そうにのぞき込んでくる。その横で、波多野が苦笑しながらもう一度繰り返した。
「だからな、団地まつりのメニューのことだよ。焼きそばと、『バル沖島』からフィッシュアンドチップス。これでいいかね」
始めるなり大人気となった、土曜の夜の国際色豊かな特別メニュー群を『バル沖島』と呼ぶようになっていた。
「え、あ。うん。いいんじゃない」
何の話だかほとんど聞いていなかった海斗は、とりあえず生返事をする。
「なんか、疲れとうごたーね」と圭子。
「……ああ、ごめん。ずっと一夜漬けやったけん」
海斗は曖昧に笑って誤魔化した。
「まあ、まだ時間はあるけん。何かいいアイデアを思いついたら連絡しー」
波多野はそれ以上追及せず、麦茶を飲んだ。
海斗は、胸の奥に重い石を抱えたまま、箸を動かした。
* * *
その夜、海斗は里玖の家に泊まった。海斗が泊まるときいて七海は大喜びだった。
「……なあ、里玖。今日は……一緒に寝よう」
唐突に言われて、里玖は一瞬きょとんとしたが、すぐに柔らかく笑った。
「……うん。いいよ。なにもせんけんね?」
「わかってるって」
興奮気味の七海を真ん中にして、三人で川の字になって寝床に横たわる。
はしゃいでいた七海だったが、照明が消えて暗くなると、遅い時間だったせいかすぐに寝息を立てはじめた。
里玖はそっと七海を抱き上げて端に移動させると、自分から海斗の腕の中に潜り込んできた。
完全な闇にはならないうす暗がりは、海斗も里玖もほぼシルエットにさせる。
「さすがに、ちょっと暑いね」
海斗の胸に顔を埋めていた里玖が、首筋の汗を拭うようにして少しだけ離れた。
「……そうかな……」
里玖の髪の匂いに包まれた海斗は、ぼんやりとその肩から背中をなぜる。
「教え子に抱っこされて寝るなんて……ね」
「昔、というか三か月くらい前までこうやって寝てたやん。……服は着てなかったけど」
声になるかならないかくらいの声でささやく。
すると、腕の中の里玖が、無言でアッパーカットのように海斗の顎の下に小さな拳をぐいーっと突き当ててきた。
「いった……」
海斗は頭をのけぞらせながらも、決して里玖を離そうとはしなかった。むしろ、その痛みが愛おしくて、腕に込める力を強める。
「えっちな海斗……」
里玖はそう小さく呟くと、数分もしないうちに規則正しい寝息を立て始めた。採点業務で疲れ切っているのだろう。
海斗も、本来なら連夜の猛勉強で眠いはずなのに、変に目が冴えていて、眠りが訪れる気配はいつまでもやってこない。
腕の中の里玖のぬくもりと重みを感じるだけで胸の奥に、吐き出す場所のない熱い塊が存在を主張して、苦しい。
暗がりの中、救いを求めるように時間を確かめると、ちょうど午前零時を指すところだった。
――日曜日になった。 あと、一週間。
安光和尚が言っていた四十九日の期限は、 5 月 30 日から数えると来週の 7 月 17 日土曜日。その日が来れば――。
それを考え始めると、もう眠れなかった。
海斗は里玖を起こさないよう、慎重に腕を抜き、むくりと起き上がった。
リビングを通り、玄関の鍵をそっと開ける。スペアキーのありかはもう熟知していた。
エアコンの効いた室内から一歩外へ出ると、意外なほどの熱気が体にまつわりついた。
知らないうちに、すっかり夏になっている――海斗は、時がうつろっていく残酷な現実をひしひしと感じた。
夜更けだというのに湿気を帯びた空気がまとわりつき、汗ばんでくる。
それでも歩き出すと、わずかな空気の流れが肌を涼やかに撫でて、少しだけ呼吸が楽になった。
気がつくと、海斗はあの河原に立っていた。
――18歳の時、里玖を誰よりも大切に思っている、と生まれて初めて告白した場所。
あのとき、陽だまりに包まれてきらきら輝いていた川面も、このあたりは街灯がないのか、今は流れる音のみを響かせて、暗闇に沈んでいる。
光は、対岸の家々のまばらな明かりと、離れた橋の上をときどき車のヘッドライトが行きかうのみだ。
海斗は暗い川面から夜空を仰いでみる。
……護衛艦に乗船していた頃も、日本を遠く離れた海の上から、こんなふうに里玖を思って甲板から夜空を見上げた。
あのときは、里玖との未来への希望のように、空いっぱいに満天の星空が広がっていた。
今は――あの満点の夜空に比ぶべきもないが、それでも星はまばらに夜空に瞬いていた。
海斗は、こみ上げてくるものの代償として、夜空に向けて深く息を吐いた。
――この世界に、また里玖をたった一人で置いて旅立たなくてはいけない。
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